shin-1さんの日記

○過去と今を語るOB会

 私は26歳から39歳までの13年間教育委員会に勤め社会教育、とりわけ公民館に重きを置いた仕事をやりました。故に公民館関係者との交友が深く、今もその人たちと様々な活動を行っています。他の人は知りませんが、当時の私はこの仕事を終生の仕事と選び、プロに徹し思いを込めて仕事に打ち込んでいたように思います。ですから13年目に一枚の辞令で産業課に異動した時は一日中涙が出て止りませんでした。それでも様々なことを学んだ公民館をこれまた終生の恩人と選び、今も公民館の事だったらなにはさて置いても馳せ参じるようにしているのです。

 当時たもとを分かち合い、夢を語り合った人たちも年齢を重ね、一抜け、二抜けと去っていく姿を見ながら時の流れの儚さを思うのです。しかし老いや病気、それにそれなりの理由なら一抜けも納得できますが、公務員とは勝手なもので、自分が仕事の間は夢中になるのにその仕事を離れれば、「今まで言っていたことや行動は一体何だったのか」と思わんばかりに、「そんなの関係ない」的になって、私たちの視野から消えてゆくのです。

 社会教育もまちづくりも福祉も産業も、殆どの仕事はボランティアによって支えられています。ボランティア精神の必要性を仕事として説いただけなら、その人の仕事は給料のためだけだったということになるのです。公民館に勤めていた人が異動になって他部局へ変わったことを知らずその家へ電話したら、「私は公民館ともボランティア活動とも関係ない」と言って冷たく電話を切った話はそれを物語っているようです。

 昨日は公友会という公民館OBの会が催されました。道後にぎたつ会館に集まった参加者は12人で少し少なめでしたが、集まった人数など問題ではなく、久しぶりに懐かしい燃える人たちに出会い嬉しいひと時を過ごしました。欠席通知の中には病気や会議の都合で来たくても来れない人も沢山いて、コメントを寄せていました。

 近況報告では、誰もが過去と今を思いを込めてお話ししていました。中には今の公民館へのご意見や痛烈な批判もあって、衰えぬ毒舌に誰もが自分の人生や意見を重ねながら熱心に聞き入りました。しかし寄る年波とでも言うべきか、その話は過去と今の話が多く、残念ながら未来を語る部分は少なかったように思うのです。無理駆らぬ事ながら、残された余命をどう生きるか、それはとりもなおさず自分への問いかけでもあるのです。

 私は幸せな事に今は未来への夢を持ち、夢の実現に向って走れています。健康も今のところ問題もなく暮らしています。また人間関係もすこぶるよく、これといったトラブルも抱えていませんが、親父の加齢と妻の健康が気にかかり始めました。これまでどちらかというと自分だけの人生を思う存分生きてきただけに、これからは周りの人にお返しもしなければなりません。

 こうして過去と今を語る人の話しを聴きながら、今に自分もそうなる運命にあるのだろうかとしみじみ考えさせられた一日でした。

 この日私の提案で昨年卒寿を迎えられた岡島会長さんにご退任願うことにしました。20年間公友会をリードされ、私たちの星でもあり恩人だっただけにいつまでもと思っていましたが、やはり世代交代です。新会長に魚島村の佐伯元村長にご就任いただきました。岡島さんご苦労様でした。佐伯さんよろしくお願い致します。

  「懐かしい 人に出会いて 懐かしむ 懐かし話 記憶の彼方」

  「消息を 聞きつつ人は 老いるもの しみじみ思う 俺もそのうち」

  「ああそうか 過去があるから 今がある 今なき未来 ある訳もなし」 

  「恩人も ついに今年は 顔見せず 少し寂しく 体案じて」

  「

 

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shin-1さんの日記

○凡人の私でも論語から学ぶ

 この歳になると、落ち着いて本を読みたい心境になるのですが、逆に長時間本を読むと目が疲れてきて体に疲労がたまるようになりました。昨晩も本を読んでいると夢中になって、気がつけば時計は回り午前2時です。孫をトイレに連れて行くため起きた妻が、「お父さん、早く寝ないと体にさわるよ」と注意してくれました。それでもその言葉を「うんうん」とうなずきながら無視して午前3時まで読みふけりました。サンデー毎日の自由さがそうするのでしょうが、今日は朝起きるとさすがに寝不足のような気だるさを感じるようです。それでも読書によって何か体内に新しい知識が注入されたみたいで、読書の持つ魅力を感じています。

 私の場合は読書と文字書きを組み合わせているため、読んだ本の中から感じた部分を単語にしてメモします。丸写しだと自分流にならず盗作になりますので、極力単語を自分流に解説するようにしているのです。時に分らない部分はヤフーの辞書検索もしますが、それも全て書き写したりプリントアウトしたりはしないようにしています。

 昨晩読んだ本の中に論語が出てきました。論語は「論語読みの論語知らず」といわれるように昔から何かと引き合いに出されるものの、原本などは浅学な私には到底理解できず、解説本を読む程度なのです。論語学而編では天与の尊い道を「温・良・恭・倹・譲」という五つの言葉で表現しているようです。この五つの言葉は道徳真髄を表しているようですが、解説で「温」とは柔軟な義、「良」とは善良にして人を愛する、「恭」とは容貌、起居、動作などの敬虔にして篤実な事、「倹」とは他人を敬って他人に快感、満足を与える事、「譲」とは他人に対して当然自己の受くべき名誉、若しくは利益を譲り与える事と書かれ、シンプルな漢字一字も解説によって随分深みが出ると思う反面、解説に解説を加えなければいけないような迷い道へと入ってしまいました。

 まあ余り深いことを考えず、漢字の読み方そのままにポジティブに考えれば大体の意味は通じるのです。「温」は暖かい思いやりの心を持つことだし、「良」は良い行いをすればよいのです。「恭」は比較的馴染みの薄い文字ですが敬うことぐらいでしょうか。「倹」は読んで字の如く倹約です。「譲」も譲るですから相手に渡すことです。

 日々の暮しを反省してみると、言うは簡単ですが行いとなるとこれまた難しいものです。特に倹約は自分の暮らしの中で実行しなければならないし、譲ることも相手があることですから譲るものや地位名誉も対象となります。

 今朝は倹約について考えてみました。数日前部屋を掃除していて沢山ストックしていた紙ごみを焼きました。この量たるや半端なものではなく、キャリーに5杯分は処分したでしょう。本来ならこの紙ごみは分類して資源ごみに回すべきなのでしょうが、シュレッダーにかけなければならないような個人情報が多く、その分類をする暇もなく処分してしまったのです。もし私に資源ごみという意識があったら、日頃から廃棄紙ごみと情報処理ごみに分別していたらこんなことにはならなかったのです。一方では環境問題を語り一方ではこんな事もできないとはお粗末な話です。

 このところ、電気を小まめに消すこととつもり貯金を始めました。コーヒーを飲んだつもり、タバコを飲んだつもり、お酒を飲んだつもりで貯金箱に小銭をれて行くのです。ちょっとしたことですが、これが意外と貯まるのです。わたしはこんなささやかな小銭しか融通しかできませんが、「一円を笑うものは一円に泣く」の姿勢で人間牧場という大きな成果を得たことを思えば、これからもつもり貯金で自分の次なる夢を是非手に入れたいと思っています。

 

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shin-1さんの日記

○カブトムシの幼虫

 今年の梅雨は結構メリハリがあって、降る時と降らない時がしっかり区別されているようで、晴れと雨が交互にやって来て随分助かります。でもこれから梅雨の終わりごろになると雨の量も次第に多くなるので気をつけなければなりません。雨といえば二つのことを思い出します。ひとつは大雨による裏山の崩壊です。急峻な地形のわが町では雨が降る度に各地で土砂崩れが起こりますが、わが家でも例外ではなく覚えているだけでも3度も土砂崩れに見舞われ、5年前にはあやうく家が土砂に埋まりそうになりました。そしてその片付け最中にチェンソーで足を切り救急車の搬送を得て入院手術、車椅子の暮しを余儀なくされたのです。幸い大事だったのに大事に至らずどうにか回復しましたが、今でも時々右足の古傷を見る度に、当時のいまわしい大雨を思い出すのです。

もうひとつは高知県の雨粒の大きさです。隣県ということもあって、高知県の殆ど全ての市町村へ講演などでお邪魔していますが、その度に雨の洗礼を受けています。高知県には四万十川や安田川、仁淀川など全国にその名を知らしめている名だたる川がありますが、何度大雨に出会ったことでしょう。特に旧西土佐村と馬路村での雨との出会いは忘れられない思い出です。

 昨日は昼から孫朋樹がわが家に遊びに来ました。松前町での講演の後迎えに行ったのですが、最近は私の仕事が忙しく、中々出会わなかったのです。昨日は土曜日と重なってお休みだったのでお目当てのカブトムシの話で盛り上がりました。

 かなり激しい雨の中、田舎のオープンカーに乗って人間牧場へ行きました。朋樹のリクエストによるものです。というのも人間牧場赤とんぼの館の倉庫には、県庁職員からいただいたカブトムシの幼虫が、ポリバケツに入れられ養殖されているのです。孫はそのことがいつも気になっているらしく、電話の度に「カブトムシの幼虫はどうなっているの?」と訪ねるのです。晩秋に貰ってからもう半年が過ぎました。人間牧場へ行く度に蓋を開け中を観察するのですが気まぐれな幼虫はずっと腐葉土の中に潜んでいて、中々ご尊顔を拝せないのです。それでも時々幼虫が1~2匹表面に出ているのも見ることがあって、おおよその状況は逐一電話の向こうの孫に報告していたのです。

 昼なお暗い大雨の中を人間牧場に着いた私たちはポリバケツの蓋を開けて驚きました。17匹もの白い幼虫が表面に出ているのです。朋樹は「わあ~凄い」と思わず歓声を上げました。

 幼虫は間もなく成虫になるのでしょうか、以前より茶褐色を帯びてきたように見えるのです。「おじいちゃん、ウインナーみたいだね」と上手く表現した孫は、早速持ってきた虫篭にこの幼虫の一匹を入れて持ち帰りたいと注文しました。本当は触ってはいけないのでしょうが初めてのことなので、腐葉土を少し虫篭に移し、幼虫を一匹入れました。そしてその上からまるで布団でくるむようそっと腐葉土を掛け手やりました。雨が次第に激しくなってきたので早々に下山する事にしましたが、4WDの田舎のオープンカーに同乗した孫は大事そうに自分の膝の上に置いたままでした。途中西嶋さんの家でラッキョウを加工しているところに出会い美味しいビワをいただきました。またカブトムシの幼虫を自慢したくて妹のお店「くじら」にも立ち寄り、朋樹は知ったかぶりのカブトムシ談義を得意げに話していました。

 昨晩は私と一緒に寝ましたが、カブトムシの幼虫で興奮したのか、風呂にも入らず夕食が終わるとテレビの前で寝込んでしまいました。9時ごろ起して風呂に入れましたが、おとボケて泣きました。それでもカブトムシの幼虫と寝るのだといって、枕元へ虫篭を運んでやると嬉しそうに夢の中へ旅立ちました。

 間もなく暑い夏がやって来ます。電話の度に「カブトムシの幼虫はどうなってる?」と問いかけてくるでしょう。今年はスーパーでカブトムシを買わなくても済みそうです。男の子の虫に対する憧れはいつの時代も変わらないロマンのようです。

  「わあ~凄い 思わず歓声 ウインナー 上手い表現 孫は夢虫に」

  「枕元 虫篭置いて スヤスヤと どんな楽しい 夢を見てるか」

  「幼虫が 成虫になる 日も近し 少し黒ずむ 命の不思議」

  「雨などは カブトの幼虫 比べたら 目じゃないように ずぶ濡れなりつつ」

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shin-1さんの日記

○同級生の前で講演しました

 伊予市・伊予郡で合併するはずだったのに、砥部と広田と松前が抜け、伊予市・中山・双海が合併して伊予市となり、3年が過ぎました。広田と中山と双海は旧伊予郡の中でも過疎地域の弱小町村だったため、対等合併といいながら引きずられるような形で合併し、合併後も悲哀をなめるような気持ちになっているのが偽らざる気持ちのようです。そこへ行くと広田を巻き込んだ砥部と単独で残った松前町はそれなりに知恵を出し合い、前にもましていい町をつくろうとする機運が高まって、積極的なことが目立っています。特に松前町は中国四国最大級といわれる商業施設エミフルが誕生し、連日多くの人を集めているようです。

 そんな松前町で開かれているひまわり塾で話しをして欲しいとお誘いがあり、のこのこ出かけて行きました。今日はあいにくの雨でしたが会場となった文化センターの2階会議室には沢山の人が集まっていました。三年前までは同じ郡だったこともあって知人友人が多いのですが、この日は小中学校で同級生だった二人の馴染みの女性が参加していました。同級生の前で、ましてや女性の前で話すのですから何ともやりにくいのです。一人は洋子さんといって私の従兄弟です。学校で失敗したりして立たされたりすると、必ず親に筒抜けだったため最も嫌な相手です。ご主人の仕事の転勤先が徳島だったため、娘が徳島大学在学中、姉の娘と共にずいぶんお世話になったりしましし、年齢が一緒ということもあって、従兄弟では行き来の多い人なのです。もう一人は万寿恵さといって洋子さんと仲のよい同級生で松前町へ嫁いでいます。お互い六十の坂を越えていよいよ初老を迎えますが、男性の私に比べお世辞抜きで女ざかりを少し過ぎた程度で若く見えました。私も日頃大学生たちと出会うためか比較的若い心を持って生きているつもりなのですが、やはり女性の若さにはとてもかなわないのです。

 最初は二人を意識して話していましたが、直ぐにそのことを忘れ平常心に戻ってお話をしました。今日のテーマは「退職後の生き方」なので、私の最も話せるジャンルなので思いつくまま90分を越えてお話しました。特に人間牧場の話は何時もより多く話してしまったようです。

 松前町では生涯学習をこれまでのように教育委員会が丸抱えすることなく、自主的に発想し自主的に運営する方法に切り替えているようです。そうすることで自律や自立の心が生まれ参加者も会場いっぱい、しかもかなり意識の高い塾に育っていて、今日は第一回の学集会でしたが、講演後の意見交換も和気藹々で今後の成長が楽しみです。教育の終局の目標は自立ですから今後の成長を陰ながら応援しています。

 それにしても同級生とはいつになってもいいものです。私たちの育った小学校・中学校時代は戦後の混乱期を脱して、日本がいよいよ発展しようと船出する時代でした。子どもの数も多く学校も活気に満ち溢れていました。同級生の半分以上は高校へ進学しましたが、中学校を出ると集団就職列車に乗って都会の雑踏の中に消えた人もいたし、家の跡を次いで農業・漁業に携わった人もいます。この年齢になるとさすがに殆どの男性がリタイアし、女性もリタイアするような年齢の男性と結婚しているため、人生の岐路に立っています。ゆっくりと過ぎ越し人生をかたりたいと思いつつ、忙しそうにそれぞれの生き方をしています。洋子さん、万寿恵さんどうかお元気でお過ごし下さい。

  「会場で 何とばったり 同級生 少し心が 動揺しつつ」

  「それぞれの 人生生きる 同級生 健やか生きろ 夫と共に」

  「今頃は 食卓囲み 今日のこと 思い出しつつ 笑い転げて」

  「お互いに 六十路を越えて 生きてきた 笑顔と白髪 物語るよう」

 

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shin-1

○お金の井戸と知恵の井戸

 昨日近所の顔見知りのおばさんが立ち話をしている井戸端会議に偶然出くわしました。楽しそうに話しているので「何の話?」と輪の中に入ってみると、どうも近所に住むお金持ちの人の話のようでした。その人は巨万の富とまではいきませんが、私たち貧乏人が羨ましくその人の収入を詮索すれば、貸しマンションを三十戸くらい持ち、年金を受け取っている分だけでも計算すると毎月の収入が百万円はくだらないというのです。そのご主人は私もよく知っている人なので、「別に綺麗な格好をして歩いているわけでもなく、そんなには見えないけど」というと、「お金持はそういうものなのよ。貧乏人に限って見栄を張る人が多い」と、中々の洞察力です。

 最近このお金持と思しき人が旅行に凝っているそうで、国内はおろか外国へも年に数回行くのだそうです。「だってお金は生きているうちに使わないとあの世へまでは持ってゆけないものね」「それにしても羨ましいわね。汲んでも汲んでも減るどころか増える、お金の井戸を持っているのですから」「私たちは毎日あくせく働いても、貧乏人のお金の井戸は直ぐになくなってそこが見えてますからねえ」と話が発展していました。

 「ほう、上手い表現だな、お金の井戸か」と思う矢先、ひとりのおばさんが、「ところで進ちゃん、人ごとではなくあなたもお金の井戸をもっているから羨ましい」と、いきなり矢が私に飛んできました。「えっ私もですか」。「そうよ、あなたもあんな広い立派なお屋敷に住んで、毎日講演三昧でお金ががっぽがっぽ入って、お金の井戸があるのですから」といわれました。

 「いえいえ私の家はあなたが考えるほどお金持ではありません。だって私の家に来てチャイムを鳴らしてみてください。あなたの家のチャイムはピンポ~ンと鳴るでしょうが、私の家のチャイムは貧乏びんぼ~うと鳴りますからね」と笑いを誘いました。

 確かに人が詮索すれば私の家は一見お金があるように見えるのかも知れませんが、内情は「ありそうでないのが現金、なさそうであるのが借金」の諺どおり、借金こそないものの「お金の井戸」などまったくないのです。安月給で4人の子どもを育て、家もローンで新築しました。私は妻の家計簿に「亭主持ち逃げ」という項目があるほど、毎月やれ勉強だなどと全国を走り回り、お目出度お悔やみなどの交際費に加え飲み会やボランティア活動などにそれなりに使っているのですから、自分のハエさえ追えないのです。でも外から見ればそう見えるのでしょうか、私の家には実態のそぐわない「見た目だけのお金の井戸」がどうやらあるようです。

 私はおばさんたちに、「お金の井戸はないけれど、知恵の井戸ならありますよ」とお話しました。「えっ、知恵の井戸ってどんな井戸」、「はいそれは人生を生きていく上でとびきり上等な井戸です。お金の井戸は汲み過ぎるとなくなりますが知恵の井戸は汲み上げても汲み上げてもなくなりませんからね」、「なるほどなるほど、若松さんは上手い表現をされますね。一度私たちのもその知恵の井戸の講演を聞かせてください」「いいですよ、しかし私の講演料は高いですからお金ができないと聞けませんよ」「講演料って幾らぐらい要るの」「一億円です」「えっ、一億円?」「はい私の家にはひとり奥さんがいますので、お金の単位は一奥縁です」「まあ面白い」・・・・・・。延々と続く人を羨む井戸端会議を尻目にわが家へと帰りました。玄関へ入るなり、「おーい一奥縁」と声をかけると、一億縁にも匹敵するわが妻の笑顔が迎えてくれました。「何を馬鹿なことをいっているの」「寒~い」ですって。

  「俺の家 一奥縁が 住んでいる 金はないけど だから楽しく」

  「金の井戸 汲めばなくなる 知恵の井戸 汲めば汲むほど 増えるの不思議」

  「人の家 詮索話し 面白い 俺の家にも 金はありそう」

  「まあいいか 喰えたらそれで 人生は 金などあの世 持って行けぬぞ」


 

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shin-1さんの日記

 昨日は来年に予定されている県立松山工業高等学校創立100周年記念事業の設立実行委員会が開かれ、私もかつてこの学校のPTA会長を6年間も務めたため、顧問として名を連ねる事になり、長年ご愛顧いただいている高須賀先生が準備室長ということで逃げる訳にも行かず就任し、会議に出席しました。学校にとっても卒業生にとっても、また私たちのようにPTAとして間接的に携わった者にとっても、一世紀という気の遠くなるような時空に身を置いたことを感慨深く感じました。

 会議は1時間の予定が40分も長引きましたが、それだけいい議論が出来たようです。会議中に妻から携帯電話がかかってきました。一度は電話を切ったのですが、再度の電話です。年寄りを抱えているため何事か心配になって部屋の外に抜け出し電話を取ると、次男が今日は非番なので遅ればせながら父の日のお祝いをしてあげると、自宅に帰って来たようです。「何時に何処で待ち合わせるか」というのです。久しぶりに寿司でも食べようと相談がまとまりました。妻は追い討ちをかけるように、「お父さん、帰ったら驚くよ。一生君がお父さんに椅子のプレゼントをするのだといって、お父さんの書斎で椅子を組み立てている。持つべきものは子どもだねえ」と感心して電話を切りました。

(立派な椅子が入り、まるでオフィスのようになった私の書斎)

 やがて妻と次男は待ち合わせのお寿司屋さんへやって来ました。「今日は僕のおごりなので大船に乗ったつもりで沢山食べて」と金もないのに太っ腹なところを示してくれました。私「夏のボーナスが出たのか」、次男「いいやまだだがこれくらいは何とかなる」。妻「おごってもらうと喉を通らないから気にしないで」。私「仕事は慣れたか」、次男「大分ね」、私「そうか頑張れよ」。次男「うん頑張る」・・・・・・・・。そういいながら親子3人で寿司を食べました。やがて食事も終り息子は自分のマンションへ帰って行きました。私たち夫婦は途中で買い物を済ませ午後8時過ぎにわが家へ帰って来ましたが、まあ凄い立派な椅子です。何年か前、私が希望して長男に買ってもらった巾の広い机にはまるで不揃いの豪華さです。私が在職中に使っていた教育長時代の椅子と座り心地もデザインも殆ど一緒で、一辺に気に入りました。やがて次男から電話が入り「お父さんどう、座り心地は、気に入ってくれた?」、「高かっただろう」「それ程でも」「有難う」、少なめながら息子との会話に子育ての嬉しさを感じました。

 次男は高校の機械科をを出ると直ぐ、自分で見つけたコンピューターの関連会社に技術者として就職しましたが、思うところあって8年間も勤めた会社を円満退社し、看護師の資格を取るため医療専門学校に5年間も通い、一昨年正看護師の資格を取得し、日赤へ看護師として就職しました。その間高校から続けていた演劇集団イリュージョンに身を置きながら、一度も辞めることなく活動してきた頑張り屋です。三交替の職場なので演劇は断念しましたが、今でも時々手伝いに行っているようです。

 私の書斎のこれまで使っていた椅子はリビングの椅子です。家族が少なくなって空いていたのを使っていましたが、余りにもみすぼらしく感じたのでしょうか、今回のプレゼントになったようです。昨日はいい一日となりました。これからはこの椅子に座ってせいぜいいい仕事をしたいものです。息子よありがとう。

  「凄い椅子 届きびっくり 仰天す まるで社長だ サンデー毎日」

  「肘付きの 椅子に座って 考える 今まで以上に 思考巡りて」

  「この三年 支え続けた 古き椅子 名残惜しいが 退役処分」

  「わが息子 平凡ながらも 親思う 優しき心 妻が育てた」

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shin-1さんの日記

○立つか座るか和服か洋服か、それとも椅子か畳か

 私たち日本人の暮しも随分洋風化したもので、おばあちゃんの代名詞とまでいわれた和服を着たおばあちゃんなど、今では日常生活ですっかり見れなくなりました。先日相次いで行われた親類の結婚式や葬式でさえ、「和服の方が楽だ」と訴える人が随分多く、時代の流れを感じつつ、今に日本から和服が消えてしまうのではないかと思わせるのです。昔の人は好んで和服を着こなしていました。しかし今の若者は余程のことがない限り着ないから帯の締め方も分らず、着ないのではなく「着れない」のです。

 私が町の教育委員会で成人式を担当していた頃、本当にあった笑い話です。ある女性が美容院や親の手助けを得て和服で着飾り、成人式に出席しました。成人式は同級生の集まりで、親しい仲間と飲みに行きましたが、その女性は中学時代に憧れていたプレイボーイからの誘いに乗ってラブホテルへ直行したそうです。和服を脱ぎ捨てて束の間の愛を楽しんだまでは良かったのですが、そのうち着物を着れない事に気付き、ラブホテルにタクシーを呼び、まるで裸同然で家へ帰り親から大目玉を食らったそうで、その話は当分の間村の巷で話題となって、女性は周りから「尻軽女」と随分冷たい目で見られ、戯言の度に引き合いに出され笑いものにされました。和服を着れない悲劇が生んだ笑い話です。それ以来根強い人気があった和服の成人式が私の町では和服自粛に統一され、県下でも珍しい洋服成人式が最近まで続いたのは何とも皮肉な話しです。

 私たちの暮しも随分洋風化しました。私たちが家を新築した三十年前は、ご飯を机と椅子で食べることに随分親子で議論を交わしました。親父達夫婦は畳がいいといい、私たち若夫婦は机と椅子を主張し、若者の意見が勝ったのです。その親も4~5年後隠居の台所へ机と椅子を持ち込んだのですから、あの激論は何だったの?と妻が笑って述懐するのです。最近親類が集まった葬儀や法事なども、高齢化を反映して畳に座布団といった風潮は完全に払拭されて、足腰膝の不調を訴える伯父叔母などは、マイ椅子を持ち込むほどの用意周到さなのです。

 さて立つか座るかというのはトイレの話題です。私はまだ足腰が丈夫ですから、他所の家に行って洋式トイレに座ることに抵抗感がありますが、最近はこれも高齢化の結果でしょうかウォシュレット付きの洋式便器が主流を占めるようになってきました。最近は田舎の宿屋もウォシュレットの洋式便器があるかどうか、申し込みの段階で聞く人が増えたそうなのです。そしてフェミニズムを反映して男性の便器不要論まで飛び出し始めました。男は立ち小便、女は座り小便と昔から決まっているように思うのですがフェミニストたちは、この風習こそ差別だと息巻いています。「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性が支配的な文明と社会を批判し、それを変革しようとする思想や運動」をフェミニズムというのですが、男も座って小便をする子どもが密かに増えていることを聞いて唖然としました。確かに観光地などの男性の便器はおこぼしやタバコの吸殻で汚れ美観を損ねていますが、男性の既得権だと思っていた小便器まで否定されると、さすがの男性たちも声を上げるに違いないと思わず笑ってしまいました。

 立つか座るか、自律していない男性にはまたまた厄介なお話のようです。

  「小便を 座ってしろと 諭す親 便器汚すが 理由らしいが?」

  「フェミニズム ここまで要求 するのかと 呆れチャックを 閉めるの忘れ」

  「そういえば 昔婆さん 尻まくり 立ちションするの 見たよな記憶」

  「そのうちに チンチン不用 言うかも知れぬ 男女同権 ここまで来れば」



 

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shin-1さんの日記

○くちなしの花

 「♭今では指輪も回るほど 痩せてやつれた~♯」と渡哲也さんが歌って大ヒットした、「くちなしの花」がわが家の庭に咲き始めました。昨晩からわが町では雨の近づきを予感させるような南風がかなり強く吹き、その風に乗って何か芳しい匂いが書斎の窓越しに匂ってきました。毎年の繰り返しなので「ああ、くちなしの花の匂いだ」ととっさに思いました。早速書斎の窓を開けて外へ出てみると、少し盛りを過ぎたくちなしの白い花が無数に咲いているのです。でも鼻の周りには無数の蕾がついていて、これから当分は楽しめそうなのですが、残念ながら雨に打たれてその役目を果たせないのかもしれません。

 ポツポツ降り出した雨もまだ大したこともないので、急いで書斎へ入ってカメラを持ち出し雨に塗れる前のくちなしの花の姿を写真に収めました。そっと顔と鼻を花に近づけ寄せると、何ともいえぬ甘い香りが漂ってきました。早速一輪指し用に鋏で一枝切り取り、小さめのコップに水を入れ挿しましたが、部屋中が何ともいえない香りで、これこそ天然の芳香なのです。

 最近は色々な芳香剤が開発され、特に臭いのするトイレなどに入ると、臭い臭いや汚いイメージを払拭するように芳香剤の香りが香ってくるのです。でもやはり天然の香りには勝てないようで、ここ2~3日はいい香を部屋の中でも楽しめそうです。

 私の記憶をたどればこのくちなしの花はもう10年も前、私が役場に勤めていた頃、島根県大根島のおばさんに貰ったものです。毎年春先になるとまるで春の使者のように、おばさんたちは竹篭で作った背負子にボタンや花木の苗木を背負って売りに来ていました。越中富山の薬売りのように毎年来るため顔馴染みとなったおばさんは、私が盆栽や花木に興味があるのを知って、色々な商品を格安で分けてくれました。「このボタンを買ってくれたら、このくちなしをサービスします」という口車に乗ってボタンの花を買いました。そのボタンの花はあえなく枯れましたが、どういう訳かサービス品のくちなしだけが生き残り、こうして大きくなったのです。ちなみにこのおばさんの紹介で島根県の出雲へ講演に行ったこともあり、はて「あのおばさんは今頃何処でどうしているのやら」と、人なつっこいおばさんの顔を思い出しながら一輪挿しに挿したくちなしの花を眺めながら朝食を取りました。

 妻にそのおばさんの話しをしてやると、「思い入れのある花だから大事にしないといけないね」と同調してくれましたが、「くちなしの花なのに口数の多いおばさんだった」と親父ギャグをいって、「寒い~」と一蹴されました。

 このくちなしは花を愛でるほかにもうひとつ役割があるのです。花が終わるとその花柄の下が膨らんで染料を貯えるのです。このくちなしの実は栗を炊いたりカキモチ、それに沢庵の黄色い色をつけるのによく使うのです。秋の頃になるとこの実を摘んで糸に通して陰干しし保管しておくと何かと便利なのです。食用の色は安全性が何よりも優先するので、くちなしの実は妻の大切な宝物になるのです。

 くちなしの甘い香りに乗って虫たちもやって来ます。特にくちなしの柔らかい葉っぱは青虫の大好物なので、放っておいたら一夜のうちに食べつくされてしまいます。食用のため消毒ができないので目と手で丁寧に取り除くしかできません。早速今朝3匹見つけて駆除しました。危ない危ない。

  「この歌を 知ってようでは 古い人 俺もそろそろ 賞味期限か」

  「くちなしは 花を愛でつつ 実も重宝 今年もこれで 沢庵漬ける」

  「くちなしの 花に心を 動かしぬ 少しゆとりの 日々が戻りて」

  「この匂い トイレの臭いと よく似てる 味も素っ気も ないよな話」

 

 

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shin-1さんの日記

○小さなイノベーションを起した小さなイノベーター

 何年か前ある人がある会で私に、「あなたは小さなイノベーションを起した小さなイノベーターだ」と、夕日によるまちづくりを総括して形容したことがありました。その後各地の集会でイノベーションとか、イノベーターとかいう言葉が飛び交い、意味を辞書で調べたことがありました。

 その時辞書を引いた言葉の意味をわが防備録に書いています。それにによると
イノベーションとは、1、新基軸、革新、2、新製品の開発、新生産方式の導入、新市場の開拓、新原料、新資源の開発、新組織の形成などによって、経済発展や景気循環がもたらされるという概念、シュンペーターの用と書いているのです。

 その当時は革新運動とか革新者などと勝手に解釈し、わが自著本「昇る夕日でまちづくり」にも、「革新とは今を否定して生きること」などと戯言を披瀝しているようです。

 先日黒川清著「イノベーション思考法」という本を読みました。今までモヤモヤしていたその意味が明快に書かれているのです。

 「イノベーション」は、経済学者のヨーゼフ・シュンペーターが、20世紀のはじめに提唱した経済学の原理のひとつである。企業や社会は成長し、成熟するにつれて保守的になる。そしてこれを中から壊していこうとする人たちが出てこない限り、いつか必ず朽ち果てる。したがって、組織を健康的に継続するためには「創造的な破壊」が欠かせない。これがシュンペーターのいうイノベーション・セオリーの基本的な考え方なのである。

 このことについて、OAK・TREEフォレスト羅針盤で、詳しく解説しています。つまり「イノベーション」の本質は、過去の成功体験と既存権益を守ろうとする内部の抵抗をはねのけ、組織や社会の持続のために必要な変革を、積極果敢に成し遂げることにあるのです。新しいアイデアや技術的な新基軸を見つけて終りにするのではなく、それを社会に広め、新しい価値体系をつくり、新しい経済成長を呼び起こし、結果として社会全体を変えない限り、イノベーションと呼ぶことはできないのです。

 ふと、夕日によるまちづくりのことを思い出しました。確かに夕日などという新しい地域資源でまちづくりをすることは、封建的で保守的な組織や意識を中から壊そうとするのですから、大きな抵抗があることは当然のことです。それは反対という行動で潰されていく運命にありましたが、小さなイノベーターによってイノベーションは起こったのです。でもその小さなイノベーションさえも次第に過去の成功体験と既得権益となって、それをを守ろうとする人たちによって守りを固められ、ついにはマンネリの道を進んでいるのです。

 ふと、合併後のまちづくりのことを思い出しました。確かに合併は地域にとって大きなイノベーションでした。しかし3年が経った今では、旧市町村の既得権益を守ろうとする人たちの必死の抵抗によって、議会も行政も醜い骨肉の争いをしています。市町村合併は外から壊したため内部が壊れずイノベーションの失敗事例かもしれませ。

 ふと、私が務めるまちづくり組織のことを思い出しました。確かに安定成長のように見えますが、この激しい時代変革の世の中で組織を守ることに汲々として、中から壊すイノベーターがいないのです。だとしたら、身を引くことだって小さなイノベーションのような気がするのです。指導者はいかに早く去るか、いかに早く死ぬかが命題なのです。

  「ふと思う イノベーションを 起したが それを守らば 元の木阿弥」

  「さあ起そう イノベーションの 波風を 出来ない人は 去るか死ぬかだ」

  「シュンペーター 俺はさしずめ シンペーター 気概を持って も一度トライ」

  「壊さなきゃ 新しきもの 生まれない 坂本龍馬 言ってるようだ」  

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shin-1さんの日記

○進ちゃん単車に乗る

 この2~3日天気がよいので、車庫から50CCのバイクを取り出し水洗いして埃を取りました。綺麗にふき取ってピカピカとまではいかなくれも、それなりに整備をして乗れるようにしました。この単車もう10年以上も乗っている年代物なのですが、今は春と秋くらいしか乗らないのでまだまだ十分乗れるのです。ガソリン代が高くなったこともあって止むに止まれぬほどではないにしても、それなりに生活防衛すべきだと、単車に乗ることを思いついたのです。

 昨日ブログの記事をプリントアウトしていてインクが切れ、慌てて近所の電気屋さんに行きましたが、あいにく私の使っているエプソンのカートリッジインクが品切れで、プリントアウトを途中で止めていました。今日は何が何でも片付けたいと思っていたので、思い切って伊予市まで単車で遠出しました。双海の海岸から三秋峠を経て伊予市街へ通じる国道378号線や56号線は車の数も少なく、心地よい風が頬を撫で快適そのものでした。本当はエミフルにでもと思ったのですが、途中でマツヤ電気という看板が目に付き入ってみました。店員さんにあらかじめ用意した品番を言うと直ぐに見つけてもらいとりあえず4個買い求めました。店員さんとの雑談でしたが、エプソンのプリンターは何故かインクの減り方が早いようだと言うと、「そうですかお困りですね」と同調してくれたものの、このままだと当分インク代は覚悟しなければならないようです。

 再び元来た道を引き返しましたが、車の台数が多くてもその横をスイスイ追い抜いて行ける単車は天気さえ良ければまさに省エネタイプの乗り物です。50CCですから時速は30キロに制限されていますが、オーバーいっぱい39キロで走行していて、突然三秋峠の頂上付近でパトカーが取締りをやっていました。行く時はいなかったのにです。でもその取締りはシートベルトとヘルメットの取締りのようで、止められもせず通過しましたが、よくぞスピードを出し過ぎていなかったと安堵の胸を撫で下ろしました。少し走って高野川の清掃センター付近で今度は白バイと出会いました。下りなのでここでもギリギリのスピードだったと思いますが。対向だったため後に通り過ぎて行きました。

 私は役場に務め始めた頃は普通車の免許がなく原付自転車の免許しかありませんでした。故に8年間も自宅から役場までの8キロを毎日単車で往復しました。当時の道は悪路と呼ぶに相応しく、雨の日や時化の日など合羽や防寒具を着て走ったものです。特に冬の寒さは格別で、家に帰ってしばらくは体の心まで冷えてきつかったことを覚えています。私が単車では知るその横をスポーツカータイプの乗用車で格好良く走っていた同僚は、歳をとった今では何故か軽四に乗って、台所の苦しさを物語っていますが、同じように台所が火の車でも普通車で走る私と逆転現象を起しているのです。

 単車の思い出は切りがありません。子どもが出来たというので実家のある八幡浜の私立病院へ、単車に子どもを乗せて無謀にも見舞いに行きました。単車の前に座らせた子どもが途中で眠ってしまい、起きるまで平家谷という峠道で休んだところ夜になってしまったこと、妻と結婚が決まりわが家へ遊びに来た時、駅まで単車で迎えに行き二人乗りして帰ったこと、ゼロ半10台を連ねて観光宣伝隊を企画し話題となったことなどなど、今でも鮮明に覚えているのです。すっかり時代遅れとなった単車ですが、ここにきて再び蘇えりました。単車に乗ると何か一回り若返ったような気になるから不思議です。「さあ明日も日和だったら単車で」と妻に話したら、「年寄りの冷や水」とたしなめられました。妻にとって単車は今でも危ない乗り物のようなのです。

  「さっそうと 風切り走る ゼロ半は 俺と同じく 時代遅れか」

  「ここに来て 省エネ活用 意味がある 単車復活 確か手応え」

  「そうだった あれこれあった 思い出を 反芻するよな お歳になりて」

  「悪いこと 出来ぬとばかり 警察に よく会う日だと 思いわずらう」


 

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