shin-1さんの日記

○わが町の風土と景観

 「風土100年景観1000年」という言葉があるように、風土や景観は長い長い年月をかけて形成されます。しかし1年一昔といわれる現代では風土も景観も100年、1000年といった長い年月どころか数年間で変わってしまう恐れがあるようです。風土はその地方の気候や地質・地形などの総合的な状態をいい、景観は景色、特に良い眺めと辞書には記されています。北国でさえ雪が積らなくなった温暖化や、私たちの町の漁師さんが見たこともないような魚が獲れると不思議がる異変も、まさに風土に何らかの変化が生じたからに他なりません。一年足らずで一山の緑が伐採されて裸山になったり、ブルドーザーが削り埋めて作ったニュータウンなど、地質・地形を無視した結果の災害は、まさに人間の身勝手が生んだ人災としか言いようがありません。変わらないといわれていた風土はこのように、日々刻々と人間の手によって変化しつつあるのです。そうした姿は当然景観にも現れ、遠望する瀬戸内海の島々にはまるでネズミがかじったような痛々しい土砂採取の跡が、無残な姿をさらしています。

 私が私の町の景観を意識するようになったのはそんなに昔のことではありません。20年ほど前夕日でまちづくりを始めた頃からでした。町が汚いことに気付いて花を植えたり掃除をしたり、蛍やメダカに熱中しソフトの部分で努力をしてきましたが、経済優先を旗印にハードな投資も随分考え公園などの人為的な施設を整備してきました。「何でそこまで」と良識ある人からは疑問の言葉をいただきました。確かにこの町は20年前と比べ見違えるように変身を遂げましたが、止むに止まれぬことだったとはいえ、昔の景観を無視したこうしたやり方に役場を退職した今、少なからず心を痛めています。

 まるで空襲警報だと悪評を外部の人から指摘されたサイレンの音は、穏やかな音楽サイレンに変わり、音景観は見えないものの見違えるようになりました。海岸国道の白く味気ないガードレールは16キロの殆どが、「自慢の美しい海が見えない」と難癖をつけてガードパイプに変えてもらいました。国道のあちこちに句碑を建てたり、松並木を造り修景にも気を配りました。またシーサイド公園の味気ないコンクリートの突堤は表面を石張りに変えました。これら全ては私の景観に対する意識の変化といえるでしょう。

 昨日全国街道交流会議が松山であり、私は分科会でこのことをパネラーとして発表しました。多分その分科会に集まった人の中には私の意見を確かめたくて、今日やって来るに違いありません。400メートルの一直線に造った人工砂浜が10年余りの時を経て、ものの見事にS字化している自然の力を私は驚きの目をもって見ています。私にしか見えない景観かも知れませんが、もっともっと景観という視点に磨きをかけて行きたいと思うこのごろです。

 「一の字がS字になつた砂浜を歩きしみじみ自然は凄い」

 「同じ海ガードレールの色だけで違って見える不思議発見」

 「わざわざと遠い町から夕日見に心染め去る仲間数人」

 「ハーモニカ小さいけれど束の間の音の風景心和ませ」

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○タクシーに乗る

 旅行に行った旅先では地理に不案内なので、時々タクシーに乗ることはありますが、地元や仕事でよく出掛ける松山などでは、酒を飲まなくなったため殆どタクシーに乗りません。多分一年以上乗っていないと思います。

 今日は午前中道後で開かれる県内校長会のシンポジュウムにパネラーとして出席するため、午後の会の都合もあって久しぶりにタクシーに乗りました。タクシーに乗るとその運転手さんは最近まで近隣の役場に勤めていた人らしく、何と私の名前を覚えているのです。「夕日でまちづくりをした若松さんでしょう」と、乗車するなり言うのです。驚いた私は「はいそうですが」と神妙に答えました。

 「タクシーはマイカーの普及で中々儲からない」とか、「一日中相手の乗ってくれるのをひたすら待ち続けるのは骨が折れる」とか、その道の厳しい現実を語ってくれました。

 最近は規制緩和によって2種免許の取得が容易くなったり、都会の大型資本によるタクシー会社の進出によって、タクシーの台数がかなり増えたそうです。そういえば、道沿いのあちこちにタクシーが無造作に駐車して、乗客を待っている姿をよく見かけるようになりました。またタクシーの駐停車が付近の交通渋滞を招き、社会問題化する騒ぎがあることも、新聞やテレビで報じているようです。マイカー側からすると迷惑なタクシーも、タクシーに乗って話を聞いてみるとまったく逆の立場の意見が聞けて、ある部分で同情する話でした。つまり人の話は右から見ると左に見え、左から見ると右に見えるということです。

 タクシー独特の匂いをかいでいると、酒によってタクシーで家まで送ってもらった酒飲み時代の思い出が懐かしく蘇ってきました。タクシー代は普通現金で払うのですが、今日は相手からチケットを送ってもらっていたので、大名気分で運賃をチケット払いにしました。縁は不思議なものでその運転手さんとの会話が弾んて、降りる時帰りの迎えを約束してしまいました。

 やがて集会が終わり皆さんに送られて玄関でそのタクシーを待ったのですが、時間が過ぎてもそのタクシーはやってきませんでした。携帯でタクシー会社に電話したのですが、「後4~5分で行くから」だけでなしのつぶてです。仕方なく別のタクシーでその場を去りました。その運転手さんは女性だったので、心のもやもやは多少薄れましたが、約束を守らなかった運転手のことが今も気にかかっています。多分途中で人を乗せたか、いやひょっとしたら渋滞に会ったのかもと思うと心配です。儲けそこなった男の運転手と、儲けた女の運転手の今日の運勢はまったく逆となってしまいました。

 私たちの運勢もこのように、いつ逆転するか分かりませんが、せめて幸運をつかむ努力はしたいものです。

 「予約したタクシー来ぬと大慌て代わりの車女性だにやり」

 「世の中は狭いものです運転手私の名前知っている人」

 「その先を右へ左と言いながら知ったかぶりで道を間違え」

 「生活が苦しい話聞いたのでチケットに添えそっとタバコ代」

 

 

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shin-1さんの日記

 今朝新聞受けに行って新聞を取り込みましたが、最近は新聞の薄さ(質・量おも)に対して何と織り込みチラシの多いことでしょう。かつて私は観光の仕事をしていたため、折り込みチラシを作っては販売店に折り込みのお願いに行ったものですが、折り込みは一枚2円程度の手数料が必要なのです。今朝は10枚もありましたので、私の家だけでも20円の折り込み料金が使われた計算になります。皆さんがおっしゃるのには「新聞はとっているが折り込みを頼んだ覚えはない」と言うのです。またある人は「折込みが紙ごみを増やしています。もっと規制をしたら良いのに」とも言われます。両方の意見とも納得なのですが、一方賢い主婦は折り込みチラシに書いてある特売や時間安売りなどをちゃっかりメモって、暮らしに生かしている方々もいるようです。また折り込みチラシを加工してインテリアにして、暮らしに彩を添えている人にも出会いました。

 最近の折り込みチラシは無造作に作られ無造作に配られているように見えますが、人の目を引くような工夫が随所に凝らされ、自分が折り込みチラシを作るときの参考になるようなものがいっぱいあるようです。

 折り込みチラシで気になるのはダイエットと消費者金融勧誘と人生悩み相談です。「一ヶ月で10キロ痩せた驚きのパワー」などと書かれたチラシを見れば、肥満に悩む特にお年頃の人は藁おもすがる気持ちになるのは当然でしょう。「私はこうしてダイエットを勝ち取った」と写真入で喜びの声を見ると、「私だってひょっとしたら」と思うはずです。結局は高いお金を出して薬を飲んだが、痩せるどころかやつれた人を何度も見てきました。消費者金融は年利30%に近い金利を取られるのですが、「保証人なしで即決」などの文字を見れば、金に困った人は誰だって飛びつくはずです。人生相談も不安やストレスの多い現代では儲かる商売だといえましょう。

 しかしこれらの殆どの商売が実体の無い信じがたい世界なのです。だからもめ事が多発し、告発や訴訟といった騒動になっているのです。

 上手い話には必ず落ちや裏があります。折り込みチラシが無ければこんなことにはならなかったと思うのではなく、折り込みチラシという多数の情報の中から、いかに良い情報を取り出して生かすかが問われているのです。動かないと痩せません。お金は働かないと儲かりません。人生は自分との戦いなのです。

 妻は今朝のチラシに一通り目を通しながら、「あっ、これ面白そう」と金物屋の広告を見つけました。「今度暇を見つけて見に行こう」と誘ってくれました。「これ買おう」ではなく「これ見に行こう」の発言は、さすがわが妻です。うちの大蔵大臣も捨てたものではありませんね。

 「チラシ見て全部買ったら自己破産お茶飲みながら財布を覗く」

 「下腹が気になる妻の言うことにゃこれで痩せたら苦労はしません」

 「あれこれとチラシが誘う買い心買えないのじゃなく買わないのです」

 「紙ごみと思ったチラシインテリア暮らしの達人何処にでもおり」

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○寂しくなった商店街

 日本全国のどの街もそうですが、別名シャッター通りといわれるように商店街が寂しくなりました。道の発達と車の普及によって便利になり、郊外や都会の店に客を奪われてしまったからです。馴染みのおじさんやおばさんが店番する長閑なお店も今は殆どなく、商店街にポツンと残されたようにある店さえも「もうわし一代」と嘆くように、存続は時間の問題かも知れません。私の町でも頑張っているお店は、国道沿いのコンビニと、月に一度必ず通う散髪屋さんくらいなものです。

 昔あったが、今は無いお店を思い出してみると、桶屋、下駄屋、うどん屋、塩屋、豆腐屋、鍛冶屋などが頭の中に、少年の頃の思い出として浮かんできます。

 桶屋は正目の杉板がうず高く積まれた仕事場でおじさんが板を削って継ぎ合わせ、割竹をくぐらせて作った輪の中で組み合わせ、見事な桶を作っていました。下駄屋は桐板を割ってハマや鼻緒をつけていました。切れた鼻緒を直してくれたり、高下駄を鳴らすバンカラ風な格好をしたこともありました。うどん屋の店先ではおじさんが手動の機械を回しながら、板状のうどんを何度も機械にかけ、やがて暖簾のようなうどんを鋏で切って釜に入れ茹いていました。塩は当時専売でしたので、今のようにどの店でも売っていませんでしたから、藁で作られたた塩カマスの中から枡で量り売りしてくれました。このお店は塩くらいでよう生活できるなあと思ったものです。豆腐は今のようにパックに入っていませんでしたから鍋を持って買いに行きましたし、おばちゃんが豆腐箱を下げて「豆腐は要らんかな」と売り歩いていましたが、大豆が豆腐になる不思議な謎は大きくなるまで解けませんでした。鍛冶屋のおじさんは頑固者で、鍬の修理に行っても機嫌が悪いと中々直してくれませんでした。天井から引いたベルトがクルクル回り、鉄槌機が真っ赤に焼けた鉄を音を立てて打っていました。

 桶屋はプラスチックに、下駄屋は靴に、うどん屋はインスタントに、塩屋は不専売に、豆腐屋はスーパーに、鍛冶屋は日曜大工店にそれぞれ取って代わられました。商店街のあちこちから聞こえた音の風景、匂いの風景、物の風景、手仕事の風景、活気の風景が姿を消しました。出来ればそんな思い出を語ったり記録に残して置きたいものですが、今では適わない夢かもしれません。

 先日出版会社から古い時代の写真集を出すから手伝ってくれないか相談がありました。頼る人もないというので無理やり引き受けさされましたが、その写真には様々な村や町の思い出が凝縮され、キャプションを書きながら一人少年の頃にタイムスリップしていました。

 「ぬかるみを藁の草履でパタパタと背中シリバネ頭の上まで」

 「クルクルと鉄を削って出る屑の余りの綺麗さに少し貰って」

 「下駄鼻緒布を破って修理した淡く生まれた恋もはかなし」

 「一升瓶下げて親父の酒を買う樽からトクトク音と香りが」

 「タガ取ればただの板だと口上を言いつつ桶屋木元竹裏」

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○幼稚園から老稚園へ先祖返り

 「這えば立て立てば歩めの親心わが身に積る老いも忘れて」。この言葉のように親は子どもの成長を願って一生懸命子どもを育てますが、子どもが一番最初に行くのは保育園か幼稚園です。私たちが小さい頃わが町には幼稚園も保育園もなく、いきなり小学校でした。子どもは大きくなるにしたがって様々なことを学ぶのですが、今日地元の高齢者サロンという事業に自治会長として事業に参加し、高齢者を相手に指導員さんがしているレクリェーション指導を見て、まるで幼稚園や保育園でしているお遊戯と一緒であることに驚きました。今日の高齢者の行動を見る限り、これは幼稚園ならぬ老稚園ではないかと、高齢者には大変失礼ながら私流に「老稚園」という新語を作らせていただきました。

 民生委員をしている妻の主催で始めた高齢者サロンに集まった人は20ほどでしたが、高齢者の対応には慣れている私に協力を求められたので参加しました。顔見知りの近所のおじいさんやおばあさんばかりなので、いきなり会話が弾みます。「最近は耳が遠くなるし生きとってもちっとも面白くありません。一人身では会話も限られていて言葉を忘れそうです」と嘆く人もいれば、「耳が遠くなりましたが、いらんことも聞こえなくなって丁度いいです。でも悪口は何故か良く聞こえます」と洒落た会話もありました。「耳が遠くなっただけ小便が近くなりました」と笑わせるおじいさんもいて華やいだ雰囲気でしたが、レクリェーションは幼稚で間違いやゆっくりペース、それが逆に面白い雰囲気をかもして結構楽しい集会でした。

 この集会で一際目に付いたのが漁協女性部の皆さんの踊りでした。銭太鼓やドジョウ掬い、小網音頭など、一座を組んで町内各地の催しを巡回して回るのです。勿論ボランティア活動で無報酬です。富岡喜久子さんという責任者を中心にシーサイド公園でじゃこ天のお店を開いて頑張っている、その恩返しだと言うのですが、これが中々の玄人はだしで、見応えがありました。その崇高な精神は見上げたものだと感心しました。感謝と真心をじゃこ天に乗せて売る口コミ商売は、さすが55百万円の売り上げを誇るだけあるなと、感心しました。

 こんな世知辛い世の中で頑張っている漁協女性部の皆さんに大きな拍手を贈ります。

 「じゃこ天を売りも売ったり五千万感謝を込めてこれぞ本物」

 「大漁を喜ぶ浜の猟師あり魚は弔みすず言うなり」

 「耳遠く小便近くなりにけり足す引くお相子だから生きれる」

 「ジジババの仕草はまるで子どもです先祖がえりと思えば納得」

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shin-1さんの日記

○たかが名刺されど名刺

 まちづくりに関わって以来、長年慣れ親しんできた夕日をあしらった名刺がなくなりました。双海町というまちを売り出すために考えた夕日の名刺も、多い月には600枚、年間7,200枚くらい使う驚異的な枚数でした。今年の4月に退職後も無職ながら夕日の台紙で通しました。この半年余りで1,000枚を使い、この程名刺がないことに気付き、役場と印刷屋に掛け合ったところ台紙がないというのです。明日から始まる全国行脚にさてどうしたものか思案をしてますが、只今名刺がないと自分だけではなく夕日を売り出せないジレンマに陥っています。「夕日のミュージアム名誉館長」という肩書きがあるのですから、その線で役場へプッシュも考えましたが、大人気ないので思い切って自費で作ろうと決意しています。というのもよくよく考えてみると退職後まで、自分と町の関係を引きずって生きてるような後ろめたさがあったからです。夕日さえももう自分のものではないのです。しかし私が夕日の宣伝をしなかったら、この町や夕日を誰が真剣になって売り込むのか不安もあります。「あなたの心配することではない」と言われそうです。

 たかが名刺と思われるでしょうが、小心者の私?ですから昨日はそのことが頭から離れませんでした。発想の転換で名刺が切れたのを機に、今度作る名刺には思い切って「人間牧場主若松進一」と書くことにしました。差しあげた瞬間「えっ、人間牧場って何ですか?」と言われそうで話題の広がりを予感しました。台紙は夕日かそれとも出来上がった水平線の家にするか迷っていますが、過疎逆の和田さんが書いてくれた似顔絵を使うも一考です。しかし似顔絵と男前である本物との落差に思わず噴出してしまう危険性もあります。漫画チックに渡辺えつこさんが岩国で書いてくれた色紙も・・・・・・。ああー迷うなあ。男前は辛いなあ。

 今までの名刺にはEメールやホームページアドレス、それに携帯電話番号は載せていませんでした。個人情報が気になるところではありますが、交流の広がりを考え思い切って載せます。今や私にとって自宅の住所・FAXよりもパソコンの方がはるかに頻度が高い交信手段なのです。でもこうしたデジタル社会でありながら、毎日三枚のハガキ実践対応はどうしても現住所も必要不可欠なものです。

 結局結論の出ぬまま朝を迎えております。差し当たり新しい名刺が出来るまで、今日から一週間は「えひめ地域づくり研究会議代表運営委員」の名刺やそこら辺をかき集め対応したいと思っています。

 「底ついた名刺に驚き電話するピシャリ営業それはもうない」

 「何気なく使った名刺の夕日さえわが物でなき気付き遅れて」

 「太閤は夢また夢と言ったけど私の夕日も夢のまた夢」

 「新しき名刺に書いた牧場主話広がる夢を見つつも」

 

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○お葬式とまちづくり

 世の中には変わった学生がいるもので、何と卒論作成に「お葬式とまちづくり」なるテーマを掲げている学生に出会いました。今日はその学生2人がはるばる高知県から勉強のためにやって来たのです。私も前々から民俗学で葬式のことを書こうかと思っていた矢先のことなので快く対話に応じました。

 私が子どもの頃のお葬式はもっぱら土葬で、おじいさんが死んだ時は、海の見える墓地まで急な坂道を棺おけ担いで登りました。組内の人の掘った穴におじいさんの棺おけを入れて土をかけた時、「ああ人間は土になるのか」と幼心を痛ませてそう思いました。初七日までの毎夜ローソクの光をつけに墓地まで行くのですが、この土の下におじいさんがいると思うと、ボチボチどころか怖くなって、心臓が張り裂けるくらいの速さで墓地に通じる山道を駆け下りました。おじいさんは人徳のあった方らしく、葬送の列が墓地まで長く続いていたことも忘れません。セピア色にあせてはいますが、私の思い出の彼方におじいさんのお葬式の姿は今も鮮やかに残っています。

 お葬式に関しては学生がテーマにするように最近では様変わりしました。土葬から火葬へ、自宅からセレモニーホールへとやり方も場所も随分変わったように思います。正しいデーターはとっていませんが、学生が言うように、お葬式の変化はまちづくりやコミュニティのあり方と、相関関係があるのではないかと思えるのです。私たちの町では限界集落が多くなりつつあり、お葬式さえも組内で支えきれない所もあると聞きます。またお年寄りが病院へ入院するのをためらうのは、病院で死ぬとセレモニーホールへ直行し、住み慣れた家へ帰れないからだとも聞きました。せめて通夜だけでも自分の家でと願うお年寄りの気持ちは痛いほど分かるのです。

 「世の中全て金次第」、いやひょっとしたら「地獄の沙汰も金次第」なのかも知れないと思うと何かしら侘しくなります。

 昨日こんな話を聞きました。ある一人暮らしのおじいさんが亡くなりました。今は忙しい人ばかりだからでしょうか、葬式が終わるのその日のうちに49日の法要を済ませるようです。財産は民法で決められたとおり、均分相続することになって誰も文句を言わず分け前を受け取ったようですが、さて位牌を誰が引き受けるかもめた末、結局は引き取り手がなくお寺に預けることで一件落着したそうです。「財産は欲しいが位牌はいらない」という何とも身勝手な社会は、私のような古い人間にはどうしても理解ができません。あなたはどうお考えでしょう。

 学生はまだお葬式とまちづくりの関係についてよく飲み込めていないようでしたが、私の葬式論に舌を巻いて帰りました。「君なら必ずいい論文が書ける」と激励して分かれました。いい論文が書けるよう祈っています。

 「葬式は今も昔も一里塚土葬と火葬違っていても」

 「死んだはずどっこい母は生きている心のどこかで私見守る」

 「葬式を卒論テーマにする学生何を学ぶか今から楽しみ」

 

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shin-1さんの日記

○芋端(畑)会議の夢を見る

 ストーブの恋しい季節になってきました。毎年この頃になると私の狭い書斎には、妻の配慮でコタツがお目見えするのですが、今年はまだコタツの用意が出来ていないため、椅子机で少し震えながらブログを書いています。

 昔は火鉢ひとつ、それも今の家のようにサッシの家でなく、あちらこちらから隙間風がピューピュー入ってくるような家だったのですから、寒かったのは当然でしょう。私たち子どもはは青鼻を垂らしていました。あの懐かしい火鉢も倉庫にしまわれ、各部屋にはストーブ、電気カーペットなどの暖をとる暖房器具が色々と置かれています。贅沢になったものです。暖冬傾向だといっていますが雪の降らない南国双海でも冬は結構寒いので、我慢もそろそろ限界かなと思いつつ、不足の不足を感じることに挑戦しております。

 それにしても最近は、私たちの暮らしの中で煙なるものがなくなりました。落ち葉を集めて焚き火をすることはごく自然の風景でしたが、今ではやれダイオキシンだのやれ環境問題だのとうるさくて、焚き火は姿を消しました。確かに環境については考えなければなりませんが、焚き火でどの程度ダイオキシンが出るというのでしょう。ダイオキシンという物質は目に見えないから私たち凡人には知る由もありませんが、化学工場から出る膨大な化学物質はそのままで、こんな小さな焚き火を止めるのは枝葉末節だと思うのです。でも焚き火も日本全国の国民がやったらこれも困ったものです。先日埼玉で面白い知恵をいただきました。焚き火で芋を焼いて食べる芋端(畑)会議なるものです。井戸端と掛け合わせたものですが、これは人間牧場でも使えるアイディアだと思いました。

 早速来年は人間牧場の畑に芋を植え、秋の収穫の頃焚き火をして芋端(畑)会議をやりたいと、人間牧場のコンテンツに一項入れました。秋の長閑な時期に焚き火を囲み芋をフーフーやりながら、家族や友達と色々な話をしたいと思っています。ひょっとしたら親子向けのプログラムとしては最適かも知れませんね。

 今の時代は、「早い」というスピードが求められています。季節や旬や人間性がまったく無視され、効果効率だけが一人歩きしています。スロ-ライフといいながら、便利さや安さを求めて人々は動いています。「あの商品は何円安い」が話題になり、地元の商店は競争に負けてしまいます。頑固親父の店など見る影もありません。結局はそうして時代は知らず知らずのうちに流れてゆくのですが、せめて何かにこだわって、少し自分の体内時計にあった暮らしがしたいものです。

 「芋食うて臭い屁こいたの誰だっけそんな話題は夢のまた夢」

 「どの家も風呂を焚いてる煙あり長閑な秋のふるさとの昔」

 「鉢巻や頬に被ったタオルだが今の若者お洒落に頭」

 「芋という字を分け見ると草を干すじゃあ草干して芋でも焼くか」

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shin-1さんの日記

○ある親の苦悩

 子どもを育てることの大変さは、子どもを育てた人にしか分からないといいますが、特に反抗期や思春期の何かと問題を抱えた子どもに対する教育は相当頭を悩ませます。今日も突如としてある親から子どものことについて相談を受けました。喫煙が発覚して学校から謹慎処分を受けたというのです。集団での喫煙だけに集団で一律同じ謹慎処分と思いきや、その子だけが家庭謹慎という重い処分を受けたそうです。親で見たら合点がいかぬと言うのですが、相談する人もなく尋ねあぐんで私の所へやって来ました。早速学校へ連絡を取り、学校へ出向きましたが、何度も同じ過ちを繰り返してきた過去の事実と、先生たちがこの子どもを立ち直らせようと努力してきた経過が先生の説明で明らかになりました。

 学校は、青少年の喫煙は法律違反であり、青少年の健康を蝕む観点から絶対してはならない行為だと厳しく言っているにもかかわらずやめれないのは、本人の意志の弱さと親のしつけが悪いと断罪し、退学処分を決定したようです。本人の将来を思うと悲しくなりましたが、決意文を書いた前回の反省が生かされなかった本人や親のあり方や、指導努力の甲斐もなく成果を挙げれなかった学校側にも責任はあるようです。

 私を見込んでの相談とは、親からすれば「学校に顔の聞く人に頼めば何とかなる」といった安易な考えがありはしないか、またその甘い親の姿勢が「悪いことをしても頼めば何とかなる」という本人の甘えに繋がっているようにも見えました。

 これでは折角の危機をチャンスに生かすことは出来ず、たとえ退学という重い処分を今回免れても、本人のためにはならないと、思い切って退学を勧めにお家へ伺いました。あいにく両親は留守でしたがおばあちゃんがいましたので、過酷だとは思いましたがそのことを話して帰りました。おろおろ涙するおばあちゃんの姿を見たとき、この涙を本人がどう感じるのか明日にでも本人に話してやりたいと思いました。

 学校へ行きたくても行けない時代を過ごしたおばあちゃん。学校へ行きたくないのに学校がある時代に育った孫。どちらも悲劇です。「こんな子どもに育てたのは親の責任です」t嘆く親の悲しみもよく理解できます。

 通っていた学校へは行けなくなるだろうけど、本人が早く立ち直って両親やおばあちゃんの笑顔を見たいものです。そのためには私の役割は何なのか、関係ないと思わず逃げずにしっかりとお手伝いしたいと思います。

 「悲しきは可愛い孫がマゴマゴと迷える姿見るに見かねて」

 「辛いけどここでしっかりせにゃならぬ親という字は立・木・見る」

 「何にでも興味を示す若さゆえでもダメなものダメダメダメだ」

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shin-1さんの日記

○私が私を意識した日(意識の誕生日)

 私の誕生日は昭和19年10月3日です。誕生日は人間の生命が生まれた日とされていますが、よく言われる夫の精子が妻の卵子に宿って、「とつきとうか」(10月10日)で子どもが生まれるとしたら私の生命の誕生は昭和18年12月24日、クリスマスの日へと遡らねばなりません。「えっ、私はキリストと同じ日に・・・・・・」なんて驚きです。しかしこの考えは父と母のみぞ知る布団の中の出来事ですから、あまり深く詮索すると死んだ母親に叱られそうなので止めます。でも馬や牛が生まれて間もなく立ち上がって歩く姿を見ると、人間は誕生からさらに1年間もしないと歩けないのですから、世話のやける動物と言わざるを得ません。

 時々自分の幼かった頃のことを思い出そうとするのですが、小学校以前のことは中々思い出せません。保育園も幼稚園もなかった田舎で育ち人の、移動もそんなに多くなかった戦後の、貧しい時代に育った私ですから、とりたてた思い出がないのかも知れませんが、小学校へ上がる頃の思い出は少しあるのです。私は知能の発達が遅れていたのか元々なかったのか分かりませんが、小学校へ上がるまでに10の数が数えれなかったようです。今時の子どもだと信じられないことで、今の時代に生まれてたら母親は私を教育相談にでも連れて行き、「はてどうしたものか」と行く末を嘆いたことでしょう。

 父は海岸から石を10個拾ってきて、毎晩夜なべ仕事の作業場に私を座らせ、石を数える練習をしました。数え間違えると竹の鯨物差しで手の甲をピシャリと叩くのです。出来ない私は涙を流していました。

 ひょっとしたら「私が私を意識した日」は小学校へ入る前の6歳頃の春だったのかも知れません。正確な記憶ではないのですが、これが私の「意識の誕生日」なのです。あんなに遅れていた算数能力も何とか人並みになり、今では計算も出来るのですから、私は大器晩成とまではいかなくても、小器晩成くらいとは言えるでしょう。でもそんな過去があっても社会に出るとそれなりに暮らしていけるのですから、石ころが数えられなかった意識の思い出は、むしろ人生の出発点として私の面白いエピソードになっています。

 「意識の誕生日」以来55年間、私の脳は覚えたり忘れたりを繰り返しながら、覚えなければならないことは覚え、忘れてもいいことは忘れて今日を迎えています。本当の誕生日から6歳引いた55歳が私の意識の誕生日ということになりますから、私はまだ55歳の若さなのです。

 この文章を書きながら私は若いことに気がつき、若いという自信を持とうと考えました。「失礼ですが若松さん、お歳は幾つですか」と尋ねられたら、「はい意識の年齢55歳です」と応えようと思っています。

 「歳なんぼいうと必ず褒め言葉7・8つ若く言われ喜ぶ」

 「父母が布団の中でドッキング私の誕生しれた夜話」

 「生まれた日私の父は戦争で留守してました何故に生まれた?」

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