〇叔父と伯母の同じ日の葬儀
松前町に住む従兄弟から16日朝、4年前に他界した私の親父の弟の奥さん、つまり私の義理の伯母が亡くなったと連絡がありました。聞けば伯母は昨年の秋自宅の前で転げて腰の骨を折る怪我をして入院していたそうです。一年前にも同じような箇所を骨折して入院し感知していましたが、今度は反対側だったようです。その傷はどうにか治ったものの、85歳の高齢なので足の不自由さから少々認知症が進み心配をしていただけに、訃報の知らせを受け自宅へお見舞いに出かけ、葬儀の段取りや親類への通知等をして帰りました。 ところがその翌日今度はその翌日、同じ双海町内に住む親父の末妹のご主人が朝6時30分に急逝したと連絡がありました。生業の漁師を昨年の秋に廃業し、悠々自適の生活を送っていたかに見えましたが、実は末期のすい臓がんに侵されていたらしく、70歳の短い生涯に私たち親族もただただ驚き、私が訃報を聞いて駆けつけた午前7時30分にはまだ額にかすかに温もりを感じるほどでした。
伯母と叔父の突然の死、しかも同じ日に通夜をし、同じ日に葬儀をすることになり、親族一同深い悲しみと共に大いに慌てさせました。私は通夜の17日は松山市の昌福寺での講演、葬儀の18日は福岡県直方市での講演を頼まれていて、直前ゆえに断わることも手も足も出ず、結局直方市へは両家の喪主に訳を言って、妻と長男息子を私の名代として出席させることで快く了解をしてもらいました。しかしたとえ断わりきれない講演依頼でも私用なので私の心は大いに揺れ動きました。息子も妻もそのことを了解して昨日は二人とも仕事を休み葬儀の参列やお手伝いに明け暮れましたが、親族は葬儀もかけ持ちで言ったり着たりと忙しかったようです。 私は罪滅ぼしのつもりで伯母の通夜には喪主に代わって親族代表でお礼のご挨拶を頼まれ、ねんごろにさせてもらいましたし、叔父の家には今日出張先の高知から帰る途中に直行し念仏の参加させてもらい、どうにか心のつかえを下ろさせてもらいました。 伯母は大正14年生まれですから戦後の厳しい時代を生きてきたようです。叔父は親父の船で若い頃から修行し、特に親父が小さい船で伊豆半島や伊豆諸島へ県外出漁したときも同行して辛酸をなめ、私が漁師をしていた頃は私の船に乗って漁師のいろはを随分教えてもらっただけに、遺影を見ると涙が出て止まりませんでした。
親父は自分が一人前の漁師に育てた叔父の死を悼み、8キロも離れている叔父の家へ自転車で出かけ、涙の対面をしました。親父にとっては多分私より頼りにしていたであろう叔父の死が相当堪えたようでした。「変われるものならわしが変わってやりたかった」という言葉がそのことを物語っているのです。 親父の兄弟は12人もいますが、親父も93歳、叔父や叔母も相当歳をとってきました。叔父や伯母には大変失礼な話ですが、年齢的には誰が逝っても可笑しくないのです。妻が言うように朝晩時ならぬ時に電話がかかると「もしや」と今回のようなよからぬことを考えビックリするそうです。年末から年始にかけて残念ながら多くの大切な人を亡くしました。その人たちはもう荼毘にふされもう地球上に存在しないのかと思うと、無性に寂しくなってきます。心のあり様が下向きになって、中々テンションが上がらない中で、全国各地への講演は中々大変ですが、心を入れ替えて元気にしようと思いました。
「相次いで 大切な人 亡くしたる テンション上がらず それでも仕事」
「いつまでも 元気でいてね 殊勝にも 妻が優しい 言葉をかける」
「親父言う 先に逝く人 多くあり 変われるものなら 変わってやりたい」
「同じ日に 通夜と葬式 ダブルする 親族一同 右往左往し」