○ふるさとを訪ねる
私のふるさとは双海町です。といっても今は双海町上灘という現在の場所に住んでいますが、生まれた場所は下灘です。当時は伊予郡下灘村大字串、通称豊田の浜といわれた下浜に生まれました。家は代々漁師でしたから家の裏は直ぐ海で、まだ波返し護岸も漁港も整備されてない砂浜でしたから、家の部屋で寝ていても波が海岸まで打ち寄せる音が枕辺にまで聞こえ、それはもう長閑なものでした。海が時化ると玄関先まで波が押し寄せてくるような錯覚を覚えたものでした。まあよくある海水浴場の「海の家」って感じの風情でしたから、砂浜や海、時には居並ぶ船蔵を遊び場として育ち、砂浜の石ころなどは格好の遊び道具でした。幼年期に数を覚えるのもこの石ころで、石ころを100個拾ってきてひ、ふう、みい、ようと数え、原始的な方法で算数の基礎を築いたのですから、今の電卓などの時代にはついて行けないのが正直な話です。
下灘で31年間育った私が現在の場所上灘に移ったのは、青年の船でアメリカへ行った明くる年昭和52年ですから、今年で31年、私の人生の前半半分は下灘がふるさとなのです。そんな生い立ちもあって人間牧場はふるさとへの想いが捨て切れず、生まれた場所が一望できる下灘の地に建設したのです。そんなこんなで現在も下灘へは毎日のように通っています。しかし自宅から人間牧場へ一直線で通うため、狭いと思われる田舎でも随分久しぶりに歩いたような感じのする場所や、久しぶりに出会う人たちがいて懐かしさが甦ってくるのです。
数日前の5月5日、親類の叔母の三回忌法要があって、少し早めに到着したため妻を誘って二人で漁港の突堤を灯台のある先の方まで歩いてみました。突堤といっても西日本屈指といわれる大きな漁港なので往復1キロ以上もある長い突堤で、コンクリートの分厚い塊が道を作り、今更ながら人間の英知と行動に驚きながらゆっくりと歩きました。妻が嫁いできた36年前にはまだこの港はなかったのですから、妻にとっても驚くような変貌振りで懐かしく指を差しながら、「あそこら辺りの浜辺に長男の鯉幟を立てたよね」などと思い出の地を遠望しました。外海も静で内港には黄色い漁船が整然と係留されていました。港を歩いていると知人友人によく会います。「進ちゃんか」と声を掛けてくれる人もいれば、私の方からも声を掛けます。中にはすらない人だのに大きな魚を釣り上げて見せてくれる人もいました。
(7キロもある大きなコブ鯛、通称モブシを釣り上げていました。これは美味しい魚です)
突堤から見ると、人間牧場がよく見えます。残念ながらこの日は今にも降り出しそうな雨模様のためそんなにはっきりとは見えませんでしたが、それでも黄色い水平線の家がくっきり見えました。
人間牧場までは谷を渡り尾根を越えてここから2キロくらい上がった場所にありますが、とっておきの近道だと10分もかからない
ほど近いのに道が狭くて、私のよな達人でないとこの道はお勧めできません。
やがて突堤の先まできたので、嫌がる妻を無理やり写真モデルにしました。嫌がった割にはポーズなどとるあたりはやはり女性なのでしょう。
(下灘の中心地をバックにそれなりに撮れてる妻をモデルの写真です)
港には漁船の他、かなりの遊漁船が係留していましたし、中にはヨットなども停泊していてどこか別の町へ行ったような雰囲気でした。子どもの頃には直ぐ上の線路を蒸気機関車が煙を上げて走っていたし、国道に昇格する前は離合するのもやっとという狭い道をノロノロと定期バスも走っていました。昔のうらぶれた漁村としての下灘下浜・上浜を知る人にとっては、私たちが驚くくらいですから、「ここは何処」って感じの変貌なのでしょう。
「ふるさとの山に向かいていうことなし ふるさとの山はありがたきかな」、ふとそう思いました。私の原点がここにあるのです。漁村ゆえ決して豊かな暮しではなかったけれど、それでも幸せがいっぱいありました。親父もおふくろも一生懸命働きましたし、私たち子どももそれなりに働らきました。私は宇和島水産高校漁業科を卒業してガンで倒れた親父の後を継いで7年間もこの港を母港にして漁師をしました。青年団活動もここで思い切りやりました。またNHK青年の主張の県代表になったのもここなのです。結婚して3人までがこの地で生まれました。思い出すと少ししんみりするのがふるさとなのでしょう。私にとって下灘という地は思い出であり宝物であり恩人なのです。余生はこの地が一望できる人間牧場で恩返しをしなければなりません。それは私の宿命だと考えて進化することなのです。
「久方に ふるさと訪ね あれこれと 思い返して 少ししんみり」
「あの家で 式を挙げたな 指を差す 妻も六十路の 峠を越えて」
「お父さん あそこに見えるの 牧場ね 指差す彼方 霧に煙りて」
「コンクリの 固まり囲う ふるさとを のんびり歩く 妻と二人で」