shin-1さんの日記

○樅の木は残った・津賀地区(40-8)

 午後3時過ぎに西土佐村に入った私は馴染みの食堂彩花で冷麺を注文し遅い夕食を食べながら、居合わせた西ヶ方の民宿女将井上茂子さんを交え楽しいお喋りをしました。西土佐村でも最近グリーンツーリズムの影響か民宿を志す人が何人かいるとの話を聞きました。私がこの旧西土佐村へ乗り込んだのもそうした地ならしややり気の触発だと思うとついついうれしくなりました。

 「今晩の集会は岩木食堂から川沿いに入った津賀とう地域で集落には日本一の樅の木がある」という中脇係長さんの電話での言葉を頼りに、時間がるので事前調査をしてみようと、不案内ながら一人目黒川を登って行きました。カーナビは便利で曲がりくねった道地図のはるか向こうに津賀という文字を発見したのは川遊びをした場所から更に上流へ10分ほど走ってからでした。突然視界が開け手の行き届いたユズ畑や田んぼが広がり、高知県特有のオクラやピーマンといった夏野菜が所狭しと植えられているのです。中にはハウスでアロエを栽培している人もいて、かなり勤勉な地域だと棚田の石垣の見事さにただただ驚くばかりでした。

 聞くところによるとこの地区でも遅まきながら圃場整備事業が計画されて間もなく事業が始まるとのことですが、その場合一体この美しい棚田の石垣はどうなるのだろう」と一人要らぬ心配をしてしまいました。仮に圃場整備をすれば棚田の石垣は草の畦畔となるに違いありませんが、せめて日本農村の原風景である文化的畦畔を残すような事業であって欲しいと思いました。

 橋のたもとにあった「日本一の樅の木は左500メートル」という看板に偽りがなければあの木かなと当りをつけて進んで行くと、登り口でおばあちゃんに出会いました。竹崎さんという表札がかかっていましたので、樅の木への道順と車を置かせてもらうことを頼んで一人登って行きました。最近刈ったのでしょうか道は綺麗に手入れがされてとても歩き易くあっという間に昼なお暗い樅の木の根元までたどり着きました。

 木の傍には樅の木が日本一といわれる出所来歴がきちんと書かれていましたが、これは怪しいと思いました。だってこの大きさで樹齢300年とは信じ難いような威風堂々の株立ち菜のです。多分300と800はよく似ているから800年の間違いではないかと思われるのです。それにしても日本一の樅の木がこうして見れたのですから感激というほかはありません。夕方集会が始まる前に村長の案内で再び見学にやって来ましたが、暗くなっていたのと藪蚊の餌食になって、よくぞ昼間にやって来ていたものだと思いました。

 樅の木の周辺は平家の落人伝説の土地に相応しく墓と思われる石仏が無造作に置かれていました。傍にはステンレス製の賽銭箱が二箇所置かれていて、私もポケットをまさぐれば100円硬貨が出てきたので賽銭を入れて樅の木にそっと耳を当ててみました。太古の声が聞こえるようでした。

 津賀の講演会は20数戸らしいのですが殆どの人が詰めかけ、1歳と8歳の子どもが親に連れられて参加して和気合いあいの笑いの耐えない集会となりました。帰り際道案内をしてくれたおじさんが「今日の話は今迄で一番良かった。また来て欲しい」とお世辞を聞いて束の間の集会所を後にして、三間経由でわが家へと急ぎました。

  「樅の木の 太さに比べ 俺たちは 小さきものぞ たかが小枝だ」

  「俺くらい 行くか行かぬか 大違い 戸数なんて 問題ではない」

  「マジックが 付かぬといって 取り帰る 長閑なものよ 田舎の集会」

  「石垣を 壊して圃場 整備する 石垣残す 手立てはないのか」

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