shin-1さんの日記

○脳の活性化

 「私は元々頭が悪い」と思っています。だって高校3年、中学3年の合計6年も英語を習っているはずなのに、世界の共通語といわれる英語ですら話せないのですから余程頭が悪いのでしょう。それに加え年齢が高くなるにしたがって物覚えも悪く、物忘れも多くなってきました。他の事は別として私は人の名前を覚えるのが得意でした。ですからかなり前に知り合ったり出会った人は妻が驚くくらい今でも良く覚えているのです。ところがつい最近、愛媛大学法文学部の非常勤講師をするようになって僅か20名余りの大学生の名前を覚えられないことに気付いたのです。一週間に一回の授業では毎回講義前に出席簿に沿って名前を読みあげ返事を求めてチェックするのですが、学生は全国から集まっていて読みにくい名前が多く、そのことに集中するため出席簿に目が行って本人の顔と名前が未だに一致しないのです。何とか一年間で覚えたいと思っていましたが、結局は一講義間隔が週間というスッパンの長さもあって覚えずに今年の講義を終わってしまいました。ああ嘆かわしきかなわが脳は・・・・・・。

 物覚えの悪さは年齢のせいだと誰もがいいます。私もその言葉を信じていました。しかしある人が言っているように、社会の雑念や関係者の少ない子ども時代や若い時とは比べようもないほど歳を取れば取るほど知り合いの数も増え、会う人も多いのだから、名前を忘れたり覚えきれないのは当たり前だで何の不思議でもないという話は、私の頭の悪さのせいではないことに気付かせてくれたのです。私たちは絶えず忘れるというストレスを抱えています。ですから忘れまいと努力をするのですが、努力すればするほどストレスの度合いは高くなって、ストレスが物忘れを誘発するのです。

 しかし物覚えが悪くなったり物忘れがひどくなったことを歳のせいにして何もしないのでは、かえって脳は退化するそうです。脳には前頭葉というのがあって、判断力、想像力、抑制力、忍耐力、意志力、好奇心など人間らしい能力をつかさどっていますが、これらを活性化して活き活き人間らしく生きていくためには脳の活性化を心がけねばならないのです。もの覚えの裏側に脳の活性化が必要なのです。本を読んだり人と話をしたりしながら絶えず脳が活性化するよう訓練すれば百歳はおろかそれ以上に生きてゆけるのです。勿論能力を保つ体力も鍛えねばなりません。人間にとって能力と体力は車の両輪なのです。

 私の能力の鍛え方は読むこと、聞くこと、見ることという知識習得と同時に書くこと、喋ること、実践することという知恵放出に重きを置いています。特に書くことはものすごく脳を鍛錬してくれるような気がします。この一年殆ど毎日書いているブログは大きな成果をお染めているように思えるのです。しかしパソコンに向かって文字を打つ書くという作業にも悲しいかな欠点が見えてきました。それはキーボードは叩いて文字の変換はするけれど、文字を手で書かないため文字を忘れるのです。現代人は電子文字に頼っているため、文字を忘れているのです。そのためこれまで二十年にわたって続けてきた一日三枚のハガキを書くことという日課が随分役に立っています。文字は手で直接書かないと忘れやすいということも肝に銘じています。

 昨日の朝、親父がメガネを探していました。「歳を取ると忘れることが多くなって困る」と自分に言い聞かせるようにボソボソと言っていました。90歳になる親父に「脳の活性化」について幾ら言っても馬の耳に念仏ですので言いませんでしたが、歳のせいではないということを、やがて行く道として私自身の脳に叩き込んでおきたいと思います。脳は鍛えようで幾らでも活性化するのです。

  「物忘れ ひどくなったと 嘆くより 本のひとつも 読んで訓練」

  「ああ俺も 歳になったか 探し物 多くなったと 今から諦め」

  「忘れずば 爆発するぞ 俺の脳 全部覚える ことは出来ぬわ」

  「脳はノー パソコン打てば 変換す これを直すも 脳の訓練」

 

 

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shin-1さんの日記

○坂本龍馬もう一つの魅力

 四国といえば明治維新の折に活躍した薩長土肥といわれる各藩出身者の中でも、世代を超えてずば抜けた知名度を持つ坂本龍馬の出身地です。四国山脈で分けられた高知や徳島は太平洋を見て育つ風土でしょうか、吉田茂や三木武夫など気骨な政治家を生んでいますが、坂本龍馬に比べたら比ではないほど話題に富んだ人物なのです。坂本龍馬については前にも触れましたが、彼の生い立ちを語る時必ず登場してくるのが三歳年上の乙女姉さんです。しかし彼が存分に発揮した商売の才覚と武士の剛健さを思う時、どんな人が彼の生き方に影響を及ぼしたのか調べてみたい気持ちになるのです。

 坂本龍馬の母「幸」は龍馬が12歳の時39歳の若さで亡くなりました。一年後龍馬の父八平は「伊与」という後添えを娶るのですが、実はこの義母が坂本龍馬の生き方に大きな影響を与えているのです。伊与は大変出来た人で薙刀のが達者でしたからその影響で龍馬も薙刀から剣術の修行を始めています。

 伊与は今でいうバツニですが下級武士北代家の娘です。その北代家の三つの教えが残っています。一つは「先に手を出すな」、二つは「やられたらやり返せ」三つは「男は強く、優しくあれ」というものです。この家訓を伊与は少年の龍馬に強く諭して育てたようです。竜馬は三十三歳という若さでこの世を去っていますが、彼の人生を振り返ってみるとまさにこの三つの教えを実行していると思うのです。

 彼の生きた時代は明治維新という日本にとっては革命ともいうべき時代でした。脱藩、暗殺など今でいうテロの横行した時代です。危険人物として彼も再三再四刺客に狙われますし、自分も刺客まがいのことをやっています。しかし彼がテロリストにならなかったのは、「先に手を出すな」という家訓が体に染み付いていたからかも知れません。結局は自分の身を守るためピストルという飛道具を手に入れ寺田屋で発砲していますが、あれほどの使い手ながら手を出さない相手には決して手を出さなかったのです。

 決して先に手を出さなかったけれど「やられたらやり返せ」というのも面白い教えです。「いろは丸事件」というのがあります。広島県鞆の浦で紀州の帆船「明光丸」と衝突して、海援隊が借り受けたいりは丸は沈没しました。幕末というけれど紀州といえば徳川御三家、その紀州を相手に万国公法を武器として八万三千五百両という当時としては破格の賠償金を勝ち取っているのです。これも「やられたらやり返す」教え通りだと思うのです。

 「男は強く、優しくあれ」という言葉は、男の私にとっても永遠のテーマなのですが、平和な時代になって優しい男は随分と増え巷に溢れていますが、強さと優しさを併せ持った人はそんなにいないのではないかと思うのです。竜馬の生き方は様々な人が微妙に絡み明治維新という時代の潮流の中で大きな足跡を残しましたが、伊与という義母の存在を思う時家庭教育というものがいかに一人の人間に大きな影響を与えるのかが分るのです。

 殺すつもりで行った勝海舟に地球儀を見せられて世界を知ったという通説も、伊与の嫁ぎ先下田屋に今でも残っている天保年間に発行された世界地図から推し量れば、勝海舟に会う前に世界を知っていたようにも思えるのです。ジョン万次郎が土佐藩に返ってきたとき事情調査をして「漂撰記略」というレポートをまとめ藩主山内容堂に提出した」河田小龍との付き合いで世界観を身に付けていたようです。

 数えればきりのない竜馬の魅力を巡る様々な事例を思う時、人間は人によって人となるということです。人間が人間たる由縁は

パソコンでもなく人の間「人間」なのです。

  「ああ俺は 龍馬の倍も 生きている だのに成さない 成さぬからだと」

  「伊予は伊与 龍馬脱藩 伊予~長州 伊与の教えは 今もご立派」

  「龍馬より 勝れるものは 何だろう 車パソコン それは道具だ」

  「男とは 強く優しく いうけれど 両方備えた 人は少なし」

   



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