人間牧場

○昭和は古くなりにけり(写真が語る昭和史③)

 私たちが子どものころは戦後間もないこともあって、子どもの数がとても多く、私は昭和19年生まれですが、19年と一つ歳下の昭和20年生まれとは子どもの数が少ないものの、いわゆる団塊の世代といわれるその後の人たちは、小さな下灘村であっても同級生が3クラスもあるほどでした。私の家のある10軒組内には孝子さん、照子さん、満子さん、孝ちゃん、徹ちゃん、コズエさん、憲義ちゃん、それに私と8人も同級生がいたのですから驚きです。学校も賑やかでしたが、学校外でも同級生とは工夫した遊び道具で多いに遊びました。男の子は小枝の先を細く削って地面に投げて突き刺すネンガリとか、ビー玉、パッチン、凧揚げ、馬乗り、かくれんぼ、陣取り合戦、キビチ、海に向かって石投げなど、今の子ども世界とは程遠い遊びをしていました。

今は懐かしい紙芝居風景

子ども会も各集落に合って、土曜日は近くの公民館に集まり勉強をしたり、色々な取り決めをして遊んでいました。運動会が近づくと分団リレーの学年毎の出場者を決め、砂浜に出てバトンの渡し方の練習もしましたが、私の所属する下浜は、隣の上浜といつも競り合って、運動会には親どおしがその結果で喧嘩する一幕もあるほどだったので、みんな真剣そのものでした。
 子どもたちにとってお節句、お盆、亥の子は特別の日でした。お節句が近づくと仲間が集まり山の薮の中の適当な場所に、隠れ家のような陣地を作りに何日か出かけました。お節句には巻き寿司やおかずの入った重箱弁当を持ってその場所に出かけ、多いに楽しみました。節句・盆・正月は子どもたちにとって、日常は麦飯やイリコ、コンコでしたが、おご馳走が食べられる特別な日だったのです。お節句の二日目も残り物を入れてもらい陣地で一日中過ごしました。

 

 お盆は子ども連中が食材を持ち寄り海岸に石でかまどを作り、盆飯を炊いて食べました。悪ガキが海に潜るとサザエやアワビが沢山獲れ、つぼ焼きにしたりして贅沢にも腹を満たしました。晩秋から初冬にかけて亥の日に行なう亥の子は、上級生が元帥や大将などと呼ばれ、低学年は重い大きな石製の亥の子に、自宅から持ち寄ったマイ縄を何本もくくりつけ、各家々の軒先を回って、「亥の子餅をついて、一に笑顔を振り撒いて、二でにっこり笑って、三で盃作って、四つ世の中酔うように、五ついつもの如くなり・・・・などと、訳も分からない掛け声をかけながら、夜遅くまで家々を回って軒先に大きな穴を開けて進みました。各々の家では祝儀を貰うので、最後の決算日は元帥の家がお宿となって、イカ飯を炊いてご馳走してもらい、祝儀袋を開けて紙にその結果を書き込み、分配を決めましたが、元帥と大将が殆んどを分け取りしてしまい、下級生は言い訳程度の分け前でしたが、大きくなったら元帥や大将になれるのだからと、羨ましいながらも我慢しました。

 今は子どもの数そのものが減って、子ども会等できず廃れていますが、子どもの自治組織は上が下の面倒を見て、いじめ等殆んど無い地域の立組織として大きな役割を果たしていたのです。子ども自身の組織も恒例行事も、また創作遊びも私たちの周りから完全に姿を消してしまいましたが、そんな少年時代の経験や思い出を持っている私たちは、幸せとしかいいようがないのです。
 今の子どもは子どものころから塾に通い、遊びも室内でゲームや既成の遊びしかしないのです。群れて屋外で遊びたくても子どもがいないのですから仕方がありません。わが家には5歳と3歳の2人の孫がいますが、保育園に朝連れて行き夕方帰ると隣近所に遊び相手がいないため、人数の少ない保育園が唯一の子ども社会なのです。
 子どもは子ども同士や遊びの中から様々な社会ルールを学びますが、今の子どもたちが社会のモラルを知らないのはひょっとしたら、ここに原因があるのかも知れません。私たちの暮らしは豊かになりましたが、気付かない内に、何か大きな音のしない落し物をしているようです。

  「町中に 子どもの笑顔 あったっけ いつの間にやら 年寄りだけに」

  「年経ても 子どものころの 思い出は 思わずウフフと 笑いたくなる」

  「あの人も 先にあの世へ 旅立った 遊び仲間も 今はちりじり」

  「子ども居ず 遊びたくても 遊べない 日本の将来 どうなるのだろう」

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