shin-1さんの日記

○船旅

 私は漁村で生まれ漁村で少年時代を過ごしました。水産高校を出てからふるさとに帰り7年間も漁師をしていたこともあって海との関係が深く、役場でも四年間水産を担当しました。またシーサイド公園では漁協婦人部のおばさんたちと一緒になってじゃこ天などを開発し様々な海を巡る仕事に携わってきました。また退職した現在も請われるままに地元漁協の活性化について委員会の取りまとめを依頼されるなど、海との関係は生涯にわたって続くものと思われます。私はそんな生い立ちが心を揺さぶるのか水産高校の練習船愛媛丸での遠洋航海や、総理府派遣青年の船で2ヶ月を超える船旅も経験しているのです。ですから海や船は私にとって切り離すことが出来ず、調べて船のルートがあれば多少時間がかかっても船旅の方を選ぶのです。

 先日九州の福岡博多に行きました。福岡県観光連盟の招きによるホスピタリティの研修でしたが、数日前懇意にしている関西汽船の浜田さんと出会ったのを機にふと松山~小倉ルートがあるのを思い出しました。飛行機だと松山空港からひとっ飛びなのですが、飛行機は性に合わない性格から極力避けるため、このルートを選んだのです。松山で会合を終えて時間があったので本屋へ寄ったりして過ごしていると浜田さんから連絡が入り、急遽船着場で会うことになりました。関西汽船には一昨年まで支社長として本町出身の池富さんがいたので一度お邪魔したこともあり事務所に案内されました。

 浜田さんはその日私が書いたブログの文章を既にプリントアウトして持っており、細かいところまで気の付く方なのです。そのうち浜田さんが「若松さんいい人を紹介しましょう」と、まだ乗船の始まっていないフェリーの船長室へ私を案内してくれました。多分普通の人は立ち入り禁止区域なので滅多に入れないのですが、ブリッジの横の船長室で出港準備の忙しい時間なのに面談してくれました。浜田さんや船長さんの話だと一度私を訪ねて双海町役場に来られて面談しているそうで、宇和島水産高校の後輩とのことでした。船長といえばこのお船では一番偉い人なのですが、そんなそぶりは微塵もなく短い時間ながら四方山話に花を咲かせました。

 やがて出航時間が近くなったのでブリッジに案内され船長さんと記念写真を撮りました。そして私は2等船室のチケットの場所へ行こうとしたのですが、浜田さんの計らいで特一という部屋へ案内されました。この日は木曜日ということもあって乗客も比較的少なく私の部屋は4人部屋だったのですが私一人専用でクルージングを楽しませてもらいました。私は庶民派なのでいつも2等船室を利用します。膝や腕がすりあうような混んだ船室は様々な会話が交わされ、それがまた旅のよき思い出となるのです。

 夜9時55分に松山観光港を出港した船は穏やかな瀬戸内海の航海を続け早朝5時には小倉港に無事入港しました。明けやらぬ小倉の街を小倉駅まで歩き、一番列車に乗って博多に着き駅の食堂で温かい味噌汁とご飯を食べました。

 旅情とはこんなものなのです。速いスピードの時代に、ゆっくりのんびり旅を楽しむ、それでいて安い旅、もう文句の付けようのない船旅でした。これからも折にふれこんなスローな旅を楽しみたいものです。でも私の安眠の影に船を動かしている人のいることを忘れてはなりません。

  「特一の 部屋で快適 小倉行き 起きれば九州 朝街歩く」

  「船長と ブリッジ談笑 ひょっとして 俺もこの船 乗っていたかも」

  「窓辺より 遠くにかすむ ふるさとの 辺りを眺め 夜船進む」

  「人生は 分らぬものよ 今の俺 海を目指した 昔懐かし」


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shin-1さんの日記

○朋樹プロジェクト

 娘の入院から始まったわが家での孫育てのことを、わが家では「朋樹プロジェクト」と呼んでいます。孫のことくらいで大袈裟なとお思いでしょうが、娘婿・私・妻・次男という忙しい人間揃いの周辺だけでは日程がかみ合わず、結局は松山に住んでいる長男も巻き込まなければこのプロジェクト事業が成り立たないのです。

 まずこのプロジェクトは毎週日曜日の夜娘婿から届くメールによる娘婿のスケジュール調整から始まります。大学に勤める娘婿の日程は年度末の忙しさもあって中々超多忙のようで、娘婿の日程の詰まっている日をみんながカバーするのです。私はこのところの県外出張続きで日程の塞がっている日が多く当てに出来ないと妻からこぼされていますが、それでも朝夕の松山にある幼稚園への送り迎えはこなそうと努力しています。妻は月曜日と金曜日は夕方遅くまで勤務があるためおやじの食事の世話や家事全般で目が回るほどの忙しさです。お陰さまで少し太り気味だった体重もどんどん落ちて今はスッかrスリムになったようです。次男は来月の国家試験に向けて追い込みだし演劇の発表会も控えていて連日連夜充実した寝不足の日々が続いているようです。そこで登場するのが長男です。設計事務所に勤めているので、今夜は仕方なく息子に幼稚園お出迎え送迎を頼むことにしました。長男は大の子ども好きで孫の面倒を見ることには慣れているため最適ですが、それでも仕事が終わってわが家まで送り届けることは大変なようです。息子夫婦も8月には待望の子ども誕生の朗報が入っているだけに、子育ての練習とばかりに一所懸命世話をしてくれているようです。

 昨日は日曜日だったので久しぶりに孫を連れて娘の入院している病院に見舞いに行きました。朝方の雨もあがり暖冬のおだやかな晴天に恵まれて、孫もウキウキしながら母親と再会し母子ともが安心したようでした。自分の勤める病院に入院する何とも奇妙なことなのですが、娘も母子ともに少し落ち着いた様子ですが予断は許さないようでした。

 帰路、他の人のお見舞いの品を高島屋へ買いに行く妻を近くの路上に車を止めて待っておりました。昨日は人の出も多く何処も満員の状態で込み合っていました。突然孫が「おじいちゃんウンコ」というのです。急に「ウンコ」といわれても困ったもので、近くの駐車場を探しましたが、お互い携帯を持ち合わせていないため連絡が取れないため、仕方なく路上空き地に車を止めて付近のトイレを足早に探して走りました。結果的には松地下の商店街しかなく、腰に爆弾を抱えていながら火事場の糞力よろしく、地下への階段を孫をおんぶして走りました。孫はトイレで大きな糞をして、「おじいちゃん僕のウンコ腐ってないよね」とすまし顔でいうのです。「うん、朋樹君のウンコは腐っとらん」と真顔で冗談を言い合いました。多分路上駐車なので駐車違反の張り紙をされるだろうと覚悟してのウンコ騒動でしたが、帰ってみると近くに駐車違反の監視員が近づいていましたが事なきを得たようです。悪いことは出来ませんね。

 孫がわが家に来始めてから既に一ヶ月近くが経ちました。孫も今ではわが家の太陽のように明るく輝いています。風呂に入れたり、食事をさせたり、寝かせたり、孫中心の毎日です。時には眉毛を10時10分にしてしかってみたり、8時20分にして眉を細めてみたり、一喜一憂の日々です。でも何故か孫が可愛いおじいちゃん、おばあちゃんを楽しくやっているこの頃です。今年は娘夫婦に、そして長男夫婦にそれぞれ子どもが生まれる予定です。一人だった孫も一挙に3人になる予定です。妻の苦労たるや大変なのでしょうが、これも親の務めと思い一生懸命サポートしてやりたいものです。

 「朋樹プロジェクト」は楽しくも忙しいわが家の一大事業となっています。

  「孫の手で 肩を叩いて くれました 優しい心 育ててやりたい」

  「じいちゃんに 叩かれ痛いと 妻にいう 孫の知恵です 助け舟呼ぶ」

  「このウンコ 腐ってないと 孫が聞く 糞は腐って 出るものなのに」

  「お兄ちゃん 盛んに自分 ピーアール 兄弟できるの 余程嬉しく」 

  

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shin-1さんの日記

○第18番目の煙会所分家誕生の兆し

 博多から新幹線で関門海峡を渡り、新山口を経由してスーパーおきに乗り換え島根県益田まで講演行脚の旅を続けました。リトル東京とでも呼ぶべき発展いちぢるしい博多の喧騒と比べると、山口県や島根県はまるで時間が止まっているような錯覚さえ覚えるほどの落差を感じました。新幹線の速さに比べるとスーパーおきという特急列車もまるで鈍行列車のようだし、高層ビルの立ち並ぶ街並みを天に向かって仰ぎ見ながら歩いた博多の街とはまるで別世界のようでした。それでも博多には博多の、益田には益田の趣きや暮しがあるのですから世の中は面白いものです。対比や比較をどういう物差しでするかはその人の思いだし、一概にどちらがいいと甲乙つけることもできません。しかし私たち田舎者は安心と安全の上に胡坐をかいてそんな社会のあることすら知らないままに過ごすことの危険性もあることだけは知るべきだと思うのです。

 島根県益田の駅前に宿を取った私を迎えてくれたのは、大畑さんや寺戸さんなど日ごろ交遊を温めている社会教育の仲間でした。益田界隈への旅は教育委員会で地域活動のコーディネーターをやっている大畑さんがいつもスポンサーになってくれるので大助かりですが、今回も大畑さんの友人数人が集まり、やる気の創造をテーマに、明くる日のPTA連の研修会をさておいてかなり密度の濃い交流をやりました。集まったのは10人ほどでしたが日ごろ問題意識を持っている仲間だけにすぐに打ち解け、夜7時過ぎからはじめたというのに飲むのも食うのも後回しにした熱心な話し合いがもたれました。

 集まった人たちはとに角元気で活動していますが、どこかに不安と不満と不信を抱えていて、何かを学びたいという意識を持っている人ばかりで、そのきっかけとして私の出番もあるようでした。煙会所や人間牧場を訪ねたことのある大畑さんや寺戸さんは既にかなり密度の濃い青少年活動を常日頃から実践しているし、それぞれも益田や周辺地域で活動している人たちなので、結局は赤雁の里の渡辺さんの音頭で勉強会の旗揚げが決まりました。私の助言もかなり効果的に受け入れられて10年間ぐらい続けてみようといういうことになりました。

 嬉しいことにその拠点としてどこかに煙会所の分家を作ることになったのです。煙会所の分家は北は青森県三戸郡倉石村の八心堂から南は鹿児島県奄美大島瀬戸内町の第17縁開所まで17もあるのですが、今回結社しようとしている益田が18番目になります。18は演技のいい番号です。18番はおはこです。この番号を手に入れた彼らは喜び勇んで早速看板を用意して始めるようです。

 思えば30年前、わが家の敷地内に手づくりで作った煙会所が30年の時の流れの中で18にも広がったのです。非日常を目指した煙会所も時の流れの中でいつしか日常化し、そろそろ役目を終わるのかと思い、新たな非日常の拠点として人間牧場を作りましたが、煙会所の灯火はまだまだ健在のようです。近いうちに看板を持参して旗揚げを祝いたいものです。嬉しいね。

  「三十年 使いし私設 煙会所 既に十七 今年十八」

  「煙見て 狼煙の合図 揃い来て 心一つに 夢を語りぬ」

  「不平など いっても何も 変わらない ことを起して 一から始める」

  「常一の 教え地で行く 行脚にて 足元見つめ 地道に進む」


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shin-1さんの日記

○卵の思い出

 先日金融広報委員会から頼まれて野村高校へお話しに行きました。野村高校といえば県下で唯一畜産科のある、そして大相撲で活躍している玉春日関の出身校として知られている山間の高校です。長閑な田舎の高校らしく生徒さんも純朴で私の話を熱心に聞いてくれました。野村高校に通じる国道沿いには高校生が植えた花壇が綺麗に整備されて道行く私の心をすがすがしくさせてくれました。高校生の社会参加や社会貢献がこのように行われている姿に少し感動しました。

 帰りに高校で飼育しているウコッケイの卵を1パック教頭先生からいただきました。ウコッケイの卵は普通の鶏の卵より少し小ぶりですが、つい最近健康卵として注目される値段の高い卵です。

 私の少年時代はどの家も多かれ少なかれ鶏を飼っていました。鶏の世話は野良仕事に忙しい親に代わってもっぱら子どもの仕事でした。菜っ葉を切り刻んで糠と交ぜて餌箱に入れたり、水を替えたり、時には鶏舎のウンコを除けたり、寒い頃や卵を温め雛をかえす頃には新しい藁を敷いて温かくもしてやりました。鶏の世話をして一番の楽しみは産んだ卵を集めることでした。まだ産んだばかりの温かい卵を手に取った時の感触は何ともいえない嬉しい気持ちになったものです。

 しかし辛いこともありました。それほど毎日世話をしていた鶏がイタチや野犬に襲われて見るも無残に殺されたり、大きな青大将という蛇が卵を丸呑みした時です。また卵を産まなくなった親鳥は、大人によって冬の寒い頃首を切られ、毛をむしられて毛焼きされてその夜の食卓にのぼるのです。最初は何て残忍なことをするのだろうと涙が出ましたが、そのうち涙も枯れて「卵を産まなくなった親鳥はこうして人間に食べられて幸せよ」とまことしやかに諭す親の言葉に騙されて、空腹な私の胃袋に収まったものでした。

 卵は貴重品でした。卵を入れる籾殻を敷いた木箱が押入れの隅にあって毎日集めた卵を入れましたが、いつの間にかその卵は近所へのおすそ分けや、晴れの日の玉子焼きにされて増えることはありませんでした。私が一番好きなのは玉子焼きと卵ご飯です。今も玉子焼きと卵ご飯が大好きなのはこの頃の影響なのでしょう。特に卵ご飯は熱々の炊きたてご飯に卵を割って乗せ、少し醤油をたらしかき混ぜるだけのシンプルな定番なのですが、これが日本食の王様ではないかと思えるほど美味しいのです。最近山陰地方ではこの卵ご飯をテーマにまちおこしをする所もあって、卵ご飯専用のお醤油も作られたり、卵かけご飯のシンポジウムまで開かれいるようです。

 野村高校からいただいたウコッケイの卵は早速卵かけご飯にして食べました。餌にもこだわっているのでしょうかこの卵は鮮やかな黄色をしていて、箸でつついても割れないほどの盛り上がりと濃いさでした。その美味しかったこと、孫でさえもその味は分るのか「美味しい美味しい」といって食べてくれました。

 不思議といえば不思議です。あの鶏が何でこんな丸くて美味しいものを産むのか、凡人な私には想像もつきません。卵の値段は相変わらず昔と変わらぬ安値だし、鳥インフルエンザと称する病気が大流行し、宮崎県の養鶏場では鶏が大量死して、皮肉にもその対応が新しい知事さんになったそのまんま東さんの初仕事のようでした。

 鶏が先か卵が先かいつも議論される鶏、特売の度にテッシュペーパーと同じように安く粗雑に扱われる卵を可愛そうに思いながらウコッケイの卵を美味しくいただきました。

  「卵手に 取る度思う 温かさ 少年の頃 鶏舎の中で」

  「熱々の ご飯にポンと 割る卵 醤油一滴 これぞ逸品」

  「来店の サービス品に 出る卵 何でこんなに 安いのだろう」

  「卵にも 上等品が あるという 一個百円 食えば分るわ」 

 

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shin-1さんの日記

○三人一車天草の旅・ルポ③

 食う・寝る・遊ぶは旅の三条件だといわれていますが、私たち大人から見れば何気ない旅先での出来事でも、子どもたちにとっては視点が違うのか大きな発見や驚きがあるようです。例えば旅馴れている私などはホテルに泊まることなど当たり前なのですが、孫にとってはホテルに泊まることそのものが非日常なので嬉しくて大はしゃぎでしたし、特に生きた動物と触れ合うことなど、動物園に行かない限り余りないので、講演会場となったホテルアレグリア天草の側にある天草イルカワールドなどは嬉しくて仕方がない様子でした。

 ミニ水族館の入口にあるペンギン親子の像にすり寄って写真をせがむ姿はまるで自分がペンギンの子どもになったような錯覚さえしているようでした。

 入場料のほかに300円出せばスナメリに餌をやったり握手をしたりする体験が出来るのですが、臆病な孫でさえ好奇心丸出しで挑戦していました。インストラクターの巧みな話術ですっかり打ち解け、言われるままにスナメリとのスキンシップが出来て感動の面持ちでした。

 また、インストラクターの意のままに曲芸をするイルカショーも圧巻で、シーズンオフとあって私たち以外に観客も1組だけで、サービス独り占めって感じで楽しい一日となりました。

 これは余談で天草とは関係ありませんが、帰りに孫へのサービスとして大分市高崎山の猿を見学に行きました。心配された雨もどうにか持って、穏やかな日和の中を猿見学をしました。

 別大マラソンでお馴染みの交通量の多い国道をまたぐように高崎山までは長い陸橋が架かっており、すっかりリラックスした孫は橋の上でウルトラマンに変身したり、欄干に取り付けられた猿のモニュメントを真似て悪ふざけしたりしていましたが、さすがに高崎山へ一歩足を踏み入れると猿の大群にたじろいた様子で固まって声も出ないようでした。

 運良く午後の餌やりの時間と出くわし、リヤカーに積んでばら撒くサツマイモを奪いあって取り合う弱肉強食の凄まじい姿に圧倒されてしまいました。



 今度の旅行で私たち夫婦と孫の三人で撮った唯一の写真です。孫の嬉しそうな顔より私たち夫婦の方がもっと嬉しそうです。

  「爺婆に 孫が同行 三人旅 目尻下げたる 幸せ者よ」

  「手なずけて お客サービス するイルカ 拍手と餌が 何より大好き」

  「お客なく イルカも芸当 せいがない 数人分まで 大きな拍手」

  「猿の糞 踏んで運付く 運の尽き 妻の足跡 去る者追わず」   


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○三人一車天草の旅・ルポ②

 天草の市長さんに研修かでお会いしました。まだお若いようでしたし、愛媛松山市の中村市長さんとご懇意だと聞いて親密感が湧きました。市長さんの話だと天草は2市8町が合併して誕生し、その広さは東京23区に匹敵するそうです。天草五橋を超えて上天草市から一歩足を踏み入れてみるとその広さや素晴らしさは、これでも島かと思うほど目を見張るようなものがいっぱいありました。多分天草に長く住んでいるとその価値には気付いていてもその活用方法については中々知恵が回らないものです。私は前日と当日の午前中、妻と孫を同伴で天草のあちらこちらを見て回りました。

 例えば旧天草町や旧牛深市へ通じる道の沿道にはやたらとたくさんのサザンカの花が街路樹として植えられているのです。多分ピンク色の一色単品でしょうがそれがまるで統一されているように整然と並んで美しく咲いていました。このサザンカの街路樹は数としてはおそらく日本一といってもいいのではないかという数なのです。「サザンカロードとでも名前を付けたい」と同行の妻は盛んに感心していました。サザンカには白色など数種類のはながあります。少し彩りを考えるのもいいかもしれません。花を会いする人がいる地域はいい地域であり、サザンカを生かした知恵を出せば幾らでも新しいまちづくりのアイディアが出てきます。

 昨日私は大分県佐賀関へお邪魔しました。まちづくりに情熱を燃やす方々が中心になって関あじ関さば館を造る計画が着々と進んでいて、その設立のための研修会に招かれました。関あじ関さばといえば日本全国に名前の知れたブランド美食です。多くの人の思いと努力によって一村一品の大分発ブランドとなりましたが、何でもいいから地域を巻き込んでこうしたものを育てて情報発信すれば自信と自慢は出来るものなのです。大分へ行く途中同行する旧三崎町の塩崎さんの案内で井の浦の青石垣を見学しました。庶民が海からの風を避けるため海から運んだ青石で民家や畑を囲むように築いている石垣は風雪に耐えて神々しく見えました。天草にも同じような石垣が沢山ありました。

この写真は倉岳の石垣です。天草最高峰の倉岳から吹き降ろす風から家屋を守るために作られたそうですが、その歴史的遺産も年月とともに次第に失われようとしています。石垣を守るのは心ある地域住民の努力もさることながら石垣を文化と感じる行政の施策がなければ守ることは出来ません。素晴らしいものだけに一日も早い取り組みが必要だと痛感しました。

 天草は下田を始め多くの温泉が目に付きました。多分合併する前のそれぞれの市町村が地域振興の一助にと開発したのでしょうが、下田の湯をキーステーションに湯巡りするもいいかもしれません。愛夢里、やすらぎの湯、スパ・タラソ天草、さざ波の湯、河童ロマン館、ユメール、隣泉の湯、白鷺館などどれも素晴らしい温浴施設です。私も風呂好きなのでやすらぎの湯と河童ロマン館に入浴しました。

 孫の動きにあわせて河童ロマン館周辺をカメラで追ってみましたが、長閑で日本庭園まである素敵な湯質もよい温泉でした。

  「石垣の 一つ一つに それぞれの 汗がしみこむ 倉岳ふもと」

  「何故河童 意味も分らず 風呂に入り 孫ははしゃいで 頭にお皿」

  「のんびりと 天草散策 昼下がり 眠るお宝 探して歩く」

  「温泉が こんなにあるとは つゆ知らず 思わぬお湯に 至福のひと時」

 

 

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shin-1さんの日記

○三人一車天草の旅・ルポ①

 デコボココンビとでもいえばよいのでしょうか、数日前熊本県天草市へ妻と孫を同伴して2泊3日の小旅行をしました。そもそものきっかけは天草市経済同友会の招きで私の講演が予定されていました。ところが年末に重いぎっくり腰になって、一度回復し新年1月3日に今治市玉川町の成人式を無難にこなしたまではよかったのですが、その夜孫を負ぶって親父の隠居まで行って再び腰痛になり、散々な深遠となってしまいました。天草へは飛行機で行く計画を立てていましたが、腰痛を気遣った妻の配慮で車で妻の運転と方針を変更しいざ出発の前日、娘が2子の出産はまだ先のことだというのに体調を崩して入院して、孫の面倒が見れなくなり、娘婿も仕事の都合がつかず結局は三人一車天草の旅と相成ったのです。

 孫も妻も天草へ旅行が出来るとあって大はしゃぎのようでしたが、車が重たいというほどに着替えや毛布を積み込み三崎~佐賀関を渡って熊本入りしました。三日間とも冬にもかかわらず風もなく穏やかな天候に恵まれ快適な小旅行となりました。私は熊本小国の山田大蔵君が牛深の道の駅を立ち上げる時にお手伝いの形で数年前訪れているし、昨年は熊本県社会教育研究大会の講師として城南町へお邪魔しているので、すっかり慣れた道なので安心して妻と交代しながら走りました。

 天草への道はさすがに遠く、孫の機嫌をとるためあちこちの道の駅でトイレ休憩をしました。

 

 有明海を右に見て走るころリップランド四つが浜という道の駅へ立ち寄りました。目ざとい孫は「おじいちゃんタコの大きいのがいる」と高台から下の国道を見て言うのです。みるとまあ凄い大きなタコが今にもタコツボから出てきそうなリアル感溢れるモニュメントがありました。ありあけタコ海道と名付けたこのサインには度肝を抜かれてしまい、孫は今でもタコ街道のことを覚えているようです。タコ街道はタコ海道でもよいのにとも思いました。

 天草五橋が出来て四十年と聞きました。当時年に一度の青年団の研修旅行があり、仲間とバスを一台仕立てて天草五橋巡りでこの地を訪れていますが、四十年でホテルや周辺の整備もされているのでしょうが、第一印象として懐かしいほど「変わってないなあ」と実感し、むしろ橋の鮮やかなペンキの色も色あせてレトロな感じさえしました。

 私たち一行は会場となっている本渡を超えて、牛深まで足を伸ばすことにしました。かつて留まったことのある懐かしいふれあい館でひと風呂浴びて牛深に入りましたが、港をまたぐ美しい橋の直ぐ下にある海の駅へ立ち寄りました。まるでジプシーの如く仕掛けをしては去る山田君はもうこの地にはいませんが、情熱を込めて立ち上げた山田君の文字が至る所に張り出され懐かしさを感じながら広場へ行くと、丁度牛深ハイヤ節の普及講座が開けれており、地元のテレビ局のアナウンサーに話しかけられ、牛深まち巡りの番組にも急遽出演するハプニングとなり、魚のお店で食事を食べながら南海放送系列のテレビに出てしまいました。私の経歴などにテレビ局のスタッフは驚いた様子で願ってもない人に出演してもらったと大喜びでした。世の中面白いものです。

  「三人で 天草四郎の 国訪ね のんびり旅を 楽しむ余裕」

  「牛深で 声を掛けられ テレビ出る これもご縁か 内気口下手」

  「土曜日と いうのにここも 人まばら 焦りあきらめ 随所に見えて」

  「ええことと 繁栄すること 違うぞと 閑古鳥鳴く 知恵を出さねば」  

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shin-1さんの日記

○お金あれこれ

 日本銀行松山支店内に愛媛県金融広報委員会があります。私はそこの金融広報委員ををもう30年もやっているものですから、お金とは無縁な貧乏人でありながら長年日本銀行松山支店へ出入りを許されています。普通だとボディチェックもあるような銀行の銀行ですから、私のような得体の知れない人間は入れてもらえないのでしょうが、そこは30年余りの長い付き合いとあって、守衛さんも顔を覚えていて気軽に声を掛け、担当者との面談を許されるのです。そんな関係で詳しい金融のことは分らないのですがお金については若い頃から随分勉強することができ、生活設計や金銭教育の推進援助者として自分自身の生き方を考える上で大いに役立ってきました。

 例えば私の家にはありとあらゆる場所にそれぞれの思いで持っている貯金箱がやたらとあるのです。私の部屋だけでも三つもあって、それぞれの目的に合わせ使いこなしています。1つ目は小銭用で郵便局長さんにいただいたポストの形をしています。つり銭があれば殆どをこの中に入れるのですが、退職した時空にして始めましたが、もう殆ど一杯になっておりそろそろ郵便局長さんの所へ持って行き、お礼を言って数えてもらい普通預金にしたいと思っています。前に空けた感触だと3万円くらいは貯まっているのではないかとワクワクしています。

 二つ目は講演などに行って帰った時財布から千円を取り出して大きな缶詰風な貯金箱に八折にして入れるのです。これは私がまだ元気で若かった頃、一ヶ月に10日間お酒を止め、止めた日に千円の貯金を10日間、つまり一ヶ月で1万円貯まる計算をした健康目的貯金の名残です。その後体調を崩し酒を止めたのでこの目的貯金は止めましたが、当時が懐かしくなって始めました。昨年の年末に一杯になって入らなくなり缶切で開けてびっくりしました。何と8万5千円も貯まっていたのです。このお金は夫婦の旅行に使おうと考え妻に渡しましたが、結局妻はは年末年始の雑用費に使ってしまったようです。でも正月の費用が思った以上にいったので、妻は大助かりのようでした。ちなみに私の酒を飲まないで貯めたお金は10年で120万円も貯まって、人間牧場の建築資金になったのですから嬉しいとしかいいようがありません。

 三つ目は菓子箱ガムテープで封をしただけの手づくりした私のへそくり貯金箱です。これは私の出版した本が売れる度に入れています。そんなに多くはありませんが、それでもまとめ買いしていただいた時等は30冊も売れることもあり、大助かりで、これも緊急の出費に使います。先日長男息子があべまりあさんの絵が欲しいといってここから10万円を支出しました。実はこの貯金箱が人間牧場の建築費として大活躍してくれたのですから私にとってはまるで玉手箱のような面白い貯金箱なのです。

 お金はこのように目的を持つと貯まるし、何気なく貯めると何気なく貯まるものなのです。なさそうであるのかお金、ありそうでないのがお金といわれるように、私たちの身の回りは常にお金がつきまとっています。しかし昔からお金のことをいうのは汚いことであって、余り口に出してはいけないような風潮があるようです。

 金田一秀徳さんが書いている本の中でお金の話がありました。「お金には別称が多い。ちょっと思いつくだけでも『おあし』、『おぜぜ』、『ぜに』、『お鳥目』。払うときの『お勘定』、『お愛想』、『お代』、『清算』など、日本人は何とかして『お金』という言葉を使わないように、使わないようにしているとしか思えない、更に『~代』、『~金』、『~料』、『~賃』などの接尾語がある。-中略ー、このよにして、用途が限定されているのか包括的なのか、また金額に相場があるのかあってないようなものなのか、手に入れられるものが有形なのか無形なのか、というようなことを考えて、お金について表すべきことばが決まっている。こんな複雑極まりないことを日本語にさせるのは、お金に魔力があるに違いない」と述べています。

 確かにお金には不思議な魔力があるようです。

  「貯金箱 竹で手づくり 懐かしく 思い出される 少年の頃」

  「俺の部屋 だけでも三つの 貯金箱 金がないのに いつしか貯まる」

  「金のこと 言うなと親に 教わった だけど言わずば 仕事にならぬ」

  「あいまいな 言葉で濁す 金のこと だからあいまい お金でトラブル」 

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shin-1さんの日記

○夕日は色即是空か空即是食か

 夕日の話をすると夜が明けるまで煙会所で話しこんだ昔が懐かしく思い出されます。夕日と朝日は同じ太陽なのに見る場所が同じでも、見る時間が違えば東の空に朝日となって見えたり、西の空に夕日となって見える不思議な物体です。同じ太陽といつも朝日と夕日という対立軸で考えるところに太陽の見方、考え方があるようです。

 私たちが考えた最初の頃の夕日はまさに般若心経の中に出てくる色即是空でした。形あるものは必ず滅びるという概念です。ですから地域再生を願うまちづくりの世界ではそのマイナスイメージから随分忌み嫌われてきました。しかし夕日の持つ包容力を考えると双海町の夕日は沈むときは色即是空かもしれないけど、沈んでも空即是食の朝日となって生まれ変わってくるのだとこじつけのような話を随分したものです。

 先日本屋の立ち読みで作家新井満の「自由訳般若心経」という本を目にして、そんなくだりを見つけ深い洞察で私たちとは比べ物にはならないけれど同じような考えだと喜びました。新井満は空即是色の世界から世界を見直してみると根本的な考え方や行き方が変わるような気がするというのです。色即是空だけの考えで生きているといつかは俺も死ぬんだ、滅びるんだという考え方になって、生きていても仕方がないとなる。生きていることの実感が薄くなったこの国で人は何かを求めているが、「人間の命のつながりの中で自分の役割を果たすべきという考えや、万物は変化して生まれるという空即是色の考えは今の世の中の再生に必要な価値観かもしれないと思えるのです。

 自分を基点にして考えると自分たちの両親は十代前には100人を超えますし、二十代前前だと100万人もの両親がいるのです。これは凄いことでこの間誰か一人欠けても自分がこの世の中に生まれてこなかったことになるのです。この運命のつながりを考えれば自分で自分の命を断つことの愚かさを考えるはずなのでしょうが、今の日本はまさに生きていることを実感出来ない国なのか一年間の自殺者が3万人を超えているというのです。

 私が考えた双海の夕日論は人間というちっぽけな存在にこだわるのではなく、地球上に存在する全ての動植物は太陽を中心とした天体メカニズムによって生かされているということなのです。365日朝日が昇り、365日同じように夕日が沈む何でもないように見える一年の四季の巡りが連続して動植物を成長させるのです。生まれたものは滅び、滅びの中からまた新たな命が生まれるのです。色即是空と同じように空即是色の世界を今一度考えてみたいものです。

  「その意さえ 知らず唱える 心経も 心開けば 道しるべとなる」 

  「わが命 親親親の 連なりぬ 十代前は 千人もいて」

  「生きたいと 思えど死する 人ありて 何でこの生 捨てきれようか」

  「夕日とは 色即是空と 思いきや 空即是色 生まれる源」 


 

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shin-1さんの日記

○古い看板も役に立つ

 車で遠出する時は車のメーターをゼロにして出発するのですが、今回の九州熊本県天草への旅は近年にない1000キロの長い長い旅となりました。更に追い討ちをかけるように昨日は岡山県津山というこれまた中国山地の山深い所へ瀬戸大橋を渡って走ったものですから往復600キロ、合計すると2回の旅で1600キロも走る驚異的な旅となりました。この2回は場所も遠く最初は公共交通機関を使う計画でしたが、天草は腰の具合、津山はJR津山線が落石で長期の不通とあって、結局は車の旅を選んでしまいました。

 昨日は雨後の天気に恵まれ温かく、暖冬の影響でしょうかもうあの山や峠を越したら鳥取という山深い中国山地の山々は例年なら白い雪を被っているのに、落葉樹の木々が何処までも広がる冬景色でした。

 高速道路のサービスエリアで一服し中国・四国エリアの地図を手に入れ、カーナビを相手に走るのですが、私のカーナビ情報が古いこともあって、日々更新している地図上の市町村名とは合致しない分注意をしながら走りました。知らない道を走ると合併によって「えっこんな名前の市町村あったっけ」などと首をかしげるような場面にも時々出くわし、結構楽しいものです。

 私のカーナビは前述のように情報が古いのですが、かえってその方が私にとっては古いものと新しいものを比較できて便利ですし、地域の人々に道を聞いても意外と旧市町村名で答える人が多いので助かります。

 それにしてもあちこちの合併した市町村では、その対応が追いつかないのか、それとも気付いていないのか、気付いていても予算がないのか、町内にある看板の大部分がまだそのままで、アンバランスな感じがしました。中には国道の市町村名を示す看板などは旧市町村名の名前の看板をそのまま使い、いい訳程度に「旧」という小さな文字を看板の市町村名につけて代用しているものも随分見られるようです。折角作って長年利用してきた愛着ある看板ですから勿体ないので、私的にはこの看板をこれからも長く使ってほしいと願っています。古い看板も見方によっては結構役に立つものなのです。

 しかし、これらの看板類の中には再利用のためペンキを塗って無理やりリニュアールした不自然なものや、美観を損ねるようなものまであって、何となく看板王国日本の醜い部分が見え隠れし始めました。合併を機にこの際看板を地図上に落とし、景観行政という観点から無駄な看板を一掃するような大胆見直しが必要なのかも知れません。

 いつの頃からか日本全国のあちこちでは看板に混じって安上がりなのぼり類がいっぱい立って、これも町の美観を損なう大きな原因となっています。道の駅ののぼりもパチンコ屋の「新台入れ替え」などののぼりも、これほどあっては風雨に晒され汚いのです。

 誰かが提案し、行政と住民が話し合って、このような身近な所から警官を考えて行動に移すことも地域づくりなのです。

  「そういえば 昔の名前で 出ています 町の名前を 示す看板」

  「旧と新 混合したまま 同居する 日本の十八番 曖昧模糊だ」

  「そこここに 雨に打たれて 幟立つ 客引くつもりが 客は遠のく」

  「旧看板 今ではその名 懐かしく 見上げつつつも 道を急ぎぬ」  

  


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