shin-1さんの日記

○西土佐に暑い夏がやって来ました・奈路地区(20-9)

 夏になっても一向に観光客の姿が見えないなあとつい最近の西土佐界隈を見て思っていたのですが、こにきてさすが最後の清流四万十川の魅力でしょうか、まちの中を闊歩している様々な日本民族に出会いました。家族で歩いてさて何処へ行こうか思案している人、福岡ナンバーのキャンピングカーを停めて今晩の寝ぐらを確保しようとしている人、既にキャンプ地にテントや日除けを張って川遊びに出かけている人などなど、長閑な夏休みの昼下がりは住民以外の人に出会うことが多いのです。「どちらから」「はい福岡からです」「何日くらい?」「もう一週間もいます。そろそろ帰らないと会社をクビになりそうです(笑)」「ここはいいとこでしょう」「もう最高です。これで仕事がなかったら・・・・(笑)」なんて会話が何処までも何処までも広がる青い空に響いていました。四万十の夏はお盆をピークにいよいよ本番なのです。

 横をカヌーを積んだ観光協会の車が忙しげにカヌー館目指して通り過ぎて行きました。心配された夏の台風も四国には影響がなさそうでホッと安心した人も多いのではないかと思われます。一年の稼ぎを夏の間にしなければならないアウトドア関係の仕事に携わる人にとって夏の台風、特に客の集中する週末などは客対応から考えるとキャンセルなど相当の痛手でしょうから、ホッとする気持ちはよく分るのです。

 しかしアウトドア派の人口が増えたからといって手放しで喜べない事情もあるようです。前述の県外の人のように安上がりの旅を目論む人はキャンピングカーに食料品全てを積み込み、水とトイレをタダで使い、糞・小便・ゴミ・騒音という田舎には要らない物ばかりを置いて平気で帰って行くのです。これら都会の人のある意味での忘れ物を自治体や観光協会、それに地元が最終処分しなければならないのですから、文句の一つも言ってやりたいのです。「人が沢山来た」と手放しで喜んだ時代は終わりました。外から来た人を対象にイベントをして予算をつぎ込む時代でもありません。要はこれら田舎に憧れる人たちの懐からお金を出させるしくみを作ることなのです。民宿もいいでしょうし、特産品を売る道の駅もいいでしょう。しかし問題は夏と冬の落差を考えて投資しないと思わぬしっぺ返しを食らうことになるのです。私の友人が道の駅の計画を担当していますが、将来の予測がつきにくい時代だけに、そこら辺を考えると知恵の出しどころでしょう。コンサルの話を真に受ける人がコン人がサルでコンサルってことにならないとも限らないのです。

 昨日は役場に隣接する奈路という地区へお邪魔しました。役場のある地区は私の所属する自治会もそうですが、日本全国何処へ行っても参加人数は今一というのが通り相場なので、余り期待をせずに出掛けました。失礼な言い方ながら案の定でした。でも参加した人の意識は商業地域だけにさすがに高く、質問まで出る熱心さでした。参加者の中にはかつて私の町へ視察研修に来られて私の話を聞いた人や婦人会の管内研修で知り合った顔見知りの人も何人かいてすっかり打ち解けた話となりました。

 奈路の集会所は元お寺さんだった場所に建築したらしく、集会所の正面には祭壇のようなものがあって、脇には盆月らしく新盆を迎える準備が出来ていて信仰の深さを垣間見ることが出来ました。

 高知県には橋本県知事の発案で市町村へ職員を広域的に派遣する地域づくり支援員制度があって、高知県を出歩くとそこここでそんな人によく出会います。今度落選した長野県の田中知事と同じく落下傘知事としてアイデアを出しているようですが、昨晩もその任に当る方と出会いました。末端市町村行政へ中二階県行政が加わることは批判もありますが、私は大きな拍手を送りたいと思います。成果を求める議会側と知事部局の確執はいつの時代にもあることですから、じっくりあせらずやることです。昨晩のような地べたを這うような夜の集会にも積極的に参加する彼らこそ、高知県をワンランクアップに導く戦士なのです。

  「夏盛り 早くも日陰 長くなり 秋の気配に 季節感じる」

  「糞とゴミ 落として帰る 不届きに 金を落とせと 言ってやりたい」

  「俺の顔 話も全て 覚えてる 田舎おばちゃん 聞きに来てくれ」

  「聞く人も ないのに喋る 有線が 終わってやっと 話し始める」



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shin-1さんの日記

○カボチャ提灯の思い出

 妻が何処かで植え余った苗を貰ってきたのでしょうが、わが家の菜園と人間牧場に4本のカボチャの苗が植えられています。今年は例年より遅い梅雨明けで長雨のため野菜が思うように育たず高値だと聞いていましたが、ご多分に漏れず肥料もやらず消毒をしない自然型農業のわが家ではカボチャの生育が悪く、葉っぱはうどん粉病にやられてカボチャが余り実らず、これまでに5個ほどの収穫に終わっています。それでもその後の天候回復で作柄も回復し、今頃になって黄色い花が次々と咲いて、花の付け根に小さなカボチャがたくさん実を付け始めました。今のカボチャは通称栗カボチャという美味しいカボチャですが、私たちが子どもの頃はひだの深い在来種日本カボチャが主流でした。栗カボチャほどは美味くありませんでしたが、それでも食糧難の時代だったから美味しいと感じてよく食べたものです。

 私たちは夏になるとこのカボチャを使って中をくり抜き目や鼻や口を包丁で作り、底から釘を打ちつけ中に御神灯の小さなローソクを立ててカボチャ提灯を作って遊んだものでした。カボチャに彫り込んだ三角や四角の目や口が何とも奇妙に暗闇の中で見えるのです。時にはそれを夜の肝試しに使って友達を驚かせては楽しんだことを思い出すのです。時にはスイカも使い同じようなことをしましたが、スイカは貴重だったので一番なりのどでかいスイカを使ってスイカ提灯を作ってお袋に大目玉をくらい、お仕置きにお尻に大きなお灸をすえられたことを覚えています。

 数年前私が道の駅の駅長をしていた頃、ジャンボカボチャが高齢者の間で流行ったことがありました。外国産の飼料用カボチャは桁外れの大きさに成長するため人間一人分の60キロをゆうに越え中には100キロを越えるものまで作られて、畑から車まで運ぶのにフォークリフトまで出動したハプニングもありました。旧重信町では農業後継者が「ドテカボチャカーニバル」なんてパロディ豊かなイベントを企画し話題をさらいました。旧重信町のランドマークは当分このドテカボチャをイラスト化して使っていましたから、相当のインパクトのあったイベントだったようです。

 わが町でも高齢者の皆さんが大きなカボチャを作りその大きさを競ったものですが、その活用はシーサイド公園に展示して見てもらうだけに終わったため、その後尻つぼみで腐ったカボチャの後始末に困りついには終わってしまいましたカボチャに彫刻をして夏の夜のカボチャ提灯を提案したのですが、受け入れてもらえず夢のイベントに終わったのは返す返すも残念でなりません。

 私たちはイベントをする場合、それがどれ程の経済効果を生むかという取らぬ狸の皮算用をしがちです。勿論それも大事ですがどんな楽しい遊び心があるかによって人へのインパクトは変わってきます。カボチャを展示するからカボチャを彫刻して提灯を夜の闇で楽しめば、カボチャは様々な反響を呼ぶことでしょう。ドテカモチャは牛の飼料にしかならず食えないカボチャですが、別のカボチャを使ってスープやお菓子を作ればこれまた名物が出来るのです。カボチャ⇒遊び心⇒カボチャの展示⇒カボチャの彫刻⇒カボチャの夜祭⇒カボチャの料理⇒かぼちゃのお菓子⇒地域が活性化するなんてシナリオは誰でも考えれる知識ですが、これを知恵に変えていく実践が地域づくりなのです。地域づくりは考えたり実践したりすると中々面白く、成果が出るとこれまた病みつきになるものなのです。

  「カボチャでも やりようやれば まちづくり たのしいことが いっぱいできる」

  「カボチャ食う その度思う 母の顔 提灯造って 叱られたっけ」

  「長雨に たたられカボチャ 不作なり しょうがないから 買って代用」

  「カボチャには 栄養沢山 あるという 半信半疑 今日もカロチン」 

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shin-1さんの日記

○定期演奏会に招かれて

 「えひめグリーンクラブ」という男声合唱団のメンバーの一人から先日2枚のチケットが送られてきました。「グリ-ンクラブ」と聞けば「グリーンピース」を思い出し何か環境団体のようにも感じましたが、そのチケットに添えているご案内の手紙が和紙奉書のような重みのあるものなので忙しい予定を割いて出掛けてみました。合唱も演奏というのかとの疑問も感じながら午後2時開演なので30分前に松山市民会館に行ってみると暑い昼下がりだというのにもう長蛇の列が出来ていて、既に入場が始まっていました。

顔見知りの人も何人かいて、案内状を送ってくれたメンバーの奥さんに声を掛け中ほどの席に陣取りました。この中ホールは次男が演劇の発表によく使う場所なのでお気に入りの場所が確保できた安心感とでもいうのでしょうか、見知らぬ隣の人と談笑しながら開演を待ちました。女性コーラスや児童生徒の合唱は聞いたことがありますが男性大人の合唱など聞いたこともないので興味津々です。

 やがて幕が開きそろいのスーツ姿のおじさんたちが指揮者に合わせて歌い始めました。えひめグリーンクラブ団歌のあと4部構成のプログラムに沿ってその都度進行係が解説して進んで行くのですが、一部の日本民謡はそうらん節、貝殻節、おてもやん、五木の子守唄、最上川舟歌の5曲で、知っていることもあって小さな声で口ずさみました。

 私のお目当ては二部のえひめグリsongbookで、「ハワイ沖えひめ丸海難事故鎮魂歌「希望海」と四部の男声合唱組曲「三崎のうた」でした。いずれもわが人生にダブらせた歌だけに興味がありましたが、残念ながら夏祭りのスケジュールに合わさなければならないので四部は聞かずに退席しなければなりません。二部だけは聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けました。

 「三崎のうた」は北原白秋の詩です。水産高校の実習船愛媛丸の基地があったのは神奈川県三浦三崎でした。その湾の入口に城ヶ島があって、「城ヶ島の雨」という白秋の歌の記念碑が建っていました。白秋は三浦三崎に住んだことがるそうですが、「雨はふる ふる雨の霞がくれに ひとすじの 煙立つ 誰か生活ぞ 銀鼠にからみゆく 古代紫 その空に 城ヶ島 近く横たふ」という詩は、「城ヶ島の雨」の姉妹作ではないかと思えるほどによく似たタッチで描かれているのです

 さて「希望海」は、私に手紙とチケットを送ってくれた水産高校の先輩玉井恭介さんの作詞詩です。鎮魂歌だけあって重厚で愛媛丸乗船経験者の私には涙の出るような響きが心にしみわたりました。

 「碧き千尋のハワイ沖 若き夢のせえひめ丸 大志途上に航跡消ゆる 学園の淵辺は涙色 帰れ母校へ九つの魂 目指せ希望の 七つの海を」・・・・・・・。愛媛丸に乗船した経験者でないと表現できない言葉の数々に40数年前の珊瑚海での実習の思い出をダブらせ聞き入りました。多分こうした事故への想いも戦争と同じように風化し消えて行くのでしょうが、戦争も事故も人間の願いとしてなくす努力をしなければならないと強く心に誓いました。

  「一通の 頼り心の 窓開け わが青春を しみじみ思う」

  「朗々と 歌う母校の 鎮魂歌 心に染みて 思わず涙」

  「男性の 合唱低い 声流れ 満員聴衆 やがて拍手に」

  「白秋が 詠いし歌で 思い出す 城ヶ島辺の あの光景を」 

  

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shin-1さんの日記

○今年も暑い夏がやって来た

 夏祭りのシーズンです。県内あちらこちらから賑やかな夏祭りの話題が届く度に「今年も暑い夏がやって来た」ことを実感するのです。役場生活35年の中で最後の20年余りは夏祭りの最前線で働き、今日の夏祭りの基礎を築いてきましたが、今は地元自治会長なので実行委員会の役員として下支えに関わる程度なので随分と楽が出来、冷静な目で夏祭りの実態を見ることが出来るようになりました。合併という歴史的な出来事があって夏祭りのあり方も随分変わってきました。役場職員総出で働いたのはもう昔のこと、予算も大幅に削られ追々細りの感は否めませんし関わる役員にも何か冷めた空気が漂っていることも事実です。でも何処かで立ち止まって「何のために」「何を」「どうすればよいのか」をもう一度考え直す必要があると思うのです。その結果夏祭りが役目を終えたと判断すれば止めればいいのです。活動には「始める活動」「続ける活動」「高める活動」「止める活動」ぼ4種類があるようですが、私たちがやった「始める活動」も「高める活動」として随分努力して来ました。しかし今は「続ける活動」というマンネリズムの暗いトンネルに入っており、ひょっとしたら「止める活動」という選択をしなければならないのかも知れません。

 それでも、わが自治会の街中には七夕飾りが飾られ、夜ともなると提灯に明かりがともり、海岸には無数のパラソルがまるで花が咲いたように開いています。「まあこれもよしか」と思ったりもするのですが、少なくとも夏祭りは地域の活性化を目指すのですから、更には何がしかの税金を使うのですからそれなりの効果を上げなければ意味がありません。

 朝早くから一生懸命鯛めし弁当を作る漁協女性部の皆さん、何日もかけて魚のつかみ取りの準備をする漁協の皆さん、花火の寄付に回る皆さん、ビーチバレーボールの運営に汗をかく皆さん、福まきのお餅をつく皆さん、踊りを踊るみなさんなどなど、長く続けることは様々な分野でそれぞれのシステムが出来上がっているのですから面白いものです。

 多分一年中で一番多くの人が今日の夏祭りと海水浴のためにシーサイド公園に集まってきます。町中が人と車でごった返しているのです。わが家も末っ子を除けば全ての人が来て、坊さんまでが朝早くから棚行にやって来ました。

 今日珍しい人に会いました。漁協の魚市場で大漁祈願祭があってその帰りに、かつてETとしてこのまちに赴任していたキャロリン岡部という日系2世の女性に会いました。久しぶりに遊びに来たそうですが一緒に仕事をしたり、わが家へも度々遊びに来た顔なじみなので懐かしさ一入でした。話を聞くと何でも今は証券会社に勤務しているそうです。それにしても外国の人はよく休暇をまとめて取りますね。彼女の話だと双海町で一週間過ごすというから驚きです。私なんぞは自由人なのに2日も続けて休むと「何か変だな」と思うのです。

 それにしてもいい夏祭りの一日でした。ご覧下さい。シーサイドの昼下がりの光景です。夕方になって孫にジンベエさんを着せ、

混雑するので単車に載せてシーサイドの餅撒きに参加しました。孫は餅拾いは初めてとあって要領が分らず自分の所に飛んできた餅は全て投げ返すという失態を演じました。でもかろうじて9個拾ったようでした。その後家族と合流し叔父から青レンジャーの面を買ってもらい得意になっていました。

 その後親類の子どもと合流し花火を楽しみ長い夏の一日がようやく終わりました。

 これは私が撮影した花火の失敗写真です。お粗末ながら・・・・。

  「夏の夜の 花火見上げて 口開けて 綺麗と拍手 つられて拍手」

  「田舎でも 花火見上げて さあどうだ そもわが上げた ように言いつつ」

  「花火寄付 集めた俺も 貢献度 自慢しつつも つい嬉しくて」



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shin-1さんの日記

○息子の職場の人々

 昨夕息子の職場の人々が人間牧場にやって来ました。社長さんを含め総勢8人の小さな団体です。2週間ほど前に予約が入っていたのですがあいにく梅雨の真っ最中で、雨は降らなかったものの雲行きが怪しくて中止をしていたのです。昨日は好天に恵まれ息子は朝早くやって来て人間牧場へ上り、掃除をしたり風呂を沸かしたりと親愛なる職場のお客さんを招く準備に余念がありませんでした。一方妻はわが息子の職場の人々が来るとあって昼から休みを取り、食事全般を引き受けて料理作りに励みました。私は生涯学習センターでの仕事が入っていたので息子と携帯で連絡を取りながら何もすることもなく夕方を迎えました。家に帰ってみると妻の料理も殆ど出来上がり、千客万来とのことで私と妻が軽四の後ろに料理を積んで上がって行きました。自慢の大蚊帳もちゃんとセットして、社長さんは既に息子の沸かしたロケ風呂を楽しんで湯上り気分のようでした。この社長さんは息子が始めて就職した会社の社長さんで、その会社を辞め今の会社を興しましたが、息子も一緒に異動して今日に至っています。息子の結婚式も媒酌人を快く引き受けてもらい、息子にとっては親以上の付き合いをさせてもらっているようです。昨日は一足早い社長さんの誕生日パーティが人間牧場で行われました。パーティといっても職場の人が社長さんの名前「かずおさんたんじょうびおめでとう」と書かれた小さなケーキを用意して、6本のローソクに点火するというシンプルなものです。こんな山の家での誕生パーティも多分始めての経験でしょうから、よき思い出になったことでしょう。

 昨日は夕日も綺麗に見えて、特性蚊帳の中から見る夕日もまた味のある夕日となりましたが、料理が並べられみんなが席に着いたのは7時頃ですからお腹も空いて夕日どころではなく、美味しいお酒と料理に舌鼓を打っていました。社長さんが言うようにこの会社は出来て間もない会社ですが社員の団結もよく、冷え切った建築業界の中で生き延びているのはやはりプロ集団としての価値なのでしょう。

 私は息子を通じてしか会社のことは分りませんが、社長のリーダーシップと社員の信頼関係に加え営業受注能力や成果の信頼度が仕事を作っているのだと思いました。親の目からは見えてこないベールに包まれた息子の生き方は多分社長の生き方を見習っての生き方なのでしょうが、仕事的にも人間的にも成長して欲しいと願っています。

 今日の朝早く息子嫁がわが家にやって来ました。昨日は仕事で手伝えなかったので朝飯を作るのだと材料を持って来たのです。すでに玉子焼きとメザシは焼いて持参していました。私が山の家まで送り届けましたが、夫のためにささやかな気配りをしている姿は何ともほほえましいものです。息子と結婚して既に10ヶ月が経ちました。まだ内孫の朗報は聞こえませんがこれからも仲のよい夫婦であって欲しいと願っています。

 今夕はまた新たな団体がわが家へやって来ます。次男の演劇仲間が10数人煙会所で焼肉パーティだそうです。昨日に引き続いて妻は手料理で迎えることでしょうが、昨年は20人を越えての団体で作った料理が足らないほどの盛況でした。早くも妻はおにぎりを作るためのお米をといでいます。私は夏祭り実行委員会の仕事と、グリ-ンクラブの定期演奏会の招待券が仲間から送られて来ているので、松山市民会館へ聞きに行きます。

  「わが息子 主催の職場 夏越会 急に社長の 誕生祝う」

  「手料理で もてなす妻の 気配りに 息子神妙 嬉しさ隠し」

  「牧場を おりる頃には 月が出て 妻と二人で 夜道帰りぬ」

  「早起きし 卵メザシと 忙しく 夫支える 新妻けなげ」


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shin-1さんの日記

○草は刈ったかい

 「お父さん、人間牧場の草は刈ったかい」、息子から昨日携帯電話がかかってきました。昨日は自治会長として竹切りを済ませて8時半にわが家を出発し、9時にはもう草刈機を始動させて草を刈っていましたから、午後3時までの6時間、炎天下で草を刈っていたのです。用意した水筒は午前中で空になり午後は水平線の家の冷蔵庫から取り出した500ミリリットルのお茶を飲むほど汗をたっぷりかきました。直射日光を避けるため長袖に麦藁帽子、手袋に地下足袋、首にはタオルといういでたちです。ですから暑いの何のって、それに藪蚊の襲来を避けて蚊取り線香を腰にぶら下げるものですから、一種独特のお百姓さんスタイルです。

 普通はお弁当を持って行くのですが、余り長時間畑仕事を続けると体に堪えるからという妻の配慮のため、畑仕事は午前中と決めているものですから、弁当も持たず食べずで頑張りました。4日前にも梅畑は草を刈っていたので、今日の作業で何とか一巡してやっと人間牧場の殆どの草を刈ったことになります。こうしてみると夏の草刈は大変で改めてお百姓さんの苦労がよく分ります。人間牧場の真ん中に入ったコンクリート舗装の道は、地元の人のお墓に通じる道なので、先日道の両側に草枯らし剤が散布されました。そうとは知らず草を刈ったりしたものですから地元の人に悪いことをしてしまいました。人間牧場へは力の続く限り草枯らし剤は撒かないで頑張ろうと思っていますので、少し心が痛みましたが地元との共存を考えるとこれもやむを得ない出来事と受け入れなければならず矛盾を感じています。

 草を刈っていると、隣の畑で仕事に励むおばちゃんが声を掛けてくれました。おばさん「勢がでますねえ、暑いから堪えないようにして下さい。草は七回刈るものと子どもの頃から教わりました。進ちゃんは何回刈ったの」、私「はい、今日で3回目です」、おばさん「私の畑は今日で2回目です。私は足が悪くてマイピアでここまで来ます。昨日息子が刈ってくれました」と言葉を交わしながら、「えっ、7回だとまだ4回も?」と思いましたが、それは牛を飼って昔のことで、朝な夕な牛の餌となる草を刈るのは子どもの仕事だったとも述懐された話を聞きました。

 人間牧場の草刈は息子にとって見れば「それはお父さんの仕事」と決めているようで、こと草刈に関しては割り切っているようです。勿論草刈機を使った経験のない息子に草刈機で草を刈る危険な仕事はさせられませんから、もっぱら私の仕事にしたいのですが、私の元気がどこまで続くか疑問なだけに、これからの人間牧場のあり方も考えておかなければなりません。しかし植えもしない草は本当によく伸びると感心します。ところが植えたはずの植物は中々育ってくれません。これも自然の摂理なのでしょう。

それでも子どもたちが植えたサツマイモや家菜類は少しずつ実って、収穫を待っているのです。

 今日は息子の職場の人たちが夕方集まって何やら集会をするらしく、休日の息子は朝からやって来てその準備に余念がありません。妻は今日は午後から休みを取って息子のために料理を作るのだそうです。明日は次男の友だちがわが家の私設公民館煙会所で集会を開くとか、せっかくの土曜と日曜日なのに妻は子どもたちのためにせっせと働いて接待、妻には暑い週末のようです。私は今日は生涯学習センターでの講座を頼まれており、これから出掛け、夕方息子と合流して息子の職場の人の接待のお手伝いをする予定です。加えて明日はふたみの夏祭りという大きな町のイベントが予定されており、副委員長をしている関係で手伝わなければなりません。私にとってもこの週末は忙しい二日間になりそうです。

  「草刈は 俺の仕事と 決めている 息子承知で 刈ったか電話」

  「夏草は 何故に伸びるか うらめしや 草と戦う 日本の農業」

  「七回も 刈れと先人 言いました 俺は三回 四回で済ます」

  「草枯れる お墓に続く 道辺り おばさんお参り 盆が近づく」

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shin-1さんの日記

○役目を終えたヘルスメーター

 隠居に済む親父を除けば今は3人しかこの家に住んでいませんが、一時は親父夫婦、私たち夫婦、子ども四人の計8人が同居していたこの家の、風呂場に通じる脱衣場兼洗濯場に置かれ、毎日毎日風呂から出る度に家族の体重を計測してきたヘルスメータが役目を終えて新しいのに変わりました。このヘルスメーターは家が新築した昭和51年に新築祝いとしてどなたからかいただいたも物なので、もう30年間も使ったのですからよくも長持ちしたものです。このヘルスメーターは優れもので、私たちの体重を測るだけでなく梅やラッキョウ、味噌などの漬物素材を調合する時も使いましたから、わが家の暮しには無くてはならない活躍をしてくれました。

 「お母さん、うちの体重計少しくたびれたんじゃあない」と息子が言うものですから自分が乗って確かめてみると新品の頃よりかは確かに計測計がユックリズムのような気がするのです。先日孫と一緒に風呂に入って孫の体重を測りましたが、だいたい合っているようです。でも健康が気になる実年組の私や妻の体重を毎日測る重要な役目を果すには少し心もとなくなってきました。

 そんな矢先、友人の慶事のお返し用カタログが届き、それを捲っていた妻が「お父さんこのカタログでヘルスメータが貰えるののでそうしようか」と相談があり、一も二もなく「それがいい」と相槌を打ちました。やがて箱に入れられた真新しいヘルスメーターが先日届き早速お披露目です。人目はばかるわが家で一番の体重を誇る妻も帯状疱疹を患って以来少し痩せてスリムになったので「ほら見て」と言わんばかりにヘルスメーターに乗って試技に余念がありません。私も乗ってみましたがこれまでのヘルスメーターに比べバネの具合も鋭く確かな体重を測ってくれるようです。

 商売に使う重さの計測器は年に一回検定があるようですが、家庭の計測器など検定をしないのでわが家の計測器が正確かどうかは疑問でした。でも新しいのと古いのと乗り比べてみましたが余り変わらないのでホッとしながら、役目を終えたヘルスメーターはやがて不燃物回収場へ行く運命にあるものですから、長い間ご苦労さんと心の中で感謝をしました。

 私の体重は今朝の計測で55キログラム弱です。一番体重のあった頃には68キロありましたから、13キロ減になっています。少し痩せ過ぎかも知れませんが、今のところ悪い所もないようで順調ですからこの体重を減らないよう維持したいと思っています。

痩せた人は肥えたいし、肥えた人は痩せたいし、人間は悲喜こもごもの思いで毎日体重計に乗ることでしょう。体重は健康のバロメーターですから新しくなったヘルスメーターでしっかりと健康に気をつけた暮しをしたいと思っています。

  「新しい ヘルスメーター 乗ってみる 俺の体重 只今松井」

  「何故痩せぬ 体重計が 恨めしい 妻の歩きも 実はここから」

  「ご苦労さん 測り続けた 体重計 やがてゴミ行く 悲しい運命」

  「腹いっぱい 食ったつもりの スイカでも 朝には元に 戻る体重」

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shin-1さんの日記

○忘れられたカギ

 「今日は人間牧場へ草を刈りに行くので作業の出来る服を出しといて」と妻に言って、間近に迫ったふたみの夏祭り用七夕飾りの竹を切りに近所の竹薮へ、自治会の役員4人で出かけました。元町長さんの竹薮は保育園の近くにあって便利なことから、昨年に引き続いてのお願いです。七夕飾りは町内の皆さんが各戸で笹飾りをするとともに5つの丁目毎に大笹飾りを造るのです。したがって私たちの役目はその大笹飾り用の大竹を5本切り出すのです。4人で5本は意外と楽勝で30分程で終わり、各丁目の代表に笹を渡して作業を終えました。

 家に帰って妻と息子の3人で朝食を取り、作業着に着替えていざ人間牧場へ出発です。水平線の家のカギやデジカメ、それに作業で喉を潤すための水筒と余念なく準備をしましたが、作業ズボンのポケットに手を突っ込むと何やらカギのような物が出て来ました。何とこれが見覚えのあるシーサイド公園の管理用カギだったのです。

 今は年間55万人もの来訪者で賑わうシーサイド公園ですが、私は当時課長以外まったく部下のいないたった一人だけの日本で一番小さな課の課長でした。平成7年3月21日にオープン以来、教育長に就任する平成16年までこのカギは私の体と一心同体で離れることはありませんでした。真冬の水槽掃除も、水が不足して貯水槽のブザーが鳴って警備会社から深夜の呼び出しがあった時も、また花火で眠れないと近所からクレームがあった時も、このカギで機械警備のセットを切って中へ入り対応したものです。教育長就任後も掃除を続けたため返す機会を逸し洗濯したポケットにしまわれ今日の日を迎えた事になります。

 それにしても今頃になってこんな忘れられたカギが出てくるなんて思っても見ませんでした。懐かしさの余りに頬ずりでもしたくなるようなお宝との出会いなのです。早速明日は役場担当の武田さんと一緒にシーサイドの池田所長さんへお返しに行きたいと、離れることへの寂しさを感じながらも机の上に置いて一日中ぼんやりと眺めていました。

?「このカギであそこを開けてこんなことをした」なんて思い出すと12年間がまるで昨日のことのように頭に浮かんできました。カギは道の駅の駅長としての責任もついて回りましたが、今はその責任から逃れており、誰かがその責任をしょってくれているのでしょう。

 今の世の中はかなり物騒でピッキングやガラス戸を割って内部に侵入する不届きなものもいると聞きます。幸い私がこのカギを預かった12年間は泥棒に入られることもなく平穏無事にお勤めを終えましたが、不特定多数の人間が出入りするシーサイド公園のことですから、カギを返す時、くれぐれもそのようなことがないように今一度お話をしたいと思っています。それにしても大それたごめんなさいでした。

  「このカギが 私の分身 十二年 何の失態 なくて感慨」

  「ポケットを まさぐる中に カギありて 驚く私 妻も驚く」

  「このカギが 最後の別れに なるかもと 返す明日が 何か寂しく」

  「この三年 ズボンに眠る わが過去に あらため帰る 懐かしきかな」 

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shin-1さんの日記

○早くも・・・・・・

 年齢を重ねたからそう思うのでしょうか。世の中の流れは十年一昔と言われた昔に比べ、一年一昔と言われるような速さでどんどん今が過去になって、自分の後ろへ消え去っています。ある人が「自分が小使いを人から貰う立場の間は盆や正月が待っていても中々来ないと思うから一年が長く感じられ、自分が小使いを人に渡すようになると盆と正月が待ちもしないのに早く来てしまうから長く感じるのだ」と言われ納得したりもしました。

 今朝5時前ひぐらしがカナカナカナと物悲しくも賑やかに鳴いて、今年は例年より10日も梅雨明けが遅れた日本列島に昨日やっと梅雨明け宣言が出されたばかりだというのに、「早くも」秋の気配を感じました。東北では青森ねぶた祭りが開幕し、武者絵のねぶたや「ラッセーラ」と言いながら踊る独特の「はねこ」が威勢良く踊る姿が、テレビで放映されていました。東北の「青森ねぶた祭り」「秋田竿灯」「山形花笠祭り」などは、冬の厳しい地域だけに華やかでより強烈な印象を与えているようです。「ねぶたが終わると東北では早くも秋の気配を感じる」とアナウンサーが「早くも」をコメントしていました。

 近郷では本来秋の味覚であるはずの秋の果物が出回り始め、「早くも」観光ぶどう園や梨園がオープンしたと、新聞や折込チラシが報じています。わが町でも海の見える小高い山の中腹に夕陽丘観光梨園があって、例年ファンが集まって来るようですが、梨園オープンを告げる看板類が道路の要所要所に「早くも」取り付けられ始めました。観光果樹園は果樹の糖度が生命なのですが、今年は梅雨が長かったので味の方が心配です。

 近所の田んぼを見ると昨日まで青かった稲に出穂が見られ「早くも」実りの準備が始まっています。田植えが1ヶ月も早い分だけ出穂も1ヶ月は早くなったと思いつつ周りを見てみると、田んぼの上を無数のトンボが「早くも」飛んでいました。動物も植物も人間社会の「早くも」にせかされて生きているように思われる今日この頃なのです。

 「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」という交通標語がありましたが、このところの日本人の急ぎ過ぎた生き方は異常と思えるほどです。意の向くままに自然に生きればよいものを、自然に逆らって不自然に生きているようです。不自然に生きるためには何かを犠牲にし鳴ければ生きて行けません。たとえばハウスみかんを作るためには畑に温室を作り、化石燃料を使って不自然な温室空間を作らなければなりません。みかんの木は人間の作った不自然な環境で花を付け実を結ぶのです。少数の価値とでもいうのでしょうか、そうして「早くも」作られたみかんはハウスみかんとして高値で取引されるという市場原理が働き、生産者の所得は一見上がったような感じがします。しかし自然全てを温室に変えることは不可能ですから、人間は自然と不自然を往復し、知らず知らずの内に違った環境の中で体を壊してしまうことだってあるのです。「早くも」ハウスみかんが出回り始めました。今年は高値のようで、他人事ながら喜んでいます。

 聞き飽きた「早くも」という言葉がテレビから流れる秋先取りの季節を迎えました。ひょっとしたら「早くも」は一年中使っている最も流行の言葉かも知れません。

  「早くもと 言う流行に せかされて 気付いて見ると 俺は早くも」

  「早くもと そんなに急いで 何処へ行く あの世近づく 冥土は遅く」

  「大根は 冬の食べ物 何故に買う 美味くもないが 焼いた魚に」

  「お寺より 棚行行くと 知らせあり 迎え火焚かず 坊主早くも」 


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shin-1さんの日記

○私は何処へ行けばいいのか

 今日は西条市の中央公民館が主催する館長会に招かれ、地区公民館の館長さんにお話をしに出かけました。そんなに急ぐこともないからとゆっくりリズムで高速道路を利用することもなく国道11号線を走りましたが、途中携帯電話で国際会議の打ち合わせと称する電話が入り車を空き地に止めて打ち合わせを済ませたものですから、ついでに今日の会場をカーナビに電話番号で入力しました。ところがその番号が示す目的地は何と旧東予市を指しているではありませんか。東予市や丹原町、小松町が合併して新西条市が誕生したことは知っているのですが、西条市の中央公民館はこんな場所ではないと思いつつ、もう一度入力しなおしましたが、また同じ場所を指すのです。30分ほど余裕があるので、カーナビの示す道路をその通り走ってとりあえずの目標に到達して、施設の入口を見ると看板には紛れもなく「西条市中央公民館」の看板が上がっていました。中に入り担当者に聞くと、合併による施設配置で中央公民館は旧東予に移ったことを聞き納得しました。もし携帯がかからず車を空き地に駐車しなかったら、カーナビに入力しなかったら、多分私は合併前の旧西条市中央公民館へ行ってたかも知れないと思うと、情報化時代の恩恵にしみじみ感謝するのです。

 西条はずっと向こうの・・・なんて思いながら車を走らせると、桜三里を少し下れば早くも「西条市」の看板が早くも目に入るし、合併後の市町村名はまるでチンプンカンプン、看板も作るのにお金がいるのでしょうか市内へ入ると端々の看板には「旧丹原町」なんて旧の文字がいいわけ程度についている看板を良く見かけるのです。

 事なきを得目的地にたどり着いてホッとしてお茶をいただきましたが、今までは東予市で飲むお茶だったのでしょうが、今日は水の都西条市の水で沸かしたお茶ですから、出す方も「水の都の水です。良かったらもういっ杯」と勧められ、ついつい2杯目をお代わりしてしまいました。暑かったせいか冷たい西条のお茶は一服の清涼として喉を潤しました。

 さて公民館の門外な私が館長さんに何を話せばいいのか少し戸惑いましたが、公民館主事として13年、中央公民館長として2年、私設公民館塗師として30年の経験を織り交ぜながら1時間半お話をさせてもらいました。公民館活性化の結論は公民館職員のやる気と指導助言の質にかかっているといっても過言ではないのです。特長のない公民館・命と暮らしに結びつかない公民館・事業バランスが崩れている公民館・子どもや若者が集まらない公民館・青年団や婦人会などの団体が崩壊している公民館・行政に当てにされない公民館・金のない公民館・中長期計画がない公民館・公民館運営審議会が機能していない公民館・公民館職員のやる気が感じられない公民館・マンネリ化した公民館のどの悪口を随分言いました。

 私は只今自由人です。何の責任もないわけですから怒られるのを承知で声高に公民館の悪口話をしました。そして21世紀の公民館の理想像は自立する地域、自立する住民を育てること、そのためにはふるさとを愛する気持ちを育てよう。そのためには読む・聞く・見るといった従来の学習ではなく、書くこと・喋ること・実践することの出来る人たちを沢山育てようと熱いエールを送りました。

 公民館はそのまちの顔であり情報と人の拠点でなければなりません。合併を機にもう一度何をなし何をすべきか考えることが大切ではないでしょうか。

  「カーナビが 私行くとこ 地図をなぞる お陰様にて 間違うことなく」

  「間違いと 勘の違いが ありました 俺の賞味は もう期限切れ」

  「災害時 非難するのは 公民館 社会に貢献 してる胸晴れ」

  「看板を 見てもピントは ずれている こんな所に 何故に看板」

   

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