shin-1さんの日記

○自慢できない自慢

 昔は「男子厨房に入るべからず」なんて言葉がありましが、今は男女同権の世の中、特に若い方は積極的に台所へ入って家庭料理をしており、羨ましくも微笑ましい姿がテレビなどで紹介される度に、自分の時代遅れを恥じています。今は学校でも家庭科にかなり時間を割いてそうした時代を反映したような教育を男性にもしているし、それが当たり前の共稼ぎの世の中になっていることも周知していますが、やはり古い人間でしょうか本音と建て前は違うようで、自慢ではありませんが結婚して37年が経っているというのに、未だにわが家の厨房には殆ど立ったことがなく、自慢できない自慢を告白するのです。

 教育長と中央公民館長を兼務していた2年前まで、公民館の講座に「男の料理教室」という人気講座がありました。役職柄講座の開講式、閉講式には招かれてあいさつをするのですが、今にして思えばこの時も分ったような話をしたような記憶があります。でも何故か料理は妻、私は外なんて不文律を破ることなく、娘からは「お父さんはお母さんが亡くなったら完全に生きていけない」とか、「お父さんは退職して給料が入らなくなったらお母さんから退職離婚を宣言されるかも」なんて散々脅かされながら今日まできてしまいました。

 私は20年も無人島に子どもたちを連れて行き、野外活動はお手のものなのですが無人島キャンプは仲間で料理の上手な河上さんという無人島シェフがいて、私はもっぱらひょうたん型由利島大統領として主に指導畑をたんとうしたので、野外活動でも20年間料理はまったくしませんでした。自慢できない自慢です。

 これは退職した2年前からの心構えなのですが自慢できる自慢が一つだけ出来ました。それは魚料理をすることです。料理といっても魚を捌くことなのです。私たちの町は漁師町なので魚が沢山獲れますし、漁師さんの親戚もあって時々魚を貰うのです。その度にその魚を捌いたり3枚に下ろしたりするのです。自慢ではない自慢ですが宇和島水産高校の実習船愛媛丸の船上でコック長から直伝された技でそれは上手いものです。

 昨日は親戚の漁師さんから大きなチヌやサメなどをトロ箱いっぱいいただきました。あいにく妻は職場への出勤前でしたので、「お父さん宜しくね」とさも見透かしたように出て行きました。さてどうするか思案はしたものの結局自分がしなければ片付かないと長くつと捻り鉢巻で屋外調理場で孤軍奮闘と相成りました。大きな専用の出刃包丁を砥石で研ぎいよいよ作戦開始です。まずは2枚のチヌから始めました。鱗引きで鱗を丹念に取り頭を落とし内蔵を取り水洗いです。そして水気を切って三枚に下しアラは小切りにしてアラ煮が出来るサイズに切り分けボールに並べてゆくのです。身の部分はヒハラを削いで切り落とし刺身用にボールに並べます。素早く上にラップを掛けて冷蔵庫に収納して出来上がりです。昨日はこちらの方言でノークリと呼ぶサメを4本いただいたのでこれも三枚に下ろしてサメ肌といわれる皮を削いでてんぷら用に小切りをして同じようにラップを掛けて終りです。内臓を全てビニール袋に入れて専用ゴミ箱に収納し、まな板、包丁、流し台やそこら辺を洗剤で水洗いして約1時間半の作業は終わりました。予め風呂を沸かしてもらっていたので、服を脱ぎ風呂に入って魚の臭みの染み付いた身体を洗いました。

 昼食時に妻が帰って来ましたが、「いつものことながらお父さんは魚の料理だけは凄い腕前じゃねえ」と持ち上げるものですから、それが快感になっている今日この頃なのです。妻は私の調理したアラを小分けにしてチルド袋に入れて冷凍庫に収めました。こうすれば貧乏所帯でも3日や4日は不自由することなく美味しい魚料理が食べれるのです。

 正直な話しこれ以上の料理にかかわるつもりはありません。「お魚ママさんの講習を受けて魚料理は人に指導できるほどの腕前の妻もそのことは分っていて、魚料理だけでもしてくれるようになった進歩の跡がうかがえる夫の成長ぶりに目を細めているようです。

 親父も漁師だったため魚の料理は凄い腕前ですが、母存命中は厨房には殆ど立たない亭主関白を絵に書いたような人間でした。それでも母亡き後は炊事も洗濯も何でもこなせる家庭マルチ人間になっているのですから、私もその気になれば自活は出来るものと楽観しています。自慢できない自慢話をしてしまいました。

  「海の町 魚を捌く ことぐらい 出来ないようじゃ 男じゃないよ」

  「若い頃 船で覚えた 料理法 やっと今頃 自慢の腕に」

  「普通なら 魚を肴に チョイ一杯 今は禁酒の 舌が乾いて」

  「食卓に 自分料理の 刺身出る 自慢しつつも 飯をお代わり」 

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