○青年団のかつての愉快な仲間たち
今日は宇和島市高光公民館の50周年記念式典の記念講演に招かれ出かけました。昭和28年に産声をあげ、昭和30年の市町村合併で私立公民館になったそうですが、奇しくも平成の大合併で新宇和島市となり、半世紀を振り返る集会となりました。かつて愛媛県公連会長の河野常正さんもご列席で顔見知りの人が沢山いました。その中に顎にひげを蓄えた西平一生さんの姿もありました。彼は私の前の愛媛県青年団連合会の会長として一緒に活動した仲間です。寝食をともにした彼とはまだパスポートがいる時代に沖縄へ海外派遣で一緒に出かけましたし、国立大洲青年の家の誘致運動にも大きな功績を残しています。
25歳前後の若かった頃の思い出は切がないほどあって、どれから喋ってよいやら戸惑うほどですが、その時の活動が肥やしとなって今があるのですから感謝しなければなりません。
私は青年団で大きく分けて4つの道具を手に入れました。一つ目は仲間です。西平さんを始め、全県下、全国至る所に多くの仲間がいます。二つ目はふるさとです。私のまちづくりの原点はやはり青年団活動で輪が住む町を良くしようと取り組んだことがきっかけでした。夕日によるまちづくりもその伏線上にあるのです。三つ目は主張です。私は若いごろとても口下手でした。いまもその謗りは免れませんが、青年団で努力し青年団で学んだお陰で人の前で堂々と主張が出来るようになりました。四つ目は感動です。自分が感動する人間になったことは勿論ですが、人に感動を分け与えるような心に育ったことは嬉しい成長です。
集会が終わって誘われるままに近所の西平さんのお家へお邪魔しました。西平さんの奥さんとは顔見知りですが、忙しいのに昼食まで用意してもらい、食事をしながら四方山話をしました。かつての青年団の仲間が病気で亡くなったり、定年退職や転職で音信が途絶えたりしていますが、こんな温かい家庭を持っておられる西平さんに敬意を表し、再会を約束してお暇しました。
お互いが青年団に別れを告げてから35年の歳月が流れました。人それぞれの35年であったと思いますが、西平さんも、勿論私も菊田一夫ではありませんが「第一の山を登れば第二の山がある。第二の山を登れば第三の山がある。第三第四山は続く。何処まで続くか山々々。偉人とは最後まで登り続けた人なり」でしょう。私にもまだ山がたくさん立ちはだかっています。あせらずゆっくり次なる山を登らねばなりませんね。
「変わんないそりやそう一緒に歳をとる何時の間にやら白髪禿ゆく」
「俺も歳昔はこうだ話する横で聞いてる息子席立ち」
「人の嫁綺麗に見えるだけれどもやっぱりわが妻変えれぬ女」
「青年団四つの道具くれました恩を戻さにゃバチが当るぜ」