shin-1さんの日記

○泣いてた子どもが大笑い

 今日はツーリズム研究会の委員をしているので最後の会合のため広島市へ行きました。あいにくの雨模様で海も荒れていましたが、往復2時間半余りのスーパージェットの船旅は、船のローリングが心地よい眠気を誘いウトウトしながら広島半日帰りの旅となりました。遠いと思っていた広島へ公共交通機関を使ってビジネスを組み合わせても半日で往復できるのですから便利になったものです。でもスーパージェットは早いだけ料金が高く、今日は主催者が旅費を出してくれるので助かりましたがまるで飛行機並みの料金なのです。

一時間おきに出る船の中は閑散としてゆったり座れ、リグライニングシートに体を沈めて本を読んでいると、突然隣に座っていた若妻、若妻の母親、孫とおぼしき3人連れの孫が何かにたまげて泣き始めました。最初は若妻の母親がぐずる孫を抱いてあやしていましたが、泣き止まないので若妻に孫を手渡しました。先ほどの若妻の母親ほどに上手く抱けない若妻の手の中で益々激しく泣き始め、周りの人は口にこそ出さなかったのですが「俺たちは金を払って乗っている。この鳴き声何とかしろ。テレビの音声も聞こえないじゃあないか」と言わんばかりの渋い顔です。

 子ども好きな私はその様子を少しの間見ていましたが、ひょっとした拍子に泣きじゃくるその孫さんと目が会いました。私はあやすような顔をして声なき声で語り掛けました。するとどうでしょう。あれ程泣いてた孫さんの鳴き声が小さくなり、数分したら笑顔を見せるようになったではありませんか。私は嬉しくなって「いないいないばー」なんて年甲斐もなく孫さんを必死になってあやしました。若妻さんも若妻の母親も泣きじゃくる孫に途方にくれていただけに大助かり、私の存在に気付いて会釈をしてもらいました。その後その孫さんはしゃっくりを繰り返しながらもげらげら笑って、結局は私のひざの上にやってきたのです。「済みません。大助かりです。お父さんと間違ったのでしょうか。子どもをあやすのがお上手ですね。お礼にどうぞ」と船を下りる時には、何処かで買ったのでしょうか、固辞するもモミジ饅頭の小箱まで頂だいてしまいました。

 預けていたいた車に乗って室内ミラーで自分の顔を映しながら思わず笑ってしまいました。あの孫さんは私の顔が可笑しくて機嫌を直したのか、それとも私の顔芸で笑ったのか、しまった、お孫さんに聞いておけばよかったと思ったものです。

 私たち人間は通りすがりに犬に出会うと吠えられます。ところが不思議な事に犬を自宅で飼っていたり犬好きな人だと、動物の勘が働くのでしょうか吠えないのです。お孫さんも同じで私に子ども好きという安心感が受け入れられたのかも知れません。お孫さんにゲラゲラ笑われたこの顔はひょっとしたら道化師、いやひょっとしなくても三枚目、でも石原裕次郎だったら顔もスタイルもいいけれど絶対に泣く子を笑わせることはできなかっただろうと思うと、この顔に自信が持てました。

  「船中で 泣く子も笑う いい仕事 顔が得する 饅頭頂く」

  「俺の顔 子ども笑いの 造形美 親に感謝し 今日も出歩く」

  「泣く子ども 笑わす術は 心理学 催笑術だよ ほらほら笑った」

  「泣く子さえ 止めさせられぬ 若い母 人の前でも お乳飲ませろ」

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shin-1さんの日記

○人の生き方に影響を及ぼす言葉の数々

 人生の後半戦に生きる私のような人間にとって「自分の生き方に影響を及ぼした言葉は何だったのだろう」と振り返ってみると、様々な言葉に出会います。「温故知新」「過ぎたるは及ばざるが如し」「位置を聞いて十を知る」「巧言令色少なし仁」「義を見てせざるは勇なきなり」などなどの言葉が思い出されます。誰が言った言葉かさえも知らず何気なく使っていたこの言葉の殆どが、中国古代の思想家孔子とその門弟たちが「人間はいかに生きるべきか」ということをテーマに語り合った問答を整理した「論語」の一節だとは驚きました。広辞苑で孔子について調べてみると、孔子が生きた時代は紀元前550年ころだそうですからまだ日本の歴史が始まっていないのです。こんなに長い時代を越えて語り継がれているのですから、永遠性のある真理と言わざるを得ませんが、私たちは何故かその心理について学ぶこともせず、ただ上っ面をかじっては知ったかぶりで引用しているに過ぎないのです。

 よく「論語読みの論語知らず」という言葉も聞きますが、原本は余程の博学やルビが打っていないと読めないばかりか意味さえも分りませんが、論語の奥深い意味を学習することは人生の生き方の学習という点では多いに推奨すべきことだと思います。それは物の豊かな時代でありながら心が貧しい現代だからこそ

そして乱れが生じた日本だからこそ、真の心を取り戻さなければ取り返しの付かない社会になるという危機感から感じることなのかも知れません。

 「論語」、聞いただけでも何か難しそうな感じがしたり、中国の古書と聞くとなおさらとっつきにくいもののように思われますが、今は難解なこれらの本も偉い先生が解きほぐし現代流に解説しているので、入門偏でも一冊か二冊購入して暇を見て呼んでみるのも悪くはないでしょう。特に管理職という地位にある人は部下の育て方の、あるいはサラリーマンのマネージメントに役立つことがいっぱいあるようです。

 私は自分で思うほど低能な人間ですから、大学も出てないし大した知識も持ち合わせていません。しかし「人間いかに生きるか」という永遠のテーマを追求しようと思うと、当然生き方の勉強をしなければなりません。雑学ながら色々な本を読み、色々な人の話を聞き、色々なものを見てきました。しかしいくら本を読んでも、いくら人の話を聞いても、またいくら色々な物を見て知識が増えても、自分の心の扉を開けるキーワードがなければこれらの知識は生かされません。論語は自分の心の扉を開けるキーワードと言ってもいいかも知れません。論語は難しいことを分りやすく考えるヒントのようなものなのです。

 さああなたも論語に挑戦しましょう

  「論語読む 論語知らずの この俺が 論語のような 論語喋りぬ」

  「過ぎたるは 誰が言ったの 問い返す 昔の言葉と お茶を濁して」

  「人の道 今も昔も 変わらない 不変が何故か 変わってしまって」

  「中学生 温故知新と 言う言葉 決意の習字に 大書している」  

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shin-1さんの日記

○日本人が日本人と感じること

 私たちは日本人です。といってもこれだけ国際社会の交流が頻繁になってくると、日本人という感覚よりも地球人といったほうが早いのではないかと思われるほど国の壁はなくなりつつあります。ソ連とアメリカの冷戦や南北ドイツの崩壊が国と国との無意味なゆがみあいに気付かせてくれ、自由主義と共産主義の隔たりでさえなくなっていますが、一方ではイラクやアフガニスタン、それにイスラエルとパレスチナのように宗教上のトラブルによって戦渦に巻き込まれている国も多いのです。

 日本人が日本人であると強く感じることは、日の丸という国旗を目の当たりにした時に強く思います。特に外国を旅していて旅先で日の丸を見たときの印象は民族として血の騒ぎを覚えるのです。

 昨日王ジャパンがアメリカでとてつもない大偉業を成し遂げました。野球の世界一を決める試合でキューバに勝ったのです。胸に日本の日の丸を縫い込んだユニホームは野球の本場アメリカで本当に世界一になったのです。しかも第一回という記念すべき時に・・・・。時あたかも今年はオリンピックの年でしたが荒川選手の金メダルに湧いた直後の出来事なので余計喜びが大きく、国内のあちこちではそのドラマチックな勝利への軌跡が号外となって国民に配られました。

 私が日本人であると意識したのはやはり二度の海外体験でした。最初は18歳のところ、愛媛県立宇和島水産高校の練習船愛媛丸で珊瑚海へ遠洋航海に行った時でした。寄港したイギリス領エスピリッツサント島は珊瑚海海戦のあった激戦地、その海岸に無造作に痛々しく残った日本軍の上陸用舟艇の残骸を見ました。戦後という言葉も遠くなった昭和38年の出来事ですから衝撃は大きく、心に深い感動覚えたものです。二度目は青年の船に乗ってアメリカ・メキシコを旅したとき、ロスのディズニーランドで丁度12時、アメリカの国歌がスピーカーを通して流れましたが、遊んでいたアメリカ国民が全て立ち上がり手を胸に国旗に向かって国家を口ずさむ姿でした。その衝撃冷めやらにメキシコアカプルコで青年の船の団員が船上から持っていた日の丸の小旗を2~3人無造作に桟橋に投げたのです。そのことがメキシコの新聞のコラムに書かれました。国旗を大事にしない日本人って感じでした。私はこの光景を思い出しながら野球の観戦をしました。角の民族意識は地球に醜い争いを作ります。しかし私たちが日本人であることの誇りは当然持たなければならないと思うのです。

 シンプルな、それでいて気品漂う日の丸も、昨日の様な国民の祝日ですら家の角々に立てられなくなりました。町中を歩いてみても昨日は余程しっかりした家庭でないと日の丸は見えませんでした。わが家に日の丸を立ててたら、友人が夕方やって来て「若松さん今日は王ジャパンが優勝したから日の丸を立てたのですか」とジョークにも似た発言があるほどでした。

 時あたかも教育基本法の文言に国家愛などの表現をするかどうかで主義主張が大きく分かれて議論されています。国を愛することは自分を愛する事に繋がります。それを教えてくれたのは王ジャパンだったのかも知れません。もう一度国家とは、日の丸国旗とは何かを自分自身に問いたいものです。ジョン・F・ケネディは大統領の就任演説で「国家に何かを求めるのではなく、国家のために何ができるか考えよう」と問いかけました。私も国家のために何ができるか考え、行動したいものです。

  「日の丸は 日本の象徴 だのに何故 祝日日の丸 町中見えず」

  「日本人 意識しました 王ジャパン 多分イチロウ 一番意識」

  「戦争の 記憶を持った 人減って 平和尊さ 分らず過ごす」

  「国旗見て 野球勝ったと勘違い 今日は春分 国民祝日」

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○お払い箱になった筆記用具

 私の書斎をはじめ家のあちこちには筆記用具が散乱しています。マジックインキ、ボールペン、シャープペンシル、鉛筆、マーカーなどその種類はおびただしいのです。昨日はハガキを書いていて途中で文字が書けなくなり、ボールペンに八つ当たりして雑記メモ帳に何度も書いて見たのですが結局は書けず終い、芯を取り出して見てみると、何とインクがまったくなっていることに気がつきました。普通ボールペンを使い切るなんてことは殆どありませんのっで、少々嬉しくなりましたが残念な事にその後はこのボールペン、ゴミ箱行きの運命と相成りました。

 半永久的とも思えたボールペンの出現は私の暮らしに大きな変化をもたらしました。それまで愛用していたインクをつけて書く万年筆さえもカートリッジとなって便利を感心していましたが、さらに追い討ちをかけるようにシャープペンシルの出現によって筆記用具は大革命となりました。それまで削って使っていた鉛筆さえ手動から電動の鉛筆削り機となり、何不中なく文字が書けるようになったのです。私が町の広報ふたみを担当していた初期の頃は鉛筆と消しゴムのご厄介になって原稿を書いていましたから、まだ三十年弱しか経っていないのにこの変化ですから驚きです。

 こうした変化の影で急速に消えゆく運命にあるのが鉛筆です。色の薄さや濃いさでHBを基準にHとBを沢山持っていましたが、今の子どもたちはこうした基準さえも分らないほどで、毎日鉛筆を削って筆箱に入れた少年時代が懐かしく思い出されるのです。昨日久しぶりにペン立ての鉛筆を取り出してカッターナイフで削ってみましたが、削りたての鉛筆はプーンと木の香がして、五角形の鉛筆を握った感触がとても新鮮に感じられました。まざまざと見つめる鉛筆には、何やら分らぬ文字が書いてあり、中にはお土産として貰ったのでしょう、温泉地別府の文字がPR用として書かれていました。一時代を築いた鉛筆も既にその役割を終えており少し寂しい気もしますが、この際整理しようと使わなくなった筆記用具を捨てる事にしました。

 ところで、ボールペンと鉛筆で線を引いた場合どちらが長く引けると思いますか?。こんな単純な質問を考える私は単純馬鹿かもしれません。でもそんな単純馬鹿を実際に試した人がいるのです。多分大方の予想ではボールペンに軍配を上げるででしょう。書き方にもよるのでしょうが鉛筆は50キロメートル、ボールペンは僅かに1.5キロメートルだそうです。この比較を見ていかに人間の作った鉛筆が優れているかが分ります。消えゆく運命にある鉛筆をいとおしく思うのは私だけではないと思うのです。

 24色の色鉛筆を買ってもらった時の嬉しさは今も忘れるることはできないし、鉛筆が全て折れて学校の授業にならなかった悲しい思い出もあります。鉛筆とともに過ごした少年時代が懐かしいですね。

  「鉛筆は どうして丸か 五角なの 不思議な疑問 今でも消えず」

  「筆箱に 削った鉛筆 忍ばせて 入試受けたな 鉛筆倒して」

  「鉛筆の 芯は本当に 鉛なの これも疑問で 鉛筆割ったな」

  「鉛筆で 書いた文字消す ゴムもある 小刀ともに 昔持ち物」 

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shin-1さんの日記

○これからどうする

 今日の夕方食事をしていると仲間から電話がかかってきました。彼は今年の春、そう後10日で40年にも及ぶ公務員生活にピリオド打って退職だそうです。開口一番「あんたは何しよるん」でした。私が退職して忙しく振舞っていることは知ってるようでしたが、どんな仕事をしているのか詳しく知らなかったそうです。「俺は自由人、大学へ毎週一回非常勤講師で教えに行っている。地元の自治会長もしている。観光カリスマ百選に選ばれているので全国行脚で講演活動をしている」などなど近況を報告すると、「そうか、私もあんたみたいな生き方ができたらいいけど、当分は少し骨休めしたい」と言うのです。

 彼は人生の訳ありで世に言うバツイチです。でもかつての連れ添いや子どもの将来への責任を果たす手立てをしっかりしており、今は一人の暮らしを慎ましやかに営んでいます。時折わが家へも訪ねて来てわが父や私とのとの交友もあります。私から見れば家族の煩わしさもないわがままな生き方は少し羨ましくも思いましたが、人生の転機を迎えるとさすがに彼も逆に私の生き方が羨ましいというのです。

 電話での話しなので込み入ったことは分りませんが、「当分は骨を休める。住処を探す。再就職を探す」という彼の断片的な言葉に、少し忠告をしました。「骨を休めるのも結構だが、次に何をするのかしっかり考えておかないと再びのフライトはできない。住処は賃貸マンションをというが人生の碇を下ろす場所だからしっかりと考えろ。年金受給までまだ間があるからできるだけ早く再就職の水戸を考えろ」でした。「人のことだ。放っとけ」と言われそうでしたが、彼から夜10時ころ再び電話がかかってきて、「近々暇は取れないか。会って相談したいことがる」とのことでした。

 ふと気がつくと私たちの周りには働き蜂だった退職若しくは退職間近の人がたくさんいる事に気がつきます。その人たちの殆どは再就職をする人、家業である農業などをやる人、当分の間休む人、何もしない人、地域のお手伝いをする人、趣味の世界へ進む人などに分類されますが、さて人それぞれどれが正しいという結論もありません。ただ何もしない人だけにはなって欲しくないものです。

 彼のように退職を後10日に迫ってもなお自分の人生のいき方を考えていない人は正直言って危ないです。何が危ないかは定かではありませんがニコニコ・ピンピンと生きがいを持って健康的に生きるには、どう生きようとしているのかが大切なのです。団塊の世代といわれる年金暮らしの若年寄りが世の中に蔓延するこれからの社会は、この人たちの社会参加こそ地域の活力の原動力になることを、団塊世代自身も、勿論社会も考えてゆかねばならない大きな社会問題といえましょう。

  「十日すりゃ 退職言うのに わし何処へ 行くのか分らず 困ったお人だ」

  「若い頃 気ままなツケが 今頃に なって気がつく これから寂し」

  「団塊の 世代世の中 なだれ込む 年金生活 国も破綻だ」

  「働かず 国から年金 頂いて こんな世の中 まるで天国」

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shin-1さんの日記

○二次会は楽しい

 昨晩は送別会の後、久しぶりに二次会に繰り出しました。酒を飲まなくなったこともあって、このところトンとご無沙汰の二次会でしたが、この二年間お世話になった鵜野さんの送別会とあって同行しました。昔は二次会と称して深夜まで飲み屋街を徘徊していましたが、今はそんな馬力もないため飲み屋街のお店の位置がまったくといってよいほどつかめないのです。それでも四六十という全国の日本酒なら何でもあるというかつて行きつけの店へ行きました。昔は三日に上げずの表現ぐらいやって来ていたこの店もすっかり様変わりしていました。私が紹介した店にもかかわらず今ではすっかり乗っ取られた感じで、仲間たちは酒の話に花を咲かせながら通ぶりを発揮して盃を傾けていました。

 私はこの店が日本酒専門の店でありながら、この店で酒を飲んだことがありません。私がこの店に入ると女将さんも大将も「はい若松さんには大吟醸キリンビール」などといってビールを出してくれたものでした。そのビールさえも止めたのですから、「はい若松さんには泡の立たない大吟醸ウーロン茶」などと冷やかされました。

 それにしても若い人は元気です。一次会で2時間半、日本酒とビールと焼酎をまるで三種混合のように鱈腹飲みながら、二次会では冷酒をコップに並々ついで飲むのですから、羨ましい限りです。ある人から聞いた話ですが、受け皿の上に乗せたコップに表面張力で盛り上がったように注がれた酒を飲む姿で酒飲みかどうか分るそうです。コップに口を持っていって飲む人はまず酒飲み、コップを手で持って口に運ぶ人はそれほどではないそうです。受け皿に零れた酒を飲むのもまた通の飲み方でしょう。この店の女将さんや大将は酒の注ぎ方が実に上手く、神業かと思わせるほど零さず表面張力いっぱいに注ぎ分けてゆくのです。

 酒に酔った人と私のように飲めない人とでは話の歯車が合うはずがなく、もう一次会で同じことを繰り返し言う人がいます。「ああこの人は酔ってるな」と思っても、それを言っちゃあお終いよ」なんてところで適当に話を合わせるのですが、女性も参加しているのでそろそろおいとまをと二次会2時間のコースは割り勘を払い店を後にしました。そういえば最近はやたらと100円パーキングが増えて何かと便利です。2時間で600円ですから手ごろな値段です。同じ方向へ帰る事もあって主任さんを助手席に乗せ、途中で降ろして11時30分に無事帰宅したのです。少々料理の食べ過ぎ、ウーロン茶の飲み過ぎで腹が張っていましたが、これも大切な付き合いだと楽しい語らいの時間を思い出しつつ、今日届いた手紙やメールに目を通しながら、長かった一日が終わりました。

  「久々の 二次会楽し ウーロン茶 酔った気持ちで 歌まで歌う」

  「受け皿の 上のコップに 並とつぐ 手より口先 グイと飲み干す」

  「酒下火 言うけど酒が こんなにも あるのか棚の 銘柄感心」

  「若松さん 隣の席の 女から 突然声を かけられドキドキ」

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shin-1さんの日記

○涙の訳

 今日は私が代表運営委員を務める「えひめ地域づくり研究会議」の2ヶ月に一回の定例運営委員会がありました。結成以来19年も続いている地域づくりでは県内では老舗のような団体ですが、近年の社会環境の変化とりわけ市町村合併によって取り巻く環境も様変わりして、もうそろそろ私たち老兵は去らねばならない時期にきていることを実感しています。今日の会合は今年度の総括と20周年を迎える来年度の取り組みの道筋をつける大切な会と位置づけて終始熱心な議論がなされました。

 今日の会合のもう一つの目的は、えひめ政策研究センターに四国中央市から出向して研究員をしている鵜野さんの研究発表と送別会が予定されていて、いつもの運営委員会とは少し違った雰囲気でした。私の司会進行で運営委員会を終わったのは17時30分、いよいよ鵜野研究員の発表です。鵜野研究員はこの2年間センター研究員として県内外の先進地やまちづくり人の所を回って様々な勉強をしてきましたし、最後の一年は研究会議の事務局としてお世話をしてくれました

 彼の発表は予定された通り20分の時間でしたが、さすが2年間の研修を積んだだけあって、要領を得たものでした。まち・町・街・地域などで表現される「まちづくりとは一体何か」という基本を探して彼が見つけたものは「まちづくりとはまちと向かい合う姿勢」でした。「ややもすると頭では理解でき、口では分ったようなことを言うけれど、それは単なる評論家に過ぎない。本当のまちづくり人は両論家ではなく実践家である。今日から自分は実践家としての道を歩むことを宣言する」と最後は力強く結ばれました。

 今日の彼の発表を聞いて感動したのは、彼の20分の発表の締めくくりの頃には感極まってウルウルになったことです。多分発表の過程で様々な思い出が去来したのでしょうが、参加した運営委員も思わず貰いウルウルでした。涙を流すほど感動した彼の松山での2年間は、これまでの自分の人生ににはなかった体験だったかも知れません。またひょっとしたら彼の人生にとってこの2年間の松山の暮らしは遠回りだったかも知れません。でもこの体験、この遠回りが本当の宝物になるのです。

 彼はもう一週間もすれば住み慣れた松山を後に四国中央市へと帰って行きます。この2年間で愛媛県内も70市町村から20市町へと大きく様変わりしました。時代の流れの早さ変革の大きさに驚くのは、自分のふるさとに帰ってからでしょうが、大きく成長したことに自信を持ちしっかりと大地に足をつけて頑張って欲しいものです。ただ謙虚さと冒険心という二つの道具を使い分ける技量だけはくれぐれも忘れないように・・・。

  「旅に出て 外からふるさと 観察し それを土産に 桜咲く中」

  「人生は 芭蕉に似たり あっちこち 回り道して 糞と小便」

  「極まって 脳裏に浮かぶ 思い出が 涙となって 流れ出てくる」

  「去る人が いると思えば 来る人も だから世の中 帳尻合って」 

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shin-1さんの日記

○帽子の行方

 私は帽子が大好きです。ですから外へ出るときは帽子を被る習慣があります。しかし帽子は家の中へ入ると脱がなければなりませんので時々忘れておいとますることがあります。昨日親類へ新彼岸の線香を手向けに行って家を出てから気がついて、再びその家へ立ち寄ってしまいました。ものを忘れるのは今始まったことではないのですが、これも歳のせいだと諦めています。

 私の帽子好きは妻も承知しており、家を出る時「お父さん帽子は」、家に帰った時「お父さん帽子は」といつも注意をしてくれるのですが、「あっ、忘れた」が何度もあるのです。その都度「帽子くらいはまあいいか」なんて諦めるものですから随分と紛失し、その都度新しい帽子を買ってもらいます。昨日数えてみましたら何と私の帽子は10個を上回り、農作業用の麦藁帽子などを入れると数え切れないほどあるのに驚きました。その殆どは無造作にあちらこちらへ置かれていますが、それでも愛用と呼ばれるよく被る帽子は帽子掛けに掛けていつでも間に合うようになっています。

 今気に入って被っている帽子は昨年カナダ旅行に行った時妻が買ってくれた野球帽です。濃紺の生地に前はCDのデザイン文字、後ろには英語でCANADAと刺繍されています。お気に入りといってもいい被り具合です。

 私にはもう一つ被らない帽子があります。帽子を整理する度に妻から「こんな古臭い帽子は捨てたら」と言われている帽子です。それは北極まで歩いていった冒険家河野兵市さんが双海に来た時に貰った見るからにみすぼらしい帽子です。何処にでも売っているような安い帽子ですが、彼のサインが入っているのでどうしても捨て切れません。旅の途中で死んでしまった彼のことを思うと胸が痛くなるのです。彼とはそんなに長い付き合いではなかったのですが晩年、シーカヤックの大会が双海町である度に出会い、夢を語った間柄だけに何故か思い出の一品として大切にしまっておきたいのです。

 酒を飲む度に忘れた帽子、船から強風にあおられて海の藻屑と消えた帽子、破けて捨ててしまった帽子、

未だに使いもしないのに箪笥の中で眠っている帽子、あなた名前を書いている帽子を下さいと言われて譲った帽子、勿体無いと捨ててた帽子を拾って洗濯して今も愛用している帽子などなど、帽子にはそれぞれの思い出がいっぱい詰まっています。私の体を直射日光から守ったり、かっこよく見せたりした帽子の数々は

今も私のよき思い出です。

  「禿白髪 隠すつもりも ない帽子 被って鏡に どうだ格好」

  「被らない 思い出帽子 家の隅 しまって六年 いつかは処分」

  「麦帽子 恋し季節に なりました 親父早くも 帽子変えてる」

  「いい帽子 褒められカナダ 持ち出して 得意満面 相手渋顔」

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shin-1さんの日記

○母ちゃんの夢を見ました

 昨日の夜母ちゃんの夢を見ました。私のような田舎育ちの人間は母のことを都会の人のようにお母さんとか母上なんて格好よく呼ぶことはせず、物心ついてから死ぬまで「母ちゃん」と愛情を込めて呼んでいました。その母ちゃんが昨晩夢に出てきたのです。夢に出てきたシーンはお節句、母ちゃんがせっせと巻き寿司を巻いたり羊羹を作っていました。多分4月3日の節句弁当を作っている光景だったと、夢から覚めて思いました。私たちが小さい頃は戦後の物の不自由な生活でしたから、盆や正月といったハレの日はご馳走が食べれるとあって何日も前から指折り数えてその日を待ちました。特に節句は格別で重箱に巻き寿司とオカズが2段重ねで自分だけの弁当が作られるのですからこれ以上の喜びはありません。

 私たちが寝ている夜の間に母は台所に立って様々な料理を作っていました。朝になると気のあった友達が数人迎えに来て、風呂敷包みの弁当を提げて歌いながら山道を登り、数日前から作っておいた陣地のような所で弁当を開けるのです。一斉に開けた弁当を見てみんなの口から歓声が上がり、母ちゃんに感謝しながら美味しそうに食べたものでした。その弁当の美味かったことはこの歳になっても

忘れるものではありません。

 母ちゃんが亡くなったのは2001年10月4日のことですからもう既に5年余りが経過しています。私の人生で最も悲しかったことはと問われたらやはり母ちゃんの詩を思い出すでしょう。私の誕生日の明くる日に80歳で亡くなったのも何か因縁めいていますが、亡くなったはずの母ちゃんが時々夢に出てくるということは、私の心の中に今でもしっかりと生きているということでしょう。死んだ後に比べれば母ちゃんが夢に出てくる回数は極端に減って、最近は殆ど夢への出演がなくなっていましたが、夢から覚めた今朝は改めて仏壇に向かい線香を手向けて祈りました。

 「心が安定していないと夢を見る」のだそうです。そういえば度々夢を見た若い頃のように夢はみなくなりました。その文歳をとったのか心が安定しているのか分りませんが、次に母ちゃんが夢に出てくるときは必ずセリフを忘れないようにしたいものです。どんなセリフを用意しようかとふと思いました。「母ちゃんみんな元気だよ」「父ちゃんも母ちゃんが死んでから寂しそうだけど何とか元気だよ」「孫も元気、一心が結婚しました。いい嫁さんです」「母ちゃんがせっせと耕していた池久保のみかん畑には人間牧場を立てました」「もう直ぐお節句です。母ちゃんの巻き寿司を思い出しました」なんてセリフだろうなあ。

  「母ちゃんが 巻き寿司巻いてる 夢を見た 節句間近な 春の眠りで」

  「一言も 言葉交わさず 目が覚めて 線香手向けて 母への祈り」

  「ゴミを出す 通りかかった 野良犬も 親子仲良く 畑中ゆっくり」

  「今度見る 夢の続きは セリフ言う つもりで用意 言葉数々」

 

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○わが家に何とサウナ風呂

 わが家の長男は建築設計事務所に勤めています。ゆえに住宅の新築に際し、古い家の取り壊しや改造で処分に困るものもあって、捨てればゴミ、利用すればお宝的なものを知人や友人から譲り受けることがあります。先日も知人から家が狭くなったとかで畳一畳ほどのサウナ風呂は要らないか相談がありました。家の何処江置くか分らぬまま即答を避けておりましたが、息子はトラックを借りて昨日、雨の中をシートに包んで貰って来てしまいました。さてこのサウナの置き場所について妻と私と長男の意見が微妙に違ってひと騒動となりました。妻は正直な話電気代も要るし家の中には置きたくないと言っていましたが、私と息子は脱衣場前の廊下の隅に置くことで妻を押し切り、家族総出で裏の窓から入れました。結構座りもよく近いうちに火入れを行って試してみたいと思っています。何せ低音サウナですので余り効果は期待できませんが、それでも妻のダイエットには最高だと持ち上げています。

 只今温泉に凝ってる私は暇があれば時々温泉に行きます。目的は温泉にあるサウナ風呂で汗を出し水風呂で体を引き締める快感がたまらなくいいのです。したがって妻と一緒に温泉に行くとカラスの行水だと言われ僅か20分程度で湯から上がっていたのですが、今は約1時間半もたっぷり楽しむことができるようになりました。どちらかというと風呂が好きでなかった私がこの歳になって台の風呂好きとなり、えらい変身ぶりに周りの人は驚いています。もしこのサウナがサウナと呼ばれるに相応しい働きがあるなら、お金を出して温泉に行くこともあるまいと、私も妻も淡い期待を寄せていますが、まあ期待外れにならないようにします。わが家にサウナが入ったと言う話は瞬く間に近所に住む姉の所にも伝わり、早速見学に来ました。話ほどのものだったのか、あまり感心した様子もなく帰って行きました。

 山の上の人間牧場に五右衛門風呂はできるわ、自宅にサウナ風呂はできるわで、わが家はちょっとした話題の震源地になっています。昨日も温泉で会った下灘の人から「黙って見るのは失礼とは思ったのですが、先日集落で恒例の歩け歩け大会があった折、みんなであなたの別荘を見学に行きました。中々いいですね。私たちもお金ができたらあんな別荘を持ちたいものです」と言われました。「別荘ではなく人間牧場です」といくら説明しても皆さんは「別荘」としか呼んでくれません。また「別荘を作るのにはお金の余裕があるから」も間違っていて、「あれはまtづくり運動の拠点です」と幾ら言ってもまったく通じません。仕方がないので「はいはい」と相槌を打っていますが、一度はびこった間違った情報は田舎では中々払拭できないものだとしみじみ思いました。

  「別荘を 建てたというが 羨まし お金持ちだと 思われらしく」

  「サウナ風呂 俺の家にも 付きました 汗を流して 妻は痩せるか」

  「山の家 人が来るのも良いけれど 啄木鳥までが コツコツ叩きぬ」

  「長男の お陰で家は 狭くなる それでも何か 違う世界が」

 

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