〇雨過天晴雲破処(うかてんせいくもやぶれるところ)
私の自著本「昇る夕日でまちづくり」の「はじめに」という発刊に寄せた文章に、次のようなことを書いています。
漁村に育った私は子どものころ、雨上がりの西の空に何ともいいようのない綺麗な光景を見た。それが「雨過天晴雲破処」という、北宋時代の皇帝が好んだ焼き物の色と同じだと知ったのは、恩師の一通の手紙からであった。雨が過ぎて空が晴れだし、雲の切れ目を通じて最初に見える淡い青空は、やがて茜色に染まり、夕日がゆっくり水平線にゆっくりゆっくりと沈んでゆくさまは、まさに絵になる光景であった。その時から私の意識の中に、夕日に対する「想い」なるものが存在し始め、今日までどれほどの数やの夕日を、「想い」を込めて見てきたかわからない。
2000年12月31日午後5時11分(今世紀最後の夕日が双海町にしずむ一瞬の時)に書いた「まえがき」は、今読んでも手前味噌ながら面白い書き出しです。
一昨日の日曜日は朝から大雨でした。いつ止むとも知れない雨の中でも前日までに決めた予定に沿って、またその日の行きがかりで起きたり寝たり、飯を食ったりテレビを見たり、この日のように従兄弟の新築祝いに夫婦で招かれて出席したりしたのですが、家に帰って書斎で原稿を書いていると、雨が降っているのに西日が庭の木々や裏山に差し込んで赤く染めました。
(車庫の屋上から見た夕日夕景)
不思議に思い外に出て西の空を見てみると、さっきまで重く立ち込めていた灰色の雲が押し上げられ真っ赤な夕日が見えるのです。急いで引き返しデジカメを持って夕観所から写真を撮りました。さらに車庫の屋上へ駆け上がって、雨に濡れながら再度夕日を撮りました。急いで撮ったためストロボを発光したため、食事中だった息子嫁は稲光と勘違いしたようでした。
これが前述した「雨過天晴雲破処」なのだと一人納得しながら小雨に濡れながら鑑賞しました。いくら小雨でも、いくら短い時間でも傘を差さなかったら濡れるもので、ずぶ濡れになった私を見て息子嫁は、「舅は頭が変になったのでは?」と思ったに違いないのです。
夕日をテーマにまちづくりをし、夕日に思いを寄せる私にとって、それがどうであれ夕日を見るととても気持ちが落ち着いたり、時には高ぶったりもするのです。一年の殆んどの時間を過ごしているわが町双海町であろうが、旅先であろうがその思いは変わらず、これまでも夕方になると胸騒ぎがするほどな気狂い人間なのです。
たった一瞬だけ夕日を見ただけで、その思いの移ろいをブログに書こうと思うことじたい異常なのかも知れませんが、多分これからも死ぬまでこの異常な状態は続くことでしょう。
「雨に濡れ 夕日眺める 姿見て 嫁も自分も 異常感じる」
「自著本の はじめの文章 思い出す 雨過天晴を 目の当たり見る」
「自宅から 夕日眺める 贅沢が できる私は やはり贅沢」
「この夕日 果たして誰が 見たのだろう 私一人か しめしめ思う」