shin-1さんの日記

○つぶやき

 この頃自分が何やら独り言を行っていることに気付きハッとしました。というのも昨日急に娘の体の調子が悪くなり、孫を幼稚園へ迎えに行かなければならなくなったのです。電話が入ったのが3時過ぎ、孫の顔を浮かべながら早速車を走らせて松山の繁華街にある幼稚園に迎えに行くと、孫は手を上げて車に乗り込んできました。「今日はどうしておじいちゃんが迎えに来たの?」と不思議がるのです。「お母さんが病院に入院することになって病院から帰れないから迎えに来たんよ」と言うと、「ふーん」です。

 やがて車に乗ると孫はお気に入りのCDをかけ手を振ってリズムを取り上機嫌です。片道40分の30分はお菓子を食べたり談笑しましたが、私の手枕で眠ってしまいました。やがてわが家について起したころ、娘から電話が入り電話に出た孫は母親と何やら話していましたが、納得したのか私を相手に恐竜のおもちゃや正月前に買ったカルタで楽しく遊びました。私の腰の悪さを気遣って、さすがに体を動かす遊びはしませんでしたが、そのうち私への電話やファックスが次々に入り、その対応のため「ありゃ、また電話か」とか、「今度は何処から電話じゃろうか」などと独り言をいったり、それらに対する反応をつぶやいていたようです。急に孫が「おじいちゃん誰と話しとるん?」というのです。孫の言葉に諭されてハッと我に帰った私は、自分が自分に対し、あるいは目に見えない誰かに対しつぶやいていたのです。

 こうしたつぶやきは誰にでもあることなのですが、特に歳をとった人には顕著で親父などは「一人だのに誰と話しよるのだろう」と思うことがしばしばあるのです。先日も自分のメガネを何処へ置いたか分らなくなって随分探していました。「待てよ、わしはここで確かにメガネを外したんじゃが」、「さっぱり分らん」と長い時間自問自答で行ったり来たりを1時間もしていました。「じいちゃん何を探しよるん」と聞くと、「メガネを何処へ置いたか忘れてしもた。わしも耄碌したものよ」と言うのです。見ると頭の上にメガネを置いているではありませんか。「じいちゃん頭の上にメガネはあるよ」と言って大笑いしました。

 心にある不満もつぶやきという形でどんどん出てきます。誰に聞かせるわけでもないけれど、結局は自分に対し話をしているのです。「ああ俺も歳を取ったなあ」と孫の一言で目が覚めたようでした。つぶやきシローなんて漫才家がいたように思いましたが、つぶやきの正体はは一体何なのでしょうか。

 「つぶやき」というタイトルでコラムを書いている友人を知っています。その友人に「つぶやく」って何と尋ねましたが、「自分自身しか知らないささやかな出来事」だとしか答えてくれませんでした。広辞苑によると「つぶやき」は「つぶやいて言うこと」、「つぶやいてくどくどと独り言をいうこと」だそうですが、分ったようで分りにくい解釈です。結局は独り言なのでしょうが、人間は口に出すか出さないかは別として、自分というもう一人の自分に話しかけながら暮らしているような気がするのです。

 今朝孫が幼稚園へ連れて行く最中、松前町の靴屋さんの前で「靴が窮屈になったなあ」と独り言を言うのです。その靴屋さんは私がムシキングという子どもに人気のシューズを買いに孫を連れて行った所です。自分の靴が大分古くなったので買ってもらいたいと天の声をなりすまし、私へ靴を買うよう仕向けているのです。すっかり知恵のついた孫のつぶやきに対し「古くなったら買ってあげる」と、我慢を強要しました。

  「おじいちゃん 誰と話を しよるのと つぶやき指摘 孫の一撃」

  「ああ靴が 欲しいとつぶやき 孫俺に 靴の欲しさを それとはなしに」

  「親父ボケ 頭の上に めがね置き 何処へ置いたか 探す滑稽」

  「俺は今 何をしようと してたのか 一瞬ハッと ボケが始まる」

 

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shin-1さんの日記

○老いを迎える不安

 数日前、親父と長年親交のあった友人善徳さんが亡くなりました。誰かが死ぬと普通は小さな田舎町のことゆえ、口から口へと噂話が伝わるのですが今回ばかりは伝わらず、結局善徳さんの死を知ったのは葬式が終わってからでした。妻が職場で聞いてきたようで、「どうも善徳さんが亡くなったらしい」というのです。善徳さんの家の近くに住んでいる人に確認したところ、葬式は既に済んでいるとのことでした。急いで香典を用意し遅まきながらのごあいさつとなってしまいました。

 善徳さんと親父は同じ漁師仲間で、親父の船と善徳さんの船でペアーを組んで2艘漕ぎという漁法で魚を取っていました。戦後の活気に満ち溢れた時代でしたから、漁獲はあったものの販路が限られていてそんなに飛び切り儲かったという話は聞きませんでしたが、それでも瀬戸内海から宇和海まで幅広い漁場へ出漁し、特に南宇和郡深浦などを基地として活躍したようです。

 親父は大正7年の生まれですから今年89歳になります。ある部分の強さを持っていますが日々老化が進み、最近は脛の具合も悪くなって少し弱気な発言が目立つようになりました。それでも昔人らしく律儀に生きて身の回りのことは殆ど自分でこなせる自律老人なのです。

 「善徳さんが亡くなったので葬式に行こうと思ったが、善徳さんが亡くなったのを知った時は葬式も終わっていて、香典を持って挨拶に行ったよ」と親父に話しかけると、急に落胆し善徳さんにまつわる様々な思い出を語り始めました。お互い子沢山の長男に生まれたこと、二艘漕ぎで切磋琢磨しながら沢山漁をしたこと、深浦で多くの人に世話になったこと、善徳さんの兄弟のこと、先日下灘の診療所で顔をあわせ声を掛け合ったことなど、涙を流しながら話してくれました。そして最後にポツリ、「いよいよわしの番になった」と死ぬ順番の来たことを寂しく話すのです。「大病(ガン)を患った時はわしが一番先に死ぬとみんなが噂しよったが、噂した親しい人はみんな先にあの世に行ってしまった。AさんもSさんもBさんも死んで、おらより年上はCさんだけだ」と嘆いていました。

 人間の死亡率は100パーセントですからはいつかは死にますが、歳をとると死への不安が毎日募るようです。年末には7年前に亡くなったお袋が「夢に出てきて色々話をした」とか、「墓参りするのに少し遠い場所になったのでお墓を近くに移転してはどうか」などと、認知症ともとれる発言をしたりするようになり、日々の暮しの中で少しずつ明らかに歳を感じるようになりました。

 でも元気です。年末には還暦の同窓会のために帰省した弟夫婦と隠居で水入らずの正月を過ごしたり、年末に愛用の冷蔵庫が傷んで使用不能となり、電気屋さんに出かけて大型の冷蔵庫を買ったりして、数年後の暮らしの備えをしているのです。言動のチグハグさは相変わらずですが、老いへの不安や死への不安を取り除き、生きる悦びを与えてやれるのは私たち家族だけなのだと思いつつ、今朝も隠居へ親父の様子を見に行きました。今日も元気なようです。27年後の私の姿が隠居の親父にダブって見えました。

  「友人が 死ぬ度親父 俺の番 来たと弱気な 発言飛び出し」

  「親父見て 二十七年 後の俺 見ているようで 少し寂しく」

  「冷蔵庫 でっかい方が いいという 何年生きるか 親父算段」

  「毎日が 楽しい日々と 父が言う 孫につくろう 虚笑寂し」  

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