○私は現代人ではないのか 私は昭和19年生まれですからもう随分古い人間になりました。だって学校教育では高校受験が9科目の時代だし、学校のトイレも全て溜め置き式でお釣りのくるような暗いものでした。また今では当たり前となった蛍光灯やテレビも小学校では殆どありませんでしたし、カレーやハンバーグなど余り喰った記憶がありません。ましてやインスタントラーメンに初めてであったのは水産高校の練習船で遠洋航海に行った時でした。今では信じられないようで本当の話を子どもにすると「うそー」などと、子ども独特の返事が返ってくるのです。 勿論パソコンも携帯電話も電卓もなかった時代は、それはそれは長閑なものでした。それでも、いやその方がなんぼか幸せでしたし、人の絆も強かったように思えるのです。 「おいおい若松さん。そんな昔のことを思い出して、あんたも歳だねえ」なんて言われそうなのですが、それでも民俗学を志す私としてはどうしても少年の頃の暮らしを何かの形で残しておきたいといつも思っているのです。私は「現代に生きてる現代人ではない人間」というのが結論です。古代人なんてそんなに古い人間ではありませんが、よくよく考えてみると日本が急激な成長を遂げたのは昭和30年くらいからで、たかだか半世紀くらいしか経っていないのです。正直言って今のようなスピードの速い世の中に生きていくのは辛くて苦しい感じがします。私の友人や知人にストレスからくるうつ病が多いのもそのためではないかと考えています。 昔交通標語に「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」という名文句がありましたが、まさに日本は急ぎ過ぎだし、もう少しスローな生き方はできないものでしょうか。本来日本人が日本固有の文化や文明として世界に誇ったものは、古いという一言でなくなろうとしています。自治会長ですので毎月不燃物回収の世話をしていますが、不燃物の中にはまだ十分使えるものが山のように出てきます。このままだと日本は駄目になるかもしれないと思うのは私だけではないと思うのです。 高校受験の季節がやってきました。私たちの時代のように9科目で勝負したらどんなにか助かる子どもがいるのになあとも考えます。人生にとって数学や算数は必要でしょうが、音楽や職業家庭などは生きる力とでも言う大切な同語だと思うのです。 「文部省と農林省の言うことの反対をすればいい世の中になる」とは名言かも知れませんね。 「俺たちは九つ科目で救われた今の子どもにゃ音楽なんぞ必要ないのか」 「あの音色無くして分るハーモニカ今は私の大切持ち物」 「髪の色わざわざ染めて栗色にここは日本だ黒髪素敵」 「早過ぎてとかくこの世は住みにくいストレス爆弾爆発寸前」
shin-1さんの日記
○わが愛する美川町・その②
私は今回の双海町の視察に当って美川町の人たちに、「合併後のまちづくり」というタイトルをつけてお話をしました。フェリーで三津浜に着くとバスに乗って双海町へやって来ました。その後役場の一室を借りて合併後の双海町の現状をつぶさに話しました。合併によって行政サービスはどうなったか、住民の負担はどう変化したか、旧双海町と市役所がどんな関係にあるのか、夕日によるまちづくりの継続はどうなっているか、役場周辺の変化はなどなど、新しい伊予市なった11ヶ月を微細に検証しました。みんな驚いていました。合併のすりあわせで聞いた夢のような話と双海町のの目の当たりにした現実の落差に驚き、まちづくり推進協議会の規約案や役員の人選案など、間近に迫った3月20日の合併前の本当に緊迫した中で、美川町の自立に向けたマンパワー体制が、何と海を隔てた双海町で目論まれたのです。それは明治維新前夜の寺田屋騒動にも似ていました。まさに双海屋騒動でしょうか。
自治会やまちづくり推進協議会立ち上げに深く関わった総務課長さんと企画課長さん、それに若い担当者は松山の宿舎で夕食を取りながら安堵の胸をなでおろしながら夜遅くまで話し込みました。特に企画課長は今年度末を持って定年退職というこれまたドラマチックな幕引きが目の前の仕事とあって、感慨深げでした。 私は仕事柄、色々なまちののまちづくりについて相談を受けたりお手伝いや助言をしてきましたが、ここまで深く関わった町はそんなにありません。ですから岩国という新しい街に合併し自治体が消滅する美川町への想いは大袈裟な話ですが人一倍持っています。まさにタイトルの如く「わが愛する美川町」といった気持ちです。 国の財政破綻や地方分権から始まった合併のドラマはいよいよ第一幕が終わろうとしています。やがて開こうとする第二幕のストーリーはやシナリオは残念ながら配役さえ決まっていません。多分幾ら住民が頑張っても合併した大きな街に飲み込まれてしまい、双海町のような末路を辿るのかも知れません。でもこの3年間、自治会とまちづくり推進協議会の立ち上げのために努力した美川町は、努力しなかった他の町に比べてはるかに大きな果実をものにしました。
地域審議会を立ち上げた地域では、年に2回程度の会議で団体長が物申し、行政側の「意見を聞いたがお金がない」という形式的に協働と参画の行政になっているの姿が多いと風の便りが聞こえてきます。
私も及ばずながら新しいまちづくりに向かって動き出した美川町をこれからも愛してゆきたいと心に強く念じました。
「自治会ができた直後に大洪水人命財産守れてほっと」
「合併で役場の周りは灯が消えて人も通らぬ事故は減った」
「見ると聞く大きな違い合併後こりゃ大変と頭抱える」
「こんなこと他所の役場で目論んだ数年後には思い出話に」
shin-1さんの日記
○わが愛する美川町・その①
自然や歴史がよく似ていて名前をつけたのか、全国には同じような名前の町がたくさんあり、合併前は同じ名前の町がそれぞれ寄り合ってサミットや協議会を開いて盛んに交流をしていたものでした。しかしその成果も出せぬまま、合併をきっかけにその殆どが解散をしてしまいました。町長や議会、それに町民代表が集まって調印をしたり相互訪問をしていたのが、自治体がなくなると出来なくなるからというのが解散の大きな理由だそうですが、私はその姿を見るにつけ、「ああ行政はお金があるからやったのか」と首をかしげずにはいられません。お金があろうがなかろうが、合併しようがすまいが真の交流を目指していたのであれば、合併後こそこの交流は住民の力で続けなければならないのではないでしょうか。
愛媛県内でも吉田町、城辺町、美川村、中山町、松前町がそれぞれ県外の同じな前の町と交流していましたが、合併しなかった松前町を除けば、それらの町は合併を前にみんなが予算を使って集まり、解散式までやって大酒を飲んで分かれたといいますから理解に苦しみます。
元々姉妹町村は終い町村といわれるように調印だの首長や議員の交流に名を借りたタダの研修旅行ではないかと批判を浴びておりました。殆どが消滅した今はそのそしりはぬぐえない事実となりました。
私は3年前、山口県美川町から合併後のまちづくりについて相談を受けました。「合併後に機能する自治会とまちづくり推進協議会を立ち上げてほしい」とのことでした。現職の教育長でもあったので最初は公式には出来ませんでしたが、2年後に合併する自分の町とダブらせながら職員と知恵を出しながら考えました。私が出向いた講演会は6回にも及び、私の助言と職員の力でまず自治会がモデル的に出来みんなで高齢化に対応したまちづくりを進めるためにフィールドワークや調査を実際に行い住民の発表会もやりました。偶然にも昨年台風で大水害が発生し、自治会が大きな力を発揮できたことで、町民や役員にも自治会の必要性が認められました。 そして昨日、最後の仕事であるまちづくり推進委員会を立ち上げるに当って、みんなで双海町へ研修にやってきたのです。
「姉妹町合併すれば終いですそんな浅はかするんじゃなかった」
「本当は今こそ欲しい友なのに金知恵ないから全てオジャンに」
「風船に夢を吹き込み飛ばしたる美川のまちに菜花生えるか」
「少しだけ涙流して別れたる美川の人よ頑張れ励まし」