○隣のおじさんとの立ち話
全国行脚をしたり何かと忙しい日々を過ごしている私にとって、一番の疎遠は近所の人たちです。夜遅く朝が早い私に比べ、近所のおじさんおばさんは、夜も早く朝が遅いと、私とはまったく逆の生活をしているため、顔を合わせることも声を掛け合うことも、回覧板を持って行った時くらいで滅多にないのです。
昨日散歩の帰りに隣の家の前を通りかかり、隣のおじさんに出会いました。80歳を有に超えているおじさんは倉庫で何やら日曜大工をしているようでした。私「元気ですか!」、おじさん「あんまり元気じゃない」、私「どこぞ悪いんですか?」、おじさん「足とひざが悪くて歩くのが辛い」、私「それ程悪いのなら病院へ行ってるの?」、おじさん「うん病院へは通っているが一向によくならない。ほら見てくれ」、私「足が少し腫れているようですね」、おじさん「もう死なんと治らんようだ」、私「そりゃあお困りですね」と相槌を打ちました。
このおじさんは数年前まで車の運転をしていましたが、家族が危ないと免許証を返上させてから、老いが急速に進んだような感じです。これまでは車で信仰している宗教の本部のある高知県までも足を延ばせていたし、病院や買い物にも年老いた奥さんを乗せて出かけていましたが、車に乗れなくなると極端に行動範囲が歩いて行ける距離に縮まったのです。そのため田舎では「年寄りの自家用車」などと言っている乳母車のような手押しの車を押して、近くのお店へ買い物に行っていますが、足やヒザが痛くて歩くのも辛いため、それさえもままならなくなって、デイサービスに通うおばさんと二人の年金暮らしは、閉ざされつつあるようです。隣に息子さん家族が住んでいるので安否は大丈夫なのですが、おばさんの痴呆や夜の徘徊も気になる様子でした。
「昨日の朝テレビであんたの姿を拝見したが、隣に住んでいても、あんたの顔を見るのはテレビや新聞の方が多い。あんたも元気そうじゃが少し痩せたんと違うかい」と逆に私のことや親父のことを気遣ってくれました。歳をとって車に乗れなくなったら、私もあのようになるのだと一年に一つずつ確実に増え続ける年齢の重みを感じながら、おじさんの話を聞きました。「あんたはまだ若いからいい」と自分に比較しながら私の若さを誉めてくれましたが、私だって他人事ではないのです。
最近自分が老いを迎えたり、同級生が病気になったり死んだりするにつけ、「人生とは何ぞや」「生きることとは何ぞや」と少しばかり暗い気持ちになって、考えることが多くなったような気がします。「それでも自分はまだ若い」とか、「目標を持ってポジティブに生きれば老いなんて怖くない」と打ち消すように、勉めて明るく楽しく生きていますが、さてさてこの空元気もいつまで続くのでしょうか。
「元気かい? 久方ぶりに 声をかけ 元気じゃないと 言葉返りて」
「一番の 疎遠は隣 そういえば この十日間 出会いもせずに」
「歳をとる やがては俺も あのように なるのだろうか 少々不安に」
「あんたには テレビ新聞 よく出会う 言われてどこか くすぐったくて」