shin-1さんの日記

○変る葬式事情

 最近新聞のお悔やみ欄を見て気がつくことがあります。死亡した人の年齢は千差万別、いったいに70歳から90歳過ぎまで高齢者の死亡が多いものの、中には私とお同じような今風にいえば若くして死ぬ人もいます。多分ガンや脳卒中、心臓発作、交通事故などで死んだものと思われますが、この欄に記載された分以上の悲しみの舞台が県内のあちこちで繰り広げられているのです。私と同じような年齢の人だと働きズ目に働いて年金を楽しみにしていたに違いないとも邪推するのです。

 お悔やみ欄の特長でもう一つ顕著なのは葬式の舞台がこの数年の流行で、自宅から葬祭場へ移ったことです。葬儀場で葬式をするのは都会の狭い住宅事情からだと思っていました。しかしこんな田舎にもその波はどんどん押し寄せ、葬祭場を持たない田舎の葬儀屋さんは完全に大資本中心の近隣の街へ吸い込まれつつあるようです。私たち夫婦も90歳になる父親を在宅で看ていますが、今朝親父がそのことを口に出しました。というのも昨日は親父の義理の姉の13回忌と義理の兄の50回忌法要が営まれるため、親類に出かけたからです。母は6人兄弟の末っ子でしたから自分を除けると11人の義兄姉がいました。残念ながらその全てが亡くなって生き残っているのは親父だけなのです。人前をはばかるようになった親父なのですが「どうしても出席して欲しい」という従兄弟のたっての頼みで私が連れて出かけました。

 義兄は50年前不慮の交通事故で亡くなりました。10人の子どもを残しての死亡は余りにも早く、家族は深い悲しみに暮れながらも助け合い、家業である製材業でそれなりの成果を収めたようで、今も3代目がしっかりと会社を発展させています。あいさつに立った従兄弟はその辺の事情を涙の出るように切々と語りかけ、親父との思い出も語ってくれました。多分高齢を押しての出席に対する配慮からでしょうが、親父にとっては「いよいよ自分の番」と思ったようです。

(和尚さんの横にあるのがホウノ木の立派な卒塔婆、50年の法事にはこのような塔婆が使われるのだそうですが、さすが製材業です)

 帰ってから二人で隠居の居間に座って法要のことや自分の最後などを少し雑談しました。親父の願望は「この家の畳で死にたいし、死んだらこの家で通夜をしてこの家で葬式を出し、愛した海が見える場所に納骨して欲しい」のだそうです。双海町は海岸に面しているため殆どの墓地が海の見える小高い所にあります。わが家の墓地も家とともに移転しましたが、そのお墓からはシーサイド付近の海がよく見えます。昨日法要で訪れた親類の墓地も負けず劣らず海の見えるすこぶる眺望の良い高台にありました。

(下灘の港や海が一望できる墓地)

 昨日は天気も親父の体調も良く、親類の家の裏山にある墓地まで何と親父は誰の手も借らず驚くような速さで墓地まで登って親類の人はその健脚ぶりに驚いているようでした。多分義理とはいえ兄弟とお墓ながら会いたいという思いが身体を動かせたのだと思います。


 

 私が若かった頃若かった従兄弟たちも段々歳をとって白髪が目立ち、足や腰や身体に不調を訴える人が多く、座ったり立ったりさえ困難な人のために椅子が用意されていました。その従兄弟たちともすっかり縁も遠のいて、お目出度やお悔やみ以外会わなくなってきました。親父にとっては懐かしい顔々なのですが、顔と名前が中々一致しないようで、私が通訳を務めました。

 身近に進む自分を含めた老いは死さえも話題になる、そんな法要でした。

  「あれは誰? 親父が出会う 人毎に 通訳務め うんとうなずく」

  「五十年 過ぎて息子が 法要を 私の五十年 はて誰法要」

  「海見える 墓地に埋めてと 父言うが 死んで分るか 不思議でならぬ」

  「それぞれに それぞれ人生 生きている それぞれ進む 人生仕上げ」

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