shin-1さんの日記

○和歌山を旅する

 和歌山県宅建協会の招きで和歌山県へ行きました。私たち四国に住む人間にとって和歌山は紀淡海峡を挟んだ隣県なのですが、広島や岡山と同じように狭いといいながらも海を挟んでいるため、対岸の徳島県を除けば近くて遠い県で、四国八十八ヵ所参りを終えて高野山のお礼参りでもなければそれこそ遠い県なのです。私は仕事でちょくちょく和歌山県へ行っていますし、弟嫁が和歌山県の古座出身だしそれにまつわる親類縁者が田辺などにいて結構知っているつもりです。行く度に大阪から県庁所在地の和歌山市は近いもののさすが新宮となると本州最南端で遠い感じがします。

 今回の研修会は午後1時30分開会でしたが、和歌山県には苦い思い出があるので早々と到着しました。それというのはもう10年も前のこと、早朝わが家へ一本の電話がかかってきました。「若松さんあなたどうして家にいるんですか?」、「家にいたら悪いのか?」くらいな軽い気持ちで電話に出ました。ところがその相手の電話ではたと気がついたのは私はこの日和歌山県で講演を引き受けていたのでした。すっかり忘れていて、「もうこれからだと間に合わないので」とお断りするのですが、相手も500人も集めているため安易に引き下がることが出来ず、一色触発の感じになり、「とにかく直ぐに何かの便で出発してください」という事になりました。早速飛行場へ電話しましたがあいにく全席満席とのことでした。仕方がないので電話を切ろうとした時、「お客様、ただ今一席だけキャンセルが出ました。1時間以内に空港カウンターまで来れますか」というのです。私ははやる気持ちを抑えながら妻に頼み込んで同乗させ、私が運転して松山空港まで車をフルスピードで走らせました。空港へ着いたのは出発5分前でした。あらかじめ連絡をしえいたので出発を待っていてもらい搭乗手続きを済ませ、滑り込みセーフです。既に和歌山の相手には伊丹飛行場まで迎えに来てもらっていたので、そこから会場まで高速道路をひた走り、その会場に着いたのは何と講演開始時間5分前でした。私は何事もなかったように90分の講演を終え再び同じルートを帰ったのでした。その時の事を思うと今でも鳥肌が断つような心境で、いつまでも忘れることの出来ない思い出なのです。

 今回の研修を企画してもらった佐藤さんと武田さんにお願いして時間があるので和歌山城を見学する事になりました。城門の入り口で車を下車し、1時間後に迎えに来るという約束で久しぶりに和歌山城を一人散策しました。お昼前といいながら外の温度は30度を超えており汗ダクダクでした。


 いやあ、それにしてもいいお城ですね。喧騒な大阪の街中を電車でやって来ただけに、静けさや夏の空に浮かぶ歴史の古い建築物は何ともいえない、さすが徳川御三家紀州といわれる重みを感じました。本丸からの眺めも最高で吹き渡る風も心地よく、夏には夏の風情があるものです。遠路の長旅を忘れさせてくれたのが昼食会場となったホテルからの眺めです。昼食を食べながらこれまた遠望を楽しませてもらいました。

 講演会場には顔見知りの眞野賢司さんも見えられていて旧交を温めることが出来ました。少し立派過ぎるほどの会場での講演会でしたが、たっぷり2時間を予定していただいていたので、思いを込めて話させてもらい紀州路快速で再び大阪梅田に到着、友人と晩飯を食いながらそこら辺を散歩しました。大阪は近づく世界陸上大会の上げ潮ムードが漂っていて、梅田芸術劇場周辺では綺麗なイルミネーションが街ゆく人を優しく包んでいました。

  「何年も 前の悪夢を 思い出し 少し早めの 駅に降り立つ」

  「和歌山の 城を汗かき 上り行く 夏風涼し 遠望開け」

  「今何処か 妻から携帯 お城だと 羨ましいと 電話の向こうで」

  「吉宗の ゆかりお城で 今思う 時代変れど 改革進まず」

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shin-1さんの日記

○2、父親の言葉

 私の父親は何処にでもありふれたごく普通の人間です。学歴があるでもなく、特に功なし名を上げた訳でもなく、太平洋戦争を挟んだ90年の時代をただ一生懸命田舎の漁村で生きてきました。近頃は気力と体力も少しずつ衰えつつあり、母親の七回忌を迎えるこの頃は、私たち家族と同じ敷地内隠居家に一人暮らしていますが、老いの寂しさを口にするようになってきました。私のような凡人を育てたのですから、取り立てて子育てが上手く行った訳でもありませんが、私はこの親父から人生の生き方の根本を学んだように思うのです。昔人間ゆえ文字という武器も持たないため家訓のようなものはありませんが、振り返ってみれば私の旅路や岐路の折々に次のような言葉を言っていました。愛媛県立宇和島水産高等学校に進学するため町を離れる時、疲労による病気入院が元で漁師から役場職員に転職した時、実習船愛媛丸で珊瑚海へ遠洋航海に出発する時、総理府派遣第10回青年の船の班長として建国200年のアメリカへ旅立つ時など、人生の転機に父親が私に断片的に言った言葉の数々は今も私の耳から離れないのです。小学校もろくに出ていない無知文盲な親父が、何でこんな言葉を知っているのか、私には不思議でならないのです。

   「父親進10の言葉」

 ①草鞋を履け、草鞋を脱げ

 ②酒は大いに飲め、ただし酒に溺れたり酒に飲まれるな

 ③金が全てではなく信用が第一、金は入るを計りて使うを考えよ

 ④人生は一生懸命やっていれば必ずどこかでいいことが待っている

 ⑤学校へ行かなくても勉強は何処ででもできる、心の窓を開けろ

 ⑥人生はうどん粉(運・鈍・根)、それをつなぎ合わせるのは水と力と技だ

 ⑦焦ることはない、お前にしか出来ない事をやれ

 ⑧身体をいとえ、人生迷ったら基に戻ることだ

 ⑨今を見据え来た道行く道の遠い向こうを見ると間違いはない

 ⑩生きている間に一つぐらいは世の中のためになる事をやれ

 平凡な親父が平凡な私に言った言葉ゆえ上手く表現できていない部分もありますが、概ねこのような言葉を私に日々の戒めとしていっているのです。若い頃はその言葉を聞く度に何かにつけて憂うつになり、時には反感反目したものです。でも不思議なもので息子たちが成長して私が親父と同じような年代になると、親父と同じような言葉を息子たちに発して、反感反目されているのです。

 例えば①の草鞋を履けは「旅に出よ」、草鞋を脱げは「旅人を家に迎え入れよ」という意味ですが、私にとって親父のいっている言葉の中で最も気に入っている言葉なのです。その言葉どおり若い頃から沢山の旅を経験し、マクロな視点で物事を見れるようになりました。また草鞋を脱いでもらうために、家の敷地内に「煙会所」という私設公民館を造り、概ね年間1500人もの人々を30年間にわたって迎え入れてきました。 まさに「親の意見と茄子の花は千にひとつのあだがない」の諺どおりなのです。62年のわが人生は親父というファインダーを通して見てきた62年でもあるのです。親父が生きているもう少しの間、親父というファインダー越しに世の中を見つめて見たいと思う今日この頃です。

  「ああ俺にゃ 真似の出来ない 十本の 指折り数え 息子諭すは」

  「ガンになり 摘出手術 した後は 健康人より 何と長生き」

  「学校へ 行かずもこんな 言葉吐く 誰何処習うか 大したものよ」

  「草鞋履く 草鞋脱いだる 六十年 これから先も 続く限りは」

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