shin-1さんの日記

○新聞のスクラップ

 私は若い頃から新聞のスクラップをやってきました。特に注目する記事があると切り抜いて大学ノートに張ってゆくのです。本とてまともに買えない自分としてはこれが最大の武器になっていた頃がありました。しかし何年か前100冊にものぼるそのスクラップブックを畑の隅で焼きました。当時の心境がどういうことだったのか今は思い出せませんが、焼いたことですっきりしたことを思い出しました。また頂いた名刺もその都度処分をしてきましたので、私の手元にあるのはこの一年間で貰ったものが殆どです。

 昨日書棚の整理をしていて膨大な新聞スクラップを見つけました。それは双海町や自分に関する新聞や雑誌の切抜きで、何年か前に焼却処分したものの中からより分けて取っておいたものなのです。その数やこれまた沢山でこれはさすがに処分することもできず、妻に頼んでダンボール箱を用意してもらいその中へ入れて書棚の上へしまいました。暇が出来たらこの整理をと思うことの繰り返しがまた段ボール箱とは情けない話ながら、この使い道を何とか考えなければならないと思っています。

 一つの案は水平線の家の板張りの壁に貼り付ける方法です。そうすれば来た人が懐かしがって見てくれるかもしれません。先日逆手塾の下見にやって来た和田さんはこの板壁は落書き用にした方が楽しいと発案してくれたのですが、息子に大反対されそうなので今のところは思案中です。もう一つはオーソドックスながらスクラップブックにファイルして保存することです。これは暇さえあれば出来ることですが、今の私には板張りの壁に貼り付ける案が一番と考えています。

 もう一つこれまた膨大なビデオテープの処分です。今のところ煙会所の倉庫にしまっていますが、これも磁気テープなのでDVDにダビングするとなると、これまた専用の機械と手間が必要ななってきます。

 若い頃から青年団やまちづくりなど社会活動に携わってきた私には今のところ足跡は何も残っていませんが、記事のスクラップとビデオテープは何とか整理をしておかないといけないと思っています。この4・5日ブログにこんな心境の変化ばかしを書くものですから、読んだ人たちが心配して「若松さんの様子が少しおかしい」と話しているそうです。言われてみれば自分でもおかしいくらい身辺整理が必要だと思うようになっているのです。でも決して頭がいかれたわけではないので悪しからず・・・・・。

 もう一回運べば本の移転も終わります。三寒四温の季節のめぐりで、今日の暖かさと一変して明日は真冬並みの寒さと天気予報が入りました。風邪など引かれませんように。

  「長年の 新聞切り抜き スクラップ 捨てるは惜しい 再び箱に」

  「新聞や テレビ取材で 夕日売る 人のフンドシ 何度も使い」

  「人の目に ついて値打ちの ピーアール 板壁張って 読んでもらおか」

  「板壁に 落書きせよと 友が言う 俺は古いか それはどうにも」 

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shin-1さんの日記

○日本人の美学

 日本人の美学はあえて自己主張しないことを教えているように思います。様々な矛盾があっても文句を言わずただ黙っていることが美学とされてきました。私のように役場職員でありながら夕日などを地域資源にまちづくりをしてきた人間は、急激な変革を望まず安心安全を求める周りの人から標的にされ、私の自己主張は何度もその美学のために無視されました。無視されるだけならまだ堪えられますが、自己主張をしない鬱憤は「ひそひそ話」という噂話として暗黙の威圧をかけるのです。「あなたのことを思って言うのですが、みんながこんな噂をしよります」と、私を気遣って耳打ちしてくれるこの善人ぶった人に何人も出会ってきました。「みんなとは誰?」と問い返すと「噂だから」ととぼけるのですが、この「みんな」というのは自分の中で群集を味方に引き入れようとしているだけなのです。

 自己主張するときついです。言ったことはやらない訳にはいきませんので行動する、するとまたその行動を批判され結局は多少の失敗は「それ見たことか」「言わぬことではない」と増幅され立ち上がれなくするのです。

 欧米人のように小さいころから自己主張を学び納得できないことに対しては、相手にどんな権威があろうとも意見を言い、年齢に関係なく自分のライフスタイルを貫く姿は日本人には残念ながらありません。故に「丸く治める」という美学が失敗経験をしない人間を作っているのです。自己主張をしない人は自己活動をしない人に繋がります。何もしないから何も失敗をしない、遅れず慌てず休まず仕事せず辞めない、良い人と呼ばれる人が本当によい人なのでしょうか。

 最近「ガンと戦う」という本を読みました。昔のようにガンを本人に知らせない時代は終わりました。「がん告知」や「インフォームドコンセント」などが医学会で話題になっていますが、日本人の自己主張しない美学がガンをのさばらせているというのです。ある調査によるとガンを本人に知らせた時、①ガンに対し闘争心を持ち対応した人、②病気であるはずがないとはなから否定した人、③冷静に受け入れた人、④絶望感を持った人それぞれでしたが、生存率が最も高かったのは①の闘争心を持った人だったそうです。つまり自己主張しない日本人はガンに弱いという結論です。もう少し言いたいことをいう日本人になりたいものです。

  「ガン告知 されたら自分 どのタイプ 俺は①だと はっきり言える」

  「美学にも 色々あるが 陰口は 美学と言えぬ だから混乱」

  「何もせず 何も言わずに 人生を 終わるあなたで いいのでしょうか」

  「風なびく 柳の枝の 吹流し カエル飛びつく 俺もあのように」

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shin-1さんの日記

○「読めぬこと」はいいことなのでしょうか

 昨日の交流会で、佐賀関の渡辺さんが、「若松さんあなたのブログにはよくお父さんや奥さんが登場しますね」と言われてびっくりしました。そう言われたので直近の自分のブログを読んでみましたが、確かに親父や妻、それに孫までもが度々登場しているのです。私はハッと気付きました。親父も妻も孫もブログが読めないことを発見したのです。妻はその気になれば職場のパソコンを使えるので読めるかもしれないし、妻の仲間の中には私のブログを読んで感想を言う人もいますから、絶対読めないのは親父と孫くらい、いや孫も両親が殆どを読んでいるからまったく無縁は親父くらいなものでしょう。

 読まないということは何を書いてもいいと思う安心感が私の心にあったかも知れないと思うと、急に不安になってきました。元々妻を登場させることはしない考えでした。しかし私が出版した自著本の中にも僅か1.2度いい訳程度に登場した場面を見て友人が、「若松さん、あなたが今日あるのは奥さんのお陰ですからもっと奥さんのことを書かなくては」と不満の忠告を受けました。確かにそうだなと認めていたので、罪滅ぼしのつもりで書き始めたのですが、「どうせ妻は読まないだろう」と少々鷹を食っていたようです。

 妻が私のブログを全て読んだらどういう感想を持つでしょう。まず確率的に高いのは「お父さん私のことは恥ずかしから書かないで」と止められるでしょう。次に予想されるのは「朝早くから夜遅くまでパソコンの前に座って、手っきり仕事をしているのかと思っていたら、私のことを書くなんて、何でこんな恥ずかしいこと書いたの」でしょう。けなされても褒められることは絶対にないと思いました。挙句の果ては「消して」とか口を利かなくなる夫婦喧嘩のネタになりそうです。この上は親父も妻も孫も時効が成立するまでは読まないことを願っています。時効とは多分この記事を書く作業を当面の目標である1年、つまり今年の私の誕生日くらいまででしょうか。渡辺さんは私にいらぬことを気付かせました。でも渡辺さんの一言がなかったら親父も妻も孫も私の餌食になる所でした。少しだけ親父と妻と孫を意識した文章を書きますので許してください。

 自分のブログを読んで気がつくことがもう一つありました。それは私が昔(まだ一年なので昔といえるかどうか)勤めていた役所へのメッセージです。それは一市民の立場になって気付いた役所の非常識を常識という形で考えて欲しい、いわば「こうしたら市民が幸せになります」という提案なのです。この文章も時には辛辣に、時には優しく書いているのですが、情報のメッカといわれる役所なのに反応はまったくといってよいほどないのです。私はこのことそのものが非常識だと思っています。よく役所の偉い人はあいさつで「市民の声なき声に耳を傾け」なんて歯の浮くようなあいさつをしていますが、市民のブログは仕事中に盗み読みするくらいで、そのブログに書き込みなどしないのですからこれも困ったものです。まあ腹を立てる私が悪いと思って下さい。

  「ブログ読み 忠告意見 下さって なるほど感じる 今から直す」

  「読んだのに 読まないふりし やり過ごす これも問題 声は届かず」

  「このブログ 妻孫親父 読めぬのを 初めて意識 友の一言」

  「顔洗う 前に座って ブログ書く 私の日課 変化しました」 

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