shin-1さんの日記

 ○原稿用紙は何故400字詰なのか

? 最近は私のも執筆依頼がたくさん来て、書くことが苦にならない私でも少しうんざり気味です。私は常々思っているのですが、文章が書けて、人の前で話ができて、実践できる人を尊敬していますし、そうなりたいと努力をしてきました。人から見れば随分成長したように見えるそうですが、自分としてはまだまだ文章の表現能力が備わっていないし、話芸だって発展途上の人間です。ましてや実践はこれからの努力次第だと思っています。

 ところで最近は原稿用紙20枚なんて原稿依頼も舞い込むようになって、中々執筆活動も大変です。中には50枚なんてものもあるほどです。今はパソコンで原稿を書くのでÅ4版だと1600字で原稿用紙4枚分くらいの容量にになるようです。 私たちが小さいごろから原稿用紙といえば400字のものを使っていますが、パソコンが出回っている現代でも400字詰にこだわるのは何故でしょうか。

 400字の原稿用紙が使われるようになったのは江戸時代に遡らなければなりません。京都の黄ばく宗万福寺の住職だった鉄眼禅師というお坊さんがお経の本を印刷して刊行するということを決意し、6万枚という大量の木版木を作りました。そのときの木版の字詰が20×20の400字詰だったそうで、これに習って原稿用紙の字詰が決められたといわれています。 私たちは嘘のようで本当の話にただただ驚き、そんなことも知らない凡人は、そのことにさえ何の疑問も持たずせっせと書いているのです。

 原稿書きの依頼には必ず締切日が指定されます。原稿依頼の文章を見て「まだ時間があるな」と思っていたら、案外忘れてしまっていて、催促があってから書き始めることも度々です。昔はファックスもメールもありませんでしたから、書いてもないのに「今半分くらい書いてます」と平気で嘘がつけました。ところが書いた分だけでも先に送ってくださいとか言われるので、今は嘘も滅多にはつけず困ってしまいます。

 それでもいい原稿が締め切りまでに書けて、メールで送るときの充実感はいいものです。

  「締め切りを忘れて原稿書き始め、枚数聞いて五十枚とは」

  「変換の文字校正をせぬままに送った後で気づく大馬鹿」

  「原稿の用紙何故に400字やっぱり坊さん偉い人です」

  「俺の書く文章素敵な本になり不味い内容見場よく感じる」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

 ○カメラに異変

  世の中の殆どが技術革新する中、カメラ業界もアナログからデジタルへ大きな変化を遂げています。フィルムを入れて写真を撮り、写真屋さんに現像に出して出来上がらないと写り具合が分らないというアナログの世界は次第に姿を消そうとしています。カメラ業界の大手は既にデジカメの競争で勝ち組、負け組みがカラー写真のように色分けされているのです。ある大手業者はフィルムやアナログカメラの生産を早々と止める宣言を発表している所もあるのです。 ところが世の中は不思議なもので、最近デジカメに押されて殆ど売れなかったアナログカメラがここに来て、製造中止になるんだったら今のうちに買っておこうと思う人たちが多数出て、ひどい機種は3倍の値段でも買えないという珍現象が生まれているのです。

 私たちの年代はカメラを写真機といっても通用する年代ですから、手元には使い古しのカメラが2~3台あるのですが、もう使わなくなって何年も経っていて、埃とカビにまみれているようですが、この際手入れをしてフィルムを入れて撮って見たいと思っています。

 カメラ大手にミノルタという会社がありますが、ミノルタという会社の社名は「稔る田」だということを知って驚きました。1985年にオートフォーカス一眼レフという、本格的カメラでありながら素人でも簡単に使えるカメラを開発販売して人気を呼んだのがミノルタでした。ドイツ製品が全盛時代にドイツ人技師二人と日本人が組んで会社は設立されましたが創業者の田嶋さんの母親が言った「稔るほど頭を垂れる稲穂かな」の精神を忘れないようにとの思いもあったようです。

 ミノルタはアメリカの宇宙船にミノルタハイマチックが採用されて一躍有名になりましたが、カメラ業界も生き残りをかけて水面下では大変なようです。他人事ではないですね。

  「カメラ屋のウインド何度も通り過ぎ欲しいと思い懐まさぐる」 

  「写真機と言われて分る年代の私の時代セピア色あせ」

  「一眼と二眼の違い分らぬまま時代は過ぎて今はデジカメ」

  「アナログは目で撮りデジカメ心撮る不思議な光景でもはいポーズ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

 ○私は現代人ではないのか  私は昭和19年生まれですからもう随分古い人間になりました。だって学校教育では高校受験が9科目の時代だし、学校のトイレも全て溜め置き式でお釣りのくるような暗いものでした。また今では当たり前となった蛍光灯やテレビも小学校では殆どありませんでしたし、カレーやハンバーグなど余り喰った記憶がありません。ましてやインスタントラーメンに初めてであったのは水産高校の練習船で遠洋航海に行った時でした。今では信じられないようで本当の話を子どもにすると「うそー」などと、子ども独特の返事が返ってくるのです。 勿論パソコンも携帯電話も電卓もなかった時代は、それはそれは長閑なものでした。それでも、いやその方がなんぼか幸せでしたし、人の絆も強かったように思えるのです。 「おいおい若松さん。そんな昔のことを思い出して、あんたも歳だねえ」なんて言われそうなのですが、それでも民俗学を志す私としてはどうしても少年の頃の暮らしを何かの形で残しておきたいといつも思っているのです。私は「現代に生きてる現代人ではない人間」というのが結論です。古代人なんてそんなに古い人間ではありませんが、よくよく考えてみると日本が急激な成長を遂げたのは昭和30年くらいからで、たかだか半世紀くらいしか経っていないのです。正直言って今のようなスピードの速い世の中に生きていくのは辛くて苦しい感じがします。私の友人や知人にストレスからくるうつ病が多いのもそのためではないかと考えています。 昔交通標語に「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」という名文句がありましたが、まさに日本は急ぎ過ぎだし、もう少しスローな生き方はできないものでしょうか。本来日本人が日本固有の文化や文明として世界に誇ったものは、古いという一言でなくなろうとしています。自治会長ですので毎月不燃物回収の世話をしていますが、不燃物の中にはまだ十分使えるものが山のように出てきます。このままだと日本は駄目になるかもしれないと思うのは私だけではないと思うのです。 高校受験の季節がやってきました。私たちの時代のように9科目で勝負したらどんなにか助かる子どもがいるのになあとも考えます。人生にとって数学や算数は必要でしょうが、音楽や職業家庭などは生きる力とでも言う大切な同語だと思うのです。 「文部省と農林省の言うことの反対をすればいい世の中になる」とは名言かも知れませんね。  「俺たちは九つ科目で救われた今の子どもにゃ音楽なんぞ必要ないのか」  「あの音色無くして分るハーモニカ今は私の大切持ち物」  「髪の色わざわざ染めて栗色にここは日本だ黒髪素敵」  「早過ぎてとかくこの世は住みにくいストレス爆弾爆発寸前」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

 ○わが愛する美川町・その②

    私は今回の双海町の視察に当って美川町の人たちに、「合併後のまちづくり」というタイトルをつけてお話をしました。フェリーで三津浜に着くとバスに乗って双海町へやって来ました。その後役場の一室を借りて合併後の双海町の現状をつぶさに話しました。合併によって行政サービスはどうなったか、住民の負担はどう変化したか、旧双海町と市役所がどんな関係にあるのか、夕日によるまちづくりの継続はどうなっているか、役場周辺の変化はなどなど、新しい伊予市なった11ヶ月を微細に検証しました。みんな驚いていました。合併のすりあわせで聞いた夢のような話と双海町のの目の当たりにした現実の落差に驚き、まちづくり推進協議会の規約案や役員の人選案など、間近に迫った3月20日の合併前の本当に緊迫した中で、美川町の自立に向けたマンパワー体制が、何と海を隔てた双海町で目論まれたのです。それは明治維新前夜の寺田屋騒動にも似ていました。まさに双海屋騒動でしょうか。

 自治会やまちづくり推進協議会立ち上げに深く関わった総務課長さんと企画課長さん、それに若い担当者は松山の宿舎で夕食を取りながら安堵の胸をなでおろしながら夜遅くまで話し込みました。特に企画課長は今年度末を持って定年退職というこれまたドラマチックな幕引きが目の前の仕事とあって、感慨深げでした。 私は仕事柄、色々なまちののまちづくりについて相談を受けたりお手伝いや助言をしてきましたが、ここまで深く関わった町はそんなにありません。ですから岩国という新しい街に合併し自治体が消滅する美川町への想いは大袈裟な話ですが人一倍持っています。まさにタイトルの如く「わが愛する美川町」といった気持ちです。 国の財政破綻や地方分権から始まった合併のドラマはいよいよ第一幕が終わろうとしています。やがて開こうとする第二幕のストーリーはやシナリオは残念ながら配役さえ決まっていません。多分幾ら住民が頑張っても合併した大きな街に飲み込まれてしまい、双海町のような末路を辿るのかも知れません。でもこの3年間、自治会とまちづくり推進協議会の立ち上げのために努力した美川町は、努力しなかった他の町に比べてはるかに大きな果実をものにしました。

 地域審議会を立ち上げた地域では、年に2回程度の会議で団体長が物申し、行政側の「意見を聞いたがお金がない」という形式的に協働と参画の行政になっているの姿が多いと風の便りが聞こえてきます。

 私も及ばずながら新しいまちづくりに向かって動き出した美川町をこれからも愛してゆきたいと心に強く念じました。

  「自治会ができた直後に大洪水人命財産守れてほっと」

  「合併で役場の周りは灯が消えて人も通らぬ事故は減った」

  「見ると聞く大きな違い合併後こりゃ大変と頭抱える」

  「こんなこと他所の役場で目論んだ数年後には思い出話に」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

 ○わが愛する美川町・その①

  自然や歴史がよく似ていて名前をつけたのか、全国には同じような名前の町がたくさんあり、合併前は同じ名前の町がそれぞれ寄り合ってサミットや協議会を開いて盛んに交流をしていたものでした。しかしその成果も出せぬまま、合併をきっかけにその殆どが解散をしてしまいました。町長や議会、それに町民代表が集まって調印をしたり相互訪問をしていたのが、自治体がなくなると出来なくなるからというのが解散の大きな理由だそうですが、私はその姿を見るにつけ、「ああ行政はお金があるからやったのか」と首をかしげずにはいられません。お金があろうがなかろうが、合併しようがすまいが真の交流を目指していたのであれば、合併後こそこの交流は住民の力で続けなければならないのではないでしょうか。

 愛媛県内でも吉田町、城辺町、美川村、中山町、松前町がそれぞれ県外の同じな前の町と交流していましたが、合併しなかった松前町を除けば、それらの町は合併を前にみんなが予算を使って集まり、解散式までやって大酒を飲んで分かれたといいますから理解に苦しみます。

 元々姉妹町村は終い町村といわれるように調印だの首長や議員の交流に名を借りたタダの研修旅行ではないかと批判を浴びておりました。殆どが消滅した今はそのそしりはぬぐえない事実となりました。

 私は3年前、山口県美川町から合併後のまちづくりについて相談を受けました。「合併後に機能する自治会とまちづくり推進協議会を立ち上げてほしい」とのことでした。現職の教育長でもあったので最初は公式には出来ませんでしたが、2年後に合併する自分の町とダブらせながら職員と知恵を出しながら考えました。私が出向いた講演会は6回にも及び、私の助言と職員の力でまず自治会がモデル的に出来みんなで高齢化に対応したまちづくりを進めるためにフィールドワークや調査を実際に行い住民の発表会もやりました。偶然にも昨年台風で大水害が発生し、自治会が大きな力を発揮できたことで、町民や役員にも自治会の必要性が認められました。 そして昨日、最後の仕事であるまちづくり推進委員会を立ち上げるに当って、みんなで双海町へ研修にやってきたのです。

  「姉妹町合併すれば終いですそんな浅はかするんじゃなかった」

  「本当は今こそ欲しい友なのに金知恵ないから全てオジャンに」

  「風船に夢を吹き込み飛ばしたる美川のまちに菜花生えるか」

  「少しだけ涙流して別れたる美川の人よ頑張れ励まし」

[ この記事をシェアする ]

hsin-1さんの日記

 ○後継者論

 昨日開かれた「地域の自立を考えるシンポジウム」では、「地域づくりは人づくり」という言葉が度々出てきました。言い尽くされ、使い古された言葉なのですが、この言葉はやはり流行ではなく不易なものといえましょう。人づくりについては時間の関係で、その重要性はわかっていても踏み込んだ議論はされませんでしたが、4次会の席では、酒の勢いを借りた連中が、酒の飲めない私に人づくり議論を盛んに吹っかけてきました。素面の私に酒飲みのみんなが勝てるはずがありません。結局は繰り返しの議論になりましたが、大まかふたつの意見に集約されました。

 ひとつは「いい指導者はいい後継者をつくる」という話です。誰もこの意見には異を唱える人はいませんが、この論法で行くといい指導者は自分の意に適った自分の跡継ぎを世襲のような形でつくるのです。組織も継続し一見いい方法に見えますが、指導者二世は自分の色を出せないまま、一世の小型のような指導者が生まれる危険性を持っています。 もう一つは「いい指導者は去るか死ぬ」という話です。これは私の持論でもあります。わたしも前述のような方法が最も手っ取り早いし、自分がそんな年代になっているのでそんな方法が一番楽だと思います。しかしわつぃのような人間は最早賞味期限の切れたゴミなのです。例えば夕日をテーマに私はまちづくりを推進してきましたが、私が求める本当の指導者は夕日の伝承よりも夕日を否定する人が欲しいのです。つまり私が朝日より夕日を選んだように既成概念を打ち破る指導者を求めているのです。時代は急速なスピードで進んでいます。ゆっくリズムの時代を生きた私たちのようなパソコンで情報の発信できないような指導者と次代が求める指導者とは明らかにその量と質が違うのですから・・・・。

 ごっくん馬路村で知られる東谷さんと私のこうしたバトルに参加者も戦々恐々の面持ちで見守っていました。東谷さんは組織人ですから自分の後継者を心配しています。しかしいくら心配して3代続いた家がないとか、お店と屏風は大きくなったら倒れるの例えを述べながら、延々と話が続きましたが、拙論は人それぞれなので持ち越しました。ポールラッシュの言葉を思い出しました。「私はただ消え去るのみ。もう道は開けた。心配ない」

  「俺の後誰が継ぐのか分らない居なくなったら人は生まれる」

  「くたびれて賞味期限の切れた俺棚から卸してゴミの中ポイ」

  「酒飲みと飲まぬ私が一騎打ち口角飛ばしてどちらも利あり」

  「ちゅうちゅうとネズミの如く言う方言高知男はさすがにでっかい」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

 ○荒川選手の金メダル トリノオリンピックも終盤になって、メダルゼロの日本に朗報が飛び込んできました。フィギアスケート女子の荒川選手が何と金メダルの快挙を成し遂げたのです。フィギアスケートには安藤、村主、荒川の3選手がエントリーしていましたが、荒川が1位、村主も4位となりました。荒川選手は伊藤みどり選手が銀メダルを取って以来、しかもアジアでは初の金メダルだそうで、日本中が彼女の華麗な演技に酔いしれました。特に足を柔軟に上げたりまるでサーカスのような背中を逆に反らせて滑る妙技は、彼女しか出来ない素晴らしいものでした。 表彰台に立つ彼女の姿は晴れやかで、金メダルを胸にかけ国歌「君が代」を口ずさむ荒川選手を見て、思わず涙が出てきたのは私一人ではないと思います。 彼女の演技には安藤選手や村主選手にはない大人のオーラを感じました。村主選手は日本人、安藤選手は現代っ子のような雰囲気を感じさせますが、荒川選手は国際人や大人って雰囲気で、二人に比べ大柄なためかスケールが一際大きく感じました。 ところでオリンピックの金メダルが銀製であることを知っている人は少ないのではないでしょうか。これは金の値段が銀の約100倍という台所事情で経費節約のために銀に金メッキを施してもかまわないということがオリンピック憲章で定められているのだそうです。しかもそのメッキには金が6グラム以上使われることになっているというから驚きです。しかし金や銀の値打ちよりも金を取ったプロセスやその成果を思うと、メダルの質なんて関係ない話でしょう。 ふと思ったのですが、メダルが3個もあるのに、そして表彰台に3人も上がるのに、さらに国旗は3本揚がるのに、国家を演奏してもらえるのは金メダルの国家だけなのですから、すごい価値があると思います。 村主選手の悔しそうな顔も、さばさばした安藤選手の顔も本王に素敵でした。お疲れ様といってあげたいです。そして荒川選手に感動を有難うと言ってあげたい気持ちです。 各国のメディアはそろって荒川選手の快挙をたたえ、彼女の演技の素晴らしさが、最後に滑った選手へのプレッシャーになったのではないかと報じていました。  「氷上であれだけ滑る演技にはただ驚ろきて言葉さえ出ず」  「君が代と日の丸ダブリ感激す俺もやっぱり日本人です」  「勝ち組と負け組みそれぞれ涙するそんな姿に私も涙」  「四年間長い道のりたどり着く今日は終わりの新たな始まり」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○今日は疲れた

? いつもは疲れたなんて感じない私ですが、さすがに今日は疲れました。というのも朝10時から始まった「地域の自立を考える」というシンポジウムは延々11時近くまで続いたのです。午後1時までが第一部、2時から4時までが第2部、4時から7時までが第3部、そそて場所を移して7時30分から11時までが第4部でした。 まちづくりの話は上勝町の横石さん、馬路村の東谷さん、内子町の森本さん、それに私とで議論を展開しました。何せどの方も名うての論客だけに鋭い突っ込みの応酬で、いい話が聞けました。このサロンの企画は地域政策研究センターによって仕組まれたものですが、朝日新聞社が5回シリーズで連載したため関心も高く、300人もの参加者で会場は立ち見ほどの混雑でした。

 私にとってこの程度の会議は日常的な集会なので驚きはしませんが、会の進め方が全て予告もシナリオもないアドリブの世界でのぶっつけ本番だったため、たのしい会議となりました。

 地域の自立には経済の自立や人の自立など様々な切り口がありますが、上勝町も馬路村も、内子町も、勿論双海町も自然やそこで取れたものを売っているという共通性と、その売り方が違うという異質性、そして人間の思いも違う多様性が随分話題となりました。私の町は残念ながら合併によって自治体は消えましたが、それでも双海町という夕日のブランドは消えることなく輝いているのですから不思議です。

 伊予市の門田さんとも話しているのですが、合併して1年。、もうそろそろ伊予市の夕日として売り出す仕組みも考えてみたいと思っています。 昨日沖縄から帰って直ぐに会合に出て、寸暇を惜しむようにまちづくりにのめり込んでいます。でも疲れたといいながら本当に快い疲れです。多分それは楽しいからやる、好きだからやるという基本があるからかも知れません。公職のあった頃は「こんな会何でするの」といわれるような会議もこなさなければならず苦痛を感じたことも何度かありました。でも今は殆どがやりたいことをやるといった姿勢ですから楽しいのかも知れませんね。 今日の会議には、馬路村の山猿こと木下君も駆けつけていました。明日はわが町へ足を伸ばすそうです。明日は区長として近所の人の葬儀にも出席せねばならず、また山口県美川町から視察団がやって来て土日付きっ切りのお世話が待っています。

 「お父さんは楽しそうじゃねえ。それにしても、現職だもないのによくこれだけスケジュールが詰まるねえ」と感心しきりでした。 昨日は忙しくてブログを書く暇がありませんでしたが、明日も書けるかどうか・・・・・。今日は疲れたのでもう寝ます。

  「朝10時始まる会議終わるのは何と時計が一回りした」

  「上勝も馬路も内子も皆同じ自然を上手に金にしている」

  「年寄りと女輝く町ありて年齢よりも心の若さ」

  「モナリザも基はといえば布に色塗っただけだが人は綺麗と」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○努力で格差の出る時代

 同級生に久しぶりに会いました。同級生ですから当然昨年定年を迎えています。お互いが近況を報告したのですが、彼が唐突に「進ちゃんあんたがうらやましい」というのです。「何で」と尋ねると「あんたは生き生きと生きて輝いて見えるというのです。「そんなことないだろう」と打ち消しましたが、ここだけの話ですが私の目から見ても「私の方が輝いているな」と思いました。

 「まあお茶でも」と彼を誘って喫茶店に入り積もる話をしました。彼は退職後のんびりしたいとまだ再就職はしていません。つまりやることがなく目標を持って生きていないのです。私は再就職を勧めはしませんでしたが、何か自分が熱中できるものを探したらどうかとアドバイスしました。「たとえば」と返されたので、「私の場合は人間牧場やブログで随分進化してきた」と話しました。「ブログって」「人間牧場って」と矢継ぎ早に質問されましたが、これまでよりこれからどう生きるのか考えなさいといって分かれました。多分彼が何の目的も持たず生きるなら、彼とは同窓会程度の出会いで終わるだろうなと思っていました。

 ところがデス。先日旅先から帰って私のメールを開いてみると同級生のY君からたどたどしい短い文章ながらメールが入っていたのです。「娘に教えてもらって初めてメールを打ちます。君の話を聞いてこれはいかんと思いました。またメールします。ああそれから娘のパソコンで君のブログを読みました。妻に相談して近々パソコンを買います」だって・・・・・。

 私は彼のメールを見て「努力で格差の出る時代」だと思いました。勝ち組負け組みが問題になっていますが、勝ち負けではなくどう生きようとして生きたかが問題なのです。侍従主義の世界で格差は当たり前の出来事です。努力もしないで「果報は寝て待て」なんて時代はとうに過ぎました。いい人生の仕上げのためにも頑張って欲しいと思っています。

 「今朝彼からメールが入りました。「パソコン買ったぞ。今はあつかましがられながら娘がパソコンの先生です」。」まるで子供のようなはしゃぎ方がメールの向こうに見えてくるようです。パソコンが人生のすべてではありません。でもそのチャレンジはまた新しい情報や人、それに自分の発見にも繋がるのです。頑張れ61歳のおやじさん。

  「パソコンを買ったと届くメール見てエールを送る嬉し一日」

  「人間はみんな同じと教えられ何もやらずに果報寝て待て」

  「朝早くホテルのメール独占しブログ書いてる自分に気づく」

  「群集が無造作歩く歩く沖縄の国際通りいつか来た道」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○私の血圧は正常です

 今朝沖縄のホテルを出てドラッグストアーへ立ち寄りました。そこには様々な薬の他に家庭用血圧計が「今売れてます」「自宅で簡単に計れる血圧計で健康をチェックしよう」50代のあなた血圧大丈夫」など、さも買わせたい殺し文句が値札の上に付いていました。それらの血圧計はその場で体験できるようになっていたので、試しには買ってみました。驚きました。同じ人間の殆ど同じ時間に計っているのに、低い血圧計と高い血圧計では数値が15も違うのです。勿論血圧はその人の心情によってもかなり違いますが、それにしても心臓に毛が生えたような私の血圧が器具によってこうも違うのだから目安にはなっても余り当てにならないものだと思わざるを得ませんでした。

 私の家の隣に67歳の叔父が住んでいます。叔父は脳梗塞を患ってから血圧に敏感過ぎるほど敏感で、暇さえあれば血圧を計り、それをノートに記録しています。叔父の話だと血圧の変動には一定の法則があるのだとか、教えてはくれませんでしたが、その時期が来たら教えようとの勿体ぶりよです。

 叔父の言うのには、自分の家で計るとかなり安定しているのに、何故か医者の前に行くと血圧が上がるのだそうです。これを白衣高血圧というのだと助産婦をしている娘から聞いたたことを思い出しました。

 私はこれまで血圧が高いと診断されたことはありませんし、先日も定期健康診断では先生から太鼓判を押されました。今日ドラッグストアーで計った血圧も多少の差はあっても正常な範囲でした。

 自分の健康値を数値によって意識することはとても大切なことです。血圧もそうだし、体重だってその人の健康を表しますが、叔父のように余り過敏になり過ぎると日々の暮らしがおのずから暗くなります。

近頃は数値目標を立て努力することがさもいいことのように言われています。血圧が120の人が5下げる目標を持って行動しても結果は余りうまくいきません。要は体重計に乗って一週間前と比較して増えていたら少し食事の量を減らして運動量を多くする程度の気を付け方で十分体重を維持できるのです。

 数日前、別の叔父が心筋梗塞で入院し心臓にペースメーカーを埋め込みました。元気で船に乗って漁をしていた叔父なのですが、私の周りも次第にそんな人が増えてきました。高齢化という人間にとってどうしようもない出来事です。私もその辺を考えこれから健康的ないい生き方をしたいものです。

  「薬屋で計った血圧正常値、でもでもどれを信じていいやら」

  「外堀を埋められ傍に忍び寄る高齢いう名の私行く道」

  「健康が気になる私はお年頃食うものひとつも注意を払って」

  「血圧の高そなおばさん肉食って痩せる話に花を咲かせて」

[ この記事をシェアする ]