○電球が切れる
2・3日前から書斎の電気のつき具合が悪いと思っていたら、今朝になって二本ある1.5メートルもある長い蛍光灯のうち一本がついにつかなくなりました。原因は蛍光灯そのものの寿命なのか、それとも電気をつけた時に蛍光灯に放電を促す小さな豆電球なのか色々いじったのですが分からず、天井を向いての作業を諦め、ブログ書きも諦めて朝食を取りました。しばらくしてスイッチを入れると摩訶不思議なるかな元のように電気がついたのです。勿論以前のような明るさではありませんし少しチカチカするので、明るい昼間のうちに電気屋さんへ行って蛍光灯の球を買い求め直しておきたいと思っています。
私たちはいつの間にか電球の明るさに慣れ、無意識のうちに「スイッチをONにすれば電気はつくもの」と思い込み、電気がどうしてつくのかとか、電気の明るさへの感謝を忘れているようです。勿論私も日々の暮らしの中ではそんなことには無頓着で、酷い時は電気を消し忘れて一日中浪費したことだってあるのです。
かつて私たちの「21世紀えひめニューフロンティアグループ」は、子どもたちを無人島に連れて行ってサバイバルキャンプを試みましたが、台風襲来で無人島から有人島へ必死の避難を試みた時、二神島の集会所で、「畳が温かく電気が明るいことを初めて感じた」とキャンプの感想文に書いていたことを思い出しました。電気の有難さはまさに暗い思いをしなければ分らないのかも知れません。
水戸黄門などの時代劇を見て思うのですが、昔は行燈などしか光源がありませんでした。だから「蛍の光窓の雪」などの明るささえも歌に歌われるのです。さぞや家の中は暗かったのだろうと思います。
私たちがこうして電気という文明を手に入れるまでには多くの人の苦労を見逃すことは出来ませんが、考えてみれば私の祖母や祖父の時代という僅か100年前までそんな暗い生活があったことをもっと後世に伝えてゆくべきかも知れませんね。「文明」とは読んで字の如く明るいのです。
しかし一方で、使用期限の切れた取り替えられた電球は、今月の不燃物回収に出され遇えない一生を閉じるのです。勿論不燃物となった電球は再処理工場で分別されて再利用されることでしょうが、使用期限の切れた物の運命は寂しいものです。
「俺に似た使用期限の切れし球変えて捨てられ何処へ行くやら」
「スイッチをひねれば電気つくものと誰もが思う豊かな日本」
「ローソクは何処かとまさぐり探すけどとっさのことで仏壇さえも」
「灯が消えたような表現あったっけ電気つかない部屋の暗さに」