shin-1さんの日記

○文化とは何か・西土佐(20-11)

 トインビーは「文化とは航海である」と言いました。今東光は「文化とは決まり事が守れて街が綺麗こと」と言いました。ある県庁の課長さんは「文化とは何か」という質問に「文化を一口で言うのは難しい」「じゃあ二口で言ってください」「・・・・・・・・・」。亡くなった柳川市の広松伝さんは「俺の街は夏になると掘割に蚊がわいてブーンと飛ぶから文化だ」と笑って答えました。当然あちらこちらで話す機会の多い私に対しても「文化とは何か」という同じような質問が度々寄せれれます。これらの発言や質問でも分るように分っているようで分らないのが「文化」だと思います。さて「文化とは何か」と問われたら皆さんはどう答えるでしょう。広辞苑を引いてみました。「文化とは文徳で民を教化すること」だそうです。分りますか?、益々分らなくなってきました。「世の中が開けて生活が便利になること」「人間が自然に手を加えて形成してきた物心両面の成果。衣食住はじめ技術、学問、芸術、道徳、宗教、政治など生活形成の様式と内容とを含む」文明と同義語。「西洋では人間の精神的生活に関わるものを文化と呼び文明と区別する」と書かれています。文化とは左様に分りにくいものなのです。

 私は「文化とは人間がよりよく生きるために考えを形にする営み」だと説明しています。お茶を飲むことは茶道、花を活けることは華道、文字を書くことを書道、武術を習うことを武道などなど、人間はよりよく生きるためによりよい道を求めてきたのです。

 ところがつい最近、文化行政なるものが流行り、東京発の文化や芸術に触れることが文化だと思ったり、文化会館の立派なのを造ることが文化だとはき違って思っている人が多くなってどのまちも高いお金を出して文化会館の立派なのを建て、利用されぬまま高いメンテナンス料金に悲鳴を上げている市町村が多いことに驚くのです。特に平成の大合併を予測してまるで駆け込み寺のように訳も分らないほど文化会館が建ってしまいました。

 そもそも日本の文化はアグリカルチャーという言葉で表現できるように農耕文化が基底にあるのです。日本文化の基本である農業が機械化や大規模化によって自然の成り行きが無視され、あたかも人間が自然を征服したかのような振る舞いをするようになってきました。文化の基底である農業が危ないのですから文化も危ないのです。

 昨日四万十市西土佐の高台にあるふれあいホールという立派な文化会館をぶらり訪ねました。運良く顔見知りの中平所長さんがいて案内してもらいました。外観もさることながら中の立派なのには目を見張りました。失礼な言い方ですがこんな小さな村にこんな立派な施設があるなんてまさに驚きです。

 固定椅子と移動用椅子を並べると600人は有に座れる、5億円規模のホールです。今は教育委員会が管理するため事務所移転しいますが、説明によると稼働率20パーセントだそうです。それでも地元の太鼓集団が練習場に使っているのでそれなりの成果は上げているようですが、それとて地元が故に利用料金を取ることもできず、四苦八苦しているようでした。

 見学をしていた矢先外は激しい雨が降り出しました。ところがどうでしょう屋根天井を叩く雨音が激しくなって容赦なく室内に聞こえてくるではありませんか。「はいこれがこのホールの欠点です。でもこれも自然的でいいでしょう」と苦笑していましたが、室内で楽器の演奏中に雨音が聞こえたらコンサートも興ざめするかもと一人気を揉みました。

 見てくださいこの天井。まるで東京の一流ホールのような雰囲気です。思わず天井を見上げてパチリ写真に収めました。

 私のまちでもひと頃文化ホールを造って欲しいと隣の町のホールを羨んで多くの希望がありました。でも年間利用計画と投資額の差、ならびにメンテナンス費用が膨大で、結局は造らなかった経緯があります。もし仮に私のまちが文化ホールを造っていたら間違いなく今はお荷物になっていたに違いありません。その時私は町民への文化ホールを建てない理由を「隣町の文化会館を1ヶ月に1回借りて利用者をバスで送迎してもまだその方が安上がり」と説明したのです。勿論建てれば文化団体が育つなど副次的な効果はあるかも知れませんが、それでも全国に起こった文化ホール乱立の無意味さを分ってもらったと理解したものです。でも結果的には合併しそんな予算は組まれるはずもなく、説明責任を果せないでいる自分を悔やんでいます。

 要は文化ホールがあるから文化度が高いのではなく、文化ホールを必要とする時文化度は高くなるという事実を行政も住民も気付かねば、この文化ホールは無用の長物になってしまうのです。そのヒントは旧丹原町、今の西条市丹原町の文化ホールの運営にあるような気がします。一度ご覧あれ。

  「文化とは 何か分らぬ 行政が ホール造って お茶を濁して」

  「このホール 立派なけれど 雨の音 自然とコラボ 時代先取り」

  「天井は まるで東京 丸の内 ただし耳だけ 塞いでみれば」

  「教育を 全て任され その上に ホール任され 課長大変」 


 

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shin-1さんの日記

○台風10号襲来の中を・本村地区(20-11)

 妻「お父さん今何処ですか」。私「今大洲を走っとる」。妻「西土佐の和田課長さんから電話があって台風が近づいているので、今晩の会をどうしようか思案中なので連絡くださいとのことです。電話番号は・・・・」。私「ちょっと待って、今は運転中なので車を止めるから・・・」。妻「電話番号は○○○○です」。私「了解しました」。

 私「和田さん電話もらったそうですが」。和田課長「ええ、奥さんにも話したのですが日帰りのこともあるし、今日の会はどうしようかと思案しています。あと1時間後で判断しましので・・・・・」。私「青年の家の件で会う人があり早めに出てきました。ここまで来ているのでやる方向で検討してください」。和田課長「分りました』。

 私「四万十市西土佐地域事務所でしょうか。中脇係長さんはいますか」。中脇「はい中脇です」。私「その後雨や風の具合はどうですか」。中脇「はい今のところは小康状態です」。私「じゃあやりましょう。これからゆっくりそちらへ向かいます」。中脇「お気をつけてお越しください」。

 てなような緊迫した電話のやり取りをしながら、ふと10数年前の台風の時の悪夢が甦ってきました。その日私への電話の相手は後の瀬戸町教育長となった浜松為俊さんからでした。瀬戸町塩成での研修会に招かれ行く予定でした。そこへ電話が入ってきて、浜松「台風が接近中でどうしようか思案しています」。私「台風くらいが何ですか。天に向かってブツブツ言うな、雨の日には雨の日の仕事がある」。浜松「よっしゃあ、じゃあやりましょう。直ぐに出発してください。お気をつけて」。昨日とそっくりの電話でのやり取りでした。ところがいざ出発してみると台風が近づくというよりは、台風直撃のため、佐田岬半島の国道197号線に出るとあちこちでは街路樹が倒れ、車が数台まるで亀の甲を逆さまにしたような状態で、この世のものとは思えぬ惨状に思わず後ずさりするほどでした。それでも風に横揺れされながら頂上線を走り、やっとのことで道の駅までたどり着いたのですが、そこから先へは進めず、結局はトンネル内でUターンして三机まで下り、瀬戸町商工会の奥山さんの家を訪ねましたが、電線や屋根瓦が路上に散乱しとても走れる状態ではありませんでした。奥山さんの家も停電で、ローソクを点けてもらいそれから奥山さんと台風の過ぎるのを待ちながら長い長い夜を二人でビールを飲みながら四方山話に花を咲かせました。

 明くる日は台風一過の晴天で、台風の傷跡が痛々しい国道197号を無事帰りました。この話を聞いた妻はあれ以来私の車での遠出には特にうるさくなって、事あるごとに止めるよう促すのですが、私の素行は一向に改められず今日に至っています。

 さて昨夜の集会は、台風襲来や折からの雨、それに私の都合で18日から17日に急遽変えてもらった様々な悪条件が重なり、多分区長さん以外は集まらないかも知れないと思って出かけたのですが、主催者を合わせると20名ほどの賑やかな会となりました。わが双海町にも本村という熱心な地域があるので、そのことも紹介しながら楽しいいおしゃべりに終始しましたが、質問が出たり、帰り際の雑談が多いに盛り上がって20分も超過してしまいました。区長さんの配慮でお茶までサービスしてもらったこと、チョークの真新しいのをご用意いただき、学校から貰ったというワイド画面の黒板に書き込んで説明したことなど、外の雨音を感じさせないものとなりました。雨が降って周辺の散策ができなかったのは残念でしたが、それでも雨降りしきる中を無事帰宅、帰って原研へ入った瞬間、タイミングよく中脇係長さんから帰宅確認のお電話までいただきました。感謝感謝です。

  「台風が 来るから集会 どうするか 電話やり取り 一押し決行」

  「あなどって 大事しよった 過去がある それでも俺は 前向き進む」

  「雨なのに 俺の話を 聞きに来る 腕をまくりて 声高熱弁」

  「西土佐の 雨に比べりゃ うちの雨 まるで霧雨 雨とはいえず」

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shin-1さんの日記

○予期せぬ死

一ヶ月前に旧友堀間さん(67歳)が不慮の死をとげ、一昨日は本間さん(57歳)という妻の友人のご主人が亡くなりました。年齢的には人生80年といわれる長寿の時代にしてみれば67歳も57歳も早死にというべきでしょう。一人暮らしだった堀間さんは台所で死に、本間さんは自宅の階段を踏み外して落下し、食べた物を喉に詰まらせて死にました。いずれも本人にとっても家族にとっても不本意な予期せぬ死であったことは、通夜や葬儀の深い悲しみの姿からも容易に汲み取れるのです。「堀間」さんは「ほりま」、「本間」さんは「ほんま」と中の一時が違うだけですからこれも何かの因縁でしょうか。つい最近近しい人や親しい人、それに年齢的に同年代の人の死を目の当たりにすると、「いよいよ俺の番かな?」と思うのは当然のことかも知れません。

 私が初めて死を意識したのは18歳の時でした。宇和島水産高校の練習船愛媛丸で遠洋航海に旅立ち、帰港の途中に冬としては珍しい超一級の低気圧の洗礼を受け、船長さんから「この船は沈むかも知れない」という話を聞いた時、「ひょっとしたら死ぬかもしれない」と思ったのです。幸い生きて帰れたのです。その後何度か病気になり、何度か怪我もしましたがまあまあ元気で61歳の今日まで生きれた事に感謝はするのですが、さてこれから死ぬまでの期間をどう生きるか、そろそろと思いつつも死ぬことよりも生きることの方にまだ心が向いているようです。だって親父を見送る責任があるからです。一番の親不孝は親より先にあの世へ行くことだといつも諭され生きてきました。故に神様仏様、お願いですからもう少しだけ親父も私も長生きさせて下さい。勿論妻もですよ。

 ところで最近身の回りで自ら命をたつ人が増えてきました。周りから見れば何もそこまでと思うのですが、命を絶つ人それぞれにこの世を儚んでの決断だけに寂しい気がします。その原因は金銭トラブルと人間関係のトラブル、それに健康上の理由が圧倒的に多いと聞きました。あの大人物三島由紀夫や川端康成さえも自殺するのですから、人の悩みは理解し難いもののようです。

田舎者には田舎者の、都会人には都会人の悩みがあります。また貧乏人には貧乏人の悩みが、金持ちには金持ちには金持ちの悩みがあるのです。しかし田舎者も都会人も、貧乏人も金持ちもみんな命は一つだし、死んだら元もこもないのです。死に損なって死の淵から帰ってきた人の話を何度か聞きましたが、「死なないでよかった」が結論のようです。現代人は皆人生の重い荷物に押しつぶされてもがき苦しんでいるように見えます。要はその荷物を捨てることから始めることです。ある老人が一儲けしてやろうと先物取引に手を出しました。最初はこれほど儲かるのかと思ったらしく、次々に投資しお定まりのコースを辿ったようです。結果世を儚んで自殺というこれまたお定まりのコースを辿る予定でした。しかし神仏にすがるべく歩き遍路に出たそうですが、歩いているうちに死ぬことがばかばかしくなって無から出直しを誓い、今は立派に生きています。

 自分が自らの命を絶って死ぬことはとても勇気がいることです。でもこのおじいさんのように無一文になって重い荷物を下ろせばまた生きることの希望が湧いてくるのです。大体自殺する人にはマイナス思考の人が多いそうです。私なのどのように、失敗してもジョージアの宣伝ではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて人は滅多に自殺しません。自殺する勇気がないのです。世の中は先日まで不景気でした。東京では景気が回復しバブル時代を超えたとさえ言われています。しかし田舎ではまだまだ景気がよくなるどころか不景気で、特に建設土木業界は大きな試練に立たされています。田舎にあれほどあった中小の土木建設業者は倒産という名の下に次第にその姿を消しています。土木建設業のランク分けがされて仕事が回らなくなったばかりか、設計見直しで儲からなくなり、下請け孫請けなど赤字覚悟の自転車操業だと聞きます。どこか可笑しい世の中です。

  「この町の 仕事請け負う 他所の人 何故にゼネコン やはり献金?」

  「ゴーストに なりはしないか この町も 一つ二つと 灯が消え寂しく」

  「また一人 周りの人が 死んでゆく 寂しき盆の 線香揺れる」

  「不足なく 欲もなくなり 良寛の 域に達する 自由なこの身」 

 

 

 

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shin-1さんの日記

○久しぶりのお湿りです

 今年は例年より10日も遅れて梅雨が明けましたが、どういう訳か今年の台風は四国を避けて通っているようで、梅雨明けから今日まで双海町では雨らしい雨はまったく降らず、そろそろ野菜や果樹に恵みの雨が欲しいと思っていました。みかん農家では「そろそろ潅水でもしなければ」と思ってるのでしょうが、潅水施設を持っていない兼業農家ではまさに自然農法ですから、自然の意の向くままにただ雨の降るのを祈りながら待つのみの心境だと思うのです。

 昨日は少しのお湿りがありました。孫の守りで疲れたため11時に早い床入りとなりましたが、その頃には涼を取るため開けた雨戸の向こうで雨音が聞こえていましたが、朝4時に起きて外を見ると期待した雨は止んで木の下の土もまだ余り湿った様子ではないようです。昨晩の天気予報だと四国や九州は台風の影響でかなりまとまった雨が降るだろうとの予測だったので、今日の高知行きを心配していましたが、この分だと今のところは大丈夫のようです。

 お盆が過ぎるといよいよ秋から冬にかけての野菜の作付けをしなければなりません。今は畑の土も折からの太陽で焼かれガチガチで鍬さえも歯がたたない状況ですが、そのうち雨でも降れば耕運機で深耕しいい野菜を、しかも無農薬で有機肥料で・・・と夢は膨らんでいます。

 私は儲けなくてもよい農業をしています。自分の体のために働いたりできるだけ健康に良い果菜を自分で作って食べたい思いから農業を始めました。ですから農業は副次的なのです。これが農業で飯を食わなければならない人にとっては、天気予報が気になったり、雨の一粒、虫の一匹、病気の広がりなど、まさに自然の猛威と格闘しなければいい成果は望めません。それに加えて高く売れる市況情報も欠かせないものです。かつてのように作物を作れば農協が売ってくれる時代は終わり、自分が売らなければ広域合併した農協や行政を当てにして左団扇を振れるほど農業はやわいものではなくなっているのです。

 私には農業をしている友人が沢山います。儲けている人、あくせく働く人、様々ですが、儲けて楽をしている人はそんなにいません。長男に生まれたから仕方なく、農地を荒らすわけにも行かないから仕方なく、儲からないけど仕方なく、止めるに止めれないから仕方なく、これ以外に仕事がないから仕方なくなどなど、殆どの人が仕方なく農業をやっています。「農業が好きだけど」という前提はみんな持っているのでしょうが、儲からないために「仕方なく」へと右肩ならぬ両肩下がりとなっているのです。私の農業は農業といえるかどうか分りませんが、儲けなくてもよい甘い考えの農業をしている私の口幅ったい言い方をすれば、「仕方なく作る作物」は仕方ない味しかしません。儲けるためには知恵を出さなければなりません。一部分ですがこんな儲からない農業だとみんながぼやいていますが、農業で儲けている人も結構いるのです。また儲けなくても農業を楽しんで暮らしている人もいるのです。

 日和見農業という言葉や民話があります。あるお百姓さんが今日は天気だからと大根の種を蒔きに畑に向かいました。道端で村人がひそひそ話をしていました。「そんな根も葉もない話を」という言葉が聞こえたので「根も葉もない大根を作ったって仕方がない」とその日は種を蒔きませんでした。明くる日は雨でした。前でも種を蒔こうと蓑笠で出掛けると、近所に住む村の知恵者が「雨の日に大根を蒔くと腐ってしまう」とお百姓さんを諭しました。長い雨が上がり今日こそと思って畑へ出掛けました。途中顔を腫らした人に出会いました。「どうしたの」と尋ねると「歯を虫が食って昨晩は寝れませんでした」と言うのです。「葉を虫が食う」なんて縁起が悪いとこの日も種まきを諦めました。結局このお百姓さんはその年大根の種を蒔くことができませんでしたとさ。

 御幣担ぎとはこのお百姓さんのような人を言うのでしょう。自分の信念や主張がなければ、結果に対しても人のせい社会のせいだと責任転嫁して、自分の努力は棚の上に上げてしまうのです。

 信念を持った安全で安心な果菜を食べたい、それは少々高くても、今人間が最も求めている欲求かも知れません。

  「お湿りに 少し安心 お百姓 台風嫌だが 雨だけ降って」

  「高くても 儲かる訳では ありません 果菜の原価 しれたものです」

  「農業は 競争もなく 消えてゆく 自然淘汰の 悲し運命」

  「年金の 金で清算 するという 経費の清算 全て農協」

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shin-1さんの日記

○孫と一緒に地域政策研究センター訪問

 私が関わるまちづくりの仕事は公私の区別をつけなければなりませんが、余り公私の区別をつけ過ぎるとかえってギクシャクして上手くいかないことも多いのです。私は家の横に私設公民館煙会所を設置し、煙会所の囲炉裏を囲んで連日連夜夕日によるまちづくりのワークショップを行いいい結果に結びつけたのです。もしもその時、公私の区別をつけて公共施設でこんな集会をしても誰もその気にはなれなかったでしょう。私の生き方第2弾として作った人間牧場も私的な部分が100パーセントの施設ですが、それでも全国から人は集まり夢を語り合うのです。

 今日は孫の夏休みの御守り2日目です。孫の自由奔放な一日に私の暮らしを合わせるのは容易なことではありません。朝起きてから風呂を入らせて眠るまで、食事や午睡、遊びと3歳の孫の世話は何かと骨が折れます。昨日はセンターの清水さんにお願いしていたパワーポイントの提出資料を作成しなければならないのに、結局は中途半端で終わってしまい、市役所地域振興課の武田さんから借りる資料の借用期限もあって、仕方なく孫を連れての打ち合わせになってしまいました。

 見覚えのある幼稚園の登園途中にセンターはあるものですから、見慣れた車窓の光景に孫はてっきり幼稚園へ連れて行かれると勘違いしていました。

 地域政策研究センターでの打ち合わせは1時間弱で終わりましたが、見慣れぬ光景に目をパチクリさせていましたが、終始静かに付き合ってくれました。

 さあ仕事が一段落したがどうすると孫に相談すると「道後温泉に行く」というのです。孫と二人で何度か道後温泉の椿湯に入った経験があるので孫のマンションの駐車場に車を止めて歩いて出掛けました。お昼時だったこともあって温泉は人もまばらで、孫と湯桶で水遊びをしながらゆっくり過ごしました。昼ご飯は近くの食堂で冷しうどんを注文、上手に箸を使ってうどんを食べる孫を見て食堂のお姉さんが、「まあ上手に食べるのね」と褒めてくれるものですからその気になって、居合わせた10人ほどの客を巻き込んでしまいました。再び駐車場に戻り車に乗ると、さすがに疲れたのか居眠りスースーで、我が家に帰ってからも4時頃まで昼寝は続きました。お陰さまでちょっと気が抜け、ブログが一本書けそうです。

 昼寝から目覚めた孫はすこぶるご機嫌で単車に乗ってドライブしようというのです。余り交通量の多い場所は危険だし、二人乗りはご法度なので目の前上灘川沿いの農道を風を切らない程度に走りました。今日は台風の接近で時折小雨がぱらつくあいにくの天気でしたが、孫は左といえば左の、右といえば右の方向指示器を出すまでに慣れてきました。単車の始動も停止もキーを回してOKなのです。

 どうです、こお格好よさやご満悦な顔は何ともいえないすまし顔です。

 二日間の子守も無事終わりそうで、夕方母親と友人の葬儀に参列した妻が相次いで帰宅し、やっと肩の荷が降りました。孫はあすから大阪のおばあちゃんの所へ里帰りだそうです。やっとわが家にも元の静寂が戻りそうです。

  「まだ弱い 俺の知識を カバーする スライドつくり ご支援願う」

  「公か私か 区別分らぬ そのままに 今日も一日 遊び働く」

  「盆終わり 送り火焚いて 母や祖母 また来年も 帰っておいでと」

  「椿湯に つかりて孫と 束の間の  遊び楽しむ 今日も平和だ」


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shin-1さんの日記

○親父が始めた池づくり

 88歳の親父は何かにつけて革新的な生き方をしています。高齢ゆえに「体が弱った」と口癖のように体力の衰えを嘆くのですが、気力は衰えておらず様々なことに挑戦し続けていて、その姿勢には目を見張ると同時に私も見習わなければならないと常々思っています。数日前鯉を飼っているため鯉の業者さんが訪れ、行き掛かり上断りきれず鯉の稚魚を沢山貰ったようです。貰ってくれる相手もなく仕方がないので当面自分で買わなければならない羽目になってしまいました。家にある大きな水槽を出して水を溜め、その中で飼育しようと試みたのですが結局は夏場のことゆえ水槽の汚れがひどく、見た目に悪いと断念しました。そこで登場したのが生簀です。昔漁師をしていた経験からみかん採取のキャリーに網を被せて池の中に半分浮かせて沈めました。ところがそのキャリーには手持ちの部分に穴が空いていて、何匹かの稚魚が池の中へ入ってしまったのです。その稚魚が池の中でうろちょろするものですから、それがストレスとなって自慢の鯉が餌を食わなくなったようです。広くて深い池の中に泳ぐ場所を得た稚魚を掬い取ろうと必死にタモ網で追いかけるのですが、親父の力ではどうすることもできず、結局は私に応援を求めその殆どを回収したのです。

 さてこの回収した鯉をどうするか、考えた末の親父の結論は庭の隅に小さな池を作るという計画に転化されました。最初は小さな計画だったようですが段々と本格的になって、やれセメント、やれブロックと近所の最近廃業した金物屋さんに在庫を分けてもらって池作りがスタートしました。折からの暑さなので予定地の上にビニールシートで日陰を作り、汗だくだくで急ピッチな作業が朝から晩まで進んでいるようです。私の書斎の横前辺りなのでパソコンを操作しながら私はただ傍観しているのです。しかし親父は器用です。土木作業、左官工事、造園業、配管工事何でもござれで、道具類も何でも揃っていてあっという間に仕上げてしまうのです。それでいてセンスがよいため仕上がりはとても素人がしたとは思えない立派な出来栄えにただただ驚くばかりです。

 私は親父の長男ですからそんな器用さを能力的に受け継いでいるはずなのですが、私のDNAの殆どは死んだ母のものを受け継いでいるようで、一向に器用さは身につきません。コツコツと続けることはできても瞬発力がないのかも知れません。

 親父は何かにつけて革新的だと述べましたが、動く距離が限られていて視野の狭くなった分だけ家の周りに目が行き届くようで、一木一草一石を見ても絶えずより以上なものを追求しているように見えるのです。例えば庭木や石は一度配置したらそれに満足しなければならないと普通は考えますが、石の配置や木の植え具合が気になると、平気で丸太を三脚に組んでチェンブロックで吊り上げ直してしまうのです。私のようにしょっちゅう家を空ける人間には、「あれ、ここの庭木がなくなっている」とか、「えっ、この石はこんな姿だっただろうか」なんて思うことはしょっちゅうなのです。

 88歳の親父に教えられることはまだまだいっぱいあります。家の隅に設置している私設公民館煙会所も海の資料館海舟館もより質の高いものを求めて進化し続けれたのは、やはり親父のそんな革新的な行動力だったと陰なる力の偉大さに感心しています。25年後の私にそのパワーは存在するはずもないと今から諦めていますが、少しだけでも学び取りたいと日々精進している私なのです。

  「鯉の稚魚 貰ろたどうする 池を掘る 直情的だが 親父実行」

  「何にでも 没頭するから いいのです 歳を忘れて 新たな挑戦」

  「器用さを 受け継ぐはずが 不器用な 人間なりて この歳迎え」

  「暮らしぶり 僅かな年金 それでいて 俺よりリッチ 親父見てると」 


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shin-1さんの日記

○いずれ人間は必ず歳をとり死ぬ

 昨日所用で近くの特別養護老人ホームへ出掛けました。昼下がりのホーム内は一階でディサービスに来た人たちが賑やかに歌を歌っていました。顔見知りの人も多く私の顔を見つけると、大きく手を上げ嬉しそうに言葉を掛けてくれました。私も応じるのですが何せ20人もの人が一斉に声を掛けるので、手前の人から順番に話しかけ手を握ったり肩を叩いたりして応じました。この人たちとはつい最近まで社会教育や産業団体、それにまちづくりの現場でよく出会っていたので、感慨も一入なのです。

 やがて一通りのあいさつを終えた私は、2階の老人ホームへ叔父の見舞いのため上がって行きました。普通の部屋にいるはずの叔父は病室のベットに移され静かに横たわっていました。左官をしていた叔父が仕事場で脳卒中で倒れたのは2年前でした。それまで殆ど病気もせず町の消防団長も務めた聡明な叔父を知っている人なら、ベットに横たわる叔父の姿はまるで別人ではないかと目を疑うような変貌ぶりなのです。力仕事で鍛えた腕や足は衰え骨と皮と筋だけで、目もうつろで記憶はしっかりしているのでしょうが反応も鈍く、握る手に伝わる力も意思も弱々しく感じられました。医学の進んでいなかった昔ならとっくに死んでいたかも知れないと思いつつ、一命を取り留めた叔父の力強い生命力に改めて感動したのです。手足をさすりながら一方的に私が叔父に話しかけ、叔父もかすかに反応しながら5分余り対話をしました。「進一だが分る」。言葉に反応して首を少しふっているように見えました。「また来るから元気でね」と部屋を出る瞬間、叔父の目から涙がこぼれ、何と不自由な手を振ってくれたのです。

 2階の老人ホームでくつろいでいる方たちも殆どの人が歳を取ったりふけたり、また少々ボケていますが見覚えのある顔ばかりです。痴呆の老人の殆どは今生きてることの意識は少ないのですが、何故か昔のことをよく覚えているものです。「おい進ちゃん元気か」と声を掛けてくれる人もいれば、こちらが声をかけても「どちらさんですか」てな具合の人もいます。

 昔北欧の老人ホームのドキュメンタリー番組をテレビで見たことがあります。当時世界一といわれた北欧の高齢者福祉について詳しく紹介していましたが、まさか日本が世界一の長寿国になって、高齢者福祉施設がこれほど日本全国に出来ようとは夢にも思っていませんでしたし、三世代同居の家が多かったあの頃には、歳をとって老人ホームで暮らすなんて、これも夢にも思わなかったのです。うつろな表情で過ごす老人ホームの人々を見ながら、「いずれ人間は必ず歳をとるし死ぬ」という運命を感じずにはいられませんでした。

 殆どの人が「自分は死なないし老いない」と思っているに違いありません。ですから親を粗末にしたり親孝行をしないのです。いずれは自分がそうなるであろうと思うのなら、もっと親に忠孝を尽くすはずなのです。昔は人間の一生も短く、50代・60代であの世へ旅立ちました。ところが今は80代・90代はざらなのです。長生きすればするほど老いを生きる期間は長くなりますが、老いへの備えは長寿国日本になってまだ日も浅く、万全とはいえません。気力と体力、知力と財力などのバランスを保ちながらいかにボケずに老いを迎えることが出来るか、日本人の挑戦はまだ始まったばかりです。

  「おいお前 歳は幾つと 問うたなら あんた何ぼと 聞き返すなり」

  「人は皆 必ず老いて 死んでゆく 俺は例外 てなことはなし」

  「人間の 死亡率はと 尋ねたら 百パーセントだ 必ず死ぬぜ」

  「水を打つ 老人ホームの 昼下がり 生きているか 死んでいるのか」 

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shin-1さんの日記

○孫と海で遊ぶ

 孫の幼稚園が夏休みに入って連日泊まりにやって来ます。家族はみんなそれぞれ仕事があるものですから、いきおいサンデー毎日の私が暗黙のうちにお守りをしなければならない羽目になってしまうのです。娘からは「孫の面倒を見れることは嬉しいことと思ってね」と言われるのですが、毎日引っ付きもっつきされると、この暑さゆえ言うことを聞きにくくなった孫の守りは正直言って少々うんざりです。それでも私しか頼りになる人間がいないのですから、否が応でもやらなければならないのです。

 このところの双海町での過ごし方は、起きて朝食を取ると単車に乗せて潮風ふれあい公園経由でシーサイド公園まで出かけます。シーサイド公園には中庭に池があってそこには沢山の鯉を飼っています。この鯉は私が現職中に夕日の物語を作るために飼い始めたのですが、今ではすっかり公園の人気者になって、子どもたちが100円で買った餌をやってくれるのです。孫も同じように餌をやるのが楽しみで、池田所長さんともすっかり顔馴染みになって、孫のために餌を用意して待っていてくれるのです。

 どうです、この鯉の群れは。孫が喜ぶはずなのです。

 孫が鯉をめがけて餌を投げると鯉は餌をめがけてわれ先に餌に群がるのですが、その光景たるやド迫力と呼ぶべき光景なのです。孫も最初は丁寧に一つ一つ餌を投げていましたが、余りの凄さに圧倒されて、最後は一掴みもまとめて投げると、鯉の上に鯉が乗って勢い余って孫の足元まで躍り出る始末でした。

 帰り際所長さんが「朋樹君、泳ぎにおいでね」と誘うものですから、帰ると早速「じいちゃん、海へ泳ぎに行こう」としつこく誘うので浮き輪を引っ張り出して空気を入れ始めましたが、残念ながら破れていて用をなしませんでした。海水パンツを履かせ、私も海水パンツを履いて早速単車に着替えを積みお出かけです。この数日間単車に乗りそめていることもあって、孫は「出発進行、発車オーライ」などと手馴れた言葉を連発し、ウインカーも右や左にボタンを押して手馴れたものです。

 売店に勤める顔見知りの電気屋さんの奥さんに小さい浮き輪を借りていざ海です。10時だというのにもう砂は素足で歩けないほど焼けていました。小心者でまだ海が怖い孫を海に泳がせるには、まず自分が見本をと海にゆっくり入りました。本当はザブーンと飛び込みたい心境でしたが、孫の恐怖を誘わないようにゆっくりゆっくりです。やがて孫の手を取って首筋まで海に入らせる戸、孫は水をなめてみて「おじいちゃん、この水ショッパイと言うのです。その後浮き輪に入れて少し沖合いや左右に移動をして海水浴に高じました。砂遊びも一通りやりましたが、直射日光が強く、20分ほどで切り上げて水を浴び、着替えてさっぱりしました。何と私は、これだけ海に近い町に住んでいながら、海水浴を楽しんだのは二十年ぶりではないかと思うのです。孫のお陰で二十年ぶりの海水浴を楽しむことができました。

 所長さんがかき氷をプレゼントしてくれました。孫のリクエストは「真赤ないちご」、全部を食べさせると量が多いので、二人で仲良くイベントホールの冷房の効いたところで氷を食べました。

 双海の夏は只今真っ盛り、シーサイド公園界隈は何処へ行っても人・人・人で埋まっています。その人ごみの中に入ってみると人々は、涼を求めて思い思いの過ごし方をしています。海の中で水しぶきを上げている人、パラソルの下の小さな木陰で涼を取る人、海水浴場の貸席で家族が涼を楽しんでいる人、公園の緑陰でセミの声を聞きながら海を眺めている人、ちゃっかり冷房の効いた部屋で涼しそうに語り合う人それぞれです。

 色々いいながら孫の守りのお陰で思わぬ夏の過ごし方を体験することができました。

  「海近き 町にいながら 泳がない 二十年ぶり 水浴楽しむ」

  「イチゴ味 二人で楽しむ かき氷 額付き合い ストローチュ-」

  「餌ねだる 鯉にめがけて 二三粒 しぶき飛び散り 孫はマゴマゴ」

  「息吹けど 穴あき浮き輪 膨らまず ついに断念 孫はしょんぼり」


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shin-1さんの日記

○雑誌を読んで

 「若松さんですか。今月号の『まち・むら』という雑誌を読んだのですが、人間牧場はどの辺りでしょうか。アポイントもなしに失礼とは存じますが、近くを通ったものですから一度見学したいと思いまして・・・・」。運良く今日はお盆休みを決め込んで家にいて電話を取った私に、「お手間を取らせても何ですから、場所さえ教えていただければ自分で訪ねてまいりますので」と言われるのですが、「残念ながら地図もなく、一人で行くと迷うことになりますので、私がご案内します。いまどちらにいますか」。「はいしもなだ運動公園の入り口にいます」。「じゃあ9時半にそこでお会いしましょう。ところで人数は」。「はい私と妻です」。「そうですかじゃあ早速そちらへ向かいます」。一昨日までの灘町集会所の宿泊者が出した膨大なゴミを、自治会長としての役目上ゴミ収集場所に出さなければならず、朝早くからその対応に追われ、ほっと一息ついた時間だったので、快く出かけて行きました。待ち合わせの場所に着くとキャンピングカーには大きな犬2匹と奥さんが同乗していました。残念ながら道が工事中で通行止めと書かれていて、キャンピングカーにはちょっと無理な道幅なので奥さんと犬2匹は車の中でお留守番という結果になってしまいました。

 聞けばキャンピングカーで四国八十八ヵ所を回っているとのこと、香川県善通寺市のれっきとした現役課長さんで、盆休みを利用して各地をラリーで回っているそうですが、初対面とは思えぬ奥の深い方で、波長が合って色々なことを話し合いました。特に私の生き方に興味があるらしく、ついでにわが家までやって来て煙会所や海舟館、夕観所を見学する念の入れようで、「昇る夕日でまちづくり」と「今やれる青春」という2冊の本まで買っていただきました。

 最近は団塊の世代が何かと話題になっていますが、その殆どの人たちが定年後どのように生きたらいいのか考えぬまま社会に飛び込んで来つつあるようです。昨日も一つ年上の先輩の奥さんに会いましたが、奥さんの話だと「退職後は釣りに凝って仲間と遠くへ釣りに出かける日々」だそうです。奥さんお話を続ければ、「もっとましな生き方ができないのでしょうか」とも言っていました。私は奥さんに「やることがあることは素敵なことですよ」とたしなめました。奥さんの不満は「私がこうしてパートに出て働いているのに、別に金儲けするでもなく、『年金は俺のもの』と言わんばかりに釣り三昧をするので腹が立つ」らしいのです。「そこへ行くと若松さんは偉いですね。うちの主人に若松さんの爪の垢でも煎じて飲ませたい」と大笑いをして分かれました。

 この課長さんと話したのですが、「世の中の乱れの大きな原因はみんなが豊になり過ぎたためではないか」ということでした。先日一俵入魂でお馴染みの高知県南国市の川村一成さんの話を紹介しましたが、彼が言うように「ほどほどな貧乏」が世の中には必要なのかも知れません。豊だと人に頼らず生きてゆけるし、人を気にせず生きていけるのです。人間は人とともに生きると人の恩に感謝が生まれ、感謝が新しい人の世話へと発展してゆくのです。私は「属地での生き方」を推奨しています。ふるさと運動もその一環で、ふるさとを愛する気持ちがあればゆがみあうこともなくみんなが仲良く日々暮らせるのです。子どもが育つ、お年寄りが穏やかに暮らせる地域は、最早なきに等しくなりつつあります。阪神大震災や新潟地震を見れば一目瞭然で、日本のかつてのよきコミュニティを復活しなければ、今話題の映画「日本沈没」になるかも知れません。そのためには、人間何のために生きるのか、人間はどう生きたらいいのか真剣に考え、自分自身の生き方をしっかりと考え生きて行かなければなりません。

  「飛び込みで 人間牧場 やって来る 今日もいい人 知恵を授けに」

  「弘法は 八十八ヵ所 巡る旅 そのつれづれに 何か学べと」

  「暑いねと 交わす言葉で 盆が来る 寒いね正月 半年後には」

  「見上げると 入道雲の 湧く空に トンボ早くも 秋の気配が」  

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shin-1さんの日記

○お盆の頃

私が覚えているわが家のご先祖様は祖祖父母・祖母・母の4人で、私が2歳の時の昭和21年に亡くなった祖父の顔は残念ながら覚えていません。戦後の衛生事情の悪い中、大流行した赤痢にかかって62歳で亡くなった祖父を除けばわが家は皆長寿で、80歳を越える天寿をまっとうしているのです。私は自分の生活設計の中で自分の寿命がいかほどまでなのか23歳の時推測し、その後の修正もなく85歳まで生きてやろうと思っているのです。ある人に言わせるとその人の寿命は父母の年齢を加えて2で割り、出た数字の+5が目安だといいます。その計算式で行くと父88歳(現在進行形)+母80歳=168歳÷2=84歳+5歳=89歳となります。つまり私は計算上は84歳~89歳まで生きられることになるのです。私の目標としている年齢が85歳ですから夢は可能で、健康管理さえ徹底し事故や事件に巻き込まれなければ今の親父の年齢までは生きれるのです。

 「長生きをしたい」という人間の願望は誰もが持っているのでしょうが、健康でボケもせず長生きすればその願望にも意味があるのですが、寝たきりになったり認知症になってまで長生きすると周りの迷惑をかけるばかりでなく自分自身も辛いものですから、そのことを念頭に置いて長生きの秘訣を日ごろから考えた行動をしなければならないと思うのです。

 私の寿命は最高に見積もっても今の親父の年齢なのですが、親父のようにボケもせず長生きができるかと思うと少々心もとない気持ちです。昨日から親父は庭の隅に小さな池を作り始めました。庭には大きくて深い池があって立派な鯉が8匹も飼われていますが、養魚場の方に鯉の赤ちゃんを多数貰ったようで、その飼育のために池を掘るというのです。「おいおい何歳まで生きるの」なんてことは言えませんし、「止めとけ」と生きがいをそぐ訳にもいかず見守るしかないと心に決めて、言われるままに少しの手伝いをしています。

 今朝、妻と親父と私の3人で麻ガラを玄関先で燃やしてお盆の迎え火を焚きました。3本の麻ガラを短く折って火をつけると勢いよく燃えました。冒頭に書いた祖祖父母、祖母、母以外にも若松家の先祖は10代前を数えると1,024人、20代に遡ると1,048,576人、30代前に遡ると何と1,073,741,824人になるのです。迎え火がこんなにも多い先祖を呼ぶことは到底不可能ですが、せめて顔見知りの3代前だけでも安らかにわが家でお盆を過ごしてもらおうと、応接間に祭壇を出し、お坊さんに棚行に来てもらって、お経を唱えてもらいました。明日は夕方お弁当を持って帰るのですが、それまで妻は母から教わったわが家の仏事のしきたりに沿って、この2日間せっせと仏様のお接待をしています。「ああ日本のお盆」です。

  「迎え火を 焚いてご先祖 里帰り お盆の行事 妻が受け継ぐ」

  「何処となく 嬉しそうなる 父の顔 母が帰りし 仏壇拝みぬ」

  「驚きぬ 十代前には 千人余 親の親親 親親親と」

  「五年前 逝きし母親 今頃は 何処をどうして 旅しているか」

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