shin-1さんの日記

○凄い太田市の係長パワー

 役所の職責は別名22条職員と言われる臨時雇や、主事補、主事、主査、係長、課長補佐、課長、主幹、参事、次長、部長などと様々な呼び名があり、その役所によって役割がかなり違っています。私も年齢に応じてその幾つかを経験しましたが、部下には部下の、上司には上司の言い分があって中々難しいものだと思いました。

 昨日まで群馬県太田市係長会の招きで、研修会に参加してきました。何でも千葉県幕張にある市町村アカデミー研修所で私の講義を聞いた方が私を推薦して実現したそうですが、太田という街の元気度には驚かされました。市庁舎が立派なのは全国を回っている私としては別に驚きませんが、市長さんのやる気元気度を職員一同誰しも認めていました。まちづくりのリーダーシップには首長、職員、民間の3つのタイプがありますが太田市は紛れもなく首長誘導型だとお見受けしました。首長の長期政権が続けばそれはそれとして上手くいくのですが、首長は4年に一度の禊選挙があり、その後が少し気になるところです。

 案内していただいた国の史跡に指定されている中世の城郭金山城も立派で、説明をしていただいた教育委員会の担当者は何と19年間も異動することなくこの仕事に取り組んでおり、私の持論である専門馬鹿なくしてこうした仕事は勤まらないと脱帽しました。もし私が金山城を訪ねても、彼のような専門家の説明がなかったら未整備途中の公園としか目に映らなかったのではないでしょうか。異動の希望もせずただ黙々と働く彼に大きな拍手を送ります。

 もうひとつ凄いのは200人近い人がホテルに宿泊して研修した係長会の存在です。太田市では係長は管理職だそうですが参加した人たちの熱心さにまず圧倒されました。私も若さと円熟味を兼ね備えた係長を相手の話ですから、普通3時間の話を1時間40分余り熱を込めて早口で喋りました。「あうんの心」とでも言うのでしょうか、大きな反響があり、明くる日のこともあるので夜を徹してまではゆきませんでしたが、かなりの手ごたえを感じました。あと5年したら彼らは市政の重要な役職に趣き市井をリードするに違いありません。

 人の出会いとは不思議なもので、太田市は愛媛県今治市と姉妹提携を結んで交流をしているそうで、愛媛県の実情を実によく知っており、係長会の会長さんは双海町のシーサイドで泳いだ経験をお持ちとか、いやはや驚きました。余談になりますが助役さんも皆さんと一緒に泊まり研修に参加しておられました。折に触れてお話をさせていただきましたが、ナンバー2のこうしたフォローも見逃せない努力なのです。

 「かかあでんかと空っ風」なんて言われますが、太田市を経つ日の朝は寒波の影響で冷え込み、赤城降ろしの空っ風の片鱗を少しだけ感じましたが、わざわざ駅まで見送ってもらった謙虚さにも深々と頭を下げて帰って来ました。

  「通風が出た足引きずり街中を進んで歩く誠実見たり」

  「携帯の呼び出し音に追われつつ見知らぬ街の見知らぬ人と」

  「日本は何処へ行っても自然あり海山川を自慢しつつも」

  「暮らし書くブログのお陰今日もまた共通話題こと欠きもせず」

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○日本全国が過疎地の時代

 「過疎」といえば私たちの住んでるような田舎町の代名詞のような言葉だと誰もが思っています。「過疎」という言葉の反対語に「過密」という言葉がありますが、当然大都会のように沢山の人が住んでる地域を表します。しかしこれは昭和30年代後半から起こった高度成長時代の人口移動現象であって、20世紀最後の社会現象であることを忘れてはなりません。

 最近新聞や雑誌で「人口減少時代」という言葉を耳にするようになりました。国の財政が破綻し少なく抑えようと努力しても毎年、30兆円もの国債を発行しなければ予算が組めない台所事情の中で、子どもの出生率が年々低下し、追い討ちをかけるように働かないニートと年金暮らしの高齢者が増えてくると、「高齢者を誰が支えるのか」といった当然の疑問が起こっても不思議ではないのです。

 日本の人口は2004年、つまり一昨年をピークに減少に転じているのです。面白い過去のデータを目にしました。日本の人口は明治維新の頃(1868年)には約3400万人くらいだったそうです。100年前の1905年(日清戦争時)には4700万人、50年前の1955年には9000万人、そして現在は1億2700万人と常に右肩上がりの増加を辿ってきました。でもほぼ50年後の2050年には1億人の大台を割り込み約9000万人なると推計されているのです。そんな馬鹿なとお思いでしょうが、様々なデーターを基に偉い先生たちが推計するとこうなるのだそうです。

 私たち夫婦は1+1で=4人の子どもを生み育てていますが、世の中には独身を貫く人や1組の夫婦が産む子どもの数は1.3人を割っている現実からするとなるほどとうなずけます。

 私たちの町は昭和30年代後半から深刻な過疎化に悩まされてきました。日本全国の中山間地域は政府から「過疎地」として指定され、手厚い財政支援を受けて「過疎対策事業」を実施してきましたが、その効果は殆どなく、田舎の過疎地が過疎対策によって便利になればなるほど過疎が進行してゆくという悪循環が今も続いているのです。

 私たちの町や村の代名詞だと思っていた「過疎」という冠は地方の「市部」にも及び、八幡浜市は過疎地に、そして愛媛県全体でも過疎が深刻な悩みになってきました。

 さてどうするといわれれば妙案は「子どもを生もう」運動くらいしか思い当たりませんが、「人口の過疎」をよりもっと深刻なのは「心の過疎」だということを、肝に銘じなければまだまだ続く21世紀は乗り切れないようです。

  「俺の家五十年前比較すりゃばあさん二減子ども四増」

  「人口は定住交流足したものこんな町でも五十五万人」

  「そういえば年寄り増えて子ども見ぬ俺も年寄り他人事じゃない」

  「世の中にゃ過疎を逆手の人がいる人間牧場それら集めて」

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shin-1さんの日記

○注射が大嫌いな男

 私は何が嫌いか言われたら即座に「注射」というくらい注射が大の苦手です。「エー、嘘ー、その顔で」なんていわれそうですが、本当なんです。子どもの頃「明日はツベルクリン反応の注射がありますから」と先生が言おうものなら、腹が痛いと嘘をついて学校を休んだことが何度かありました。ですから今も病院で血液検査のために採血するのは大の苦手だし、インフルエンザの予防注射などもしたことがありません。ですから風邪をひかないのかも知れませんが・・・・・。

 私たちが子どもの頃は注射といえば針や注射器を煮沸して何度でも使っていましたので余計痛かったのかも知れませんが、つい最近痛くない注射針が開発されたそうです。そのことを知ったのは、飛行機の中の座席ポケットに置かれた持ち帰り自由な「翼の王国」という雑誌の小林泰彦さんの書かれた文書でした。

 昔の注射針はパイプのような細い管を使っていたので小さくするのには限界があったようですが、東京東向島で町工場を経営する岡野雅行さんという方が、金属板を丸めて作ろうと思い立ち穴の小さい注射針を作ったのだそうです。これは世界でも始めてだそうで画期的だというのです。

 日本の企業も戦後はこんな町工場からスタートしました。そして創業者と社員の努力によって次第に大きくなり、世界に冠たる日本の企業を作ってきたのです。岡野さんの会社は資本金1千万円、従業員6人の小さな会社だと聞いて私はびっくりしました。親の代から続いた金型のこんな小さな会社でもやり方によっては大きな仕事が出来るのだということを・・・・。

 「俺はいつも言うんだ。ほかで出来ないことをやりゃあ、どんな時代でもちゃんとやっていけるんだって」という懐かしい東京原人の言葉で話す岡野さんの言葉には重みがありました。

 もし私が子どもの頃にこんな注射針が開発されていたら、私は注射嫌いの少年にはなっていなかっただろうと思ったりします。そういえば、前回の定期健康診断の時採血しましたが、痛みもなくあっという間に終わったのは岡野式?注射針を使ったのかも知れないと、今後病院へ行く時に憂鬱にならないで済むかもと思ったりしました。日本の町工場もどっこい生きているんですね。日本人の知恵の深さを思い知らされました。

  「明日注射すると言われて腹痛い仮病見つかり結局明くる日」

  「注射して泣かぬ偉いぞ孫褒めるだのに私は未だに嫌い」

  「俺にしか出来ないことは何だろうそれが見つかりゃ鬼に金棒」

  「蜂が刺す程のか細い注射針下町工場で作っているとは」

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○対等合併なんて嘘っぱち

 このところ市町村のまちづくり研修会に招かれることが多くなりました。それらのまちは既に合併したまち、これから合併しようとしているまち、単独で残ろうとしているまちなど様々ですが、特に合併したまちで大きなまちと合併せざるを得なかった小さなまちやむらの役場職員からは、ため息ともとれる諦めにも似た意見が飛び交っています。

 その意見の中では「対等合併なんて嘘っぱち」という意見が圧倒的に多いようです。今回の合併は一部を除いてその殆どが対等合併というスタートを切っています。役所の位置や新しいまちの名前、議員の定数など、思惑の総意から合併話が壊れたりリコール運動に発展した事例を考え、せめて穏便にことを運びたいと願う法定協議会の方針もあって、旧市町村には総合支所を置いて、行政サービスは高い方に、負担は低い方に合わせると公約で合併したものの、結局は僅か一年足らずで大きなまちの行政事務に合わされ、権力も集中してしまっているのです。

 「約束が違う」とか「こんなはずではなかった」とか小さなまちや村の職員は陰口をたたいていますが、結局は大きな声になることもなく今日を迎えているのです。

 「若松さん、あなたのまちも同じですか」と相槌を打ってもらおうと話しかけてくるのですが、「どうしてそんな声を大きな声にしないのです」と切り込んでも、「私一人くらいが言ってもどうにもならないことですし」と口をつぐみ諦めてしまうのです。彼らがものが言えないのは職員数が増え役職は下がる人がいても給料は高い方に合わせてもらえるし、止めさされないで済むからかもしれません。しかし自分のことだけならそれも良いでしょう。しかし大切なことは行政サービスを受ける住民の立場は一体誰が守るのか、真剣に考えて欲しいと思うのです。

 新しく撰ばれた首長だって議員だってそうです。殆どの市町村が昭和30年の昭和の大合併以来半世紀にわたって築き上げたまちやむらの特徴をいとも簡単に平準化という名の下になくしてしまおうとしているのです。

 平成の合併は旧市町村の色を残して新しいまちを作って欲しいと口を酸っぱくして言ってきたけれど、どうやらその願いは届くことなく新しい年度の予算が組まれようとしているのです。

 合併した役所の口癖は「金がないから何も出来ない」という言葉です。私の造語に「金がなければ知恵を出せ。知恵がなければ汗を出せ。汗もでなけりゃ辞表出せ」という言葉がありますが、まさにその言葉を関係の皆さんに贈りたいものです。「対等合併」とは一体何だったのでしょう。旧市町村の特長を生かしたパートナーシップ、行政と住民の協働、こんな言葉がむなしく聞こえる今日この頃です。

  「対等と言ったはずの合併も終わってみれば大きい所に」

  「あんたらは給料上がっていいけれど市民の暮らし役所遠のく」

  「行政は借金あっても倒れない責任取るのは結局市民」

  「お役所は二言目には金がない思いやられる俺らの未来」

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shin-1さんの日記

○電球が切れる

 2・3日前から書斎の電気のつき具合が悪いと思っていたら、今朝になって二本ある1.5メートルもある長い蛍光灯のうち一本がついにつかなくなりました。原因は蛍光灯そのものの寿命なのか、それとも電気をつけた時に蛍光灯に放電を促す小さな豆電球なのか色々いじったのですが分からず、天井を向いての作業を諦め、ブログ書きも諦めて朝食を取りました。しばらくしてスイッチを入れると摩訶不思議なるかな元のように電気がついたのです。勿論以前のような明るさではありませんし少しチカチカするので、明るい昼間のうちに電気屋さんへ行って蛍光灯の球を買い求め直しておきたいと思っています。

 私たちはいつの間にか電球の明るさに慣れ、無意識のうちに「スイッチをONにすれば電気はつくもの」と思い込み、電気がどうしてつくのかとか、電気の明るさへの感謝を忘れているようです。勿論私も日々の暮らしの中ではそんなことには無頓着で、酷い時は電気を消し忘れて一日中浪費したことだってあるのです。

 かつて私たちの「21世紀えひめニューフロンティアグループ」は、子どもたちを無人島に連れて行ってサバイバルキャンプを試みましたが、台風襲来で無人島から有人島へ必死の避難を試みた時、二神島の集会所で、「畳が温かく電気が明るいことを初めて感じた」とキャンプの感想文に書いていたことを思い出しました。電気の有難さはまさに暗い思いをしなければ分らないのかも知れません。

 水戸黄門などの時代劇を見て思うのですが、昔は行燈などしか光源がありませんでした。だから「蛍の光窓の雪」などの明るささえも歌に歌われるのです。さぞや家の中は暗かったのだろうと思います。

 私たちがこうして電気という文明を手に入れるまでには多くの人の苦労を見逃すことは出来ませんが、考えてみれば私の祖母や祖父の時代という僅か100年前までそんな暗い生活があったことをもっと後世に伝えてゆくべきかも知れませんね。「文明」とは読んで字の如く明るいのです。

 しかし一方で、使用期限の切れた取り替えられた電球は、今月の不燃物回収に出され遇えない一生を閉じるのです。勿論不燃物となった電球は再処理工場で分別されて再利用されることでしょうが、使用期限の切れた物の運命は寂しいものです。

  「俺に似た使用期限の切れし球変えて捨てられ何処へ行くやら」

  「スイッチをひねれば電気つくものと誰もが思う豊かな日本」

  「ローソクは何処かとまさぐり探すけどとっさのことで仏壇さえも」

  「灯が消えたような表現あったっけ電気つかない部屋の暗さに」

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shin-1さんの日記

○魚梁瀬杉の切り株への挑戦

 昨年の夏、高知県の奈半利町へ講演料米一俵の約束で出かけた折、坂本年男さんと出会い、坂本さんがくれた魚梁瀬杉の切り株が宅配便で我が家に届いて2ヶ月余りが経ちました。毎日忙しく振舞う私に任せていても埒が明かないと思ったのか、88歳のわが親父は正月以来この切り株に挑戦しています。チェンソーの使える近所のおじさんに頼み込んでゆがみを直したり、割れを修復するために切り株の周りをチェーンで巻き締めてボンドを流し込んだり、素人とは思えない熱の入れようです。昨日は厚い板をはめ込んで割れにくくするための材料を買ってくるよう頼まれ、ホームセンターへも行きました。

 器用が売り物の親父は左様に何でも作り上げてしまうのですが、この切り株だけはくれた坂本さんのことを思うと何としても仕上げないと相手に失礼だと、作業小屋の中で一生懸命作業に打ち込んでいます。

 私などは呑気なもので、分かったような顔をして腕組の果てに側で見ているだけなのですから気楽なものです。それでも親父の手にかかるとまるで魔法のように、あれほどゴミのように汚れていた切り株が日一日と作業が進むにつれて見違えるように変身して行くのです。切り株の年輪を数えてみようと数えてみましたが、目が込みすぎて数えるのを諦めました。とに角私の年齢を遥かに超える年数を生きてきたことだけは確かです。

 最近内子町出身のノーベル文学賞作家の大江健三郎さんの「自分の木の下で」という本を読みました。その影響もあって人間牧場にツリーハウスを作る予定ですが、この切り株を見るにつけこの木はどんな場所にどんな形をして立っていたのだろうと想像します。と同時に人間を一本の杉の木に例えたら、人間の寿命は長く生きてもたかだか100年です。ゆえにこの木のように銘木といわれるよに長生きすることは到底出来ませんが、せめて今の子どもたちを100年生きる杉の木を育てるような気概を持たなければなりません。木が育つには土・水・太陽の他、ひとり立ちするまでの草刈や施肥など、人間を育てる姿に似ているなあとしみじみ思います。

 親父の挑戦を見ていると何かしら勇気が湧いてきます。自分もええ歳になったと思っていますが、親父に比べたらまだ26歳も若いのですから頑張らなければなりません。

  「米寿来た親父が還暦息子より元気頑張る偉き昔人」

  「切り株に挑む親父は昨日まで足腰痛い人と別人」

  「まるでゴミそんな切り株手をかけて汗と力で命吹き込む」

  「切り株に夢中の間は風邪引かず腰の曲がりも幾分しゃんと」

 

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shin-1さんの日記

○子供たちへの返事ついに書き上げました

 先日ブログで書いた講演先から届いた大量の子供たちからのハガキへの返事ですが、昨晩12時までかかってやっと書き終えました。内心無邪気な子供たちには「毎日ハガキを三枚書いている」なんて滅多なことはいえないと反省しながら書きましたが、一枚一枚ハガキを読みながら書いていると、今の子供の表現力の素晴らしさに驚きました。

 まずイラストが素晴らしいですね。マーカーペンを使ったり色鉛筆で様々な工夫を凝らしているのです。中には私の似顔絵や私の話に登場した「菊の実験」や「氷山の一角」のイラストもありました。多分双海町=夕日も連想したのでしょうが、夕日のイラストはダントツ多かったように思います。

 何せ50通を越える量です。時間的余裕がないからいっそパソコン印刷でと一瞬思ったのですが、ハガキを書くことを公言している私としては受け取る側の子どもたちのことを思うとそんなことも出来ず、昨日は朝から必死で書きました。側で見ていた妻は何の手助けもせず「大変じゃあねえ」と同情するだけです。でも妻は郵便局で50円の切手シートを100枚買ってきて机の上にそっと置いていてくれました

 今回のハガキ返事作戦は夕日をあしらった絵葉書を使用しました。前日役場に行って観光担当者に訳を言って使わないような絵葉書を数枚貰ってきたのも使いましたが量的に間に合わず、年賀状の使ってないものや官製はがきも使いました。書いた子供たちを決して差別している訳ではありませんので悪しからずご容赦下さい。

 手書き文字の絵葉書は、昨日が雨の日であって人間牧場の作業が出来なかったこと、私の日程が夕方の神社建築委員会出席までまる一日空白だったこともあって、悪戦苦闘しながら順調に進みました。切手を張り、私の名前と住所のゴム印を押し、切手を貼って製作が完了したのは12時頃でした。でも少しだけホッとしています。今朝は散歩のコースを変えて郵便局の前を通りポストに投函したいと思います。

 いつものことですが、この中の何人かは2回目の返事が数日の間に届きますが、多分2人か3人は長い文通が続くことでしょう。私のハガキ友だちの平均年齢がまた大幅にダウンしそうです。

 忘れていたのではなく後回しにしただけですが、担任の先生から届いたお便りの返事は、今日広島へ出張の準備で間に合わなかったものですから、広島へ向かう船の中で、木になるカバンという優れものの移動机を使って書きたいと思って昨晩切手を貼って用意しました。

 「お父さん余り無理しないようにもう休みませんか」と先に床に就いた妻の声が襖の向こうの寝室から聞こえていましたが、先に寝たはずの妻は6時になった今も寝ています。「早く寝たのだから朝ぐらいはゆっくり起きます」とは妻の弁。私は「遅く寝たのだから早く起きよう」と思いました。えっ、これって逆じゃないですか?。「何でだろう。何でだろう。何でだ何でだろう~」なんて昔ギャグが流行りましたよねえ。

  「講演を聞いて子どもの文届く汚いわが字少し安心」

  「昨日はハガキ製造機になってせっせせっせとペンを走らせ」

  「親子前話したはずに親からははがき届かぬ不思議なるかな」

  「難しい文字や言葉使わずにこれまた難し子どもへの文」

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shin-1さんの日記

○破れた座布団

 役場を退職するに当ってそれまで使っていたものは文房具類を除いて殆ど処分しましたが、捨てきれず退職後も使っていたものに、私の尻に敷かれて長年活躍してきた座布団があります。寒かろう、痛かろうと妻が鈎針でせっせと編んでくれたいわば愛情こもった毛糸の座布団です。しかしよる年波には適わなかったのか昨日の朝大きく破れていることに気がつき、妻の了解を得て廃棄処分にすることになりました。妻は「まあ珍しい、まだ使ってたの。私も忘れていました」とのことです。定かな記憶ではありませんがこの座布団の世話になるようになったのはもう13年も前のことでした。

 企画調整室で長年草創期のまちづくりを担当し、その成果を問うため新しい日本で一番小さな地域振興課が誕生し、その初代の課長に就任して役場3階の小さな部屋を与えられた時にこの座布団と出会いました。たった一人の課に同居したのはもう既に胃ガンで亡くなった農協退職の東さんでした。特産品センターの所長に再就職した東さんの指導をしながら、しかもシーサイド公園の建設まで担当する当時の私には、正直言って座布団を温める暇などなかったのですが、この座布団は文句を言うことなくじっと新米課長の帰りを待ち、土日もない超多忙な私のお尻をいつも暖かく守ってくれたのです。

 考えてみればこの座布団はこれまで3度引越しをしました、。最初はたった一人の課が3人になり手狭になって2階に引っ越した時椅子とともに移動しました。次は役場を退職し教育長を拝命した時教育委員会へ一緒に連れて行ったことを思い出しました。教育長は4役といわれる特別職ですから教育長室が与えられ、これまでの課長の椅子とは段違いの白いカバーのかかったフカフカの椅子だったので、座布団は似合わないし必要ないと一瞬思ったのですが、捨てきれずカバーの下に置いて使いました。その後昨年三月末の退職と同時にわが家へ帰り、パソコンを打つため台所の食事用椅子を妻の了解を得て借りてか約10ヶ月、痔にもなることなく大きな役割を果たしてきました。

 何気なく、日の目を見ることもなく私の身体を支え続けてきたオンリーワンの座布団に「ご苦労様」といってやりました。私たちの身の回りにはこの座布団のように人知れず働いているものが随分あります。靴や靴下、ズボンやバンドもその一種でしょうが、そんなささやかな小道具類にももっと愛情を注ぐべきだと、処分される運命の座布団を見て思いました。

 妻がとりあえず押入れの中から適当な座布団を持ってきてくれました。敷いたのですがこれがまだ中々お知りにフィットしません。「おい新入りの座布団よ、お前の先代の昔使ってた座布団はなあ、もっと優しくご主人様のお尻を守ったぞ」と、少し文句を心の底で自問しましたが自答は返ってきませんでした。ナツメロの「古い上着よさようなら」ではありませんが、「古い座布団よさようなら」です。私の一つの時代の終わりでもあるようです。

  「何年も使い古した座布団にお礼を言って処分しました」

  「尻敷かれ俺に似てるよ座布団君敷いてる妻を一瞬思う」

  「昇進の度に移動の座布団もタダの男じゃ役不足かも」

  「退職で賞味期限の切れた俺座布団よりも先に捨てられ」

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shin-1さんの日記

○四国は島です

 この二日日本の中国地方を旅しました。中国という場合チャイナの中国があるから気をつけて話すようにしています。というのも数年前「明日は中国へ行ってきます」と電話で話したら、友人が「それはそれは遠い所へご苦労様です」と言うのです。そして最後に「中国へ行ったら紹興酒を買ってきて下さい」と付け加えました。私は「同じ中国でも島根県です」と訂正して大笑いをしましたが、電話は左様な間違いが時々起こるのです。今回の旅も中国地方の広島と山口なのですが、四国に架かっている3本の橋はいずれも東よりなので二日とも船を利用し、四国が島であることを実感しました。広島の江田島市へは松山から呉までフェリーで行き、呉から小用まで高速船で渡り、港で出迎えの公用車に乗りましたが、島の暮らしぶりは長閑で、乗り合わせた乗客の会話はローカルそのものでした。まったく見ず知らずの私にさえも平気で「お兄さん何処まで行くの、何処から来たの」と矢継ぎ早な質問会話が飛び交うのです。先日訪れた大阪の都会ではとても考えられない光景でした。

 壺井栄の「二十四の瞳」に出てくる「島かと思えば岬なり、岬かと思えば島なり」を彷彿するように、船は島々の間を縫うように走るのです。海にも高速化の波が押し寄せ、高速船は松山と広島を僅か1時間余りで結んでいるのですが、私はあえて安いフェリー便を選びました。少し時間はかかりますが料金は半額で断然お得だからです。

 「広島と山口に行くんだったら隣の県だから一泊すればいいのに」と、お互いの目的地の位置関係を知らない妻は勧めてくれましたが、二日目は松山三津浜から柳井航路に乗りました。愛媛県と山口県の県境を越え、周防大島を左手に見て走ること2時間25分で港に到着、白壁の町柳井の港へは立派な公用車が迎えに来ていました。仕事を終え再びフェリーに乗った頃にはすっかり暗くなり、冬の海を帰ってきたのです。

 瀬戸内海には大小3000余りの島があって、その島も過疎や高齢化のあおりで無人島化しつつあるといわれています。でも船に乗ってこの美しい瀬戸内海を航海できる幸せを、島国四国に住める喜びとしていつも感じています。

 中島本島には古野さんがいる。あの二神島には豊田さんがいる。周防大島には山根さんがいる。そう思いながら遠望かすむ島々を巡ると、船旅は実に楽しいものです。特に無人島キャンプで度々訪ねた由利島横を走る頃には寒い甲板に出て感慨深く見つめていました。

 そう、昨晩電話のかかってきた宇和島の宮川君は宇和海日振島の出身だし、毎年美味しいハマチを届けてくれる宮本正勝さん千里さんご夫妻は戸島なんだ。そう、かくいう私は四国という島に住んでいるんだと実感しました。

  「あの人も俺もみんな島育ち日本という国全てが島です」

  「島岬区別もつかぬ船の旅ふるさとなまり声を掛けられ」

  「長時間乗ってもフェリー何故安い油代とて高いというのに」

  「この海は船の銀座いう程に大小船が盛ん行き交う」

 

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shin-1さんの日記

○インターネットでオークション

 私などのように古いタイプの人間は、物を見て確かめないと物は買わないしお金も払いません。ところがわが息子世代は少し変わった買い物だと殆どをインターネットのオークションで様々なデーターを引き出して買うのです。年末には人間牧場水平線の家の重要な備品であるストーブを注文して買いましたし、煙突までも別のメーカーに依頼して送られてきました。「お父さん、どのストーブの型がいいか、このカタログで検討して」と名だたるストーブの情報を印字して持って来ました。見ましたが結局は「お前に任せる」でお金を振り込み送られてきたのです。結果的には気に入ったものが気に入った値段で買えてホッとしましたが、「もしカタログと違った商品であったり、粗悪品であったりしたらどうするのだろう」と考えると、品物を買う勇気を逸してしまうようです。

 二日前にも今度は、念願の五右衛門風呂をインターネットで購入しました。風呂を買うという決断には、私としては少し高価な買い物だけに後ろ足を踏みましたが、当の息子はクールなもので代金を妻から貰って振り込み確認後送られてきました。見た目には中々立派なもので早速大工さんと相談して大工さんのトラックで水平線の家へと運ばれて行きました。

 この様子を見て時代は変わったと思ったのは私一人ではありません。妻などは財布の番人ですからテレビで紹介されるトラブルを頭に思い浮かべて「だまされる」と、私以上の警戒ぶりでした。

 それでも最近ではインターネットのオークショントラブルが後を絶たず、政府も頻繁に流通している販売納入者は個人とみなさず、住所氏名を表示する義務付けを近く制度化するそうです。

 インターネットという顔が見えない情報商売には、物を買う人にも物を売る人にも必ず大きな不安付きまといます。商売はお互いの信頼の上で成立するのですが、振り込め詐欺が横行する世の中です。信じようとしても世の中はいい人ばかりではありません。しかし息子などはそのことを覚悟した上で様々なデーター情報の中から物を買う術を身に付けているのです。私の場合は私に代わって息子がインターネットの窓口になっているからいいようなものの、中々一般の人には理解できない世界だと思うのです。便利な世の中、悪の潜む世の中、どちらを信じたらよいやら・・・・・・。

  「ストーブも煙突さえもパソコンで買える便利を私は知らず」

  「だます人だまされる人それぞれにお互い知恵を出しつ出されつ」

  「もし俺に値段をつけたらなんぼかな期限切れして値段もつかずに」

  「もう古い私のような人間は言いつつ息子と知恵の勝負を」

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