○久しぶりの金比羅さん参り
金比羅さんの愛称で親しまれている、香川県金毘羅宮の玉垣と源太石の石柱調査という、何ともアカデミックな案内が、私も会員になっている双海史談会から届きました。予定表を見るとスケジュールは昼間空いているようなので、思い切って参加の返信を事務局の中尾先生宛に出しました。
一行13人は午前7時30分に双海地域事務所の前に集合し、中尾先生と米湊さんの少し大きめの車2台に分乗し出発しました。昨日の朝はまずまずの天気の中を高速道路を順調に2時間余り走り、善通寺インターで降りて、参道脇のみやげ物屋兼食事処へ車を駐車し、早速竹の杖を借りて一行揃って長い長い石段を一歩ずつ、汗をかきつつ世間話をしながら登って行きました。
史談会のメンバーの中には既に高齢者の人もいるので、道中が心配でしたがみんな元気な健脚ぶりを見せ、金毘羅宮の参道石段の両側に寄進設置している玉垣に、掘り込んだ寄進者の名前や金額に驚きながら立派な山門をくぐり、いよいよ見えてきた「大洲上灘」とか、「大洲串村」とか掘り込んだ名前の玉垣を探しながら歩きました。郷土の人が寄進した年代は江戸末期のため、刻まれた文字はかなり風化していて、一目見て判断するのが難しいほど苔むしているものもありましたが、この時期庶民には名字が許されておらず、また当時私たちの住んでいる地域は、大洲藩だったことから「大洲大瀧屋守兵衛」とか、「大洲串村塩屋弥太郎」等と屋号で書かれていました。それらの周りには上灘や串村といった、現双海町の人たちの寄進者名が沢山刻まれていました。
金毘羅宮中腹にある総欅造りの旭社について、居合わせたガイドさんの話を空耳で聞きました。金毘羅宮で一番最初に陽が当るのが旭社だそうで、二人の兄弟宮大工が40年もの時間をかけて造ったという建物は、世界遺産の日光東照宮の猿の彫刻で有名な、左甚五郎の作と伝えられる立派なものでした。その旭社から程近い所、お手水場の手前に、「伊豫洲浮穴郡上灘村・・・・・」と書かれた調査対象の巨大な源太石の石柱が2本堂々と立っていました。リフトやクレーン、トラック等なかった時代に、上灘翠校下の山奥からこの地まで、どういう方法でこの重い石柱を運び建立したのか、まさに信仰心が生んだミステリアスな物語なのです。史談会には古文書の読める人が何人もいて、読めない私はその話に聞き入りながら掘り込んだ文字を、感心しつつ目でなぞらえる程度でしたが、お陰様でいい勉強ができました。
その後700段を超える急な石段を汗をかきながら本殿まで登りました。私は財布から15円取り出し、つまり「十分ご縁がありますように」と賽銭箱に投入れ手をたたきました。讃岐富士や琴平の遠望を楽しみながら下りの道をゆっくり降りて、出発した店へ辿り着きました。
ここで香川名物のうどんを、それぞれが注文して昼食です。私はザルうどん大盛り700円を食べました。うどんのコシも強くて美味しくいただきましたが、私は今回の旅で使ったお金は土産を買うこともなかったので、賽銭とうどんで僅か715円しか使いませんでした。食事が終ったころから雨が降り始めましたが、調査やお参りは運の強さや、金毘羅さんのご利益で濡れずにすみました。弾丸研修とでもいうべき強行軍のツアーは、約1時間も早くわが町に帰って着ました。楽しい旅でした。
「玉垣や 源太石造 石柱を 調査目的 ツアーに参加」
「三メーター 有に超すよな 石柱を どう運んだのか まるでミステリー」
「全国に 知れた金毘羅 参道に ふるさとの人 石柱寄進」
「調査より うどん楽しみ いい加減 こんな男が いるのですから」