shin-1さんの日記

 ○それがどしたん

  まちセンでの立ち話の続きです。主任研究員の井石さんが「この職場へ出稼ぎに来て(行政からの派遣ですから出稼ぎといえるかどうか)いつも不思議に思うのは、まちづくりの議論は『なぜ』『それがどしたん』という基本的なことをいつも議論している事に不思議さを覚える」と言うのです。それまで気付かなかったのですが、そういえばまちづくりという業界(業界と言えるかどうか)では、コンセプトワークとでもいうのでしょうかこの議論が大半を占めているように思います。おっしゃるとおり普通行政のシナリオは出演者の看板は誰で、何人集める、何処にその人数を割り振る、人が何人集まったから成果があったなどなどに神経が注がれ、本来の目的である「何故この集会を開くのか」「そのために何をすべきか」「その目的は達成されたのか」なんてことは二の次のような気がします。

 双海町でほたる祭りをやろうと20数年前思いついたとき、隣の町がそうしているようにほたるを集めて会場に擬似自然をつくり蚊帳の中で飛ぶほたるを見学してもらおうという話になりました。その時ある人が「ほたるは二週間の短い命、何で人間のエゴでほたるを集めるのか、そんな自然やほたるを無視したイベントだったら止めちまえ。ほたるが見たかったらほたるの飛んでいる所へ行って見ればいい」と大見得を切ったのです。みんなびっくりしましたが、その発言がきっかけになって「ほたるを一匹も登場させない」というユニークなほたる祭りが誕生し、今もその精神を守り続けています。

 これも私の経験ですが、夕焼けコンサートが軌道に乗り青年たちの要望は「さだまさしや南こうせつを呼んで欲しい」でした。私は「確かにさだまさしや南こうせつを呼ぶと彼らの人気で人は来るかもしれないが、そんなコンサートなら大阪や東京や松山でやればいい。このコンサートは夕日が主役だから夕日に似合う、夕日を引き立たせてくれる人がいい。無名な人でもいいじゃあないか」と説明したら分ってくれ、それ以来金をかけないながらも20年間コンサートは続いているのです。

 井石さんがいうように、確かにまちづくりの社会ではいつも「何故」「どうして」という議論に大半の時間を費やします。無駄と思えるこの議論こそまちづくりなのです。そういう視点から考えると先日の「地域の自立を考える」シンポジウムは議論の絡みという点で多少の反省が浮かび上がります。でもあれ程の時間をかけて議論し、あれ程の準備をしてもなお悔いは残るものなのです。人間のすることですから・・・・・・。

 井石さんいい事に気がつかれ、私たちの立ち話に石を投げてくれました。さすが主任研究員、まるで井戸の中に石を投げた波紋のようです。姓が井石さんか、なるほどなるほど・・・・・・。

  「石を投げ石受け止めて議論する伸びるはずです私たちは」

  「何のため聞かれて言葉詰まるよねも一度聞くよ何のためにと」

  「二十年やっても未だ極めれぬ奥の深さに未熟を恥じる」

  「議論するとにかくやろうと一歩出す歩きながらのまたまた議論」

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