shin-1さんの日記

○妻がパソコンを始めました

 毎日あくせくと働く妻にとって、「そんな余裕はありません」と思っていたパソコンですが、職場でパソコンをいじくる必要に迫られたとかで、急遽パソコンを習うことになりました。最初は使い古しのワープロで練習していたのですが埒が明かず、ついには私の古いパソコンを居間の台の上に置いて練習する事になったのです。しかも何たることか私の指導の下にです。正直言って私も人に教えるような基礎的なことは何一つ学んでいないので、「文章が打てたらいいわい」くらいな軽い気持ちで始めたようです。ところがところが最初からつまずき、今日は始めてから間もないこともあって「お父さんこれはどうするの」「お父さんあれはどうするの」とうるさくて適いません。「お前のお父さんではない」と言ってやりたいのですが、私がパソコンを始めた頃もそうだったと思い起こしてその都度手取り足取りの指導です。しかし世の中は変わったものです。私の妻が、そして私がパソコンをいらう時代になったのですから・・・・・・。

 ところで妻がパソコンを習うと言い出してふと不安になったことがあります。それは私が大ぴらに書いているブログに妻の悪口を随分書いているのがいつかはバレるということです。まあ私のブログを読めるようになるにはそれなりの修行が必要でしょうから、当分の間は取り越し苦労かもしれません。でも少し心を入れ替えて妻への美辞麗句も考えねばならないでしょう。

 妻に渡したパソコンはウインドウズ98です。私のパソコンはウインドウズXPで私の方が進化をしています。間もなくウインドウズの新しいソフトが売り出される予定だったそうですが度重なるウイルスの進入に対応するため年末まで延期されるということをニュースで聞きました。私には関係のない出来事かも知れませんが、妻のパソコンを見て時代の流れと進化の早さを実感しました。

 妻は家計簿をつけています。ノートに線を引き書いているのですが、一度パソコンで家計簿を付けたらと勧めたことがありましたが、長年やっていることだし領収証のつづりの関係もあるのでと、考えを変えませんでした。今日その話をしたら「やってみようかしら」なんて話をしていました。わが家は農業簿記をやる必要のないものですから、暮らしにパソコンを利用しなくても別に困りませんでした。そのことで対応が遅れたことを少々悔やんでいます。でもこれからでも遅くはありません。しっかりと勉強して目に見える家計のやりくりをして欲しいのです。もしも、なんてことは考えたくありませんが、もしも妻に何かが起こったら私の家は何が何処にあるかさっぱり分らないのです。せめてデーターに出来るものはしておくように妻と話しました。

「お父さーん。ちょっと来て」。向こうの居間からまた妻の催促です。「何ぞー、わしは忙しいので今は手が離せない」。当分の間はこんなイライラ会話が続くことでしょう。わが家は長閑です。

  「その歳で いえいえ歳ではありません パソコン習う 今が適期と」

  「家計簿も パソコン対応 しなければ 今日の覚悟は いつまで続く」

  「パソコンを 習うと俺の ブログ読み 夫婦喧嘩の 基になるかも」

  「メル友の 女性が増えて にんまりと 何で笑うの 妻には内緒」

 

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○捨てる勇気

 61年間も生きていると、身の回りには病気や贅肉も含め色々なものが蓄積されています。勿論その中には長い時間をかけて培った人間関係や財産までも含まれているのですが、人間は得てして苦労をして手に入れたものは捨て難く、むしろ守ろうとするものです。それは動物的本能と呼ぶもので、動物が自分の産み育てた子供を外的から守ろうとする仕草や手に入れた獲物を相手に取られないように囲い込むことも動物本来のDNAがなすことなのでしょう。動物の一種である人間もこれと同じような行動をとるのは、天下りしてなお現職の頃の影響力を誇示しようとするお役人の姿を見れば明らかで、私たちの目から見ると哀れすら感じます。

 「捨てる勇気」は中々持てないものです。役職も権力もそれなりの魅力があって、ひれ伏すような態度をとる周りの状況に慣れてくるとその快感が増幅し、次第に胸を張る人を私は何人も見てきました。「あんな人にはなりたくない」と思っていても、いざ自分がその地位になりと同じような行動をとるのも悲しいかな人間の嵯峨なのでしょう。

 このところ毎日のように地元新聞では○○市人事異動の名前がこれでもかと言わんばかりに新聞紙上を賑わせています。役所に勤めた経験のある私のような者は虫眼鏡を片手に詳しく人の異動を目で追うのですが、普通の人にとってはなんら関係のないこれらの異動をこうも大きく取り扱う必要があるのか、疑問を感じずにはいられません。普通の考えだと「よくもこんなことで新聞を買ってもらうな」「もっと載せることがあるのでは」「新聞をつくる人の怠慢では」なんて勘ぐるのです。これは明らかに新聞の馴れ合いで、前例踏襲、「捨てる勇気」がないからだと思います。

 かく言う私だって「捨てる勇気」を持つには大変苦労しました。自分がつくったと自負する「夕日」などは、自負や想いの丈が高いだけに常に未練がつきまとい、さいなまれたりもしました。でも「捨てる勇気」を持とうと努力したお陰で随分楽になり、今では捨てた身軽さが新たなチャレンジへと変化して充実した人生を送っています。

 世の中にはたとえそれが煩わしくても家族のように捨ててはならないものもいっぱいあります。「捨てる勇気」には「捨てるものの見極め」が必要なのです。捨ててから「しもうた。捨てるんではなかった」t悔やむものもたくさんあります。でもその時は違う拾い方をして大事に育てればよいのです。

 捨てて捨てて捨てまくったこの一年、さて私には何が残っているのでしょうか。残った捨て難きものの発見もまた意味があるのかも知れません。世の中は+か-、白か黒、入力と出力、絶えずバランスを保つように出来ています。捨てた分だけ入力の容量が増えました。さあどんどん入力します。

  「捨てた分 入る容量 増えました 退職区切り つけて新鮮」

  「前例が 無駄な結果を 生んでいる 気がつき直せ 勇気ふるって」

  「地元紙の エゴがそこここ 見え隠れ これも大事と 見栄を張るけど」

  「捨ててみて 気付く値打ちは こんなもの いいじゃないかよ 素顔で生きろ」 

  

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○桜の足踏み

 数日前に開花宣言が出された桜ですが、私の町の桜は県下の開花速報に比べると毎年4~5日遅れて咲くようです。毎年「何でだろう」と考える私の浅知恵によると私たちの町は海に面していて、冬になると北西の季節風が吹くのです。この風は半端ではなく松山などへ行くとそよ風程度だのに、双海町へ帰ってみると木々を揺らすほどの風が吹いているのを何度も経験しました。多分東シナ海の風が関門海峡を越えて周防灘、伊予灘と通りながら増幅するのではないかと思われます。この季節風が桜の樹に当り花芽の殻を乾燥させて硬くする桜の冬眠本能なのでしょう。

 昨日松山へ行ったついでに温泉につかりました。温泉はあちらこちらの人が集まりますので、やれ宇和島の桜は満開だとか、松山道後はまだ三分咲きだとか話のネタは桜と甲子園で開かれている高校野球に集中しているようです。

 昨日は昼頃から寒気が流れ込んで日本列島も大荒れ、和歌山県では竜巻が発生し雹まで降ったそうです。東北や北海道は冬に逆戻りして雪が舞っているそうです。海岸の国道沿いに植えられている桜も、やっと冬篭りから目覚めて咲き始めたというのにまるでブルブル震えているように見えました。でも咲き始めると桜は枯れ木に花が咲くという表現がピッタリで一気に花を咲かせます。満開も時間の問題でお節句には綺麗な花の下で花見ができることでしょう。昨年までは桜が咲く季節の移ろいなど忙しくて何処吹く風でしたが、今年は行く春をしっかりと体感したいと密かに思っています。ですから桜の足踏みもさして気にならずむしろ楽しいのです。

 昨日の午前中、地域政策センターの鵜野さんが転任のあいさつ代わりに人間牧場へやって来ました。スライドする窓を開け心地よい風を受けながら二人で2時間程四方山話に花を咲かせました。私設公民館「煙会所」を使っての三十年が終わり、人間牧場の「水平線の家」へのバトンタッチは私自身への挑戦であることや、人間牧場の夢など他愛のない話でしたが、彼の人生もまた私がそうであったように、自分探しの旅ではないかと思いました。彼は本を3冊持参していました。多分水平線の家で読書をしたかったのだろうと思いますが、私の日程の都合でそれも適わず下界に下りて食事を済ませて帰って行きました。僅か2年間で四国中央市へ帰り市の広報を担当するそうです。忙しい仕事が彼を待ち受けていると思いますが、自分を見失うことなく2年間の成果を発揮していい仕事をして欲しいと願っています。

  「風に揺れ 寒そう桜 二三輪 間もなく花の 衣まといぬ」

  「去る人の 背中に受けし 春の風 優しく撫でて 通り過ぎゆく」

  「この花を 六十一回 見て過ごす 後何回か 指折り数え」

  「お茶請けに ピンク可愛いや 桜餅 花より団子 ホーホケキョ」  

[ この記事をシェアする ]