○水不足の予感
北陸のあちらこちらでは水害に見舞われた今年の夏ですが、西日本では連日35度を越える猛暑日が続いていて、気圧配置から考えると当分は雨の降る気配はないようです。何時もの事ながら水はあり過ぎると困るし、なくても困るし、世の中中々上手くいかないものだとしみじみ思うのです。農作物が悲鳴を上げて枯れ始めていますが、農家の方も農作物を守るために必死なようで、水を確保している近所のみかん畑では、潅水のためのスプリンクラーが涼しげに水を空中に向って飛ばしています。
わが家でも親父が庭の隅にある井戸の水を畑や庭に潅水していますが、焼け石に水といった感じで、さほどの効果もないようで、トウモロコシがついに枯れ始めました。今年はトウモロコシが豊作で沢山食べましたので思い残すことはありませんが、それでも折角つけた実も食べれなくなって処分とは勿体ない話です。
県内からは早くもダムの貯水率表示が新聞やテレビで報道され、松山市でも公共施設の蛇口に減水工事が施され始めました。簡易水道に頼るわが家ではまだそんな気配はないようですが、みんなで節水に心がけ、何とかこの夏を乗り切りたいものです。
昨日、松山市の公共施設のトイレに立ち寄ったら、便器の前面壁にやたらと「節水にご協力を」という貼り紙が貼っていました。その貼り紙の下に小さなステッカーが利用者の心を促すように貼っていました。「節水とは水を使わないことではありません。水を必要以上に使わないことです」と・・・・。誰が考えたかは知りませんが、短文ながら的を得た諭しの言葉だと感心しました。私たち男性は余りしませんが、特に女性はトイレに入るとまず水洗便所のコックで水を流してから使用するそうです。用を足した後出る前にもう一回流すのですが、トイレに入って流す最初の動作は果して必要なのでしょうか。折りしも隣の女性トイレに若い女性が入って行きました。別に側耳を立てる野暮な気持ちはありませんでしたが、確かに入るなり水の流れる音が聞こえました。多分使用後は必ず流すでしょうから、この女性も2回流したようです。2回は1回の倍です。女性全てが一回だと相当な節水になるはずだし、ステッカーのメッセージどおり、必要以上に使わないという精神が生きてくるのです。
まちづくりも様々な目的や方法がありますが、夏になると毎年「節水のまちづくり」が議論になります。しかしこれも夏の間のデモンストレーションのようなもので、やがては忘れ去られてしまうようです。結局は一人では何も出来ないけど、一人から始めないと何も出来ないことをしっかりと意識しなければ節水のまちづくりは出来ないのです。
夏になると打ち水が恋しくなります。夕方夏の暑さに焼けた庭に打ち水をし、タライに張った水の中で行水をした子どもの頃の懐かしい思い出が蘇ってくるのです。打ち水効果といって、打ち水をすると温度が下げることは色々な実験データーで証明されていますが、肝心の水がなくっては打ち水どころか飲み水にも事欠くことになりかねないため、当分はお預けしなければなりません。
私の町は海の町で、町の北側には飲めない水ながら海水を満々とたたえた瀬戸内海が広がっています。水が恋しい季節ゆえ、海を見ているだけでも何処となく癒されるのは、人間が海から生まれた由縁かも知れません。せめてこの海で海水浴などを楽しみたいものですが、海水浴を終って陸に上がるとこれまたシャワーで塩抜きをしなければなりません。水の少ないわが町にとっては痛し返しの苦悩の日々が当分は続きそうです。
「節水は 水を使わぬ ことでなし 必要以上 使わぬことだ」
「打ち水の 庭でタライの 行水を 懐かし思う 俺は古いな」
「人よ来い 人は来たけど 水使う 痛し返しの 夏は当分」
「俺ぐらい 思う心が 集まれば 不足不足で 間もなくピンチ」