○男の厄年
日本人の一生にどれ程の厄年があるのか分らぬまま過ごしている私にとって、これまでの人生の中で意識した男の厄年は42歳と60歳の2回でした。厄年には前厄・本厄・後厄というのがあるそうですから、二つの厄年だけでも都合6回も厄年を経験した計算になります。世の中にはこうした厄年を邪気として受け止め、神仏に救いを求めようとしている人が大勢いいて、とりわけ同級生や妻はその都度私の厄年を気にしてことを起してくれました。私には地元の小中学校を卒業した同級生が90人ほどいます。団塊の世代の少し前の昭和19年に生まれているため人数的には決して多い方ではない年代なのですが、それでもあんな小さな下灘村に生まれても2クラスあって、今の少子化が信じられないくらい近所には沢山の同級生がいました。厄年が近づくと必ず御幣担ぎの同級生がいて、厄年の同級会をしないかと誘ってくるのです。多分それは先輩たちがしてきたことを口伝えに聞いてきたから、自分たちのクラスも当然すべきだと思っているからではないかと思うのです。その言いだしっぺに限って同窓会の発起人会には名を連ねてはいるものの、決して自分から神輿を上げず、私のような役場に勤めている人間に白羽の矢を立てて、名簿の作成や案内状の作成、更には当日の準備や運営などを頼むのです。断る理由もない私はその都度忙しい仕事の合間を縫ってそれらをこなし、結局は会費以上の足が出ると自分で残金処理をしてまで同級会の面倒を見てきたのです。
42歳はそんなこんなでもう随分昔のことになるので余り覚えていませんが、菊間のお寺さんに厄落としのお参りに出かけたことや、厄落としに「町に吹く風」という自著本を出版したことを覚えています。でもその時初めて自分が42歳になった自覚をしましたし、次なる60歳の還暦に向けてとにかく病気をせず頑張ろうと思ったものでした。
あれから18年が過ぎ数え年ですから3年前、まあ何とか無事に還暦まで生きて来れたのです。そして3年前同級会を盛大にやって、自らの厄年を祝いました。同級生の中には既にこの世にはいないものまでいたり、自分の連れ添いを亡くしたり病気になって看病の日々を過ごしていたりと人生それぞれの近況を風の便りに聞いてきました。若いと思っていた私も今年の10月には63歳を迎える熟年期となって、健康への誓いを新たにしている所です。
昨日は西予市皆田という地区で行われる厄年講演会に呼ばれました。この地区では人生のそれぞれの厄年を祝う風習があるようで、集会所の会場には紅白の幕が張られ、講演会終了後は手料理で懇親を深めるという手の込んだ催しでした。集会を主宰した市役所職員の松本作幸さんとは公民館職員時代の旧知の間柄であり、2ヶ月前に電話がかかり引き受けることにしたのです。この日は前日からの鳥取県大山町の生涯学習推進大会に招かれていて日程的に無理だったのですが、大山町の集会を日帰りでこなしたため実現しました。
皆田地区は真面目な田舎なのでしょうか、会場は参加者でいっぱいでびっくりしました。昨日は春2番が予想されるような南の風が吹く早春とは思えぬポカポカ陽気で会場内は熱いくらいの熱気に包まれていました。厄年講演会なのに「地域の活性化」がテーマなのもまた田舎らしいと感心しました。
昨日遅く帰った私を気遣って妻と孫が同伴してのちょっとした遠足気分の集会は、私自身の人生をちょっと立ち止まって考えるいい機会になったようです。
「旧友に 頼まれ厄年 集会に 楽しい喋り 花を沿えつつ」
「久しぶり 見覚えある顔 次々と 控えの部屋に 笑い声あり」
「あの人の 近況卒中 倒れたと 聞いて悲しや 厄年集会」
「ああ俺も そんな年齢 迎えたか 人の歳聞き 自分の歳知る」