shin-1さんの日記

○魚梁瀬杉の切り株への挑戦

 昨年の夏、高知県の奈半利町へ講演料米一俵の約束で出かけた折、坂本年男さんと出会い、坂本さんがくれた魚梁瀬杉の切り株が宅配便で我が家に届いて2ヶ月余りが経ちました。毎日忙しく振舞う私に任せていても埒が明かないと思ったのか、88歳のわが親父は正月以来この切り株に挑戦しています。チェンソーの使える近所のおじさんに頼み込んでゆがみを直したり、割れを修復するために切り株の周りをチェーンで巻き締めてボンドを流し込んだり、素人とは思えない熱の入れようです。昨日は厚い板をはめ込んで割れにくくするための材料を買ってくるよう頼まれ、ホームセンターへも行きました。

 器用が売り物の親父は左様に何でも作り上げてしまうのですが、この切り株だけはくれた坂本さんのことを思うと何としても仕上げないと相手に失礼だと、作業小屋の中で一生懸命作業に打ち込んでいます。

 私などは呑気なもので、分かったような顔をして腕組の果てに側で見ているだけなのですから気楽なものです。それでも親父の手にかかるとまるで魔法のように、あれほどゴミのように汚れていた切り株が日一日と作業が進むにつれて見違えるように変身して行くのです。切り株の年輪を数えてみようと数えてみましたが、目が込みすぎて数えるのを諦めました。とに角私の年齢を遥かに超える年数を生きてきたことだけは確かです。

 最近内子町出身のノーベル文学賞作家の大江健三郎さんの「自分の木の下で」という本を読みました。その影響もあって人間牧場にツリーハウスを作る予定ですが、この切り株を見るにつけこの木はどんな場所にどんな形をして立っていたのだろうと想像します。と同時に人間を一本の杉の木に例えたら、人間の寿命は長く生きてもたかだか100年です。ゆえにこの木のように銘木といわれるよに長生きすることは到底出来ませんが、せめて今の子どもたちを100年生きる杉の木を育てるような気概を持たなければなりません。木が育つには土・水・太陽の他、ひとり立ちするまでの草刈や施肥など、人間を育てる姿に似ているなあとしみじみ思います。

 親父の挑戦を見ていると何かしら勇気が湧いてきます。自分もええ歳になったと思っていますが、親父に比べたらまだ26歳も若いのですから頑張らなければなりません。

  「米寿来た親父が還暦息子より元気頑張る偉き昔人」

  「切り株に挑む親父は昨日まで足腰痛い人と別人」

  「まるでゴミそんな切り株手をかけて汗と力で命吹き込む」

  「切り株に夢中の間は風邪引かず腰の曲がりも幾分しゃんと」

 

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shin-1さんの日記

○子供たちへの返事ついに書き上げました

 先日ブログで書いた講演先から届いた大量の子供たちからのハガキへの返事ですが、昨晩12時までかかってやっと書き終えました。内心無邪気な子供たちには「毎日ハガキを三枚書いている」なんて滅多なことはいえないと反省しながら書きましたが、一枚一枚ハガキを読みながら書いていると、今の子供の表現力の素晴らしさに驚きました。

 まずイラストが素晴らしいですね。マーカーペンを使ったり色鉛筆で様々な工夫を凝らしているのです。中には私の似顔絵や私の話に登場した「菊の実験」や「氷山の一角」のイラストもありました。多分双海町=夕日も連想したのでしょうが、夕日のイラストはダントツ多かったように思います。

 何せ50通を越える量です。時間的余裕がないからいっそパソコン印刷でと一瞬思ったのですが、ハガキを書くことを公言している私としては受け取る側の子どもたちのことを思うとそんなことも出来ず、昨日は朝から必死で書きました。側で見ていた妻は何の手助けもせず「大変じゃあねえ」と同情するだけです。でも妻は郵便局で50円の切手シートを100枚買ってきて机の上にそっと置いていてくれました

 今回のハガキ返事作戦は夕日をあしらった絵葉書を使用しました。前日役場に行って観光担当者に訳を言って使わないような絵葉書を数枚貰ってきたのも使いましたが量的に間に合わず、年賀状の使ってないものや官製はがきも使いました。書いた子供たちを決して差別している訳ではありませんので悪しからずご容赦下さい。

 手書き文字の絵葉書は、昨日が雨の日であって人間牧場の作業が出来なかったこと、私の日程が夕方の神社建築委員会出席までまる一日空白だったこともあって、悪戦苦闘しながら順調に進みました。切手を張り、私の名前と住所のゴム印を押し、切手を貼って製作が完了したのは12時頃でした。でも少しだけホッとしています。今朝は散歩のコースを変えて郵便局の前を通りポストに投函したいと思います。

 いつものことですが、この中の何人かは2回目の返事が数日の間に届きますが、多分2人か3人は長い文通が続くことでしょう。私のハガキ友だちの平均年齢がまた大幅にダウンしそうです。

 忘れていたのではなく後回しにしただけですが、担任の先生から届いたお便りの返事は、今日広島へ出張の準備で間に合わなかったものですから、広島へ向かう船の中で、木になるカバンという優れものの移動机を使って書きたいと思って昨晩切手を貼って用意しました。

 「お父さん余り無理しないようにもう休みませんか」と先に床に就いた妻の声が襖の向こうの寝室から聞こえていましたが、先に寝たはずの妻は6時になった今も寝ています。「早く寝たのだから朝ぐらいはゆっくり起きます」とは妻の弁。私は「遅く寝たのだから早く起きよう」と思いました。えっ、これって逆じゃないですか?。「何でだろう。何でだろう。何でだ何でだろう~」なんて昔ギャグが流行りましたよねえ。

  「講演を聞いて子どもの文届く汚いわが字少し安心」

  「昨日はハガキ製造機になってせっせせっせとペンを走らせ」

  「親子前話したはずに親からははがき届かぬ不思議なるかな」

  「難しい文字や言葉使わずにこれまた難し子どもへの文」

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shin-1さんの日記

○破れた座布団

 役場を退職するに当ってそれまで使っていたものは文房具類を除いて殆ど処分しましたが、捨てきれず退職後も使っていたものに、私の尻に敷かれて長年活躍してきた座布団があります。寒かろう、痛かろうと妻が鈎針でせっせと編んでくれたいわば愛情こもった毛糸の座布団です。しかしよる年波には適わなかったのか昨日の朝大きく破れていることに気がつき、妻の了解を得て廃棄処分にすることになりました。妻は「まあ珍しい、まだ使ってたの。私も忘れていました」とのことです。定かな記憶ではありませんがこの座布団の世話になるようになったのはもう13年も前のことでした。

 企画調整室で長年草創期のまちづくりを担当し、その成果を問うため新しい日本で一番小さな地域振興課が誕生し、その初代の課長に就任して役場3階の小さな部屋を与えられた時にこの座布団と出会いました。たった一人の課に同居したのはもう既に胃ガンで亡くなった農協退職の東さんでした。特産品センターの所長に再就職した東さんの指導をしながら、しかもシーサイド公園の建設まで担当する当時の私には、正直言って座布団を温める暇などなかったのですが、この座布団は文句を言うことなくじっと新米課長の帰りを待ち、土日もない超多忙な私のお尻をいつも暖かく守ってくれたのです。

 考えてみればこの座布団はこれまで3度引越しをしました、。最初はたった一人の課が3人になり手狭になって2階に引っ越した時椅子とともに移動しました。次は役場を退職し教育長を拝命した時教育委員会へ一緒に連れて行ったことを思い出しました。教育長は4役といわれる特別職ですから教育長室が与えられ、これまでの課長の椅子とは段違いの白いカバーのかかったフカフカの椅子だったので、座布団は似合わないし必要ないと一瞬思ったのですが、捨てきれずカバーの下に置いて使いました。その後昨年三月末の退職と同時にわが家へ帰り、パソコンを打つため台所の食事用椅子を妻の了解を得て借りてか約10ヶ月、痔にもなることなく大きな役割を果たしてきました。

 何気なく、日の目を見ることもなく私の身体を支え続けてきたオンリーワンの座布団に「ご苦労様」といってやりました。私たちの身の回りにはこの座布団のように人知れず働いているものが随分あります。靴や靴下、ズボンやバンドもその一種でしょうが、そんなささやかな小道具類にももっと愛情を注ぐべきだと、処分される運命の座布団を見て思いました。

 妻がとりあえず押入れの中から適当な座布団を持ってきてくれました。敷いたのですがこれがまだ中々お知りにフィットしません。「おい新入りの座布団よ、お前の先代の昔使ってた座布団はなあ、もっと優しくご主人様のお尻を守ったぞ」と、少し文句を心の底で自問しましたが自答は返ってきませんでした。ナツメロの「古い上着よさようなら」ではありませんが、「古い座布団よさようなら」です。私の一つの時代の終わりでもあるようです。

  「何年も使い古した座布団にお礼を言って処分しました」

  「尻敷かれ俺に似てるよ座布団君敷いてる妻を一瞬思う」

  「昇進の度に移動の座布団もタダの男じゃ役不足かも」

  「退職で賞味期限の切れた俺座布団よりも先に捨てられ」

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