shin-1さんの日記

○小さなイノベーションを起した小さなイノベーター

 何年か前ある人がある会で私に、「あなたは小さなイノベーションを起した小さなイノベーターだ」と、夕日によるまちづくりを総括して形容したことがありました。その後各地の集会でイノベーションとか、イノベーターとかいう言葉が飛び交い、意味を辞書で調べたことがありました。

 その時辞書を引いた言葉の意味をわが防備録に書いています。それにによると
イノベーションとは、1、新基軸、革新、2、新製品の開発、新生産方式の導入、新市場の開拓、新原料、新資源の開発、新組織の形成などによって、経済発展や景気循環がもたらされるという概念、シュンペーターの用と書いているのです。

 その当時は革新運動とか革新者などと勝手に解釈し、わが自著本「昇る夕日でまちづくり」にも、「革新とは今を否定して生きること」などと戯言を披瀝しているようです。

 先日黒川清著「イノベーション思考法」という本を読みました。今までモヤモヤしていたその意味が明快に書かれているのです。

 「イノベーション」は、経済学者のヨーゼフ・シュンペーターが、20世紀のはじめに提唱した経済学の原理のひとつである。企業や社会は成長し、成熟するにつれて保守的になる。そしてこれを中から壊していこうとする人たちが出てこない限り、いつか必ず朽ち果てる。したがって、組織を健康的に継続するためには「創造的な破壊」が欠かせない。これがシュンペーターのいうイノベーション・セオリーの基本的な考え方なのである。

 このことについて、OAK・TREEフォレスト羅針盤で、詳しく解説しています。つまり「イノベーション」の本質は、過去の成功体験と既存権益を守ろうとする内部の抵抗をはねのけ、組織や社会の持続のために必要な変革を、積極果敢に成し遂げることにあるのです。新しいアイデアや技術的な新基軸を見つけて終りにするのではなく、それを社会に広め、新しい価値体系をつくり、新しい経済成長を呼び起こし、結果として社会全体を変えない限り、イノベーションと呼ぶことはできないのです。

 ふと、夕日によるまちづくりのことを思い出しました。確かに夕日などという新しい地域資源でまちづくりをすることは、封建的で保守的な組織や意識を中から壊そうとするのですから、大きな抵抗があることは当然のことです。それは反対という行動で潰されていく運命にありましたが、小さなイノベーターによってイノベーションは起こったのです。でもその小さなイノベーションさえも次第に過去の成功体験と既得権益となって、それをを守ろうとする人たちによって守りを固められ、ついにはマンネリの道を進んでいるのです。

 ふと、合併後のまちづくりのことを思い出しました。確かに合併は地域にとって大きなイノベーションでした。しかし3年が経った今では、旧市町村の既得権益を守ろうとする人たちの必死の抵抗によって、議会も行政も醜い骨肉の争いをしています。市町村合併は外から壊したため内部が壊れずイノベーションの失敗事例かもしれませ。

 ふと、私が務めるまちづくり組織のことを思い出しました。確かに安定成長のように見えますが、この激しい時代変革の世の中で組織を守ることに汲々として、中から壊すイノベーターがいないのです。だとしたら、身を引くことだって小さなイノベーションのような気がするのです。指導者はいかに早く去るか、いかに早く死ぬかが命題なのです。

  「ふと思う イノベーションを 起したが それを守らば 元の木阿弥」

  「さあ起そう イノベーションの 波風を 出来ない人は 去るか死ぬかだ」

  「シュンペーター 俺はさしずめ シンペーター 気概を持って も一度トライ」

  「壊さなきゃ 新しきもの 生まれない 坂本龍馬 言ってるようだ」  

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shin-1さんの日記

○進ちゃん単車に乗る

 この2~3日天気がよいので、車庫から50CCのバイクを取り出し水洗いして埃を取りました。綺麗にふき取ってピカピカとまではいかなくれも、それなりに整備をして乗れるようにしました。この単車もう10年以上も乗っている年代物なのですが、今は春と秋くらいしか乗らないのでまだまだ十分乗れるのです。ガソリン代が高くなったこともあって止むに止まれぬほどではないにしても、それなりに生活防衛すべきだと、単車に乗ることを思いついたのです。

 昨日ブログの記事をプリントアウトしていてインクが切れ、慌てて近所の電気屋さんに行きましたが、あいにく私の使っているエプソンのカートリッジインクが品切れで、プリントアウトを途中で止めていました。今日は何が何でも片付けたいと思っていたので、思い切って伊予市まで単車で遠出しました。双海の海岸から三秋峠を経て伊予市街へ通じる国道378号線や56号線は車の数も少なく、心地よい風が頬を撫で快適そのものでした。本当はエミフルにでもと思ったのですが、途中でマツヤ電気という看板が目に付き入ってみました。店員さんにあらかじめ用意した品番を言うと直ぐに見つけてもらいとりあえず4個買い求めました。店員さんとの雑談でしたが、エプソンのプリンターは何故かインクの減り方が早いようだと言うと、「そうですかお困りですね」と同調してくれたものの、このままだと当分インク代は覚悟しなければならないようです。

 再び元来た道を引き返しましたが、車の台数が多くてもその横をスイスイ追い抜いて行ける単車は天気さえ良ければまさに省エネタイプの乗り物です。50CCですから時速は30キロに制限されていますが、オーバーいっぱい39キロで走行していて、突然三秋峠の頂上付近でパトカーが取締りをやっていました。行く時はいなかったのにです。でもその取締りはシートベルトとヘルメットの取締りのようで、止められもせず通過しましたが、よくぞスピードを出し過ぎていなかったと安堵の胸を撫で下ろしました。少し走って高野川の清掃センター付近で今度は白バイと出会いました。下りなのでここでもギリギリのスピードだったと思いますが。対向だったため後に通り過ぎて行きました。

 私は役場に務め始めた頃は普通車の免許がなく原付自転車の免許しかありませんでした。故に8年間も自宅から役場までの8キロを毎日単車で往復しました。当時の道は悪路と呼ぶに相応しく、雨の日や時化の日など合羽や防寒具を着て走ったものです。特に冬の寒さは格別で、家に帰ってしばらくは体の心まで冷えてきつかったことを覚えています。私が単車では知るその横をスポーツカータイプの乗用車で格好良く走っていた同僚は、歳をとった今では何故か軽四に乗って、台所の苦しさを物語っていますが、同じように台所が火の車でも普通車で走る私と逆転現象を起しているのです。

 単車の思い出は切りがありません。子どもが出来たというので実家のある八幡浜の私立病院へ、単車に子どもを乗せて無謀にも見舞いに行きました。単車の前に座らせた子どもが途中で眠ってしまい、起きるまで平家谷という峠道で休んだところ夜になってしまったこと、妻と結婚が決まりわが家へ遊びに来た時、駅まで単車で迎えに行き二人乗りして帰ったこと、ゼロ半10台を連ねて観光宣伝隊を企画し話題となったことなどなど、今でも鮮明に覚えているのです。すっかり時代遅れとなった単車ですが、ここにきて再び蘇えりました。単車に乗ると何か一回り若返ったような気になるから不思議です。「さあ明日も日和だったら単車で」と妻に話したら、「年寄りの冷や水」とたしなめられました。妻にとって単車は今でも危ない乗り物のようなのです。

  「さっそうと 風切り走る ゼロ半は 俺と同じく 時代遅れか」

  「ここに来て 省エネ活用 意味がある 単車復活 確か手応え」

  「そうだった あれこれあった 思い出を 反芻するよな お歳になりて」

  「悪いこと 出来ぬとばかり 警察に よく会う日だと 思いわずらう」


 

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shin-1さんの日記

○習慣化すれば

 私は凡人です。ゆえに子どもの頃から人並みなこともできず、こんな人間に生んだ親を恨むことさえありました。今でも親父の語り草ですが、私は小学校へ入るまで10の数さえ数えられなかったそうです。私が小さい頃は戦後間もない頃もあって、村には幼稚園や保育園などなく、子どもはいきなり小学校へ入学しました。故に小学校へ入る準備といえばカバンと学生服だけで、そのカバンさえ近所の裁縫の得意なおばさんが厚手の白生地で縫ってくれた肩掛けカバンでした。中に入れる教科書も姉のお下がりが何冊かあったような記憶があるのです。そんなこんなの時代ですから学校など余り重要なことではありませんでした。それでも私の10を数える訓練は、家の前の海岸に転がって小石を10個拾ってきて毎日続きました。昔の漁家は魚を獲る網や縄さえも自分で作らねばならず、漁から帰った親父は毎晩夜遅くまで網をすき縄をなっていましたが、その横に座らされた私はその小石を使って10の数を数える練習をしたのです。それでも偉いもので何日かするとそれが習慣となって、小石を沢山拾ってきて、足し算や引き算までもできるようになって、人並みに回復したばかりでなく、算数が少し得意な教科にまでなりました。

 習字も苦手でした。第一習字の道具は家に一つしかなく、姉が学校で使う日は私は筆だけを持って学校へ行き、友達に墨を磨ってやって一緒に使わせてもらいました。その当時は白い半紙など仕上げに使うもので、新聞に何度も何度も真っ黒になるまでなぞって書きました。その新聞すらわが家ではとっていなかったので、友だちや先生に貰いました。その時字が読めないのに貰った新聞の中から、一枚だけ譲り受けて大事に家にとって帰り、隅から隅まで何度も読んだものでした。お陰様でそのうち国語が得意中の得意となって以後私の読書開眼となって行くのです。

 「それも分らないのか」と夜なべする親父は鯨ざしの定規でピシャリト手の甲を叩かれた痛さは今も忘れることができないのです。人は自分の醜い部分を隠す習性があります。女性が顔にお化粧するのもより美しくしようとする行為であり、政治家が学歴詐称するのも、自分をよりよく見せたいと思う心でしょうが、貧乏や出来が悪かったことなど好んで話すことではありませんが、それを習慣という努力によって克服した話は、私にとっては胸を張れる出来事なのです。お陰で人間習慣化すれば出来ないことはないと思うようになり、以後の私の人生を決める事になるのですから世の中は不思議なものです。

 理屈は一度聞けば分りますが、それを本当に自分のものにするには、毎日毎日繰り返し習慣化しなければ成就するものではないのです。近所に住む友人はゴルフが好きで今はシングルです。でもシングルになるため彼は毎日朝晩家の横に設えた小さな猫の額ほどの練習場で練習をしているのです。私だって毎日三枚のハガキをもう22年間も書いているのですから、凡人だって習慣化すれば非凡になることを証明しています。

 人には良い習慣と悪い習慣があります。酒やタバコを止めれないのは悪い習慣でしょう。毎日出会う人、出会うことに対する見方や考え方、行動が自然体でできるようになる習慣づけは人生を楽しくしてくれます。どおってことない早寝早起きだって簡単にできる習慣なのです。

  「十の数 数えられない 俺だって 今じゃ立派に 経済語る」

  「習慣は 一度はまると 病み付きに これが出来れば 非凡人生」

  「手の甲を 摩って思う 親の恩 小石数えた 懐かし日々を」

  「続ければ 行というべき 行いに なるから不思議 暮らし充実」

 

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shin-1さんの日記

○内は紙ごみ焼却と外は草削り、すっかり綺麗に

 このところ天気予報が合わず、今日は予想に反してうす曇りです。だんだん暑い夏が近づいて何となく蒸し蒸しするような日和です。わが書斎の中も、このところの忙しさで、まるで紙ごみに囲まれているような雰囲気なので、朝から身の回りの掃除をしました。キャリーを持って来てその中にいらなくなった資料をどんどん投げ込んでゆくのですが、1時間ほどでキャリー5箱分の紙ごみが出て来ました。中にはシュレッターにかけなければならないような物もあるので、畑の隅にある自家焼却炉まで運んで焼却処分です。紙は一枚一枚入れればよく燃えるのですが、分厚い資料などは外が燃えるだけで入れれば入れるほど燃えないのです。傍で見かねた親父が長い鉄の火かき棒で中を交ぜながら燃やしてくれました、何せ大量なので親父の手助けがあっても昼間でかかってしまいました。私はパソコンを使ってブログのプリントアウトをしながらの作業で、1月。2月・3月の三ヵ月間もプリントアウトできてホクホクです。途中インク不足の警告ランプがつき、近所の電気屋さんに買い求めに出かけましたが、あいにく形式番号が合わず、今日の作業は断念しました。捨てても捨てても貯まる一方の紙類にうんざりしながら日々を過ごしていますが、もうそろそろ紙ともお別れしなければならないようです。まあもう一日捨てればスッキリする予定なので、いい日を選んでまた大掃除をしたいものです。

 昼からは家の周りの草削りをしました。家の周りといってもわが家は敷地面積660坪、貧乏なくせに敷地だけはやたら広いのです。この20年余りは親父が中心になってこの敷地の樹木や野菜、それの雑草除去を一手に引き受けてやってくれていましたが、年老いた親父の力だけでは追いつかなくなってきました。去年辺りから私も手伝っていますが、健康そうで健康でない私はアリのように働く親父の半分もこなせないのです。

 それでも今日は裏庭と表庭の殆どを草削り用の鍬で削ってしまいました。今年は春先についで、これで早2回目の草削りなのですが、今日は暑くて汗が吹き出るようにびっしょり出ました。「もう限界だ止めよう」と思ったのは午後5時頃でした。仕事から帰った妻は、周りの庭が綺麗になったのを見て驚いた様子で「まあ綺麗、ご苦労さん、まあ一休みしてスイカでも」と大変なサービスぶりです。「おいおい一服したらまた続けろというのか」というと、「無理をすると長続きしない」と、止めるよういわれ、一番風呂へ入り汗を流しました。

 何年か前だと風呂上りに飲むビールのいっぱいは格別の味でしたが、今はそれも適わず美味しい食事をいただきました。

 このところの人間牧場や家の周りの草削りなどで、幾分か顔が日焼けしたのか鏡で見ると黒くなったような気がします。その分体も引き締まったように見えるのか、出会う人誰もが「元気そうななったね」とお世辞を言ってくれます。その都度「体重は変わらないのですがねえ」とか、「お陰様で」と適当にお茶を濁していますが、それでも「元気になった」と言ってくれるだけでも有り難いことなのです。

 このところ腰の具合もまあまあです。食欲もあるし夜もぐっすり眠れます。また仕事の意欲もあって、日々充実しています。ただ惜しむらくはやはり少々オーバーペース気味なので、もう少しスローダウンした方がいいのではと、妻も知人も言ってくれるので、そうしたいと思っています。でもやはり町の便利屋なのか、あちこちからボランティアまがいの仕事が舞い込んで、結局はオーバーワークとなっているのです。

  「内掃除 紙を処分し スッキリと 外は草取り ここもスッキリ」

  「昔なら ここでビールを 一気飲み 今は麦茶で 飲んだ真似事」

  「ご苦労さん 冷えたスイカで ねぎらいを さすが妻だな 嬉し気配り」

  「一番の 風呂に入って 歌唄う エコー聞いたる 俺もまんざら」  

 

 

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shin-1さんの日記

○カードの作成を断りました

 昨年の父の日に子どもたちかがプレゼントしてくれた、エプソンのプリンターを使い始めて一年が過ぎました。最初は嬉しくて様々なプリントを試みていましたが、そのうち慣れて今では日常程度の使い方になっています。あれ程自分のブログを全て印刷しようと意気込んでいたのに、気がつけば今年も早半年が過ぎようとしているにも関わらず、今年の分はまだ全然プリントアウトしていないのです。さてどうするか考えただけでも気が重くなりそうです。でもどこかでけじめをつけなければならないので、とりあえず一か月分だけでも徐々に進めたいと思い、昨日大学の講義に出かけた帰り道、松前のエミフルに出来た大型家電店DEODEOに立ち寄りました。というのも学生たちに「エプソンのプリンターインクは何処が安いか」聞いたところ、大型家電店なら大体同じような金額だと教えてもらったからです。

 DEODEOの店内は迷うほどの広さで、何処に何があるのかさっぱり分らず店員さんに問い合わせ、インクカートリッジの型式番号を告げ買い求めました。支払いレジに行くと店員さんが「お客様カードをお作りになりませんか。ポイントが貯まって断然お得です。このカードだと毎年幾らかお金がかかりますがいかがですか。開店の記念のため今回は無料です」というのです。普通このようなお店で使えるポイントカードは無料が多く、無料ならと思ったのですが、カードの嫌いな私は「次回からお金が要るのなら結構です」と断ってしまいました。怪訝そうな顔をした女性の店員さんを尻目に、そそくさと買い物を済ませて店を後にしました。

 最近はカードの時代でカードを作らせて会員としてお客の囲い込みを計るお店が随分増えてきました。ガソリンスタンドなどに立ち寄ると、殆どのお店がキャンペーン中だとか何か理由をつけてカードの勧誘をするのです。これらのカードは一回だけのものもあって、車の片隅で放置され、いずれゴミになる運命を辿るのです。

 「断る勇気」は中々難しいものです。前述したように私はカード決済が嫌いで、極力カードを持たないようにしています。行きつけのガソリンスタンドは会員証があれば3円引きなので、高くなったガソリン代に対抗する生活防衛のつもりで使っていますが、カードは先日作った高速道路のETCカードと二枚のみで、それ以外持っていません。銀行や郵便局などカードでお金を引き出したこともなく、その方法さえ知らないのですから、時代遅れもはなはだしいのです。

 お陰でカード時代には乗り遅れてしまいましたが、それでもカードによる事件に巻き込まれることもなく今日を迎えているのです。今の時代は流行を先取りして生きる人もいますが、私のように流行に逆らって生きている人も話してみれば結構いるものです。「あなたもそうですか。実は私も・・・・」なんて会話をして安心したりするのです。これからも「断る勇気」を持ってカード時代を乗り切ろうと思っています。

 それにしても「インクは高いなあ」、それにしても「インクは早くなくなるなあ」と思いつつ、プリンターのインクが揃って、さて始めるかと思った矢先、今度はプリンター用紙が少なくなっていることに気がつきました。「うーん間も拍子も悪いなあ」と自分の愚かさに納得しながら、思案の朝を迎えています。

 流行語となった「とりあえず」を引用して、今日のところはプリントアウトより、プリントインに心がける一日としましょうか。

  「インク代 馬鹿にならない 妻が言う その通りだと 私同調」

  「作りません? 誘いを受けて 作りません 断り店員 機嫌損ねる」

  「何枚も 見せびらかすよう カード持ち 買い物する人 偉いもんだね」

  「プリントを しようとインク 買い求め 紙を忘れた 俺は間抜けだ」

 

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shin-1さんの日記

○妻のとんだハプニング顛末

 「お父さん、、今日は大変だったのよ」と外出先から帰った妻が、開口一番武勇伝を語り始めました。「今日は帰りが遅くなる」と言って私が新居浜へ出かけたため、それなら自分もと孫を連れて映画を見に行ったらしく、帰宅してみると妻の姿が見当たらないのです。妻の携帯電話を呼び出しましたが、その携帯電話は置き忘れて居間で鳴っているのでです。仕方がないので娘の家に電話しました。すると何のことはありません。妻はまだ松山の娘の家にいるではありませんか。食事の時間なので早く帰って来いt少し叱るように話し電話を切りました。

 おっつけ妻は帰ってきての武勇伝です。聞けば映画館で孫を降ろし乗って行ったトラックの内キーをしてドアを閉めたようです。ところがキーロックしてから座席にキーがあったのです。さてそれからが大変、どうしようかと思案した挙句娘に電話して、加入しているJAFがやって来て僅か5分で開けてもらったそうなのです。しかもその作業代が無料というのも妻の武勇伝のひとつのようでした。普通ドアロック解除を業者に頼めば5千円から1万円は取られるのですから儲けたと思ったのは当然です。しかし人のことですから言えませんが妻も私に輪をかけた相当なお人よしでおっちょこちょいのようです。

 私は娘夫婦の勧めもあって何年か前JAFに登録しましたが、利用したことは幸せな事に一度もなく、更新手続きの度に「お金が要るだけならもう止めようか」と再三妻の不評をかっていたのです。それでも何かあったらと更新手続きを繰り返していましたが、ここにきて一気にそのモヤモヤが晴れたようで、いい加減なもので「やっぱり強い味方はJAFねえ」と、開いた口が塞がらないのです。

 そういえばJAFで思い出すのは2年前、人間牧場が出来て1周年を記念して広島の過疎逆と共催した逆手塾での出来事でした。人間牧場へはフロンティアのメンバーも迷うほど幾つもの枝分かれした細い迷い道があって、余程でないと迷ってしまうのです。その日はフロンティアのメンバーが何度も往復して最寄のシーサイド公園やJR下・上灘駅を往復し送迎に当たってくれました。来る時はみんな水先案内人がいるため簡単に来れるのですが、さて早々に引き上げる人にとって夜道は余計分りづらく、助産師の山本さんにとって早朝までに香川まで帰らなければならない所用があって、「さよなら」と去って行きました。ところが数十分すると「どうやら道を間違ったらしいが今自分が何処にいるのか分らない」と、まるでミステリーまがいの電話がかかって来ました。どこをどう通ったかを電話でたどりましたが、そのうち車をぶつけ動かなくなったと半泣きです。フロンティアのメンバーも農道までは知る由もなく、結局下の県道まで車を転がすように下りてもらいましたが、彼女もJAFに加入していて呼び出したものの、自分の位置確認が出来ずその作業は深夜にまで及び、結局車は役場までJAFの事故処理けい引車で運んでもらい、山本さんは松山まで連れて行き列車の人となったのです。

 全国をネットしてサービスを展開するJAFという仕事の存在を頼もしく思ったのはその時でした。以来一回もそのお世話にならずも車の後ろにJAFのステッカーを貼ったりしているのです。私はもし車が故障してもJAFへの通報をするすべを知りません。妻は余程感謝しているのか「JAFを呼び出すには♯3999でつながるのよ」と宙で覚えていて教えてくれました。

 そういえばもうそろそろ私の車も9年目を向かえ寿命かもしれない思うようになりました。先日もエンジントラブルの表示が運転席の前の速度メーター表示板の横に点灯し驚かせましたが、ディーラーで点検修理し事なきを得ました。今回の車も故障の少ない車に恵まれましたが、せめて加入しているとはいいながらJAFのお世話にはなりたくないものです。

  「JAFなんて そんな略語は 知らなんだ 妻はとっさに 金の力か」

  「修理代 タダというのが 気に入って 妻は感謝の 多弁となりぬ」

  「落ち着いた 妻がおこした おっちょこちょい カギを座席に 置いたり老いて」

  「あなた何処 居場所も分らず 電話する それでもJAFは 差の場所探し」


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shin-1さんの日記

○チェルノブイリが密林に

 1986年4月26日未明、ウクライナ共和国にあるチェルノブイリ原子力発電所4号炉で大きな爆発事故が起こりました。この爆発により一瞬にして原子炉が破壊され、火災が発生したのです。火災を消化するため、ヘリコプターから原子炉の炉心めがけて5千トンに及ぶ砂や鉛などが投下されましたが、火災は爆発から10日後にようやく収まりました。この原発事故により、原子炉内にあった大量の放射能が大気中へ放出されました。放射能は風に乗ってチェルノブイリから約8千キロも離れた日本にも届き、野菜、水は勿論母乳などから放射能が検出されました。

 その日は快晴だったそうです。原発労働者の町プリピャチの住民の殆どは、その日のうちにチェルノブイリ原発で事故が起きたことを知りましたが、多くの人は買い物に出かけたり公園で遊んだりと、普段どおりの生活を過ごしました。被爆を恐れて窓を閉め家にこもったのは一部の人だけでした。

 4月27日の昼頃、プリチャチ市のラジオから避難勧告が流れました。「身分証明書を携帯し、3日分の食料を持参して下さい」というアナウンスから、住民の殆どは3日経てば町に戻れるものと思っていました。しかし彼らにここでの生活が戻ってくることはありませんでした。

 プリピャチ市以外の原発周辺30キロ圏内の住民の強制避難は、事故から1週間経った5月2日に決定されました。1週間の間彼らには事故について何も知らされずほったらかしにされていました。避難は5月3日に始まりましたが、ほぼ1週間かけて約12万人の住民と何十万とという家畜の避難が完了しました。

 原発事故後の消火作業や放射能の除去作業に従事した人々は「リクビダートル」(事故処理作業者)と呼ばれていますが、彼らは放射能を浴びた瓦礫の処理などを手作業で行いました。また爆発した4号炉の放射能を閉じ込めるために石棺の建設が始まりました。リクビダートルの総数は60万~80万人といわれています。モスクワ・ミチノ墓地には消火作業に従事した27名のリグビダートルが永眠していますが、彼らの身体が余りにひどく被爆していたため、鉛の棺に埋葬されています。二度と土に還ることはないのです。

 ある記事の抜粋を読み、22年前の出来事と、広島、長崎の原爆投下を重ねながら、そしてわが町からほんの60キロ足らずの所にある伊方原子力発電所のことを思いました。広島、長崎のことは62年経った今も被爆者が国を相手に裁判を起すなど、その長い苦しみの歴史は永久に消えることはないし、消してはならないのです。

 そして、もし近くの発電所でチェルノブイリのような事故が起こったらどうなるか、インターネットで世界中が情報で結ばれている現代にあっても私たち住民は、チェルノブイリと同じように原発のことを全く知らないし知らされていないのです。年に何度か発電所内では小さなトラブルが相次ぎ、その都度「放射能は漏れていない」と安全性を強調する電力会社と、それをチェックする国県のあいまいさが露呈されています。お膝元の町も豊富な電源立地交付金に支えられて地域振興事業が進められ一見活気を呈していますが、さて事故があればどれ程の情報が知らされるのか知る由もありません。

 先日テレビを見ていると、「もし人間が滅びたら地球はどうなる」というショッキングな映像が映し出されていました。科学者が登場し持論を展開していましたが、人間滅亡後50年後にはコンクリートも鉄も滅び始め、100年後には完全に植物に覆われるそうです。いかに人間が自然をコントロールしたかに見えても、結局は放って置いたら自然に戻るのです。そういえばど根性大根もコンクリートのすき間に生えました。また数日前家のコンクリートを割って桐の樹が勢いよく伸びている話も聞きました。人間牧場となっている場所も果樹園放置後僅か10年で密林のようになっていました。植物は凄い生命力です。ヒートアイランド現象などが今年の夏も問題になるのでしょうが、その度に緑を増やそうと躍起になっています。でももう50年間は草木も生えないと思われたチェルノブイリだって今は、人間が放置しただけで密林になろうとしているのです。人間のエゴを考えさせられる映像でした。

  「わが庭の コンクリ割って 草生える 屋根にも草が 何を意味する」

  「目と鼻の 先に位置する 原発が? 考える暇 無駄と思いつ」

  「廃村の 憂き目に会った 場所見れば 草木埋もれど 墓標残れり」

  「原発に 慣らされ次は ブルサーマル これも慣れれば 次は何か?と」  

 

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shin-1さんの日記

○にいはま母親大会に招かれて

 正直いってのっけからえらい所へやって来たと思いました。午後の開会式の実行委員長さんのあいさつやオープニングを飾る寸隙に多少戸惑いました。寸劇には福田さんや小泉さんに扮した人まで出るし、平和や憲法9条、年金問題、後期高齢者、扶桑社教科書などの文字が資料のいたるところに見られるのです。何の予備知識もなく、この大会の趣旨を聞かされもせず、また聞きもせず講演に行ったのですから、無知なのか度胸があるのか、まあ驚きの連続でしたが、多少軸足を変え腹をくくって話しました。でもそういう熱い心を持った人たちの集まりだけに、想像以上の笑顔の反響に驚きながら、アドリブで90分も立て板に水の如く喋りまくりました。

 ひょっとしたら今までのどの集会よりも盛り上がったのではないかと思うほど私の話しにビンビン跳ね返って、こちらが熱くなり最後は涙が出そうになりました。


(どうです。参加者のこの笑顔は素晴らしいです)
 ふと今の政治はこうした国民の声なき声に耳を傾けているのだろかと思いました。

 私は右でも左でもないのですが、あえてこの日の大会宣言を長文ながら書いておきますのでご意見をお寄せ下さい。

 にいはまのお母さん、女性のみなさん、「いのち」のスローガンを掲げ第49回母親大会は今日ここに成功させることができました。私たちはご前中の分科会で学び合い楽しく交流することができました。「うたごえは平和の力」と思いきり歌って平和を語り、未来を語り合いました。「武力に頼らずに平和をつくる」という憲法九条は今、世界の目標となっており「九条の国際化運動」は広がりつつあります。

 「親子で遊ぼう」では子どもたちと体を動かす喜びを共に体験し親子の絆を深め合い、豊かな成長を願い話し合いました。豊かに生きる分科会では年金・医療・健康などさまざまな問題について話し合い医療現場や年金ぐらしの厳しい実態が報告されました。さらに今、大問題になっている後期高齢者医療制度は七五才以上の高齢者に対して予防から外来・入院・終末期にいたるあらゆる医療を制限し差別するものです。人は誰でも歳をとります。団塊世代が七五才を迎えると後期高齢者は二千五百万人になり、この時に医療費を徹底して削減できる制度にしようとしています。憲法二五条は「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」と生存権保障義務を謳っています。

 にいはまのおかあさん、女性のみなさん、本日の記念講演で私たちは知恵を出し合って豊かな人間になっていく素晴らしさを学びました。今、地球上で起こっているさまざまな事態、まったなしの地球温暖化、平和、子育て、高齢者医療、年金問題などについて、その原因をつきとめ私たちにできることから行動せねばなりません。私たちの声と運動は今、政治を動かし願いを実現する道を切り開こうとしています。そのことに私たちは、希望をもって子どもたちの未来と私たち自身の幸せと平和な日本と世界を目指してしっかりと手をつないでいきましょう。

 生命を生み出す母親は生命を育て生命を守ることを望みます。

 今日は日曜日、車で行く途中カーラジオでNHKの日曜討論を聞きました。今日はどの党も幹事長クラスの人が国会の模様を話していて、偶然にも大会宣言に書き込まれたことが殆ど話されていました。みんなわが党の正当性を雄弁多弁に語っていましたが、民意だとか国民本位と口でいってはいても、殆どが党勢拡大の話で、残念ながら国民を幸せにする話は余り聞かれませんでした。結局は私たち国民は政治家の道具にしか使われていないような気もするのです。まあその政治家を選んだ私たちも悪いのですが、もっといい方法はないものでしょうか。このままだと日本はどうなるのでしょう。私にとって今日は考えさせられた一日でした。

 追伸

 今日は出版した本を持参するように言われました。講演会場で自著本を売るのは気が引けましたが、お言葉に甘えて受付でサインまで頼まれ嬉は恥かしでした。

  「硬貨なら チャリン音する ふり向くが 紙幣落ちれば 誰も気付かず」

  「今日だけは たまげドキドキ ハプニング それでも役目 果して帰る」

  「政治家に なれる技量が あったなら もっと政治で この国変える」

  「熱い人 いっぱい集まり 熱っぽく 熱が伝わり 熱が出ました」   


 


 

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shin-1さんの日記

○孫と遊んだ一日

 一昨日の夜、五歳になる孫に電話を入れました。このところ私が忙しくて孫とゆっくり遊んでやれないため、時々かかってくる電話で、「おたまじゃくしは生まれた?」「カブトムシの幼虫はどうなっているの?」「僕の蒔いたカボチャの種は生えた?」などなど、盛んにちょっかいを出してくるのです。その度に「おたまじゃくしは大分大きくなって田んぼで泳いでいる」「カブトムシの腰痛も随分大きくなった」「カボチャの種は芽が出てご飯が欲しいと言ってる」と話しをすると、「早く行きたい」と親をせかすらしいのです。「じゃあ明日双海のじいちゃん所へ泊まりにくるか」「うん行く」の口約束が成立しました。

 昨日は人に会う約束だけなので、理髪店で散髪をする予定を済ませ、朝松山まで迎えに行きました。週休二日が定着したのか、午前9時ころなのに松山市内はいたって静かで車も少なく双海から道後緑台まで僅か40分で到着しました。孫は既に着替えや図鑑など持ち物の準備が出来ていて私を待っていました。孫「じゃあ行ってくるね」、娘「気をつけてね」でいとも簡単な親子の別れです。

 しばらく接しないうちに孫は一回り大きく成長したような感じがしました。その分私は退化しているのかもしれないと苦笑しながら車の後ろでシートベルトをつけてお喋りをしていました。どうやらハーモニカを吹けるようになったらしく、「ドドソソララソ」などと音階をいいながらハーモニカを吹く真似をしていました。いよいよ私とハーモニカでコラボレーション演奏をすることが出来るかも知れないのです。

 妻に頼まれたパンを買うため、新しく出来た松前町の商業施設エミフルに立ち寄りましたが、もう聞き耳が出来た孫は以前のようにおもちゃ売り場やゲームコーナーをさっさと通り過ぎ、ピカチューパン一袋150円で満足なのです。エミフルも開店当時のような混雑もなくご前中ということもあって空いていました。

 わが家へ帰って昼食を済ませ遊びの行動開始です。まずシーサイド公園へ貝を拾いに出かけました。紙袋を持って渚を歩くと砂に混じって小さいながら沢山の貝類が無数に散らばっていました。その中から巻貝や二枚貝を探すのですが、孫は慣れているのか沢山拾いました。中でもアンモナイトに似ているアオガイを2個見つけ歓声を挙げていました。シーサイドのじゃこ天のおばちゃんに孫朋樹は馴染みの顔で、たこ焼きやドーナツ、お魚屋さんではスイートコーンまでいただいてご満悦でした。

 家に帰り孫が大じいちゃんと呼んでいる親父に、シーサイドで買い求めたドーナツを孫がお土産だとプレゼントしました。親父は嬉しかったのか、早速お小遣いだといって千円を渡していました。孫にとって千円札はまだそんなに価値のあるものではなく、玄関先に置いて網と虫かごを持ってチョウチョや青カエルを夢中で追っていましたし、大じいいちゃんに貰った肥料を芽が出たカボチャの苗にやったりと忙しく遊んでいました。

 やがて夕方になって夕食が終わるとさすがに疲れたのか、「ダウィンがやって来た」というビデオを見ていましたが、昨日に続いてほたるを見に行く事にしました。先週もほたる祭り来たようですが、その時はイベントだけでほたるを殆ど見ていなかったのです。妻と三人で暗闇をほたるを鑑賞しました。「どうしてほたるは光るの?」など矢継ぎ早の質問に妻はタジタジでした。子どもの頃にこんな幻想的な風景を見させることはいいことだと思いました。

 風呂に3人で入り、3人が川の字になって寝ました。孫は私のアドリブなお話が大好きで、昨晩のテーマリクエストは「リス」でした。働き者のリスと遊びの好きなリスの話をしてやりました。始まると拍手、終わると拍手です。やがて夢の中へ旅立った孫の寝息が聞こえるようになり、短くも長い一日が終わりました。

  「少しずつ 成長している 孫が来る 私と妻は 少し衰え」

  「川の字に なって布団が 狭くなる 妻はさっさと 別の布団に」

  「何故ほたる 光るんだろうと 矢継ぎ早 質問されて 妻はタジタジ」

  「子離れを した老夫婦 思い出す 昔はいつも こんなだったと」

 


 

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shin-1さんの日記

○大恩人・人間牧場へ来る・②

 ひと通り案内見学が終わって、関会長さんは私が日頃愛用している背もたれ椅子にどっかと腰を下ろして休息です。本当は高座に上がって夕日亭大根心の落伍を聞いて欲しかったのですが、時間も限られているし、何よりも夕方になると藪蚊が沢山出てきたため、田宮さんが用意した蚊取り線香では追いつかず早々に人間牧場から引き上げる事にしました。ウッドデッキで穏やかな初夏の瀬戸内をバックに記念写真を撮りました。

 夕方からは人間牧場見学の帰路、近所にある潮路という馴染みの店に前もって予約を入れ、関さんと藤原さんを交えた食事会をしました。女将さんに「滅多に食べれないものを食べさせて」と言っていたので期待をして、人間牧場を下りました。料理屋さんは人間牧場から約十分足らずの場所にあって、国道沿いの二階にある小粋なお店です。ここを選んだ理由は魚が美味いことに加え、夕日が窓越しに手に取るように見えるからです。

 予約しておいた午後6時半きっかりに店に着き、部屋に入って驚きました。料理の凄さに目を見開きました。何よりも驚いたのは超特大の岩牡蛎の刺身です。これほど長い間海沿いで暮らしていてこれ程の牡蛎を見たことも食べることも初めてなのです。最近この岩牡蛎が繁殖して漁師さんもホクホクだと伺いましたが、私たちもそのご相伴に預かり舌鼓を打ちました。関さんも藤原さんも舌の肥えている人なので、満足いくかどうか心配しましたが、ご満悦なご様子でホッとしました。

 お二人とも軽く生ビールをたしなむほどで、飲むほどに酔うほどにとまではいきませんでしたが、積もる話しをさせてもらいました。

 部屋の窓越しに夕日が見え最高の雰囲気になりました。人間牧場もさることながら日本一と自認する双海の夕日も見て欲しかったのですが、この日は100点とまではいかなくても、それなりの夕日が山口県平郡島辺りに沈んで、穏やかな初夏の海と空を染め分けました。関会長さんも藤原さんも窓を開けデジカメで盛んにシャッターを推していました。私はもっぱらお二人の接待お相手なので、田宮さんに私のカメラを渡して撮ってもらいました。田宮カメラマンがとらえた夕日の写真です。刻々と表情を変える夕日の姿を見事に撮影していました。

(太陽の光が水辺に尾を引く残照の瀬戸内)
(明るい空と海の色が何ともほのぼのとした明日への希望を感じるような夕映えです)
(雲を赤く焦がし山口県平郡島辺りに今まさに沈まんとする初夏の夕日)

 夕日と食事に満足して料理屋を出た私たちは最後の楽しみである翠小学校近くのホタルを鑑賞に出かけました。関会長さんのたっての希望でもあるので、何としてもホタルを見せたいと意気込んでいたものの、ほたる祭りは先週終わり、もうそろそろ最後かと半分半分の気持ちで出かけましたが、どうしてどうしてほたるの名所唐子橋近くではまだ沢山のほたるが乱舞して幽玄の世界を演出してくれました。この日はほたる見学者も沢山いて、運良く出会った近所に住む高田さんの話によるとほたるの数は最盛期の三分の一だそうですが、いやあ安心しました。

 遠来の恩人に人間牧場、海の幸の食事、日本一と自認する夕日、そしてほたると今日のメニューは4本立てでしたが、関会長さんや藤原さんがどう思ったか知る由もないことながら、ささやかな恩返しができたとホッと胸を撫で下ろしました。

 二人をほたるの現地で送り、シーサイド公園で田宮さんと別れて家に帰った私は妻を連れて再びほたる鑑賞に出かけました。暗闇の中二人で鑑賞するほたるはまた格別でした。その様子をカメラに収めることができなかったのが返す返すも残念でした。

  「恩人に 見せたい物を 四本立て すべて段取り 上手くいったね」

  「恩返し こんなことでは いけないが 心だけでも 分って欲しい」

  「今日からは 心新たに 踏ん張って 強く生きよう 今まで以上」

  「子どもらが 植えし芋ツル 早伸びて 草に負けじと 青々繁る」

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