shin-1さんの日記

○同行四人の旅

 昨日は久しぶりにブログを書く時間がありませんでした。朝5時に起きて家を出発し、夕方9時過ぎに我が家へ帰るまでずっと愛車の運転をしていました。その距離400キロ余りで、四国八十八ヵ所のうち10ヶ所ものお寺を回ってお参りをして来ました。しかも同行二人の私とお大師様に加え妻と3歳の孫の合計4人(実際は3人)の旅でした。早朝5時に起されて母親と別れるのが辛いと眠い目をこすりながら泣きじゃくる孫をなだめて後部座席のチャイルドシートにシートベルトでくくりつけ、伊予市から高速道路に乗って一路高松を目指しました。高松周辺には沢山のお寺さんがあって、この殆どのお寺にお参りしてないので82番の一宮寺から逆打ちで回りました。昨日は春の雨が時には優しく時には激しく降る中でのお参りでしたが、それでも午後は時折陽も射してやわらいだ温かさに誘われながらいいお参りが出来ました。

 カーナビゲーションをウン10万円もかけて装備したのは5年前、本当は八十八ヵ所参りのためだったのですが、あれから5年も経つというのに、一度もその目的で利用していなかったのが不思議なくらいです。早速目的地のお寺さんの電話番号で入力すると、道順がはっきりと表示しされ、おまけに音声サービスまで付いてきる優れものに昨日は一日中大助かりでした。

 途中のパーキングエリアや門前町のお土産屋さんなどに立ち寄るものですから後部座席の孫も上機嫌で、喋ったり食べたり、時には大きな声で歌ったりと、まるで遠足気分のルンルンです。孫のために用意したお菓子やクーラーボックスの飲み物が胃袋に入ると孫は時々お昼寝で、起すのも悪いと思い、2つのお寺は本堂まで近いこともあってロックして2人で後ろ髪を引かれながらお参りしました。

 納経帳と掛け軸にそれぞれのお寺さんの納経所で書いてもらうのですが、それぞれのお寺さんの対応が違うのも面白いものです。愛想よく声を掛けてくれるお坊さんもいれば、無愛想な女性もいました。納経超は3百円、掛け軸は5百円ですがこれもお参りの証だと思い実行しています。時折同じコースで回る団体客のバスと出会うと、先か後では時間的ロスが大違いです。でも優しい人だと「お先にどうぞ」などと気配りしてくれたりもします。

 お寺参りは修行の一つなのでこれも仕方がないことなのでしょうが、お寺さんはバリアフリーではなく階段や坂がやたらと多い事に気付きます。中高年令の膝や足が悪い人にとってはこれがかなり難儀なようで、後ろ向きではいずるような姿は何とも心痛む光景です。根来寺では何を思ったのか孫がおばあちゃんの手を引いてあげていました。おばあちゃんは嬉しくなって「パワーを貰った」と頭を撫でてくれました。最後の雲辺寺は突風で山頂までのロープウェーがストップしたとかで納経に間に合わないこともあって断念しましたが、帰りには温泉につかり遅い夕食を済ませ、三日月と星の綺麗な空を眺めながら家路に着きました。

 今日から一週間は孫も春休み、これまで通っていた保育園を卒園し、新しい幼稚園に変わるのだそうです。したがって昨日から夜勤の娘から孫を一週間預かることになりました。嬉しいやら大変やらで気のもめる一週間になりそうですが、嬉しさだけにしておきましょう。

 昨夜は孫を寝かせるため「おじいちゃんと寝る」という孫の足を股に挟んで「おじいちゃん温かい」という孫に添い寝の夜でした。孫が寝たらブログでもと思っていたのについつい眠ってしまい朝を迎えました。

  「雨の中 同行四人の 寺参り 大きな傘を さす孫歩く」

  「この辺り 桜蕾は まだ固く 綺麗だろうね 咲く日話題に」

  「カーナビの 案内通り 寺参り 迷うことなく 何と十ヵ寺」

  「孫と妻 それにお大師 様と行く 春の遍路は ウキウキ気分」

 

 

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shin-1さんの日記

○功名が辻

 今日からお隣の高知県高知市では、NHK大河ドラマ「功名が辻」にあやかって博覧会が開かれていることがテレビのニュースで流れていました。今年の大河ドラマは司馬遼太郎の原作だけに中々面白く、山内一豊とその妻千代の波乱に飛んだ生涯が描かれています。高知といえば坂本龍馬に代表される明治維新の志士たちを生んだお国柄だけあって、あちらこちらにやたらと銅像や生家などがあり、これらを使った物語やまちづくりには事欠きません。今度の大河ドラマによって一豊の妻千代が加わりその熱はオーバーヒート気味のようです。

 しかしこれは小説家が後の世に書いたあくまでもノンフィクションの世界であり、千代があれほど美人だったかどうかも疑問なのです。ドラマを見ていつも思うのですが何故にあんな美人ばかしを登場させるのだろうかと・・・。それは視聴率を上げるためにいたし方のないことかも知れませんが、もう少し普通の世界を描いてもいいのではないかと思うことさえあります。

 戦国時代の醍醐味は手柄と出世です。大将の首の一つもとれば大きな手柄となり出世は間違いなしです。時々取った首の実検分が行われるシーンがありますが、さらしに包んだ血の滲む首は思わず目を背けたくなる光景です。でも何故かその首なし死体はどうなっかまでは放送には出てこないのです。

 大阪夏の陣で徳川方は豊臣方の首を2万人も取ったといわれています。取った首は首検分されますが、これは宗教の弔いの儀式でもあったようで、首は身分によって作法が定められ軍師が管轄していました。

首検分の後の死体や名もなき雑兵の遺体はそのまま放置され野に朽ちるのを待つだけでした。日本では死者を「葬る」といいますが、語源は「放る(ハブル)」、「棄る(ハブル)」ではないかといわれています。

 遺体の放り方はそのままかゴザに巻いて放置、大きな穴を掘って遺体を捨ててそのままにする。川や沼に沈めるなどいずれも手厚く葬ることはしなかったようです。

 戦場となった場所にはその後の人が供養のため石を置いたり塚を立てたりしたようですが、時々工事現場からそんな戦の後が見つかるのも当然のことといえましょう。

 ドラマは時として格好よい場所だけを誇張して表現します。「小説家見てきたような嘘を書き」かもしれません。信長や秀吉や家康といった時代の英雄のわがままな戦にどれ程の名もなき人が死んだであろうと思う時、ドラマの華やかな一面だけでは語れない隠されたもう一つのドラマにも心を移して欲しいと思うのです。

  「高知では 大河ドラマに 名を借りて 地域おこしに 熱を入れ過ぎ」

  「鬼の首 いや大将の 首を取る それ程しないと 功名上がらず」

  「俺の妻 千代より上だ 褒めてみた 褒め殺しだと かえって冷めた」

  「高知県 銅像好きな お国柄 えーとあそこに あそこにもある」

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○私の名前と顔を覚えていた認知症のおばあちゃん

 昨日親戚の叔父が入所しているわが家の近くの特別養護老人ホームへ見舞いに出かけました。老人ホームといえば薄暗いなんて想像しますが、今のホームは明るい色調で窓から明かりが入り明るさそのものです。入所している人も過去を忘れている以外はみんな元気で日々の暮らしを営んでいます。

 「若松の進ちゃんじゃあないの」。いきなり見覚えのある顔が声を掛けてくれました。「はいそうですが」と答えて手をとりあって昔のことをお話しました。過去を忘れているなんて失礼なことを申しましたが、何人かの認知症の方でも何故か私の顔と名前を覚えていたのです。近所にいたヘルパーさんも驚いた様子で「へえー、おばあちゃん、進ちゃんを知っているの」「そりゃ知ってるがな、昔お世話になったもの」。「ところで進ちゃん、あーちゃんは元気かな」。名前が出て一瞬戸惑いました。あーちゃんとは私の母アキ子の愛称なのです。「おばあちゃん。あーちゃんは5年前に亡くなりました」「ほうそれは知らなんだ。香典を送らずに」。まあこんな具合に普通の会話が出来るのです。

 見舞いが終わって帰ろうとすると、私の服をつかんでもう少し話をしてくれとせがむのです。おばあちゃんの話を要約すると「私はボケていないのに嫁は『ばあちゃんはボケたボケた』言うてここここに入れられた。ここに入ってもう3年になるというのに見舞いにも面会にも中々来てくれない。寂しい」そうです。

 所用があるので「また来るきんな」と言っておいとまをしました。ふと私は高齢化社会への不安を感じました。確かに昔と違って長男夫婦が家で高齢者を介護する時代は終わり、こうした立派な施設で老いを迎えれることだけが幸せな人生だとは思えないのです。いつの時代も、幾ら時代が進展しても子供の親に対する敬愛の念は変わることはない、極論すれば変えてはならない倫理のようなものだと思うのです。施設に入ることは仕方がないことです。でも施設へ入れることが即立派な親孝行だとは思えないのです。施設に入れても親の顔を見にくることぐらいは出来ると思うのです。

 私はこのおばあちゃんと口約束をしました。覚えているか忘れるかそれも分りません。でも認知症と言われながらも私の顔を覚え、私の母親の名前「あーちゃん」まで覚えているのですから、約束どおり近々おばあちゃんの顔を見に特別養護老人ホームへ面会に行きたいと思ってます。おばあちゃんお元気でね。

  「認知症 言われながらも わが名前 覚えて声かけ 嬉しい出会い」

  「また来るね 言葉約束 交わしたり 近々覗くと 心に決めて」

  「親孝行 何をすること 分らない 今の世の中 大分狂って」

  「俺だって 間もなく来るよ このホーム 小さな幸せ 見つかるかもね」

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○四国八十八ヵ所参り

 四国には有名な八十八ヵ所のお寺参りがあります。10数年前私たち夫婦もお寺参りをしようと納経帳を買い求め札所参りを始めました。別に宗教心が芽生えた訳でもなく、何の目的がある訳でもないただ何となく始めたためでしょうか、10数年が経つというのに未だに完結していないのです。昨晩テレビを見ていてお遍路さんの話題になり妻がしんみり言うのです。「私たちのお寺参りはどうなっとるん」です。はい正直に申せばまだ三分の一は残っているのです。私のようないい加減な気持ちと違い妻は既に両親を亡くしているので、その供養もあったのでしょうが、地図にまだお参りしていないお寺の番号をちゃんと記録しているのです。それによれば香川と徳島に集中しているので遠出になるとは思うのですが、思い切って残りのお参りを明日にでも再会しようという相談がまとまりました。心配なのは親父の夕食づくりですが、明日の朝早く起きて作っておき、春休みの息子に頼んで出かけることになりました。

 四国八十八ヵ所は全工程1400キロともいわれる長い長い道のりです。お寺を探すのも食事をするのも容易でなく、いつも結果的に妻と言い争いになり何のためのお寺参りかわからないことも過去には何度かありました。そのため妻はカーナビを4年前に購入してお参りに備えたのですが、結果的には私の忙しさにかまけてナビ装備後は一度もお参りしていなかったのです。

 明日はあいにく雨の天気予報のようですが、早起きしてまだ決めていない香川か徳島を決め、二人でおまいりしたいと思っています。そして出来れば今年中に決願して高野山へお礼参りに行きたいと妻はもうその気になって準備を始めています。私たちより遅く始めた姉夫婦はもう3順目のお参りに余念がなく、妻は私と義兄を比較して熱心さが足らないと散々言われました。はいその通りです。

 私は四国八十八ヵ所世界遺産化の会のメンバーでもあります。だのに自分のこととなるとこういう手合いです。本当は歩き遍路をやりたいのですが妻が私の体を気遣って許してくれませんから、せめて妻と弘法大師と同行3人の行脚でもやりましょうか。

  「十年が 経つのに未だ 回れない 妻に諭され お寺参りに」

  「春来ると 伊予路に鈴の 響きあり スゲ傘杖の いでたち歩く」

  「お経さえ ロクに読めない 二人だが スタンプラリーの 如く印押し」

  「今頃は 桜咲く寺 あるだろな 秋の紅葉の 寺を思いて」

   

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shin-1さんの日記

○ラジオ体操

 私の書斎の片隅に、嫁いだ娘が学生の頃愛用していたミニコンポが置いてあります。私は毎朝起きると直ぐにコンポのスイッチとパソコンのスイッチを同時に入れて、パソコンを打ちながらこのコンポを聞いています。このコンポは私が東京へ出張で行った時、秋葉原の電気店の店頭で「特価・現品限り」と書いた張り紙を見て買い求め、娘にプレゼントしたものです。当時娘は大変喜んでホッペにキッスまでしてくれました。娘は毎日毎日このコンポでテープやCDを聞いていました。ところが結婚が決まり自分の持ち物を整理して家を出る時、あっさり「このコンポお父さんにあげる」というのです。自分の一番大切なものがコンポから一人の男性に変わった瞬間でした。以来私は息子の手を借りてこのコンポを書斎の隅に置き、配線接続をして利用しているという訳です。

 私の知識は毎日軽やかに流れるNHKのラジオから、吹く風のようにごく自然に耳に入ってきます。つまりこちらの放送局のサイクルを963ヘルツに合わせたままなので、スイッチさえ入れればNHKのニュースが聞けるようにセットされているのです。

 昨日の朝久しぶりに「ラジオ体操」を聞きました。普通は朝の忙しさでラジオ体操が流れても意識しなかったのですが、昨日は仕事が一段落したこともあってラジオ体操を行いました。ラジオ体操には第一、第二があるのですが、第二は余りやらないものですから忘れてしまってトンチンカンでした。しかし驚いたことにラジオ体操には第三があったことをあなたは知っているでしょうか。

 ラジオ体操は子どもの頃から学校や町民運動会などで毎年毎年繰り返し行われてきましたが、その殆どは第一が殆どでした。ラジオ体操は昭和2年から逓信省簡易保険局がアメリカを真似て国民の健康のために始めました。関係者の努力で次第に広まり人気番組となったので昭和7年に第二が、そして昭和14年には第三の放送も始まったようです。その後戦争の影響もあって中止されましたが昭和26年に再び新しい第一・第二放送も始まり、昭和31年からは曲だけでなくラジオ体操の歌まで放送されるようになり今日に至っています。でも第三は結局作られなかったようです。

 今朝も軽やかにラジオ体操の歌が聞こえる時間になりました。あの歌を聞くと何となく「さあ今日も頑張ろう」という気分になります。今朝も昨日に続いてラジオ体操をやりたいと思います。

  「古くても 新鮮感じる ラジオの音 いちにいさんしい 体動かし」

  「第一は 体が覚え 第二など 頭だけしか 動作ちぐはぐ」

  「投資など しない私にゃ 無関係 株価為替の 値段放送」

  「この天気 雨が降るかも 知れないと 本当に雨が 驚く的中」

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shin-1さんの日記

○拡大するものと縮小するもの

 この20年間のふるさとの移り変わりをざっと振り返ってみると、拡大するものがある反面縮小傾向のものも数多くあります。20年前といえば双海町という自治体がまちづくりに目覚めた頃でした。その頃の双海町はお墓参り以外人の来ない観光とは程遠い町でした。しかし交流のまちづくりを進めた結果シーサイド公園やふれあい公園、それに下灘運動公園の整備によって夕日や花をモチーフに、県下でも屈指の観光地に生まれ変わり、年間55万人もの人が訪れるように拡大しました。また昨年の合併によって行政区域が広域化し伊予市という新しい自治体に組み込まれました。また双海町という小さい地域に暮らす人々は道路網の整備と情報網の整備によって暮らしのあり方が変わり、買い物も隣町へ車で行く時代になるなど広域化しています。住民組織も合併の影響で外への広がりが見られています。

 一方人々の暮らしはどちらかというと縮小傾向にあります。人口が減り、少子化が進み、高齢化により集落の機能は限界集落といわれるように高齢化率が50パーセント近くになろうとしています。農業は担い手が減少し高齢化による生産能力が低下、所得も中々伸びません。最も大きな変化は商店街の消滅で町内での買い物さえままなりません。漁業は生産量が年々減少しています。婦人会や青年団は消滅寸前です。PTAも役員のなり手がないと悩んでいます。合併によって行政サービスは低下の一途を辿っています。給料は上がらず生活は苦しいと嘆いています。学校も子供の数が減って空き部屋が目立ちこのままだと統合しないと部活もままなりません。

 これも全て時代の流れなのでしょうが、「時の流れに身を任せ」るだけで諦めて何もしなかったら、地域は悲しいかな消えてなくなってゆくかもしれません。拡大だけがいい社会ではないことはバブルの崩壊で嫌というほど味わいました。縮小も平成の合併で只今悲哀をなめています。どちらにしても自分や地域の自立を考え行動しないと生きている意味がありません。さあ勇気を持って力強く生きてゆきましょう。

  「わが家でも この二十年 変化あり 子ども三人 婆二人減り」

  「増えたのは 家族みんなが 二十歳 歳を重ねて 高年齢」

  「借金が 減って身代 増えました 汗し働き 今があります」

  「妻の腹 増えて胸やせ 二十年 老い先短く 食も細りて」 

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shin-1さんの日記

○植物にも血液型がある

 毎日コツコツとたった一人で自宅の周りの草を引いている父親を見るとまるでアリのような働きをしています。パワーはないもののゆっくりとした作業ですが確実に家の周りは綺麗さを保っているのも親父のお陰と感謝しています。親父がアリなら私はさしずめキリギリスで、毎日毎日遊びほうけています。今朝も「今日は何処へ行くのか」と聞くものですから、「今日は何にもないから草引きを手伝う」と言いました。「ところでお前は一体何の仕事をしよるんぞ」と唐突に聞きました。私は正直言葉に詰まって、『フリーター」と答えてしまったと思いまいました。案の定「フリーターとは何ぞ」と返すのです。親父の感覚では仕事とは毎月きっちりと給料を貰って働くことを言うのでしょう。私は「講演を頼まれたり、大学へ教えに行ってる」と答えたのですが親父は「そんなことで飯が食えるのか」「心配せんでも大丈夫、繁子も勤めているから」「もう繁チャンも辞めさせてやらんと」「うんそのつもりよ」、会話は続きましたが外に出て親父と二人で中庭の除草を始めました。

 外は夜来の寒波で少し肌寒い風が吹いていますが、春の日差しと労働の体温で心地よく作業をしました。しかし作業の途中で携帯が鳴るし、中から息子が「お父さん電話」などと呼ぶものですからその都度手をとられました。それでも二人で11時過ぎには粗方の作業が終わりホッと一息つきながら、親父のくれたオロナミンを飲みました。あとは引いたり削った雑草を家の隅の捨て場に持って行くだけなのですが、来客ありで結局は父の仕事となってしまいました。

 ところで人間と同じように植物にも血液型があるのをご存知でしょうか。最初は私もそんなものあるかと耳を疑いましたが本当にあるのです。普通人間の血液型は抗体と赤血球を交ぜて反応させることで特定するのですが、植物の場合は植物を細かく刻んだものに血液検査に使う抗A、抗Bといった抗体を作用させどの抗体が結合するか調べる方法をとるのだそうです。大根やツバキはO型、アオキはA型、セロリはB型、ソバやバラはAB型だそうです。血も通っていないのに血液型が存在するというのは不思議な話ですね。じつは植物には糖タンパク質という物質が含まれていて、これが血液の凝固を起す性質を持っているから、検査をすれば人間の血液と同じような反応が起きるという訳です。ただし植物の血液型はあくまでも検査による反応が起こるだけのものだそうです。

 ある殺人事件で現場の血痕のついていない枕からAB型の反応が見つかったそうです。実はこの枕の中のソバ殻がAB型の血液型と同じ反応を起こしたためで、あわやミステリーとなるところでした。

  「親父アリ 俺キリギリス 仕事ぶり 結局アリが 仕事を成就」

  「植物に 血液型が あるなんて 知らぬ存ぜぬ 私はセロリ」

  「春来たと 草が芽を出す 家周り 親父毎日 草取り仕事」

  「柔らかい 葉っぱ唇 押し当てて 草笛涼し ウグイス相槌」  

  

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shin-1さんの日記

○ツリーハウスプロジェクトいよいよスタート

 人間牧場の第3期工事がいよいよスタートします。昨日私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループのメンバーである日浅さんと湯山さんが今治から人間牧場にやって来ました。二人はツリーハウスプロジェクトを担当するため私の案内で下見をしながら私の頭の中にある構想を話しました。人間牧場の隅に生えてる元株が一抱え程もある杉の木がツリーハウスの現場です。この木はもともとはみかん畑の防風垣のために植えられたものなのですが、一番西の隅にあり日当たりに影響がなかったからでしょうか伐採や剪定の難を流逃れみかん畑の栄養を存分に吸って大きく成長してきました。ですから大きさは少し不足なのですがこの木に決めました。

 大きさは4人がやっと、普通は二人用で畳2畳と決めました。急峻な所なので土台となる柱を立てて少なくとも15年は風雨に打ち勝つ工夫が必要です。工期は逆手塾が6月に予知されているので5月末日と決めました。今回はグループの温情にすがり財政的支援も既に総会で決まっているので大助かりです。

 日浅さんは本職の大工さん、湯山さんは左官さんですから材料から施工まで私がとやかく口出ししなくても、長年無人島キャンプで付き合っている間柄なので暗黙の意思疎通ができているのです。

 ツリーハウスを作ろうと思ったきっかけは少年の頃の思い出です。仲間とともに山の上に隠れ家を作りよく遊んだものです。ワクワク・ドキドキするような場所を作り、そこで昼寝をしたり読書を楽しんだり、時には遊び道具に挑戦したりしたいと思っています。さて水平線の家、五右衛門風呂に次ぐ第3の施設は手作りだけにどんなものになるかまさにワクワク・ドキドキの心境です。

 先日中学生がやって来た折この話をしたら、沢山の質問を頂きました。小さなメルヘンの世界を夢見る私はまだまだ中学生と同じく発展途上です。これからも人間牧場をフィールドにして多いに遊びたいものです。

 昨日息子から携帯電話が入り、インターネットで奥戸さんが見つかったそうです。金額が思ったより少し高いので、もう少し考えを温めようということになりました。第2期工事の工事代が幾らになるのか少し心配です。妻曰く「もう逆立ちしても鼻血も出ない」と。そんな妻ですが言った口の下、友人に「ええ所が出来たよ。遊びにおいで」だって・・・・。

  「次々と よくも考え 出るものと 呆れた妻の 呆れた言葉」

  「人生は 二度ない悔いず 生きようと 思いを込めて 更に磨きを

  「イメージを 喋れば仲間 うなずきて ツリーハウスの 予定地計る」

  「ヤッホーと 大声出せば こだまして わが耳帰る 春の海山」

 

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shin-1さんの日記

 ○町長と課長

 正確には5期20年の長きに渡って上司と部下の関係だった元町長の丸山勇三さんに久しぶりに出会いました。出会ったというよりはブログを書きながらふと昔が懐かしくなって近況を報告するつもりで電話をしたのです。私は昔の癖で勇退をされてからもう3年になるというのに、電話でも出会っても丸山さんとは言わず町長さんとつい昔の癖で呼んでしまうのです。でもひょっとしたら私が生きてる限り丸山さんは町長であり課長なのです。丸山さんは私のことを「若松君」と呼びますが、時折「課長」と言ったりもしますのでまあいいかと思っています。

 「ちょいとお邪魔してもいいですか」とついつい町長室へ行くような気持ちで甘えてしまい、500mくらいしか離れていない所に住んでいるものですから自宅に行きました。普段着での急な訪問にも関わらず町長さんは背広を羽織って私を座敷に通して上座に座らせました。二人で向かい合って座るとまさに町長と課長の関係のようです。

 冒頭に20年と書きましたが私がこの町長に直接仕えたのは16年と5ヶ月です。就任されたのは双海町が町名変更問題で揺れた頃でした。お互いがその問題に深く関わっていたこともあって就任後私は産業課への異動を命じられ、町長の一期目は離れた存在での仕事だったのです。でもその一期目の4年目に企画調整室でまちづくりを担当するようになり、深い関係が町長の退職まで続いたのです。最後は1ヶ月弱の退任まで教育長として推挙任命され仕えました。

 次の上田町長にバトンタッチして退任されてから早くも3年が経ちました。その間一切政治の表舞台から姿と声を消してしまった潔さはさすが見習うべきと、私が昨年自由人になったのも町長の影響があったのかも知れません。

 町長は新しい市政に心を痛めているようでした。しかしかつての議員さんたちが痛めている頭とは少し違っていました。かつての議員さんの殆どは今回の機構改革に伴う支所の6課を2課にする縮小問題でしたが、そのことよりもむしろ行政改革についての心配でした。旧伊予市は3万の時代に部長制を一度廃止した経験を持っています。今回の合併で中山と双海が合併したとはいえ僅か1万人の増加です。ところが今までなかった管理ポストの部長は一気に6人も増え、旧支所長となるであろう人を加えると8人にもなるのです。行政改革は議員の数が大幅に減りそれなりの効果がありました。しかし職員の行政改革は異動の度に費用を掛けてパソコン工事を行い、一向に進まないのです。職員の給料を下げたと胸を張りますが、生活給を下げられて職員のやる気の低下を考えれば手放しでは喜べないのです。

 町長は支所の縮小は行政改革から考えると予期したことであり理解をしておられましたが、議員へのしっかりした事前説明が足りなかったことへの反省など、体制批判より体制へのエールのようなご意見に意を強くしました。首長の仕事を長年こなしてこられた方の話に感服し、四方山話に花を咲かせおいとましました。これからも時々お会いしたいものです。

  「若松君 はい町長と 呼び合って 積もる話に 一花咲かせ」

  「三年が 経った今でも 町長と 呼べる人あり 何かにつけて」

  「始めるは 人に相談 止める時 自分決断 いつも口癖」

  「双海町 愛した二人 今もなお 仕事せずとも 愛は変わらず」

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○この字何と読むのですか

 今日えひめ地域政策総合センターの清水さんから「この字何て読むの?」と電話が入りました。「魚偏の右側に上は目下が高なんですけど」とまるで分らぬ質問です。漢字博士としましてはこんなもの読めないようではと「エヘン。これはコウと呼びます。多分その字は三つの漢字からなっていてその次が寿、そして最後は庵でしょう。この3文字で『コウジュアン』と読むのです。エヘン」。清水さんは驚いた様子でした。それもそのはずこの漢字の出所はわが双海町から出た漢字なのですから・・・・・。

 この漢字を考え付いたのは川口寿雄さんです。彼はメダカの学校の校長先生として愛媛県では名の知れた人でしたが、残念な事に二年前に亡くなりました。彼と知り合ったのは偶然で、私たち21世紀えひめニューフロンティアグループが双海町東越地区の廃屋を利用して10年で40回のフロンティア塾を開いたことがきっかけでした。そのことを告げる新聞を頼りに私の基にやって来た川口さんは、一見の民家に魅せられて購入し、そこにメダカの学校を開いたのです。そして東大の井尻憲一先生や宇宙メダカと運命的な出会いが始まり、多くの人がメダカの学校に訪ねてくるようになりました。私もその片棒を担ぎ随分二人で色々なことをやりました。そのメダカの学校の名前が「コウジュアン」なのです。清水さんが電話で言うように「辞書で探してもない」はずで、この「コウ」という文字は造語なのです。ですからパソコンで書きたくても私の技術では書けないのです。この文字を見る度に元気だった頃の川口さんが思い出され悲しくなります。

 実はこの漢字を思いついた時、私に川口さんから色々相談を受けました。メダカの学校の名前を何にするか迷っていました。その頃私も夕日という造語を作っていましたので、これにヒントを得て彼は「コウ」と言う字を発案し相談にやって来ました。私がこれは名案だと褒めたものですから一発で決まりました。

 私の作った夕日という造語は旭という字の向こうを張ってその字もズバリ夕偏に日と書くタダそれだけ、つまり夕と日をくっつけただけのシンプルにして妙な漢字です。私はこの漢字を名刺に刷り込んだりして随分使いましたが、一向に社会に認知されたり普及しないところを見ると首を傾げなければならないのかも知れませんね。

 でもいいんです。天国へ一足先に行った川口さんが認めてくれ、私も川口さんの「コウ」を褒めたのですから、せめて二人の息が合っただけでもよしとしておきましょう。

 これに気をよくして色々な造語を作って悦にいった時代がありましたが、もう昔のことだし紹介すると笑われますので今回はこの辺で失礼します。

  「この字どう 読むのと聞かれ 読みました 誰も読めない 世界に一つ」

  「この漢字 俺が作った 造語です 夕偏日で 一文字夕日」

  「魚偏 すし屋のコップ 書いてます 読めるの半分 読めない半分」

  「亡くなりし 友の作った 漢字見て 感慨深げ メダカを思う」

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