○夕暮れ時のカメラスケッチ
夕暮れ時を言葉や文字で表現しようとすると、浅学な私には言葉や文字が心に浮かばず、中々上手く表現できないのです。でもその点カメラは感じた一瞬を、まるで切取るように表現できるのですから道具は使い方だと感心しました。昨夕海沿いの由並小学校で学校評価委員会があるので、早めに家を出てシーサイド公園辺りを散策しました。運良く夕暮れ時だったため自慢の夕日夕やけをカメラに収めました。
海に沈む夕日は天候に左右されるため一日とて同じ夕景ではなく、また見ている間にも様々に変化して、いつも飽きずに見えるのです。この日はまだ夏の余韻が残っているのか夕日が真ん丸くくっきりとは見えませんでしたが、それでも西の空を赤くした夕やけが美しく、かなりの人が階段式護岸のあちこちに座ってうっとりと見学していました。
同じ夕日でも、撮影するポイントを変えると、ほらこんなに素敵に写ります。後一ヶ月すると恋人岬のモニュメントの穴の中にスッポリ夕日が入るのですが、昨日はあえて右横の半円に夕日を入れて撮影してみました。これも絵になる光景です。穴の中へ入った夕日を撮影する人たちが何組か陣取っていて残念ながら後発の私は中へ入れませんでした。
ふとふり返ると恋人の聖地選定を記念して6月に造られた新しいモニュメントのプレートに夕日が反射して凄い輝きです。まるでスポットを当てたように素敵に見えました。夕暮れ時なので訪れるカップルもなくひっそりとしていましたが、これもいい光景でした。
モニュメントの裏側に入って夕日を見ると、これがまた生かすシチュエーションで、モニュメントのハート型のくり抜きに綺麗な夕やけが写りました。多分夕日の見方を知っている人はこんな社損も撮影するのかも知れませんが、これはただ今私だけの穴場(笑い)のようです。
(シーサイド公園のあちこちに童謡の歌詞が刻まれた石板が置かれています。今頃の人はこの石板を見ても余り感じないようですが、設置した私は時々この場所に立ってハーモニカなどを吹くのです。どこか懐かしくどこか郷愁を覚えます)
(モアイ像のある中庭には大きなデイゴの木があります。夏を象徴する名残の真赤な花が足元まで垂れ下がって咲いていました。私が植えた木だけに感慨も一入です)
(別名夕日花と私が名付けた酔芙蓉の花が咲き始めました。朝白く、昼は淡いピンク、夕方濃いピンク、夜は真赤になって萎むこの花も捨て難い何ともいえないロマン漂う花です)
この日の日没時間は私が作った夕日の時刻表によると18時44分です。昨日は水平線近くに雲が出て残念ながら18時30分辺りで夕日は雲間に沈んでしまいましたが、それでも最後は雲が焼けて小焼けとなりました。小焼けも見方によれば捨て難い趣きがあるのです。
私たちは自然とともに日々暮らしています。多分他の人は仕事に明け暮れたり雑事に追われて、こうした自然の営みを目にしたり感じることもなく暮らしているのです。それはまさに自然の反対語である不自然なのかも知れません。多分昨日の夕日や夕やけ、刻々と変わる海の色などはもう過去という言葉に凝縮されて二度と見れない運命にあるのです。カメラを使ってスケッチするだけで、こうも暮らしがエンジョイできるものなのかと改めて思った次第です。
「何となく 夕日夕やけ 見慣れてる 思っているが 見れば見るほど」
「カメラとは 偉いもんだね 忘れ行く 記憶とどめて 人にも伝え」
「デジカメが 今は大事な 必需品 殆どいつも 肌身離さず」
「あっしもた 自分を撮るの 忘れてる 後の祭りか 一日老けた」