○どうやら私は文系
近頃になって思うのですが、親父は手仕事が上手く、なんでも器用にこなすどちらかというと理系なのに、私は親父の爪の垢でも飲みたいくらい不器用で、親子でありながら似て似つかぬ性格をしているのです。8年前に亡くなった母親は小学校しか出ていないのに文字は何でも読め、文章を書いたり発表したりするのが得意で、若い頃は東京まで発表に行くほどでした。今にして思えば多分文系ではなかったかと思うのです。理系の父と文系の母から生まれた5人の子どもは、親父似が二人、母親似が三人でバランスはとれているようです。
文系の私はパソコンなどの操作が苦手です。しかし文章を書いたり人前で発表したりすることはさして苦にならず、若い頃からその文系的特性を生かした仕事をしてきました。その結果が今の私の存在になっているのですから、母親譲りの文系的遺伝子に感謝しない訳にはいかないのです。
先日母の法事に集まった私を含めた5人の兄弟がそのことについて触れ、姉は「私は女なのに父ちゃんに似ていて、余り得をしたことがない」というのです。直ぐ下の弟は「俺は母ちゃんに似ていたから苦労した」などといえば、下の弟と妹は「どっちもの悪い所ばっかりが似て、ええことは一つもない。良かったのは進兄ちゃんで、母ちゃんのいいとこと、父ちゃんのいいとこを全部独り占めしている」と、私の人生を羨ましがるのです。そういえばそうかも知れないと思いながら、私だって親父の器用さを受け継いでいないと、五分五分の遺伝子によって生きてる自分を振り返るのです。しかしその話の後に、それじゃあお前らは「父ちゃんと母ちゃんの子どもに生まれたことを悔やんでいるのか」と尋ねると、「いやいや、色々あるけどやっぱり父ちゃんと母ちゃんの子どもに生まれて良かったと思う」と言ってくれました。
子どもは親の体内から様々な遺伝子を持って生まれてきます。時には顔形や声までも瓜二つという親子を見かけますがそれは外見上だけで、子どもは親から受け継いだ遺伝子を持って生まれてきても、全く違った環境で育てば別人のような特性が生まれるものなのです。したがって自分の出来が悪いのは親のせいではなく自分のせいだと自覚しなければ自律して生きることは出来ないのです。
よく子どもが過ちを犯すと、「何故こんな自分に育てたのか。生んでくれといった覚えはない」などと、親のせいにして言い逃れをする子どもをよく見かけますが、それはお門違いもはなはだしいとしかいいようがありません。学校や職場を途中で止めたりする理由が、「親が決めたから」「親が行けといったから」という言い訳など世間では通用しないのです。
どうやら私は文系だと悟るようになって、随分気が楽になりました。これまで自分は人に出来て何故自分に出来ないのか随分悩みましたが、人間は向き向きがあって不得意を是正するよりも得意を肯定して生きる方がらくだと思うようになりました。オール5の人間なんてありえないのですから、何処かに5の特長を見出せば、オンリーワンの人生が歩めるのです。しかし理系でないからとパソコンを諦めて使わない訳にはいきません。学校でパソコンを習っていないことを理由にしてパソコンに触らない人が多いのですが、私は敢えて失敗ありきでパソコンに触っています。少しずつパソコンに触って失敗すれば、そこに智恵が生まれどうにか使えるようになるのものです。お陰様で文系ながら理系に近付きつつあるようです。いわれて見ればパソコンはボタンを間違わないように押しさえすればいい道具なのですから、これからも苦手な物にも挑戦して行きたいと思っています。
「文系に 生まれたことを 生かしつつ 生きてきたから ここまで来れた」
「理系無理 それもそのはず 文系と 嘆いて見ても 替わる訳なし」
「不器用は 誰に似たのと 結局は 逃げ道探し 親に当てつけ」
「何時の世も 親にならねば 分らない 親は私に どんな期待を」