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○町内の学校を訪ねました

 今日午前中、銀行や郵便局に立ち寄りました。特に郵便局はお世話になった方に、畑から収穫したばかりの甘夏柑を段ボールに詰めて送る作業をしたため、郵便局長さんが「まあお入り下さい」と局長室へ案内して美味しいお茶を入れてくれました。局長さんもそろそろ定年が近いようで、定年後の生き方を模索しているらしく、自分のこと、家族のこと、地域のことなどについてアドバイスを求められました。私はリタイアしてこの4年間それなりに充実した生き方をしてきたと思っているし、これからもそう行きたいと思っているので、随分と色々なことについて30分もお話をしました。

 ついでに教育委員会の双海事務所に立ち寄りました。今年から双海事務所も公民館長が常勤専任になって、宮栄さんが館長席に座っていました。郵便局に勤めていた宮栄さんにとってデスクワークは10年ぶりと聞きました。「そりゃあ大変でしょう」と相槌を打ちながらお話をしましたが、机の上のパソコンはまだ使いこなすところまでは行っていないと嘆いていました。

 事務所で下灘中学校の二宮校長先生にばったり会いました。「しまった」と思いました。下灘中学校は今年で長い歴史に幕を閉じ上灘中学校と統合し新生双海中学が誕生するのです。閉校するにあたって記念事業が実行委員会で計画され、私にも原稿依頼と寄付依頼が来ていたのです。原稿締め切りも寄付締め切りもまだ先のことですが、原稿も寄付も早くてもいいのです。二宮校長先生は「まだ締め切りも来ていないので」と言われましたが、私は自宅に帰り昼食後早速30分余りをかけて千字余りの原稿を書きあげ、下灘中学校へ持っていこうと軽四トラックを走らせました。人間牧場へお客さんを案内する時横の道を通るくらいで下灘中学校へはこの一年余り立ち寄っていないため、どこか懐かしく、どこかセンチメンタルな気持ちで学校に入り、職員室へ行きましたが、あいにく校長先生は外出中で、顔見知りの武智先生と雑談をしながら、学校の封筒をいただき原稿を入れ、寄付金も少額ながら納めさせていただきました。これにて一件落着です。

 せっかく下灘へ来たのだからと下灘小学校へ行き元気を回復したイチョウの木に巡り合い、辻校長先生と面談して雑談をしました。特に昨年JRCの大会の講演集では随分お世話になっているので、お礼を言いました。下灘小学校には上がりかまちのような畳の部屋が出来ていて、今度はこの畳の上で落伍をやりたいと約束めいた話をして帰りました。

 帰り道陽気に誘われて由並小学校に立ち寄りました。二宮金次郎さんの銅像に深々と頭を下げました。この金次郎さんの読んでいる本の件では随分私の講演の中でお話しさせてもらっていることへの感謝の気持ちなのです。吉田校長先生とはこの学校の評価委員をしていたこともあって何かと話す機会も多く、教育もんだについても話しました。

 縁もゆかりもない私が学校を訪問することは、まるで不審者のようで心が痛みます。でも元教育委員会に勤めていたのだからまあいいかと、独りよがりしながら学校を訪問しているのです。田舎が故に穏やかな学校運営が行われているし、それぞれの学校の先生方がしっかりと学校運営に携わっているので、安心しています。これからもいい学校運営を頼みます。


  「突然に 学校訪問 不審者に 間違えられず 温か迎え」

  「原稿と 寄付を届けに 母校行く 今年一年 寂しい限り」

  「帰り道 小学校に 立ち寄りて 校長さんと お喋り弾む」

  「入学の 慌ただしさも 終わったか 学校静まり ホッと一息」

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○昭和は遠くなりにけり

 昨日は「昭和の日」でした。昔といっても昭和天皇が存命中の21年前までは天皇誕生日だったはずですが、その後みどりの日となり、3年前から現在の名前に改称されました。サンデー毎日の私にとってこの改称は議論の蚊帳の外にいたため「いつの間にか」という感じが強いのです。

 それにしてもいつの間にか「昭和」が「平成」に代わってからもう21年も経っているのです。つまり平成生まれの人が20歳を超えた訳ですから、昭和も随分遠くなりにけりです。昭和19年生まれの私にとって、60年余り続いた昭和という時代の中の前期19年は生まれてないので当然ながら戦争に明け暮れた悲しい時代は記憶にありません、生まれて間もなく終戦でした。日本の歴史の中でもそこから始まった戦後の復興と高度成長への20年という階段はまさに私の少年から青年に代わる大事な時期でした。その後平成までの20年は転職や公務員生活でこれまた楽しい時期でした。こうして昭和を総括しながら、大正生まれの親父がそうであったように、昭和生まれの私もまた平成という情報化社会に翻弄されながら老後を生きて行くのかと思うと、昭和の日は何か背中に重い荷物を背負っているような感じがするのです。

 居間の若者たちにとって昭和の日などという日はただ単なる祝日という感覚で、勿論私でさえブログに記事でも書いていなかったら、こうして昭和という時代を振り返ることもなかったのですから、いい加減なものです。でも町内を歩くと心ある家庭は軒先に国旗を掲げ国民の祝日をしっかりと祝っているのです。

 わが家でも私が若い頃は国旗を玄関先に揚げていました。いつのころかも定かでありませんが、多分私の忙しさにかまけてすっかり国旗のことを忘れてしまっていたのです。

 国旗で思い出すのはにっぽん丸という青年の船で太平洋を渡り、建国200年のアメリカとメキシコ、ハワイを巡った時の思い出です。私たちの船がメキシコのアカプルコに入港した際、熱烈な歓迎ぶりに船のデッキから手持ちの小さな国旗を団員が出迎えた人に投げました。悪気があってのことではなかったのですが、そのことが大きな議論となりました。国の象徴と言われる日の丸国旗に対する認識不足を痛感する出来事でした。


 帰国後私は国旗を買い求め、国民の祝日には必ず子どもたちと一緒に玄関先に国旗を掲揚していました。多分幼い息子たちもそのことは記憶に残っていると思うのですが、その後国旗掲揚をしなくなった私のいい加減さを今日改めて感じたのです。

 明日から5月です。憲法記念日、みどりの日、子どもの日と国民の祝日が目白押しで続きます。ゴールデンウィークなどと浮かれることなく、もう一度国民の祝日の意味を考え、何処へ収納したかさえも記憶にない国旗を探して明日から始まる来月は何としても国旗を玄関先に掲げたいと思った次第です。

 日の丸国旗に対しては戦争という惨事を経験した日本では賛否両論がありますが、一私人の私としては国旗や国家を大切にするという一心からこれからもそのような考えで臨みたいと思っています。


  「平成に なって生まれた 人多く 昭和生まれは 肩身が狭い」

  「昭和とは せめて祝日 その日には 国旗を立てて 記憶辿ろう」

  「戦争と 平和の落差 後世に 伝える義務を われら持たねば」

  「軟弱な われの心を 恥にけり 国旗掲揚 せずに祝日」

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○過去と未来のはざまに吹いた隙間風

 今日の午後、何げなくシーサイド公園へ行きました。シーサイド公園は開業して今年で15周年を迎えました。当時は様々な反対意見の渦巻く中で、夢中になってこの公園を孤軍奮闘造ったものです。開業後も反対した人たちを見返してやろうと、必死になって頑張りました。その結果お墓参り以外人の来ないと言われたこの町のシーサイド公園に年間50万人を越える人が来て、それなりに営業成績をあげてきました。6年前地域振興課長を最後にこの道から足を洗い請われるまま教育長に就任たものの、特別職とはいいながら役場職員として2年間陰ながら面倒を見てきたのです。4年前合併して自由人になってからも何となく気になり、気がつけばいつの間にかシーサイド公園へ足が向いていたことが何度もありました。シーサイド公園は気心知れた人たちが沢山いて、今日もえひめ地域政策研究センターに出向している松本さんが奥さんを連れてシーサイド公園にやってきていました。シーサイド公園では恋人岬で今年3組目の結婚式が行われていて、仕掛けた松本さんとしては私と同じようにやはり気になるようでした。

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(沢山の人が集まった恋人岬の人前結婚式)
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(恋人岬での結婚式)
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(二階のレストランも綺麗に変身していました)
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(相変わらず元気なじゃこ天売場のおばさんたち)

 松本さん夫婦も私も一ギャラリーとして結婚式を見守る群衆の中に入って、若いカップルに大きな拍手を送っていました。恋人岬を飾る紅白のフーセンが風になびき、糸の切れた風船が真っ青な空に吸い込まれていくように空高く飛んでゆきました。

 結婚式の司会をした戸田さんのナレーションを遠くで聞きながら、現職のころ537組もの結婚披露宴の司会をした思い出が懐かしく蘇り、「ああ、あんな時代もあったなあ」と感傷にふけりながらシーサイド公園の砂浜を一人歩きました。

 ふと我に返りじゃこ天のお店へ立ち寄っていました。おばさんたちも相変わらず元気です。昨年のこの頃人間牧場の畑でできたフキを収穫して持って行ったところ、大層喜こんだことをおばちゃんたちはしっかりと覚えていて、フキが欲しいとせがまれました。確かあの時はフキを松山の市場に持って行き1500円もの売り上げがあり、私は全額寄付したことを思い出しました。急いでわが家に帰り身支度をして人間牧場へ出かけてフキを採取しました。再び引き返してかなりの量をおばちゃんたちに手渡しましたが、変わらぬ笑顔で喜んでくれました。

 私にとっては何気ない出来事なのに、どこか懐かしく感じられるのは何故なのか、自分の心境の変化に気づきながらやがて終わろうとしている4月を振り返り、5月からの先行きを考えました。ふと気がつくと真赤な夕日が西の空に綺麗に沈んでゆくのが見えました。夕陽を見ていた人たちは「綺麗だ」と口々に話し合い、その声さえもどこかかっての記憶の一場面のようでした。

 家に帰り食事をしながら妻は、「お父さん今日はどうかしたの?」と私の心境の変化に気づいたのか聞きました。「別に」とサラリ流しましたが、自分でもまるで夢を見ているような感じがした奇妙な1日でした。


  「何故だろう 過去と未来の 狭間ゆえ 何か分からぬ 予感の風が」

  「シーサイド 公園辺り 歩きつつ 声なき声の 不思議な世界」

  「どうしたの 妻は私の 変化見て 声をかけるが 別にと返す」

  「SFの 世界のような 一日を 終えて机に 向かい記録す」 

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○定額給付金が届きました

 定額給付金の申請手続きが終わり、先日市役所から○○日に振り込む旨の通知書が届きました。わが家は長男夫婦と孫、私たち夫婦と次男、それに親父の計7人が受給対象なため給付金は他の家庭に比べ多いようです。親父と孫は2万円口で、長男夫婦と私たち夫婦、それに次男は1万2千円なのです。欲を言ったらきりがありませんが、私はもう半年早く生まれていたら2万円口だったと、妻にからかわれました。

 妻は振り込みの確認もしないまま貯金を降ろし、親父に2万円を渡しましたそうです。年金以外収入のない高齢者にとって、たとえ2万円であっても嬉しい贈り物なのです。親父は定学給付金のことなどすっかり忘れていたようで、私に「このお金はどこから出ているのか」と尋ねました。私は「これは国から国民みんなにいただくのだ」と説明してやると、「国も大変だな。わしみたいな者にも2万円出さなきゃあならんとは。有難いことだ」と感謝していました。今日は昭和の日という祭日なので妻は長男の家へ孫2万円+夫婦2万4千円を持って行ったようです。後は私たち夫婦と次男の分が3万6千円残っただけなのです。いずれ次男にも1万2千円渡せば全て渡したことになるのです。

 今朝妻が、聞いてきた友人の話をしました。その友人は定学給付金がらみの安いツアーで東京ディズニーランドへ旅行するのだそうです。妻の話を聞きながら本音は私も定額給付金でどこかへ連れて行ってほしいということなのかと察知はしましたが、今のところその計画は立っていないのです。

 家の周りの草が伸び始めてことが話題になって「そろそろ草刈りをしなければならないのに草刈り機が古くなった」とつい口に出したため、「お父さん、いっそのこと二人の給付金に少しお金を足して草刈り機を買ったら」と提案してくれました。「そうだ草刈り機を買おう」と内心思いましたが、友人夫婦が東京ディズニーランドへ行くのに私が貧乏たらしく草刈り機を買ったら一生言われそうなので、「草刈り機は別のお金で買って、定学給付金はもっと二人で考えよう」と、僅か2万4千円だのに勿体ぶった話をしました。

 日本国民を巻き込んでホットな論争をした定額給付金も、大都市を除けば何のこともなく給付されています。野党が言うようにもっと別の使い方があるはずかも知れません。でも一億二千万人の国民が等しくこうしてささやかな夢を語り合えた効果も少なからず意味があるのかも知れません。未だにマスコミは首長さんに「あなたは定額給付金を受け取りますか」なんて愚問を繰り返し、事務の都合で定額給付金の給付が遅れたことを記者会見で詫びてみたり、多少の混乱もあるようですが、まあ「こんな話もあった」と一年もすれば笑い話で方がつくことでしょう。

 それにしても国債まで発行して景気対策に躍起になっている政府の行動も気になるところです。国債発行を極力抑え借金財政から健全財政へと舵を切っていた数年前をもう忘れているのです。財政は長期的展望に立たなければ第二の夕張市になりかねません。日本の将来のためにも是非長期的展望にたった財政運営を望みたいと思います。


  「振り込んだ 給付金分け それぞれに 手渡ししつつ 説明してやる」

  「友人は ディズニーランド 行くという はてさてわが家 草刈り機かも」

  「俺にまで くれるお金に ありがとう 神棚供え 親父深々」

  「もう少し 生まれてくるの 遅かった たった半年 マイナス八千」 


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○高松から帰ってきました

 同じ四国なのに愛媛の県庁所在地松山と香川の県庁所在地高松は、高速道路や鉄道で結ばれているものの、JRの特急いしづちですら2時間半もかかります。スピードが勝負の時代ゆえ、四国に新幹線を走らせたいという願いも分かるような気もするのです。しかし私のようなビジネスマンでもない庶民にとっては、たまの旅ですから昨日のような天気の良い日のこの程度の旅は、かえって「狭い日本、そんなに急いで何処へ行く」てな感じで、本を読んだり居眠りしたりしながらのらりくらりできて丁度良いのです。

 昨日は私の日程に合わせてもらったかのように、偶然にも高松での二つの会合が午前と午後、しかもお昼を挟んだ移動時間が2時間もあって、朝早い旅だったもののラッキーな一日でした。

 香川県自治振興課から依頼を受けた地域コミュニティ研修会を終わって食事を済ませ、同行して貰った溝渕女史の車でサンポート高松まで送ってもらい、午後の会議に同席する愛媛県庁の篠崎局長さん、徳島県上勝町の横石さん、高知大学の坂本先生と合流しました。

 

 この日の会議は内閣官房地域活性化統合事務局が主催する四国圏地域活性化推進連絡会議で、私と横石さんと坂本先生は民間有識者として名を連ね、年間3回程度の召集に応じて意見を述べねばならないのです。昨日は今年度の地方再生事業の新規提案27件について説明と意見交換しました。この応募の中から、①複合的な取り組み、②先導性・モデル性、③持続性ある取組、④相乗効果・波及効果の見込まれる取組、⑤主体的な取組、⑥計画性ある取組という6つの視点で審査され6月中下旬に新規案件選定結果が公表されるのです。昨年からの継続事業としては6件が希望しており、これらについても同様な選定スケジュールで公表される予定です。

 帰りの列車の中で同乗した県庁の篠崎局長さんと短い時間ながら色々なことについて地域づくり談義に花を咲かせました。えひめ地域づくり研究会議の代表運営員を辞任したばかりの私なので、これまで22年間にわたって活動した経験の中で感じたり思っていることを率直に話しました。篠崎局長さんは私が役場に在職中ずっと何かにつけて出会ってきた人ですから、お互い気心も知れていて、これからの愛媛をどうするかという点で不安と期待を交錯させながら少し意見を述べました。久しぶりに突っ込んだ話が出来て、のんびり旅の効果があったようです。

 夕方6時30分近くに松山駅に到着しました。すっかり陽が長くなって、自宅に着いた頃でも西日が綺麗でした。朝から夕方まで、昨日も充実した長い一日でした。昨晩は妻も友人とのお喋り会に出かけていて留守でした。妻の用意していた食事と風呂を済ませ朝読めなかった新聞を読みながら久しぶりにテレビを見ました。その後日課である2本のブログを書き早々と床につきました。

  「高松と 松山結ぶ 特急で 二時間半も かかるジレンマ」

  「見方変え 長閑と思う 汽車の旅 左に右に 懐かし風景」

  「連休の 狭間感じる 汽車の中 お客もまばら 小声携帯」

  「高松は やはり四国の 中心地 会議必ず 場所も動かず」

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○香川県高松へ行ってきます

 今日は早立ちです。松山まで車で行き、松山から高松まで特急いしづちに乗って瀬戸内海沿線を旅します。帰りは遅くなりますので、用件はメールか携帯へ。ただし今日は午前・午後と二つの会議に出席しますので、携帯はマナーモードです。

 こんな書き込みをブログ画面に打って早速出かけて行きました。今日は寒気団の影響で4月下旬としては肌寒い朝でした。駅前キスケ駐車場に車を止め、チケットを緑の窓口で切符を買う際提示すると24時間無料駐車場が貰えるのです。特急いしづちも特急しおかぜも朝が早い7時19分発は空いていました。乗り込んだ人たちも朝が早かったせいかコンビニで買ったであろうパンやおにぎりを食べながら携帯電話でメールを打ったりして過ごしていました。

 私は午後の会議の資料に目を通しながら、居眠りしたり外を眺めたりと、車では考えられないようなのんびりとした旅を楽しみました。

 9時44分に高松駅に到着すると、県庁自治振興課の小島さんが「若松様」と書かれた紙を持って改札口で出迎えていました。「木のカバンを持っている人と電話で告げていたので一発で目と目が合い、タクシーで福岡町マリンパレスさぬきへ向かいました。会場には表彰を受けるのでしょうか赤や白のリボンをつけた方が、通された控室には何人もいました。


 土曜日に約束していた三谷地区コミュニティセンター長の溝渕さんと受付で落ちあい、皆さん方が表彰式に出席して留守の間に、私の自著本である夕日徒然草20冊余りにサインを依頼されて、「人でも仕事でも愛する所に集まってくる」「逢う人も逢う人もまた福の神」という2つの言葉を書き込みました。字の汚い私としては面映ゆい感じもしましたが、それなりの文字で書きました。

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(会場を真っ暗にして私のDVD映写が始まりました)

 講演会はまずトークバトルの時に作っていただいたDVDを自己紹介のつもりで上映し始めました。会場は予想を超える沢山の人が会場いっぱいにいました。参加者は地域コミュニティ研修会だけあって年配の方が多いという印象を持ちました。それでもみなさんは終始熱心に私の話に聞き入っていました。その模様は私のデジカメを溝渕さんに渡して会場から撮っていただきました。

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(研修会の会場となったマリンパレスさぬき)
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(講演する私)

 この日の演題は「身近な資源を地域の宝に、~夕日が主役のまちづくり~」でしたが、1時間15分という短い時間だったのでビデオの早送りのような急ぎ足の講演でした。はてさて理解されたかどうか、少し心配です。


  「若松と 書かれた紙を 持った人 駅に出迎え 恐縮千万」

  「サイン書け 控室にて 走り書き 相も変わらず ミミズ這うような」

  「表彰を 受けるリボンが 誇らしげ 人それぞれに 苦労跡あり」

  「寝る人も いない講演 聞く人の 質がいいのか 俺がいいのか」 

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○家庭菜園に野菜の苗を植え付けました

このところ温かかったのに、2日前の雨模様天気が回復してから急に寒くなり、わが家では名残の石油ストーブを焚いています。この時期は普通だと初夏の陽気に誘われるのでしょうが、北海道の天気予報には雪マークがつくなどどこかおかしく、しまいかけていた厚めの服を羽織って過ごしているのです。いつものことながら、初夏のような陽気の日本列島を僅か一日で寒くしてしまう自然の偉大な力には、人間の力などはるかに及ばないとしみじみ思うのです。

 今日は朝から親父と二人で家庭菜園の夏野菜の植え付けを行いました。親父は私が留守の昨日、91歳になるというのに、また脛が少々痛いというのに倉庫から耕運機を引っ張り出して耕してくれていました。私たち夫婦は昨日外出先から帰り道、行きつけの園芸店に立ち寄り、ナス10本、ピーマン5本、シシトウ5本、キウリ3本、ニガウリ3本、カボチャ2本、オクラ5本、その他諸々の苗を買って帰りました。畑は広いのでまだまだ余裕があるのですが、苗代で野菜を買ったらどのくらい買えるかなどと冗談を言うほど高い買い物となりました。

 私が平鍬で畝を作り几帳面な親父の張った糸に沿って植え付けて行くのです。特に親父の力が欲しいのはナスの垣づくりです。まだ植えたばかりなので垣など必要ではありませんが、夏に向けて頑丈な木の杭をハンマーで土の中に埋め込む作業は私の力でないとできないし、この垣に様々な工夫を凝らすのは親父の仕事であり、いわば親子合作の作業なのです。

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(親父は植えた苗の垣を作りました)

 1時間余りの作業で殆どの苗を植え終わりました。親父は植え付けた苗に井戸水をジョロに入れてたっぷり水やりをしたり牛糞を振ったり、またナスの下には敷き藁をして保湿するよう作業をしていました。私は相変わらずグウタラで、作業の途中もひっきりなしに携帯電話がかかってきて、その度に作業を中断し、結局は支柱を立てぬまま、訪ねてきた来客の対応に追われて午前中の作業を終わってしまったのです。

 午後からは裏山の竹を切りだし、支柱にするべく60センチ程度に切り、先をとがらさせてピーマンやトマトの根元に打ち込みました。ビニール紐で緩く結び風が吹いても倒れないようにしたのです。お陰さまで今年も夏から初秋にかけて安心安全な野菜が楽しめそうです。

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(私は植えた苗に支柱を立てました)

 作業が終わったところでキャリーに2箱ほど甘夏柑の収穫をしました。そろそろ晩柑類が底を尽きかけ、初夏の味覚である甘夏柑が美味しい季節となりました。わが家では樹上で越冬させた甘夏柑が沢山実をつけています。甘夏柑の木には今年の新芽と蜜柑の花が咲き始めて、同じ木なのに実・花・新芽と何とも奇妙な光景ですが、これからは夜の間に外皮内皮を剥いだ甘夏柑を冷蔵庫に入れて冷やして食べるのです。甘酸っぱいその味は何とも言えない涼感を誘うのです。

 一昨日近所の知人に差し上げたところ、早速マーマレードを作ったようで妻の職場にわざわざ手紙を添えて持ってきてくれました。わが家の甘夏柑無消毒のため皮を加工して食べることができるのです。丁寧に茹ではえて灰汁を取ったのでしょう、さっぱりとした味で明日の朝はパンにつけて食べたいと思っています。

 差し上げたり貰ったり、田舎はおすそ分けの習慣があっていい近所づきあいができていて毎日楽しい日々です。

  「親と子が 今年も元気に 夏野菜 苗を植えつつ 世間話を」

  「安心と 安全確保 するために 交付金にて 野菜苗買う」

  「甘夏も 工夫をすれば マーマレード これも安全 自衛の策だ」

  「差し上げた 甘夏柑が マーマレード 形を変えて おすそ分け来る」

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○携帯を新しい機種に変更しました

 昨日松山に住む長男から電話があって、私の「携帯電話の機種が古くなったから変更してはどうか」と相談がありました。年齢を重ねるにつれて親を思ってくれる長男の優しい心は嬉しいのですが、この歳になると情報化社会を生きて行くために必要とされるパソコンも携帯電話も、使いこなすためにはそれ相当な覚悟と日数が必要なこともあって躊躇しました。「親父の携帯はカメラもないのだから」という時代遅れをくすぐるような言葉に後押しされて、「じゃあ頼む」と出かけて行きました。

 息子のマンションに立ち寄り、息子の家族とわが妻と一緒に近くのNTTドコモの店へ出かけました。手馴れている息子は私の携帯電話と免許証を受付へ持って行き、様々な手続きをして古い私の携帯電話から入力している電話帳などを移し替えてもらいました。既に私の電話番号は名刺などに刷り込んでいるので電話番号が変わるのは困ると思っていましたが、そのままのようでひと安心しました。

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 私の携帯電話の機種変更はこれが4度目です。過去3度はいずれも故障でした。外で作業することの多い私ですから、ズボンのポケットの中にいれて作業をするとついつい物にぶつかり故障させてしまうのです。故障の度に息子のお世話になっているため何かにつけて電話が入ってくるのです。

 さて私の携帯は正直言って若者が持つような多機能な格好いいものではなく、そこら辺のおじいちゃんやおばあちゃんが持っている文字の大きいものです。今回の機種は念願のカメラ内蔵なので、もしデジカメを忘れても記録だけは残るようです。しかしその写真をパソコンに取り込む術はまだ未修得なのでこれから息子の手ほどきをうけなければならないのです。それにしてもメカに弱いと自分の育った時代のせいにして、自分を納得させているのです。

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 昨年えひめ地域政策研究センターにいた清水さんや谷本さんに使い方を教わって、やっとメールが打てるようになりました。それは全国大会の実行委員長をしていて、どうしても事務局から緊急にメモを送らねばならないかも知れないという必要の論理からでした。お陰さまで昨年から細々メールが打てるようになって、今では旅先から簡単なメールを格好良く打てるようになりましたがまだまだです。

 この一週間岡山県と香川県へ講演に出かけた折、2回とも携帯電話を書斎のバッテリー充電器の上に置いたまま忘れて出かけてしまいました。いずれも家を出て目的地へ向かう車の中で、ズボンのポケットの軽さに気がついて思い出したのですが帰る時間的余裕がなく、気になりながら出かけてしまいました。そんな時に限って緊急な要件があるもので、妻や相手から「はいくら電話をかけてもつながらない」とブーイングの標的にされてしまいました。代用として公衆電話を探すのですが、いつの間にか携帯電話の普及で必要がなくなったのか、あれほどあった公衆電話が中々見つからず苦戦を強いられて慌てました。また折角公衆電話を見つけても10円玉が殆どなく100円硬貨を使わざるを得ないため、つり銭が出ないこともあってNTTに無駄な投資をしてしまいました。

 世の中便利になると一方で不便になることがいっぱいあります。世の中は必要の論理で動くものだとしみじみ思いながら」、携帯電話を忘れないようにしたいと思った次第です。出かける前に「携帯持った、財布持った、免許証と名刺入れ持った、よし出かけるか」とまるでJRの運転手さんの指差確認のようです。


  「携帯を 忘れて公衆 探したが 何時の間にやら 公衆消えた」

  「携帯に カメラがついて 進化した 使いこなせる 当てもないのに」

  「人並みに ついて行くのが やっとです 後追いながら 進むしかない」

  「忘れじょう 歳のせいでは ありません 注意怠る 自分が悪い」

  「

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○地域マネジメントスキル習得講座が始まりました

 愛媛大学農学部の新しい試みである「地域マネジメントスキル習得講座」がいよいよ始まりました。この講座は過疎化や高齢化、後継者不足が進み、崩壊しつつある愛媛県をはじめとした中四国の農山漁村地域の再生のため、社会人の学び直し講座として開設し、「地域居住哲学」「地域資源管理能力」「地域活性化・新産業創出能力」「農林漁業の経営分析・設計能力」を身につけた人材を育成して、活力ある農山漁村を再生するための講座で、愛媛大学が継続的に支え、地域再生のために貢献することを目的にしています。

 予想をはるかに超える応募者の中から35人が選ばれ、この日は松山~今治間を走る317号水が峠付近にある農学部学有林研修施設で行われました。8時30分に集合し9時から午前中は学習のためのオリエンテーションを行いました。

 泉副学長、鶴見コース長教授と担当の小田準教授がそれぞれレクチャーをして始まりましたが、特に前年度まで農学部長であった泉副学長の話は大学が今後何を目指すのかといった奥深い話でとても参考になりました。

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(鶴見先生・小田先生・森賀先生)
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(泉副学長)

 私と同じく観光カリスマ百選に選ばれている森賀客員教授は、元新居浜市役所の職員ですが、特に産業振興などに造詣が深く、愛媛新聞四季録などにも毎週月曜日含蓄のある文章を書かれていて尊敬している一人ですが、森賀先生はこの日ポートフォリオの作成について話されました。

 ポートフォリオとは聞き慣れない言葉ですが、自分の意志で、自分の未来に活かす意図で、自分が手に入れた情報や自分が生み出した成果やプロセスを自分で一元化したファイルです。

 ポートフォリオを見るとテストなどでは評価できない能力や個性、潜在的な力や考えの変化、成長を見出すことができるのです。このようなポートフォリオを活かす評価をポートフォリオ評価というそうです。

 森賀先生は未来教育プロジェクト鈴木敏江さんの資料を引用してポートフォリオの役立ちを次の4つに要約して話されました。

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(中四国地域から集まった研修生)

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 ①学習、研究、体験、実習などの目標や成果や評価を明確にする

 ②成果だけでなくプロセス重視の自己評価・他者評価・相互評価

 ③その人の個性や考え方が見い出せ、個性発見や進路検討に活きる

 ④自己紹介や面接などに活き、学歴や成績重視でない採用面接や人事評価に活きる


 昨日はあいにくの雨模様でしたが、午後からは炭焼きなどの実習が予定され一泊二日の研修が行われました。私はあいにく高松市三谷地区での研修会に招かれていたので昼食後お暇しましたが、遠くは広島県尾道や福山からの受講生もいて、並々ならぬ決意で臨まれていることがよく分かりました。私の集中講義は8月22日と23日の両日、人間牧場でやることが決まっています。月に一回の厳しい研修ですが、その成果を期待したいと思います。


  「学ぶため はるばる遠く 来た人の 語る決意に 心引き締め」

  「何ですか 学のない俺 首横に ポートフォリオ 意味が分からず」

  「学ぶ人 逆に私が 学ぶ人 学ばなければ 教えもできず」

  「そろい踏み 異色の人の 講師陣 期待大きい しっかりせねば」 



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○高松市三谷地区での楽しいひと時

 昨日は高速道路の利用料金が割引になって初めて、その恩恵に預かりました。しまなみ海道の起点今治から小松ジャンクションを経由して高松までの往路と、高松から伊予までの復路は、行きも帰りも全て片道千円ですから、これほど有難いことはありません。しかもETCですから自分の財布から現金を出さないので、どこかただ乗りしたような錯覚にとらわれました。私も思うのですから当然高速道路を利用している人は割安感で「次は何処へ行こうか」と思案しているに違いありません。

 昨日はあいにく朝から雨でした。ゆえに大型連休の初日にしては、しかも高速道路利用料金割引にしてはそれほど車の量は多くありませんでしたが、カーラジオから流れてくるスポット情報だと、要所要所のサービスエリアでは利用者が増えて、零年のゴールデンウィークと同じだとホクホクでした。


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 普通は高速料金を少しでも安くしようとするため高松西インターで降りるのでしょうが、昨日は相手の指示もあって高松中央インターで降りました。香川県は高速道路も一般道も整備が進んでいて、カーナビですんなり目的地近くへ着いたので、昨年の記憶を頼りに三郎池と近くの神社にお参りをしました。私が着いた頃には雨も上がり西の空や遠方に屋島も綺麗に見えました。三郎池の堰堤には赤いサツキの花が咲いて帯を作り、龍のモニュメントが神秘的でした。

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 三谷コミュニティセンターに少し早く着きましたが、総会や講演の前に行う交流夕食会のため皆さんはもうお揃いでした。早速2階のホールへ案内されましたが、女性の皆さん手作りの心のこもった料理が並び、談笑しながら食事をいただきました。最近のテレビですっかり人気番組になった県民ショーで、三谷の女性たちが登場して紹介された金時豆の天ぷらも作られていて興味深々で食べました。金時豆の天ぷらは同じ四国なのに愛媛で食べる風習がないのですが、香川県では当たり前のように食べられているそうです。私は筍、ブロッコリー、アスパラ、金時豆などの天ぷら、木の芽あえ、サワラの押し寿司、鯛の吸い物、桜餅など膳に出された物は全て美味しく平らげましたが、私の食欲に皆さん驚かれていました。


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 前年と同じく心のこもったおもてなしにただただ驚くばかりでした。皆さんは昨年の9月にバス一台を仕立てて夕焼けプラットホームコンサートに参加されて、すっかり顔見知りとなっていて、名前と顔が一致しないものの記憶の糸を手繰りながらお話をしました。

 夕方6時半から会場を三渓小学校に移し、体育館で総会がもたれている間、私は女校長先生のご配慮で校長室でくつろがせていただきました。校長室には学校の名前の由来となっている偉人藤川三渓に関する資料が展示してありました。122年前に74歳の生涯を閉じた藤川三渓は日本で最初に東京水産学校を作った人で、25歳の時長崎で高島秋帆から砲術を習ったことがきっかけで捕鯨への応用などを考え水産学校を作った経緯を思うと、水産高校出身の私が三渓小学校へ来たことも何かの縁だとその不思議な巡り合わせを思いました。三渓は「学を成すは勉学にあり 道は自省に因りて修む」という言葉を残していますが、いい言葉だと思いました。

 さて昨年に引き続きの講演ですので、今年は壇上に畳を敷いて座布団の上で落伍の公演と相成りました。演目は夕日徒然草地の書と水の書から10話ほどを選んでリレー風に仕上げて1時間半ほど話をさせていただきました。マイクの調整が抜群で、とても話しやすい一席でした。高速を走っても午前様になるだろうと覚悟を決めて夜道を急ぎましたが、肝心のめくりを忘れて帰る失態を演じてしまいました。帰ると溝渕コミュニティセンター長からメールが届いていて、恐縮しています。

  「県民ショー テレビで見たが 金時の 豆の天ぷら 初めて食べる」

  「三渓の 名前を取りし 小学校 訪ねる奇遇 水産結ぶ」

  「三渓の 道は自省と 説く言葉 拳拳服膺 肝に銘じて」

  「座布団の 上に座りて 落伍する 九話ちりばめ 面白そうに」 



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