shin-1さんの日記

投稿者: | 2007年5月6日

○過激な話

 私のような者が大学で曲がりなりにも教えるようになって、大学の学者先生との出会いが以前にも増して多くなってきました。これまで私たちのような実践肌の人間は学者先生の話を聞くと何となく世間離れしていて、かなりの抵抗がありました。逆に大学の学者先生も学歴のない私たちを見て理論体系がないような口ぶりで目に見えない言葉の反抗を示し私たちもそれを感じていました。そんな中で面白く過激な先生がいます。熊本大学の徳野貞雄先生です。先生は先生と呼ぶに相応しくない風貌をしています。何年か前広島県立大学の先生だった彼に、私の町の町づくりシンポジウムの記念講演を頼みました。広島から船で来るというので、若い職員に松山観光港まで迎えに行ってもらったのですが、船は着いたがどうしても大学の教授というそれらしき人は下りて来ないというのです。探せと指示をしましたが幾ら探しても見つからなかったそうです。たまたま公用車に「双海町」という文字を入れていて、徳野先生の方から声を掛けられ事なきを得たのです。どう見ても大学教授の風貌をしていない先生とは以来親しく付き合い、特に逆手塾の専任講師であることから昨年は人間牧場へ来られ熱弁を振るわれました。

 大学の他の教授が穏やかな建て前論の話をするのに対して徳野先生は過激な話をします。それはむしろ本音の話として私たち実践家により近い話として胸を打つ言葉が多いのです。「口角泡を飛ばす」という言葉がありますが、徳野先生の超過激と思える発言や語り口は、色々な誤解も生まれますが、私にとってはとても心地よい響きなのです。

 先日徳野先生から「農村の幸せ、都会の幸せ」という240ペーほどの小さな本が送られてきました。帯に書かれた文章を紹介します。

 「都会でサラリーマンになって、夏でも冬型の格好をさせられ、満員の電車に乗せられて、水虫になりながら夜遅くまで仕事をする。仕事帰りにはそこらの居酒屋で上司の悪口を肴に酒を飲んでいる。そうした暮しは、GNPに換算すればかなり高くなるでしょうし、確かに経済としては成り立っています。

 経済としては成立しているかもしれないけれど、一人の人間の暮らし方としてはどうでしょう。それよりも朝早くから田んぼに出て水を見回り、・・・・略・・・・クーラーはないけれども、日本の伝統的家屋には風通しがよくて涼しいポイントがありますから、そこに寝転がって昼寝をする。休日には近くの川で魚を採ったりする。こんな暮らし方が個人としては理想なのかもしれません」。

 この本の中身を読むといかにも農村の暮しが幸せそうに見えますし、都会の暮しに疲れた人々に田舎はいいよと応援歌のようにも取れますが、田舎の悪い部分も断罪しながら家族や食や暮しといった、日本社会の矛盾を鋭くついているようにも思えるのです。

 この本の中に「暮らしの生活社会指標というのがありました。都会のサラリーマンと安定兼業農家を①所得、②生活財、③家屋・部屋数、④自然・環境、⑤教育・学歴、⑥70歳時点での仕事、⑦自分の葬式の会葬者予測、⑧家族・世帯員数という一風変った8つの生活要素を基にレーダーチャート的図式 で比較しているのですが 、①所得と⑤教育・学歴は都会のサラリーマンの方が高いものの、その他の指標は全て安定兼業農家の方が高い事に驚くのです。特に②生活財、③家屋・部屋数、④自然・環境といった地域が固有に持つ空間資源や、⑥70歳時点での仕事、⑦自分の葬式の会葬者予測、⑧家族・世帯員数といった地域の人間関係資源は全て安定兼業農家に軍配が上がるのです。さらに①の所得でも所得そのものは低いものの自給や家賃、物価を考えれば都会のサラリーマンの出費も多いようです。ただ教育や学歴、子育てや受験といった部分では圧倒的に都会のサラリーマンが優位にあるようです。

 高齢化社会が急激な勢いで迫ってきました。人間としていかに生きるか、真の豊かさとは何か、老いを迎えた生き方など様々な問題を考えれば金で推し量れない空間資源や人間関係資源の持つ意味や魅力が問い直されるようです。

 田舎に住む私にとっては納得する理論ですが、ただ私と同じように田舎に住んでいる人たちがこうした田舎の価値を認識しているかどうかが問題なのです。

  「超過劇 そんな表現 したくなる おもろい先生 私友だち」

  「近頃は 理路整然と 話す人 多過ぎ不満 もっと過激に」

  「田舎住み たまに都会へ 遊び行く これが一番 リッチ生活」

  「問題は 田舎の良さが 分らずに ブツブツ言いつ 田舎住むこと」

 

 

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