○宅配新聞
先日のブログで「新聞を買いに行って新聞の値段の高さに驚きました」と書いたら、「えっ、新聞ってそんんなにするの」と改めて新聞の値段の高さに驚いた意見やメールが沢山寄せられました。私だって今朝妻に「おい、新聞の一ヶ月の購読料なんばだ」と尋ね、「また藪から棒にどうしたの。3000円です。男の人はいいわねえ。新聞の購読料も知らないで日々が暮らせるのだから」とひねくらられました。「聞くんじゃなかった」と後悔しましたが、言われるとおり新聞の購読料も知らずに暮らしているのです」。この3000円を単純に30日で割ると一日一部の購読料が100円です。「えっ」と不思議に思いました。だって毎日の新聞は毎朝新聞少年によってわざわざ宅配してもらうのに100円、私がわざわざコンビニに買いに行った朝日新聞が130円なのです。この30円の差は何なのだろうと思ったんです。「お前それも分らないのか、ようそんな事を考える暇があるなあ」と馬鹿にされるのが落ちなのでこの辺で止めますが、それにしても「買いに行く。安いはずなのになあ」。あー止めた。眠れなくなりそうです。
私たちの暮らしはリズムの中で成り立っています。水も水道も、テレビの受信も、インターネットの交信も人が直接持って来ないものだから、宅配していることにはまったく気付いていません。ところが新聞や牛乳は人が直接宅配してくれるので実感はしますが、それとて私たちが眠っている早朝6時頃に届くものですから当たり前のように受け取り利用してるのです。
新聞の定期購読は新聞社にとってみれば契約によって発行部数が確保できるという点でのメリットがあります。これが今日は要らない、今日は要るなんてことになったらそれこそパニックになってしまうのです。言い換えれば一部30円の差額は安心料とでもいえるでしょう。しかし最近の新聞には頼みもしない広告がやたらと入っていて、特に人が動くこの季節はそれはひどいもので、新聞の重さより広告の方がはるかに重いのです。ある一人暮らしの老人が新聞の広告などの紙ごみが多くて困るからと、広告無縁宣言をしに販売店へお願いに行ったそうです。そりゅあそうでしょう。車に乗って買い物にも出かけられないその老人にとって見たら新聞広告などただの紙ごみなのです。私はこのおじいちゃんは偉いと思いました。おじいちゃんの行動の落ちは「あの広告分だけ新聞代を差し引いてくれ」と言ったそうです。
困り果てた販売店の人は、「あれはタダで入れているので新聞代はまかりません。もし広告が必要でないのなら入れませんが」と言ったら「タダじゃあ文句は言えないな」と引き下がったそうです。もし私だったら「タダなら余計要らないものは要らない」と開き直っているのでしょうが、新聞販売店にとってこの折り込みチラシが一部1円とか5円の収入になるのですから、折込みチラシを否定されるとそれこそ死活問題になるのです。折り込みチラシと新聞広告は知らず知らずのうちに人々の暮らしの中に溶け込んでいるようです。
「新聞は 取るといったが 広告は 要りませんから まけてくれとは」
「広告も 毎日こまめに 見ていると 暮らしの知恵が 隠されている」
「新聞は 高いようでも 安いもの 高いと思う 読み方足らない」
「宅配は 荷物とばかり 思ってた 新聞牛乳 水も電気も」