人間牧場

○教育にちょっと一言

今朝の台風16号の様子

 日中は連日30度を越す真夏日で、残暑が厳しいというのに、今年も運動会の季節がやって来ました。夏休みを冷房の中で過ごした子どもたちが、いきなり炎天下の屋外で運動会の練習を強いられれば、根を上げるのは当たり前で、全国各地では熱中症の子どもたちが救急車で病院に担ぎ込まれる姿に、「何でそんなに急いで運動会をしなければならないのか?」と疑問符を感じるのは私一人ではないと思うのです。私たちが子どものころの運動会は「スポーツの秋」という言葉がピッタリで、俳句でも秋の季語でした。ところが最近は運動会を春にしたり、酷いところは3学期を2学期にしたり、学年を飛び越えて進級させようとしたり、もう滅茶苦茶なことを平気でやって、その検証もしないまま色々なことをやり自己満足しているのです。

 私は古い人間なので今の教育を語る資格はないのかも知りませんが、今の教育は首長の言いなりになり、学校も教育委員会の言いなりになっているような気がしてなりません。教育の現場といわれる家庭と学校と地域は相互補完しつつ、健やかな子ども成長を願って育まなければならないのに、首長が教育改革と称してやたらと教育に口を出し、教育の中立性をいいつつ教育委員会は反論の声さえ上げず泣き寝入っているようです。学校現場も同じで、違和感や意見があっても県と市町村という二重構造の教育委員会が管理教育をするため、意見などまったく無視されてしまうのです。
 その際たるものは学校統合で、地域の反対意見ががどうであれ、学校現場の意見などまったく無視し、お役所の効果効率というご都合主義で統合させられ、昨日まで保育園や幼稚園に通っていた子どもが、毎日20キロも離れた学校へ、スクールバスで通わされている姿は、まさに異常としかいいようがないのです。

 私は学校、特に「小学校は歩いて行ける距離」が原則で、これはある部分理に叶った設置として明治以来続いてきた日本の美風なのです。子どもが学校までの行き帰りに受ける様々な感化は学校教育の延長なのです。私自身の幼い頃を振り返っても通学は楽しかったし、多くの人や自然との出会いは私の感性を豊かにしてくれたように思うのです。昔と今は社会環境も自然環境も、教育環境までも大きく変わっていて、懐古主義だといわれそうですが、20人ほどの小規模な翠小学校の木造校舎や地域ぐるみの教育支援を見ても、学校は子どもの数で推し量れるものではないことを物語っているのです。

太鼓を叩く松葉杖の生徒

 

行儀よく運動会を見学する孫たち

 

まるで来賓のように来賓席を独占する孫たち

 昨日は地元双海中学校の運動会でした。超大型の台風16号が接近していて、開催が危ぶまれましたが、時折雨のぱらつく怪しげな雲行きの中を決行し、どうにか運動会を成功させたようでした。私も学校評議員をしているので案内があり不謹慎と思いつつ孫3人を連れて出かけました。足を骨折して運動会に出れない生徒が松葉杖で太鼓を叩き、要支援の車椅子の生徒がマイクの前で一生懸命放送する姿に、多いに感動してしまいました。私たち大人の目はややもすると走るのが速かったり、力が強かったりする子どもに向きがちですが、私は松葉杖や車椅子の子どもが運動会の一員として役割を果たしている姿こそ、教育の基本だと思うのです。まあ雨の中での運動会も子どもたちにとっては非日常として思い出に残ったことでしょう。

 

 

 

 

  「台風の 行方気になる 運動会 雨もまた良し 非日常ゆえ」

  「松葉杖 車椅子でも 役割を ちゃんと成し遂げ 偉いもんだな」

  「強い人 賢い人に 目が行くが 進化論者は 順応を説く」

  「運動会 二百二十日の 台風に いつも翻弄 何故にこうなる?」 

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