shin-1さんの日記

○マスコミ取材と背もたれチェアー

 昨年3月に役所を退職した時、「ああこれで、長年お世話になったマスコミ関係者とも会えなくなるなあ」と少々寂しさを覚えたものでした。役所生活35年のその度に新聞・雑誌・テレビ・ラジオなどに数知れない程登場し、いわばタダの情報を公共の媒体を使って流し続けて来ました。特にまちづくりに深く関わった20年余りはすごい量だったと、未だ整理も出来ていない新聞のスクラップやビデオテープの山を見て、一つ一つの取材に関わってくれた方々の顔を思うのです。私が始めて新聞やテレビに登場したのは確かNHK青年の主張に応募し、予選審査の結果県代表に選ばれた時からでした。田舎の青年がテレビに出るなんて珍しい時代の昭和43年の出来事でしたからそれはもう町中の話題になって、私は一躍町の有名人になったような心境でした。そして私の30分もの番組が作られてたのでした。その番組の予告記事が「今日の見もの」欄に細かく載った記事も新聞に最初に登場しものでした。

 マスコミに縁のなかったこの1年余りは、私のとって多少の物足りなさを感じていましたが、こんなものだとマスコミに追いかけられない自由さを感じていたのです。それがどうでしょう、「人間牧場を造りたい」という長年の夢を昨年の公友会の雑誌に投稿して、実際にそれが完成した記事を書いたりし始めると、あちこちから堰を切ったように問い合わせや取材以来が相次ぎ、今は人間牧場へマスコミ関係者を案内する回数も増えてきました。

 ラジオ向きを自認する私としては映像媒体より活字媒体の方が有難いのですが、勝手を言えないのでその都度少し違った案内をするよう心がけています。昨日は南海放送の三瀬さんがやって来て、私お気に入りの背もたれチェアーで昼寝する姿をカメラに収めていたようです。私はこの背もたれチェアーが大のお気に入りで、暇さえあれば寝そべって本を読んだり昼寝をするのですが、その発想はフーテンの寅さんが下灘駅に撮影に来た時、下灘駅のプラットホームのベンチに寝そべって夢を見ている冒頭のシーンにヒントを得たのです。このチェアーは息子がインターネットのオークションで買い求め私にくれたものです。私はこのチェアーを自分の書斎に置いて愛用していましたが、水平線の家が出来たのを機に持ち込みました。そして夢見るフーテンの寅さんのように水平線の家で瞑想にふけっているのです。

 背もたれチェアーで見る夢は過去型夢と未来型夢の2つに分かれます。過去型は思い出に帰る夢ですが、6年前になくなった母の夢は最も多く見ますし、少年の頃の夢も数限りなく見ます。先日は畑を耕していたら母が愛用の鎌が出土して驚きました。多分畑仕事の最中に置き忘れたものと思われますが、柄は腐ってなくなっているものの鎌本体は赤く錆びて出て来ました。夢に出てくる母は白い日本タオルで姉さん被りをして鎌や鍬を持ち働いている姿です。今度夢の中で会ったら「鎌が見つかったよ」と報告したいと思っています。

 未来型夢はこれから人間牧場でしたいことが山ほど出てきますし、人生をいかに生きるかなんて夢も沢山見ます。ドラえもんではありませんが今や背もたれチェアーは私にとってかけがえのない夢見舞台なのです。

  「逝きし母 夢に出てきて 鎌探す 耕す土中 錆びた鎌出る」

  「背もたれに もたれて他愛 ない夢を 寅さん同じ 年齢近づく」

  「マスコミに 登場俺は 時の人 そんな錯覚 出来る幸せ」

  「久しぶり 言われてはてな 首かしげ 一年ブランク 長いトンネル」

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shin-1さんの日記

○樅の木は残った・津賀地区(40-8)

 午後3時過ぎに西土佐村に入った私は馴染みの食堂彩花で冷麺を注文し遅い夕食を食べながら、居合わせた西ヶ方の民宿女将井上茂子さんを交え楽しいお喋りをしました。西土佐村でも最近グリーンツーリズムの影響か民宿を志す人が何人かいるとの話を聞きました。私がこの旧西土佐村へ乗り込んだのもそうした地ならしややり気の触発だと思うとついついうれしくなりました。

 「今晩の集会は岩木食堂から川沿いに入った津賀とう地域で集落には日本一の樅の木がある」という中脇係長さんの電話での言葉を頼りに、時間がるので事前調査をしてみようと、不案内ながら一人目黒川を登って行きました。カーナビは便利で曲がりくねった道地図のはるか向こうに津賀という文字を発見したのは川遊びをした場所から更に上流へ10分ほど走ってからでした。突然視界が開け手の行き届いたユズ畑や田んぼが広がり、高知県特有のオクラやピーマンといった夏野菜が所狭しと植えられているのです。中にはハウスでアロエを栽培している人もいて、かなり勤勉な地域だと棚田の石垣の見事さにただただ驚くばかりでした。

 聞くところによるとこの地区でも遅まきながら圃場整備事業が計画されて間もなく事業が始まるとのことですが、その場合一体この美しい棚田の石垣はどうなるのだろう」と一人要らぬ心配をしてしまいました。仮に圃場整備をすれば棚田の石垣は草の畦畔となるに違いありませんが、せめて日本農村の原風景である文化的畦畔を残すような事業であって欲しいと思いました。

 橋のたもとにあった「日本一の樅の木は左500メートル」という看板に偽りがなければあの木かなと当りをつけて進んで行くと、登り口でおばあちゃんに出会いました。竹崎さんという表札がかかっていましたので、樅の木への道順と車を置かせてもらうことを頼んで一人登って行きました。最近刈ったのでしょうか道は綺麗に手入れがされてとても歩き易くあっという間に昼なお暗い樅の木の根元までたどり着きました。

 木の傍には樅の木が日本一といわれる出所来歴がきちんと書かれていましたが、これは怪しいと思いました。だってこの大きさで樹齢300年とは信じ難いような威風堂々の株立ち菜のです。多分300と800はよく似ているから800年の間違いではないかと思われるのです。それにしても日本一の樅の木がこうして見れたのですから感激というほかはありません。夕方集会が始まる前に村長の案内で再び見学にやって来ましたが、暗くなっていたのと藪蚊の餌食になって、よくぞ昼間にやって来ていたものだと思いました。

 樅の木の周辺は平家の落人伝説の土地に相応しく墓と思われる石仏が無造作に置かれていました。傍にはステンレス製の賽銭箱が二箇所置かれていて、私もポケットをまさぐれば100円硬貨が出てきたので賽銭を入れて樅の木にそっと耳を当ててみました。太古の声が聞こえるようでした。

 津賀の講演会は20数戸らしいのですが殆どの人が詰めかけ、1歳と8歳の子どもが親に連れられて参加して和気合いあいの笑いの耐えない集会となりました。帰り際道案内をしてくれたおじさんが「今日の話は今迄で一番良かった。また来て欲しい」とお世辞を聞いて束の間の集会所を後にして、三間経由でわが家へと急ぎました。

  「樅の木の 太さに比べ 俺たちは 小さきものぞ たかが小枝だ」

  「俺くらい 行くか行かぬか 大違い 戸数なんて 問題ではない」

  「マジックが 付かぬといって 取り帰る 長閑なものよ 田舎の集会」

  「石垣を 壊して圃場 整備する 石垣残す 手立てはないのか」

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shin-1さんの日記

○旧西土佐村界隈(20-8)

 旧西土佐村へ行くついでか、北宇和高校へ行くついでか分らなくなった8月最初の旅は北宇和高校での講演から始まりました。高校では夏休みを近い将来につながる重要な自己啓発期と位置づけトライアル研修講座を組んでいます。その一環として昨年に引き続きお話をする事になりました。カーナビが選んだ北宇和高校へのコースは双海~長浜~大洲(国道56号)~西予宇和~歯長峠~三間~鬼北~北宇和高校のコースでした。7時50分に家を出て約1時間40分で学校に到着です。夏休みの静寂でしょうか校内は静まりかえっていました。講堂での講義は2年生40人余りと先生たちが集い冷房の効いた最高の環境です。「青春へのメッセージ」と題した1時間程度の講義は、潜在能力と顕在能力の話を中心にすえながらあっという間に終わってしまいました。教頭先生や担任の先生が言うように田舎の高校らしくどの生徒も真面目でむしろ高校生らしい覇気が欲しい感じもしましたが、まあそれなりの手応えは返って来ました。

 夕方の講演までにはかなりの自由時間があるので、かねて関心を持っていた松野町松丸の「ぽっぽ温泉」へ行ってみることにしました。この温泉はおさかな館の水を確保するため井戸を掘っていて偶然にも発見された地下100メートルの温泉を駅舎と併設して整備した、愛媛県内にはない特徴あるものです。入口で偶然にも顔見知りである支配人の岡本さんにお会いし、温泉談義や最近のまちづくり事情についてだべり合いました。温泉はJR駅利用らしく黒を基調とした落ち着いた雰囲気でした。岡本さんの話だと温泉の黒字目標である年間10万人は達成されているようですが、灯油を燃料としたエネルギー費が油の高騰でかなり経営を圧迫しているようでした。今時の温泉の入浴料金が400円とはと疑問もありました。風呂は箱風呂やミストサウナ、樽風呂などかなり個性が感じられましたが、樽や箱のはそろそろ寿命のようでした。昼下がりの温泉は散閑として露天風呂などまるで一人じめのような贅沢を味わいました。

 前の道を通ったので旧友の芝教育長を訪ねようと思いましたが、先日も会っているので思い止まり、一気に松野町を走り抜け、かねて念願の県境にかかる橋を渡りました。葛川という地名の場所で更に車の巾いっぱいの小さな橋を渡り踏み切りに出ました。ここは愛媛県と高知県を分る県境なのですがそんな風情は何処にもなく、県境と書かれた踏切遮断機施設が県境を意識させる程度でした。この狭い道と伸びるレールの向こうには多分、先日訪ねた西ヶ方の駅や集落があるに違いありません。

 車をUターンさせて再び葛川の集落に出ました。橋の袂の家にお邪魔して居合わせたおじさんに色々な話を聞きました。ここには愛媛県葛川と高知県葛川が川を挟んで同居しているのだそうです。隣の集落は合併して村から市へ昇格、こちらは合併問題で先日リコール運動が成立し住民投票の結果町長が信任され、議長がその責任を取って辞職願いを出すなど、合併という招かざる客によって思わぬ混乱を招き苦悩する山間地の姿を垣間見ました。それにしても日本の地方自治も面白いものです。この道ひとつで左奥の家は高知県四万十市葛川、右は愛媛県松野町葛川なのです。おじさんの話だと日ごろは両地区とも非常に仲がよく県が違うなんて感じないそうですが、自治体の選挙やもめごとの度にお互いの違いに翻弄されて生きてきたと述懐しましたし、不便を除けばそんなに苦痛はないそうでした。この日は畳の土用干しでしょうか、家の前の広場には沢山の畳が二枚一組で虫干しされていました。この風景もすっかり近頃見られなく光景です。

 葛川橋の上から松野町側の川に異様な光景を見ました。訪れる車も殆どないので橋の上に車を止め川を見ると無残な沈下橋の姿が目に留まりました。沈下橋の中央の橋板部分が下流に流されて通れなくなっているのです。多分一昨年か昨年襲来した台風の爪痕でしょうが、沈下橋は自然と共生する安全な橋と思っていたのにこの惨状には少なからず心が痛みました。昔は沈下橋を解消するため橋が架けられると沈下橋はその役目を終えて撤去される運命にあったそうですが、沈下橋の観光的役割や庶民の生活的な役割を考え今では橋の設置後も残しているようですが、安全性を考えるとこれも考えものだと、始めて見る沈下橋の惨憺たる光景に思わず息を呑みました。

 有り余る時間をのんびり過ごそうと目黒川に向かいました。この上流に滑床渓谷ありという看板を見て、20年前始めて西土佐村へ足を踏み入れたことを思い出しました。和田修三さんの電話での説明を鵜呑みにして「西土佐村は滑床の奥です」という言葉を頼りに、松野町から滑床経由で西土佐村へ入ったのです。ところが道はまちがっていないものの滑床経由ですから何処まで行っても西土佐村にたどり着けず、この道では夜間のこともあって聞く人さえなく大幅に遅れて西土佐村の会場に着いたのでした。多分この道を不安な気持ちで通ったことでしょう。

 今晩の講演会は中脇裕美さんの話だとこの川の上流津賀であるのです。生徒数の減少で存続が危ぶまれている中村高校西土佐分校を横にみながら川に沿った狭い道を走り、途中川の下に沈下橋を発見し渡った所へ車を止めて、川原に下りてみました。遠くで雷が鳴り響き雲行きが怪しくなってきましたが、川原の石の上を散歩しながら思い切って靴と靴下を脱ぎ、目黒川の水の中に入ってみました。何というすがすがしさでしょうか。大きな石の上に寝転

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shin-1さんの日記

○孫と一緒に夕日見学

 昨日は助産婦として病院に勤める娘の夜勤で、孫を預かる事になり、夕方松山の幼稚園へ迎えに行きました。くもんに連れて行ってわが家に連れて帰ったのですが母親がいないことを納得しているため、甘えることもなくいつになく上機嫌で帰って来ました。夕方7時頃の帰りには夕日が海の彼方に沈む前だったので「朋樹君夕日を見にシーサイドへ行こうか」と誘ったところ、「行こう行こう」と話がまとまり、急いで家に帰ってデジカメを用意してシーサイド公園へ出かけました。梅雨明けの瀬戸内海は穏やかで夕景も綺麗でしたが、お目当ての恋人岬は残念ながら結婚の写真を撮る集団に占領されて行くことが出来ません。写真を撮りたかった人も、恋人岬で夕日を鑑賞したかった人も遠巻きにこの幸せカップルを「仕方がないか」って感じで遠巻きに眺めていましたが、やはりわが者顔で場所を断りもなく占領するのは如何なものかと思いました。私たちも仕方がないので東側の突堤を歩いて先端まで行き、日没の瞬間まで見ました。

 最初の一枚は夕日を焦点に撮ったため孫の顔はシルエットどころか逆行で全然見えませんでしたが次の一枚は夕日に照らされた孫の顔が綺麗に撮れ中々いい感じでした。

 突堤の先から振り返って見ると双海町の山々や町がまるでセピア色に変色してとても温かい雰囲気で、持参したハーモニカの音色が実に良く似合って、孫が一生懸命「おじいちゃん上手」と大きな拍手を送りながら、『夕焼け小焼け」という歌を大きな声で歌ってくれました。私と孫の独演と独唱コラボレーションはいいもので、傍にいたおばちゃんが二人を褒めてくれました。

 やがて夕日はゆっくりゆっくり島影に沈んで行き、この日は最後の一瞬まで眺めることが出来たのです。孫と夕日を鑑賞したのは始めてのことなので、何となく温かい気持ちになりました。

 最近は子どもの世界も忙しく夕日を見る機会が少ないように思います。それは親も同じで、親が夕日を見るような心のゆとりを持たないから子どもが見れないのかも知れません。孫にとっておじいちゃんと見た母の実家のある田舎の夕日はどんな光景として心に焼きついたでしょうか。

 これからも折に触れ、日本一と自認する双海の夕日を見せてやりたいと思っています。帰り際孫をおんぶしてやると孫は「♪海は広いな大きいな」と得意になって背中で歌を歌いました。見上げれば茜雲の小焼けをバックにトンボが数匹飛んでいました。「おじいいちゃんお月様」と指差す空には下弦の三日月が見えました。

  「日が暮れて 町のお寺の鐘が鳴る トンボ数匹 長閑に飛んで」

  「孫を背に 突堤歩く 日暮れ道 孫も満悦 歌のサービス」

  「夕日など 見たから言うて 何になる そんな非理屈 聞きたくないわ」

  「おじいちゃん 海に道が 出来てるよ ハッとするよな 孫の一言」


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