shin-1

○お金の井戸と知恵の井戸

 昨日近所の顔見知りのおばさんが立ち話をしている井戸端会議に偶然出くわしました。楽しそうに話しているので「何の話?」と輪の中に入ってみると、どうも近所に住むお金持ちの人の話のようでした。その人は巨万の富とまではいきませんが、私たち貧乏人が羨ましくその人の収入を詮索すれば、貸しマンションを三十戸くらい持ち、年金を受け取っている分だけでも計算すると毎月の収入が百万円はくだらないというのです。そのご主人は私もよく知っている人なので、「別に綺麗な格好をして歩いているわけでもなく、そんなには見えないけど」というと、「お金持はそういうものなのよ。貧乏人に限って見栄を張る人が多い」と、中々の洞察力です。

 最近このお金持と思しき人が旅行に凝っているそうで、国内はおろか外国へも年に数回行くのだそうです。「だってお金は生きているうちに使わないとあの世へまでは持ってゆけないものね」「それにしても羨ましいわね。汲んでも汲んでも減るどころか増える、お金の井戸を持っているのですから」「私たちは毎日あくせく働いても、貧乏人のお金の井戸は直ぐになくなってそこが見えてますからねえ」と話が発展していました。

 「ほう、上手い表現だな、お金の井戸か」と思う矢先、ひとりのおばさんが、「ところで進ちゃん、人ごとではなくあなたもお金の井戸をもっているから羨ましい」と、いきなり矢が私に飛んできました。「えっ私もですか」。「そうよ、あなたもあんな広い立派なお屋敷に住んで、毎日講演三昧でお金ががっぽがっぽ入って、お金の井戸があるのですから」といわれました。

 「いえいえ私の家はあなたが考えるほどお金持ではありません。だって私の家に来てチャイムを鳴らしてみてください。あなたの家のチャイムはピンポ~ンと鳴るでしょうが、私の家のチャイムは貧乏びんぼ~うと鳴りますからね」と笑いを誘いました。

 確かに人が詮索すれば私の家は一見お金があるように見えるのかも知れませんが、内情は「ありそうでないのが現金、なさそうであるのが借金」の諺どおり、借金こそないものの「お金の井戸」などまったくないのです。安月給で4人の子どもを育て、家もローンで新築しました。私は妻の家計簿に「亭主持ち逃げ」という項目があるほど、毎月やれ勉強だなどと全国を走り回り、お目出度お悔やみなどの交際費に加え飲み会やボランティア活動などにそれなりに使っているのですから、自分のハエさえ追えないのです。でも外から見ればそう見えるのでしょうか、私の家には実態のそぐわない「見た目だけのお金の井戸」がどうやらあるようです。

 私はおばさんたちに、「お金の井戸はないけれど、知恵の井戸ならありますよ」とお話しました。「えっ、知恵の井戸ってどんな井戸」、「はいそれは人生を生きていく上でとびきり上等な井戸です。お金の井戸は汲み過ぎるとなくなりますが知恵の井戸は汲み上げても汲み上げてもなくなりませんからね」、「なるほどなるほど、若松さんは上手い表現をされますね。一度私たちのもその知恵の井戸の講演を聞かせてください」「いいですよ、しかし私の講演料は高いですからお金ができないと聞けませんよ」「講演料って幾らぐらい要るの」「一億円です」「えっ、一億円?」「はい私の家にはひとり奥さんがいますので、お金の単位は一奥縁です」「まあ面白い」・・・・・・。延々と続く人を羨む井戸端会議を尻目にわが家へと帰りました。玄関へ入るなり、「おーい一奥縁」と声をかけると、一億縁にも匹敵するわが妻の笑顔が迎えてくれました。「何を馬鹿なことをいっているの」「寒~い」ですって。

  「俺の家 一奥縁が 住んでいる 金はないけど だから楽しく」

  「金の井戸 汲めばなくなる 知恵の井戸 汲めば汲むほど 増えるの不思議」

  「人の家 詮索話し 面白い 俺の家にも 金はありそう」

  「まあいいか 喰えたらそれで 人生は 金などあの世 持って行けぬぞ」


 

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shin-1さんの日記

 昨日は来年に予定されている県立松山工業高等学校創立100周年記念事業の設立実行委員会が開かれ、私もかつてこの学校のPTA会長を6年間も務めたため、顧問として名を連ねる事になり、長年ご愛顧いただいている高須賀先生が準備室長ということで逃げる訳にも行かず就任し、会議に出席しました。学校にとっても卒業生にとっても、また私たちのようにPTAとして間接的に携わった者にとっても、一世紀という気の遠くなるような時空に身を置いたことを感慨深く感じました。

 会議は1時間の予定が40分も長引きましたが、それだけいい議論が出来たようです。会議中に妻から携帯電話がかかってきました。一度は電話を切ったのですが、再度の電話です。年寄りを抱えているため何事か心配になって部屋の外に抜け出し電話を取ると、次男が今日は非番なので遅ればせながら父の日のお祝いをしてあげると、自宅に帰って来たようです。「何時に何処で待ち合わせるか」というのです。久しぶりに寿司でも食べようと相談がまとまりました。妻は追い討ちをかけるように、「お父さん、帰ったら驚くよ。一生君がお父さんに椅子のプレゼントをするのだといって、お父さんの書斎で椅子を組み立てている。持つべきものは子どもだねえ」と感心して電話を切りました。

(立派な椅子が入り、まるでオフィスのようになった私の書斎)

 やがて妻と次男は待ち合わせのお寿司屋さんへやって来ました。「今日は僕のおごりなので大船に乗ったつもりで沢山食べて」と金もないのに太っ腹なところを示してくれました。私「夏のボーナスが出たのか」、次男「いいやまだだがこれくらいは何とかなる」。妻「おごってもらうと喉を通らないから気にしないで」。私「仕事は慣れたか」、次男「大分ね」、私「そうか頑張れよ」。次男「うん頑張る」・・・・・・・・。そういいながら親子3人で寿司を食べました。やがて食事も終り息子は自分のマンションへ帰って行きました。私たち夫婦は途中で買い物を済ませ午後8時過ぎにわが家へ帰って来ましたが、まあ凄い立派な椅子です。何年か前、私が希望して長男に買ってもらった巾の広い机にはまるで不揃いの豪華さです。私が在職中に使っていた教育長時代の椅子と座り心地もデザインも殆ど一緒で、一辺に気に入りました。やがて次男から電話が入り「お父さんどう、座り心地は、気に入ってくれた?」、「高かっただろう」「それ程でも」「有難う」、少なめながら息子との会話に子育ての嬉しさを感じました。

 次男は高校の機械科をを出ると直ぐ、自分で見つけたコンピューターの関連会社に技術者として就職しましたが、思うところあって8年間も勤めた会社を円満退社し、看護師の資格を取るため医療専門学校に5年間も通い、一昨年正看護師の資格を取得し、日赤へ看護師として就職しました。その間高校から続けていた演劇集団イリュージョンに身を置きながら、一度も辞めることなく活動してきた頑張り屋です。三交替の職場なので演劇は断念しましたが、今でも時々手伝いに行っているようです。

 私の書斎のこれまで使っていた椅子はリビングの椅子です。家族が少なくなって空いていたのを使っていましたが、余りにもみすぼらしく感じたのでしょうか、今回のプレゼントになったようです。昨日はいい一日となりました。これからはこの椅子に座ってせいぜいいい仕事をしたいものです。息子よありがとう。

  「凄い椅子 届きびっくり 仰天す まるで社長だ サンデー毎日」

  「肘付きの 椅子に座って 考える 今まで以上に 思考巡りて」

  「この三年 支え続けた 古き椅子 名残惜しいが 退役処分」

  「わが息子 平凡ながらも 親思う 優しき心 妻が育てた」

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shin-1さんの日記

○立つか座るか和服か洋服か、それとも椅子か畳か

 私たち日本人の暮しも随分洋風化したもので、おばあちゃんの代名詞とまでいわれた和服を着たおばあちゃんなど、今では日常生活ですっかり見れなくなりました。先日相次いで行われた親類の結婚式や葬式でさえ、「和服の方が楽だ」と訴える人が随分多く、時代の流れを感じつつ、今に日本から和服が消えてしまうのではないかと思わせるのです。昔の人は好んで和服を着こなしていました。しかし今の若者は余程のことがない限り着ないから帯の締め方も分らず、着ないのではなく「着れない」のです。

 私が町の教育委員会で成人式を担当していた頃、本当にあった笑い話です。ある女性が美容院や親の手助けを得て和服で着飾り、成人式に出席しました。成人式は同級生の集まりで、親しい仲間と飲みに行きましたが、その女性は中学時代に憧れていたプレイボーイからの誘いに乗ってラブホテルへ直行したそうです。和服を脱ぎ捨てて束の間の愛を楽しんだまでは良かったのですが、そのうち着物を着れない事に気付き、ラブホテルにタクシーを呼び、まるで裸同然で家へ帰り親から大目玉を食らったそうで、その話は当分の間村の巷で話題となって、女性は周りから「尻軽女」と随分冷たい目で見られ、戯言の度に引き合いに出され笑いものにされました。和服を着れない悲劇が生んだ笑い話です。それ以来根強い人気があった和服の成人式が私の町では和服自粛に統一され、県下でも珍しい洋服成人式が最近まで続いたのは何とも皮肉な話しです。

 私たちの暮しも随分洋風化しました。私たちが家を新築した三十年前は、ご飯を机と椅子で食べることに随分親子で議論を交わしました。親父達夫婦は畳がいいといい、私たち若夫婦は机と椅子を主張し、若者の意見が勝ったのです。その親も4~5年後隠居の台所へ机と椅子を持ち込んだのですから、あの激論は何だったの?と妻が笑って述懐するのです。最近親類が集まった葬儀や法事なども、高齢化を反映して畳に座布団といった風潮は完全に払拭されて、足腰膝の不調を訴える伯父叔母などは、マイ椅子を持ち込むほどの用意周到さなのです。

 さて立つか座るかというのはトイレの話題です。私はまだ足腰が丈夫ですから、他所の家に行って洋式トイレに座ることに抵抗感がありますが、最近はこれも高齢化の結果でしょうかウォシュレット付きの洋式便器が主流を占めるようになってきました。最近は田舎の宿屋もウォシュレットの洋式便器があるかどうか、申し込みの段階で聞く人が増えたそうなのです。そしてフェミニズムを反映して男性の便器不要論まで飛び出し始めました。男は立ち小便、女は座り小便と昔から決まっているように思うのですがフェミニストたちは、この風習こそ差別だと息巻いています。「女性の社会的・政治的・法律的・性的な自己決定権を主張し、男性が支配的な文明と社会を批判し、それを変革しようとする思想や運動」をフェミニズムというのですが、男も座って小便をする子どもが密かに増えていることを聞いて唖然としました。確かに観光地などの男性の便器はおこぼしやタバコの吸殻で汚れ美観を損ねていますが、男性の既得権だと思っていた小便器まで否定されると、さすがの男性たちも声を上げるに違いないと思わず笑ってしまいました。

 立つか座るか、自律していない男性にはまたまた厄介なお話のようです。

  「小便を 座ってしろと 諭す親 便器汚すが 理由らしいが?」

  「フェミニズム ここまで要求 するのかと 呆れチャックを 閉めるの忘れ」

  「そういえば 昔婆さん 尻まくり 立ちションするの 見たよな記憶」

  「そのうちに チンチン不用 言うかも知れぬ 男女同権 ここまで来れば」



 

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shin-1さんの日記

○くちなしの花

 「♭今では指輪も回るほど 痩せてやつれた~♯」と渡哲也さんが歌って大ヒットした、「くちなしの花」がわが家の庭に咲き始めました。昨晩からわが町では雨の近づきを予感させるような南風がかなり強く吹き、その風に乗って何か芳しい匂いが書斎の窓越しに匂ってきました。毎年の繰り返しなので「ああ、くちなしの花の匂いだ」ととっさに思いました。早速書斎の窓を開けて外へ出てみると、少し盛りを過ぎたくちなしの白い花が無数に咲いているのです。でも鼻の周りには無数の蕾がついていて、これから当分は楽しめそうなのですが、残念ながら雨に打たれてその役目を果たせないのかもしれません。

 ポツポツ降り出した雨もまだ大したこともないので、急いで書斎へ入ってカメラを持ち出し雨に塗れる前のくちなしの花の姿を写真に収めました。そっと顔と鼻を花に近づけ寄せると、何ともいえぬ甘い香りが漂ってきました。早速一輪指し用に鋏で一枝切り取り、小さめのコップに水を入れ挿しましたが、部屋中が何ともいえない香りで、これこそ天然の芳香なのです。

 最近は色々な芳香剤が開発され、特に臭いのするトイレなどに入ると、臭い臭いや汚いイメージを払拭するように芳香剤の香りが香ってくるのです。でもやはり天然の香りには勝てないようで、ここ2~3日はいい香を部屋の中でも楽しめそうです。

 私の記憶をたどればこのくちなしの花はもう10年も前、私が役場に勤めていた頃、島根県大根島のおばさんに貰ったものです。毎年春先になるとまるで春の使者のように、おばさんたちは竹篭で作った背負子にボタンや花木の苗木を背負って売りに来ていました。越中富山の薬売りのように毎年来るため顔馴染みとなったおばさんは、私が盆栽や花木に興味があるのを知って、色々な商品を格安で分けてくれました。「このボタンを買ってくれたら、このくちなしをサービスします」という口車に乗ってボタンの花を買いました。そのボタンの花はあえなく枯れましたが、どういう訳かサービス品のくちなしだけが生き残り、こうして大きくなったのです。ちなみにこのおばさんの紹介で島根県の出雲へ講演に行ったこともあり、はて「あのおばさんは今頃何処でどうしているのやら」と、人なつっこいおばさんの顔を思い出しながら一輪挿しに挿したくちなしの花を眺めながら朝食を取りました。

 妻にそのおばさんの話しをしてやると、「思い入れのある花だから大事にしないといけないね」と同調してくれましたが、「くちなしの花なのに口数の多いおばさんだった」と親父ギャグをいって、「寒い~」と一蹴されました。

 このくちなしは花を愛でるほかにもうひとつ役割があるのです。花が終わるとその花柄の下が膨らんで染料を貯えるのです。このくちなしの実は栗を炊いたりカキモチ、それに沢庵の黄色い色をつけるのによく使うのです。秋の頃になるとこの実を摘んで糸に通して陰干しし保管しておくと何かと便利なのです。食用の色は安全性が何よりも優先するので、くちなしの実は妻の大切な宝物になるのです。

 くちなしの甘い香りに乗って虫たちもやって来ます。特にくちなしの柔らかい葉っぱは青虫の大好物なので、放っておいたら一夜のうちに食べつくされてしまいます。食用のため消毒ができないので目と手で丁寧に取り除くしかできません。早速今朝3匹見つけて駆除しました。危ない危ない。

  「この歌を 知ってようでは 古い人 俺もそろそろ 賞味期限か」

  「くちなしは 花を愛でつつ 実も重宝 今年もこれで 沢庵漬ける」

  「くちなしの 花に心を 動かしぬ 少しゆとりの 日々が戻りて」

  「この匂い トイレの臭いと よく似てる 味も素っ気も ないよな話」

 

 

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shin-1さんの日記

○小さなイノベーションを起した小さなイノベーター

 何年か前ある人がある会で私に、「あなたは小さなイノベーションを起した小さなイノベーターだ」と、夕日によるまちづくりを総括して形容したことがありました。その後各地の集会でイノベーションとか、イノベーターとかいう言葉が飛び交い、意味を辞書で調べたことがありました。

 その時辞書を引いた言葉の意味をわが防備録に書いています。それにによると
イノベーションとは、1、新基軸、革新、2、新製品の開発、新生産方式の導入、新市場の開拓、新原料、新資源の開発、新組織の形成などによって、経済発展や景気循環がもたらされるという概念、シュンペーターの用と書いているのです。

 その当時は革新運動とか革新者などと勝手に解釈し、わが自著本「昇る夕日でまちづくり」にも、「革新とは今を否定して生きること」などと戯言を披瀝しているようです。

 先日黒川清著「イノベーション思考法」という本を読みました。今までモヤモヤしていたその意味が明快に書かれているのです。

 「イノベーション」は、経済学者のヨーゼフ・シュンペーターが、20世紀のはじめに提唱した経済学の原理のひとつである。企業や社会は成長し、成熟するにつれて保守的になる。そしてこれを中から壊していこうとする人たちが出てこない限り、いつか必ず朽ち果てる。したがって、組織を健康的に継続するためには「創造的な破壊」が欠かせない。これがシュンペーターのいうイノベーション・セオリーの基本的な考え方なのである。

 このことについて、OAK・TREEフォレスト羅針盤で、詳しく解説しています。つまり「イノベーション」の本質は、過去の成功体験と既存権益を守ろうとする内部の抵抗をはねのけ、組織や社会の持続のために必要な変革を、積極果敢に成し遂げることにあるのです。新しいアイデアや技術的な新基軸を見つけて終りにするのではなく、それを社会に広め、新しい価値体系をつくり、新しい経済成長を呼び起こし、結果として社会全体を変えない限り、イノベーションと呼ぶことはできないのです。

 ふと、夕日によるまちづくりのことを思い出しました。確かに夕日などという新しい地域資源でまちづくりをすることは、封建的で保守的な組織や意識を中から壊そうとするのですから、大きな抵抗があることは当然のことです。それは反対という行動で潰されていく運命にありましたが、小さなイノベーターによってイノベーションは起こったのです。でもその小さなイノベーションさえも次第に過去の成功体験と既得権益となって、それをを守ろうとする人たちによって守りを固められ、ついにはマンネリの道を進んでいるのです。

 ふと、合併後のまちづくりのことを思い出しました。確かに合併は地域にとって大きなイノベーションでした。しかし3年が経った今では、旧市町村の既得権益を守ろうとする人たちの必死の抵抗によって、議会も行政も醜い骨肉の争いをしています。市町村合併は外から壊したため内部が壊れずイノベーションの失敗事例かもしれませ。

 ふと、私が務めるまちづくり組織のことを思い出しました。確かに安定成長のように見えますが、この激しい時代変革の世の中で組織を守ることに汲々として、中から壊すイノベーターがいないのです。だとしたら、身を引くことだって小さなイノベーションのような気がするのです。指導者はいかに早く去るか、いかに早く死ぬかが命題なのです。

  「ふと思う イノベーションを 起したが それを守らば 元の木阿弥」

  「さあ起そう イノベーションの 波風を 出来ない人は 去るか死ぬかだ」

  「シュンペーター 俺はさしずめ シンペーター 気概を持って も一度トライ」

  「壊さなきゃ 新しきもの 生まれない 坂本龍馬 言ってるようだ」  

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shin-1さんの日記

○進ちゃん単車に乗る

 この2~3日天気がよいので、車庫から50CCのバイクを取り出し水洗いして埃を取りました。綺麗にふき取ってピカピカとまではいかなくれも、それなりに整備をして乗れるようにしました。この単車もう10年以上も乗っている年代物なのですが、今は春と秋くらいしか乗らないのでまだまだ十分乗れるのです。ガソリン代が高くなったこともあって止むに止まれぬほどではないにしても、それなりに生活防衛すべきだと、単車に乗ることを思いついたのです。

 昨日ブログの記事をプリントアウトしていてインクが切れ、慌てて近所の電気屋さんに行きましたが、あいにく私の使っているエプソンのカートリッジインクが品切れで、プリントアウトを途中で止めていました。今日は何が何でも片付けたいと思っていたので、思い切って伊予市まで単車で遠出しました。双海の海岸から三秋峠を経て伊予市街へ通じる国道378号線や56号線は車の数も少なく、心地よい風が頬を撫で快適そのものでした。本当はエミフルにでもと思ったのですが、途中でマツヤ電気という看板が目に付き入ってみました。店員さんにあらかじめ用意した品番を言うと直ぐに見つけてもらいとりあえず4個買い求めました。店員さんとの雑談でしたが、エプソンのプリンターは何故かインクの減り方が早いようだと言うと、「そうですかお困りですね」と同調してくれたものの、このままだと当分インク代は覚悟しなければならないようです。

 再び元来た道を引き返しましたが、車の台数が多くてもその横をスイスイ追い抜いて行ける単車は天気さえ良ければまさに省エネタイプの乗り物です。50CCですから時速は30キロに制限されていますが、オーバーいっぱい39キロで走行していて、突然三秋峠の頂上付近でパトカーが取締りをやっていました。行く時はいなかったのにです。でもその取締りはシートベルトとヘルメットの取締りのようで、止められもせず通過しましたが、よくぞスピードを出し過ぎていなかったと安堵の胸を撫で下ろしました。少し走って高野川の清掃センター付近で今度は白バイと出会いました。下りなのでここでもギリギリのスピードだったと思いますが。対向だったため後に通り過ぎて行きました。

 私は役場に務め始めた頃は普通車の免許がなく原付自転車の免許しかありませんでした。故に8年間も自宅から役場までの8キロを毎日単車で往復しました。当時の道は悪路と呼ぶに相応しく、雨の日や時化の日など合羽や防寒具を着て走ったものです。特に冬の寒さは格別で、家に帰ってしばらくは体の心まで冷えてきつかったことを覚えています。私が単車では知るその横をスポーツカータイプの乗用車で格好良く走っていた同僚は、歳をとった今では何故か軽四に乗って、台所の苦しさを物語っていますが、同じように台所が火の車でも普通車で走る私と逆転現象を起しているのです。

 単車の思い出は切りがありません。子どもが出来たというので実家のある八幡浜の私立病院へ、単車に子どもを乗せて無謀にも見舞いに行きました。単車の前に座らせた子どもが途中で眠ってしまい、起きるまで平家谷という峠道で休んだところ夜になってしまったこと、妻と結婚が決まりわが家へ遊びに来た時、駅まで単車で迎えに行き二人乗りして帰ったこと、ゼロ半10台を連ねて観光宣伝隊を企画し話題となったことなどなど、今でも鮮明に覚えているのです。すっかり時代遅れとなった単車ですが、ここにきて再び蘇えりました。単車に乗ると何か一回り若返ったような気になるから不思議です。「さあ明日も日和だったら単車で」と妻に話したら、「年寄りの冷や水」とたしなめられました。妻にとって単車は今でも危ない乗り物のようなのです。

  「さっそうと 風切り走る ゼロ半は 俺と同じく 時代遅れか」

  「ここに来て 省エネ活用 意味がある 単車復活 確か手応え」

  「そうだった あれこれあった 思い出を 反芻するよな お歳になりて」

  「悪いこと 出来ぬとばかり 警察に よく会う日だと 思いわずらう」


 

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shin-1さんの日記

○習慣化すれば

 私は凡人です。ゆえに子どもの頃から人並みなこともできず、こんな人間に生んだ親を恨むことさえありました。今でも親父の語り草ですが、私は小学校へ入るまで10の数さえ数えられなかったそうです。私が小さい頃は戦後間もない頃もあって、村には幼稚園や保育園などなく、子どもはいきなり小学校へ入学しました。故に小学校へ入る準備といえばカバンと学生服だけで、そのカバンさえ近所の裁縫の得意なおばさんが厚手の白生地で縫ってくれた肩掛けカバンでした。中に入れる教科書も姉のお下がりが何冊かあったような記憶があるのです。そんなこんなの時代ですから学校など余り重要なことではありませんでした。それでも私の10を数える訓練は、家の前の海岸に転がって小石を10個拾ってきて毎日続きました。昔の漁家は魚を獲る網や縄さえも自分で作らねばならず、漁から帰った親父は毎晩夜遅くまで網をすき縄をなっていましたが、その横に座らされた私はその小石を使って10の数を数える練習をしたのです。それでも偉いもので何日かするとそれが習慣となって、小石を沢山拾ってきて、足し算や引き算までもできるようになって、人並みに回復したばかりでなく、算数が少し得意な教科にまでなりました。

 習字も苦手でした。第一習字の道具は家に一つしかなく、姉が学校で使う日は私は筆だけを持って学校へ行き、友達に墨を磨ってやって一緒に使わせてもらいました。その当時は白い半紙など仕上げに使うもので、新聞に何度も何度も真っ黒になるまでなぞって書きました。その新聞すらわが家ではとっていなかったので、友だちや先生に貰いました。その時字が読めないのに貰った新聞の中から、一枚だけ譲り受けて大事に家にとって帰り、隅から隅まで何度も読んだものでした。お陰様でそのうち国語が得意中の得意となって以後私の読書開眼となって行くのです。

 「それも分らないのか」と夜なべする親父は鯨ざしの定規でピシャリト手の甲を叩かれた痛さは今も忘れることができないのです。人は自分の醜い部分を隠す習性があります。女性が顔にお化粧するのもより美しくしようとする行為であり、政治家が学歴詐称するのも、自分をよりよく見せたいと思う心でしょうが、貧乏や出来が悪かったことなど好んで話すことではありませんが、それを習慣という努力によって克服した話は、私にとっては胸を張れる出来事なのです。お陰で人間習慣化すれば出来ないことはないと思うようになり、以後の私の人生を決める事になるのですから世の中は不思議なものです。

 理屈は一度聞けば分りますが、それを本当に自分のものにするには、毎日毎日繰り返し習慣化しなければ成就するものではないのです。近所に住む友人はゴルフが好きで今はシングルです。でもシングルになるため彼は毎日朝晩家の横に設えた小さな猫の額ほどの練習場で練習をしているのです。私だって毎日三枚のハガキをもう22年間も書いているのですから、凡人だって習慣化すれば非凡になることを証明しています。

 人には良い習慣と悪い習慣があります。酒やタバコを止めれないのは悪い習慣でしょう。毎日出会う人、出会うことに対する見方や考え方、行動が自然体でできるようになる習慣づけは人生を楽しくしてくれます。どおってことない早寝早起きだって簡単にできる習慣なのです。

  「十の数 数えられない 俺だって 今じゃ立派に 経済語る」

  「習慣は 一度はまると 病み付きに これが出来れば 非凡人生」

  「手の甲を 摩って思う 親の恩 小石数えた 懐かし日々を」

  「続ければ 行というべき 行いに なるから不思議 暮らし充実」

 

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shin-1さんの日記

○内は紙ごみ焼却と外は草削り、すっかり綺麗に

 このところ天気予報が合わず、今日は予想に反してうす曇りです。だんだん暑い夏が近づいて何となく蒸し蒸しするような日和です。わが書斎の中も、このところの忙しさで、まるで紙ごみに囲まれているような雰囲気なので、朝から身の回りの掃除をしました。キャリーを持って来てその中にいらなくなった資料をどんどん投げ込んでゆくのですが、1時間ほどでキャリー5箱分の紙ごみが出て来ました。中にはシュレッターにかけなければならないような物もあるので、畑の隅にある自家焼却炉まで運んで焼却処分です。紙は一枚一枚入れればよく燃えるのですが、分厚い資料などは外が燃えるだけで入れれば入れるほど燃えないのです。傍で見かねた親父が長い鉄の火かき棒で中を交ぜながら燃やしてくれました、何せ大量なので親父の手助けがあっても昼間でかかってしまいました。私はパソコンを使ってブログのプリントアウトをしながらの作業で、1月。2月・3月の三ヵ月間もプリントアウトできてホクホクです。途中インク不足の警告ランプがつき、近所の電気屋さんに買い求めに出かけましたが、あいにく形式番号が合わず、今日の作業は断念しました。捨てても捨てても貯まる一方の紙類にうんざりしながら日々を過ごしていますが、もうそろそろ紙ともお別れしなければならないようです。まあもう一日捨てればスッキリする予定なので、いい日を選んでまた大掃除をしたいものです。

 昼からは家の周りの草削りをしました。家の周りといってもわが家は敷地面積660坪、貧乏なくせに敷地だけはやたら広いのです。この20年余りは親父が中心になってこの敷地の樹木や野菜、それの雑草除去を一手に引き受けてやってくれていましたが、年老いた親父の力だけでは追いつかなくなってきました。去年辺りから私も手伝っていますが、健康そうで健康でない私はアリのように働く親父の半分もこなせないのです。

 それでも今日は裏庭と表庭の殆どを草削り用の鍬で削ってしまいました。今年は春先についで、これで早2回目の草削りなのですが、今日は暑くて汗が吹き出るようにびっしょり出ました。「もう限界だ止めよう」と思ったのは午後5時頃でした。仕事から帰った妻は、周りの庭が綺麗になったのを見て驚いた様子で「まあ綺麗、ご苦労さん、まあ一休みしてスイカでも」と大変なサービスぶりです。「おいおい一服したらまた続けろというのか」というと、「無理をすると長続きしない」と、止めるよういわれ、一番風呂へ入り汗を流しました。

 何年か前だと風呂上りに飲むビールのいっぱいは格別の味でしたが、今はそれも適わず美味しい食事をいただきました。

 このところの人間牧場や家の周りの草削りなどで、幾分か顔が日焼けしたのか鏡で見ると黒くなったような気がします。その分体も引き締まったように見えるのか、出会う人誰もが「元気そうななったね」とお世辞を言ってくれます。その都度「体重は変わらないのですがねえ」とか、「お陰様で」と適当にお茶を濁していますが、それでも「元気になった」と言ってくれるだけでも有り難いことなのです。

 このところ腰の具合もまあまあです。食欲もあるし夜もぐっすり眠れます。また仕事の意欲もあって、日々充実しています。ただ惜しむらくはやはり少々オーバーペース気味なので、もう少しスローダウンした方がいいのではと、妻も知人も言ってくれるので、そうしたいと思っています。でもやはり町の便利屋なのか、あちこちからボランティアまがいの仕事が舞い込んで、結局はオーバーワークとなっているのです。

  「内掃除 紙を処分し スッキリと 外は草取り ここもスッキリ」

  「昔なら ここでビールを 一気飲み 今は麦茶で 飲んだ真似事」

  「ご苦労さん 冷えたスイカで ねぎらいを さすが妻だな 嬉し気配り」

  「一番の 風呂に入って 歌唄う エコー聞いたる 俺もまんざら」  

 

 

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shin-1さんの日記

○カードの作成を断りました

 昨年の父の日に子どもたちかがプレゼントしてくれた、エプソンのプリンターを使い始めて一年が過ぎました。最初は嬉しくて様々なプリントを試みていましたが、そのうち慣れて今では日常程度の使い方になっています。あれ程自分のブログを全て印刷しようと意気込んでいたのに、気がつけば今年も早半年が過ぎようとしているにも関わらず、今年の分はまだ全然プリントアウトしていないのです。さてどうするか考えただけでも気が重くなりそうです。でもどこかでけじめをつけなければならないので、とりあえず一か月分だけでも徐々に進めたいと思い、昨日大学の講義に出かけた帰り道、松前のエミフルに出来た大型家電店DEODEOに立ち寄りました。というのも学生たちに「エプソンのプリンターインクは何処が安いか」聞いたところ、大型家電店なら大体同じような金額だと教えてもらったからです。

 DEODEOの店内は迷うほどの広さで、何処に何があるのかさっぱり分らず店員さんに問い合わせ、インクカートリッジの型式番号を告げ買い求めました。支払いレジに行くと店員さんが「お客様カードをお作りになりませんか。ポイントが貯まって断然お得です。このカードだと毎年幾らかお金がかかりますがいかがですか。開店の記念のため今回は無料です」というのです。普通このようなお店で使えるポイントカードは無料が多く、無料ならと思ったのですが、カードの嫌いな私は「次回からお金が要るのなら結構です」と断ってしまいました。怪訝そうな顔をした女性の店員さんを尻目に、そそくさと買い物を済ませて店を後にしました。

 最近はカードの時代でカードを作らせて会員としてお客の囲い込みを計るお店が随分増えてきました。ガソリンスタンドなどに立ち寄ると、殆どのお店がキャンペーン中だとか何か理由をつけてカードの勧誘をするのです。これらのカードは一回だけのものもあって、車の片隅で放置され、いずれゴミになる運命を辿るのです。

 「断る勇気」は中々難しいものです。前述したように私はカード決済が嫌いで、極力カードを持たないようにしています。行きつけのガソリンスタンドは会員証があれば3円引きなので、高くなったガソリン代に対抗する生活防衛のつもりで使っていますが、カードは先日作った高速道路のETCカードと二枚のみで、それ以外持っていません。銀行や郵便局などカードでお金を引き出したこともなく、その方法さえ知らないのですから、時代遅れもはなはだしいのです。

 お陰でカード時代には乗り遅れてしまいましたが、それでもカードによる事件に巻き込まれることもなく今日を迎えているのです。今の時代は流行を先取りして生きる人もいますが、私のように流行に逆らって生きている人も話してみれば結構いるものです。「あなたもそうですか。実は私も・・・・」なんて会話をして安心したりするのです。これからも「断る勇気」を持ってカード時代を乗り切ろうと思っています。

 それにしても「インクは高いなあ」、それにしても「インクは早くなくなるなあ」と思いつつ、プリンターのインクが揃って、さて始めるかと思った矢先、今度はプリンター用紙が少なくなっていることに気がつきました。「うーん間も拍子も悪いなあ」と自分の愚かさに納得しながら、思案の朝を迎えています。

 流行語となった「とりあえず」を引用して、今日のところはプリントアウトより、プリントインに心がける一日としましょうか。

  「インク代 馬鹿にならない 妻が言う その通りだと 私同調」

  「作りません? 誘いを受けて 作りません 断り店員 機嫌損ねる」

  「何枚も 見せびらかすよう カード持ち 買い物する人 偉いもんだね」

  「プリントを しようとインク 買い求め 紙を忘れた 俺は間抜けだ」

 

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shin-1さんの日記

○妻のとんだハプニング顛末

 「お父さん、、今日は大変だったのよ」と外出先から帰った妻が、開口一番武勇伝を語り始めました。「今日は帰りが遅くなる」と言って私が新居浜へ出かけたため、それなら自分もと孫を連れて映画を見に行ったらしく、帰宅してみると妻の姿が見当たらないのです。妻の携帯電話を呼び出しましたが、その携帯電話は置き忘れて居間で鳴っているのでです。仕方がないので娘の家に電話しました。すると何のことはありません。妻はまだ松山の娘の家にいるではありませんか。食事の時間なので早く帰って来いt少し叱るように話し電話を切りました。

 おっつけ妻は帰ってきての武勇伝です。聞けば映画館で孫を降ろし乗って行ったトラックの内キーをしてドアを閉めたようです。ところがキーロックしてから座席にキーがあったのです。さてそれからが大変、どうしようかと思案した挙句娘に電話して、加入しているJAFがやって来て僅か5分で開けてもらったそうなのです。しかもその作業代が無料というのも妻の武勇伝のひとつのようでした。普通ドアロック解除を業者に頼めば5千円から1万円は取られるのですから儲けたと思ったのは当然です。しかし人のことですから言えませんが妻も私に輪をかけた相当なお人よしでおっちょこちょいのようです。

 私は娘夫婦の勧めもあって何年か前JAFに登録しましたが、利用したことは幸せな事に一度もなく、更新手続きの度に「お金が要るだけならもう止めようか」と再三妻の不評をかっていたのです。それでも何かあったらと更新手続きを繰り返していましたが、ここにきて一気にそのモヤモヤが晴れたようで、いい加減なもので「やっぱり強い味方はJAFねえ」と、開いた口が塞がらないのです。

 そういえばJAFで思い出すのは2年前、人間牧場が出来て1周年を記念して広島の過疎逆と共催した逆手塾での出来事でした。人間牧場へはフロンティアのメンバーも迷うほど幾つもの枝分かれした細い迷い道があって、余程でないと迷ってしまうのです。その日はフロンティアのメンバーが何度も往復して最寄のシーサイド公園やJR下・上灘駅を往復し送迎に当たってくれました。来る時はみんな水先案内人がいるため簡単に来れるのですが、さて早々に引き上げる人にとって夜道は余計分りづらく、助産師の山本さんにとって早朝までに香川まで帰らなければならない所用があって、「さよなら」と去って行きました。ところが数十分すると「どうやら道を間違ったらしいが今自分が何処にいるのか分らない」と、まるでミステリーまがいの電話がかかって来ました。どこをどう通ったかを電話でたどりましたが、そのうち車をぶつけ動かなくなったと半泣きです。フロンティアのメンバーも農道までは知る由もなく、結局下の県道まで車を転がすように下りてもらいましたが、彼女もJAFに加入していて呼び出したものの、自分の位置確認が出来ずその作業は深夜にまで及び、結局車は役場までJAFの事故処理けい引車で運んでもらい、山本さんは松山まで連れて行き列車の人となったのです。

 全国をネットしてサービスを展開するJAFという仕事の存在を頼もしく思ったのはその時でした。以来一回もそのお世話にならずも車の後ろにJAFのステッカーを貼ったりしているのです。私はもし車が故障してもJAFへの通報をするすべを知りません。妻は余程感謝しているのか「JAFを呼び出すには♯3999でつながるのよ」と宙で覚えていて教えてくれました。

 そういえばもうそろそろ私の車も9年目を向かえ寿命かもしれない思うようになりました。先日もエンジントラブルの表示が運転席の前の速度メーター表示板の横に点灯し驚かせましたが、ディーラーで点検修理し事なきを得ました。今回の車も故障の少ない車に恵まれましたが、せめて加入しているとはいいながらJAFのお世話にはなりたくないものです。

  「JAFなんて そんな略語は 知らなんだ 妻はとっさに 金の力か」

  「修理代 タダというのが 気に入って 妻は感謝の 多弁となりぬ」

  「落ち着いた 妻がおこした おっちょこちょい カギを座席に 置いたり老いて」

  「あなた何処 居場所も分らず 電話する それでもJAFは 差の場所探し」


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