○宿命のバケツから運命のバケツへ
内外を綺麗に洗い空のバケツに水を入れます。水道の蛇口から勢いよくバケツの中に入る水を見て、今年1年生になった孫朋樹を思い出しました。これまでは幼稚園生活や同年代とのふれあいだったのが、小学生になると一気に年上の人と出会って交流を深めるため、会う度に良きにつけ悪しきにつけ成長の跡が伺えるのです。孫の体内バケツは空っぽで毎日沢山の水が入るのです。
一方私はどうでしょう。残念ながらそんなに大きくないバケツを持っていますが、その中には必要な知識も入っていますが、その殆どは古くなって使い物にならず淀んで腐ってるかもしれないのです。ゆえに水道の蛇口から綺麗な水を入れようと思っても満水状態で入るどころかあふれこぼれてしまうのです。さてどうするか、バケツの容量は30代までで決まると言われていますから、容量を増やすことは64歳の私にはもう無理な話です。唯一可能なのはバケツの中に溜まっている汚れた水を捨てて、新しい水を入れることしか方法がないのです。しかしこれとて容易なことではないようです。
体内の知識が満水状態な人はある部分「私は知識が豊富である」との自負心を持っているものです。しかし他者から見ればそれは満水に違いはないのですが、新しい知識が入らないということでもあるのです。古いものを捨てずに新しいものを入れることが不可能ならば、やはり古いものを捨てるしかないのです。その方法は絶えず学習することであり、学習すれば自己再生できるかも知れません。
私は学校でパソコンを習わなかった古い時代の人間です。ゆえに私たちと同年代の人の中には今もパソコンを使えない人が沢山います。多分私もその宿命を背負って生きているのでしょうが、パソコンを習わなかったのは宿命ではないと思い学習したことによって、最低限のお粗末な知識ですがインターネットも使えるしメールも打てるようになりました。これは私の宿命のバケツがひっくりかえり運命のバケツに変わったのです。運命のバケツは私に大きな禍福をもたらしました。運命のバケツによって多少のトラブルや混乱はありますが、許容範囲のようです。パソコンを「あんなものなくったって日々の暮らしはできる」と考えている友人は多分、もう永久にパソコンという20世紀が生んだ優れモノを手に入れることができないまま一生を終るのだと思うのです。
「もしパソコンを使えなかったら」私の暮らしはこれほど充実していたかどうかは疑問です。毎日のようにお気に入りに登録している素敵な女性とのときめきながらのメールのやり取りも、私へ他者からの講演依頼も、また朝晩書き綴っている膨大なブログ記事もなく、頑固者の田舎の年寄りとして余生を過ごしているに違いないのです。
世の中重要なことは色々ありますが、重さも軽さも長さもないものの情報くらい大切なものはありません。北の国北海道の友人と居ながらにして会話を交わせる便利さは、現代人の最高の喜びなのです。その喜びを知っただけでも運命のバケツの効果は大ありです。これからも時々宿命のバケツをひっくり返して古い水を捨て運命のバケツに変えて生きてゆきたいものです。
あっそうだ。私の近くに宿命のバケツしか持ち合わせていない妻がいる。妻は職場のパソコンは使えるのですが、家ではやらないので、メールが使えません。人に教えるほど上達はしていませんが、せめてパソコンで家計簿をつけれるようなことだけでも教えてやりたいと思っています。
「宿命の バケツを返し 運命の バケツ手に入れ 人生変わる」
「孫見ると いかに私が 古いのか 一目瞭然 遅れてなるか」
「学習は 学校行かずも やれるもの 日々の学びが 人生変える」
「パソコンを 嫌いと決めて やらぬ人 意見が合わず ブログって何?」