○手を合わせる・手を叩く
わが家の台所には仏壇と神棚があります。なぜ台所なのかは定かでありませんが、多分朝な夕な食事を作ったり食べたりする場所なら、神仏に食べる前に食べる物や飲む物の一部を供え感謝することができるからなのかも知れません。その仕事は主に妻がやっていて、私などは手を合わせたり拍手をしたりする程度で、深い祈りなどしないのです。妻は毎朝台所に入って食事を作り、出来上がると「ご飯ですよ」と私を書斎へ呼びに来ます。やわらパソコンの前から離れた私は、食卓の自分の椅子に座って新聞を読み始めます。「ご飯を食べながら新聞を読むのは止めて」と妻にいつも叱られるのですが、私はその言葉を無視するように新聞を広げて読むのです。妻は仏壇にご飯とお茶を供えて線香とローソクに火をつけ手を合わせて祈った後、神棚にもお光とご飯を供えて拍子よく2礼2拍手1杯してから私の横の自分の椅子に座って朝食を食べ始めるのです。
何気ないことながらこんな朝の光景を結婚してから40年余り見てきました。その間4人の息子や娘たちの入学や卒業、入試や旅立ち、孫の誕生、祖母や母の死、私の入院治療などなどの区切りには念入りな祈りをしたお陰でしょうか、その都度の人生の壁を乗り越えてどうにか今日を迎えているのです。
私はどちらかというと無信心派で、神や仏にお願いすることは殆どありません。自分に襲い来る不幸も元はといえば自分の未熟さや努力のなさが招いたことだと思うからです。ゆえに神社仏閣へお参りしても、人のようにお願い事はしないようにし、むしろ健康でいられることへの感謝くらいなものなのです。人間は弱いもので神仏に祈るとどこか救われた感じがするものでしょうが、余りそれが多過ぎると、「荒れひどお祈りをしたのになんで・・・」と、自分の努力の足りなさを神仏のせいにしてしまうのです。
仏様の前では手を合わす、神様の前では手を叩く、同じ神様や仏様でもお祈りの仕方は微妙に違います。無信心ゆえにその詳しい来歴は分りませんが、手を合わすとは自分と仏の静なる同行二人で無しょうか、手を叩くは自分と神の動なる同行二人で有かも知れません。いずれにしても日本人は長い歴史の中でその何たるかもわからぬまま、誰に教わることもなく曖昧模糊な気持ちで神仏を信じ神仏に祈るのです。
友人が四国88か所巡りをしているようで、もう何度も参ったといいます。その人に会うとやはり信心の心があるのかどこか落ち着き、言うことなすことどこか一本筋が通っているように感じます。つまり自分と同居しているもう一人の自分がしっかりしているのです。祈りの修行は自らを強くしたり高めたりする、深い部分での自分との葛藤なのかも知れません。私ももう少し強くなろうと思えば神仏への信心修行をやるべきでしょうが、残念ながら遅かりしかも・・・。
妻が旅行に出て留守のある日の朝、家にいた次男の息子が仏壇にご飯と茶を供え、線香とお光をあげて祈る姿を見て、無意識の信心の思いました。息子は生まれた時から母親が祈る姿を見ながら育ってきたのでしょうが、そのためか親思いの優しい子どもに育っています。人間の教育にとって宗教心はまさに大切な視点だと思うのです。今日本では仏壇や神棚のない家庭が増えてきました。そのことと青少年問題を重ねるつもりはありませんが、どこかに感謝や礼節といった敬虔な祈りの向こうにある「何か」の持つ意味を少し考えてみる今日この頃です。「無信心」などを自慢するようではまだまだ修行が足らないと、今朝祈りをささげる妻の姿を見ながら反省した次第です。
「手を合わせ 両手叩いて 神仏に 祈る姿は 母に似ている」
「生かされて 生きているんだ 俺たちは 感謝せずには いられないはず」
「無信心 自慢するようじゃ まだまだと 自責の念で 仏壇拝む」
「わが息子 凡人なれど 反面は 心優しい 人間育つ」
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素敵な奥様ですね。
自然な形で神仏を拝むことは大切なことです。
台所に神棚があるのは、水神さんといって水の神様、または火の神様おまつりしています。
代々続くお家には、よく祭られていますよ。
神様はどこにでも宿ります。
自然に手を合わすことを子どもや孫たちに継承してゆくのは、私たちの役目だと思います。