shin-1さんの日記

投稿者: | 2007年3月1日

○或る女

 「或る女」なんてタイトルをつけると、何か有島武郎の小説のような気もしますが、実はこの女性に10年来久しぶりにお会いをしました。ことの発端はもう30年以上も前になる昭和51年の出来事でした。私は総理府派遣第10回の青年お船の班長としてアメリカ・メキシコ・ハワイに向けて航海するにっぽん丸の船上にいました。昭和の咸臨丸と銘打ったこの船には350人もの選ばれた日本人青年に混じってアメリカ人青年やメキシコ人青年も乗船し、母国に帰る船旅をしながら国際交流しようしていたのです。

 それらの青年のまとめ役として私と同様30人の班長が全国の応募者から選ばれ乗船していましたが、その中の一人が今回のヒロイン「或る女」なのです。彼女は偶然にも私と同郷の愛媛県(八幡浜)出身でVYS活動の指導者でした。班長に選ばれるだけあって希に見る才媛で知的な彼女の仕事ぶりは目を見張るものがありました。当時班長の資格は26歳から30歳まで、私の年齢が30歳でしたから彼女も私より少し若いそのくらいの年齢だったと記憶していますが当時は独身でした。帰国後も国際交流の活動で行動をともにした時期が何年かありましたが、彼女は結婚して横浜に移り住み、音信も途絶えがちな年賀状程度のやりとりで、あっという間に30年の歳月が流れたのです。

 3日前留守中に電話がかかり、応対に出た妻の話だと「実家に帰省中なので久しぶりに会いたい」と、彼女の携帯電話番号がメモされていました。その日は午前・午後・夜の集会が重なって遅い帰宅となりましたが、失礼とは思いつつ10時過ぎに電話をかけました。私「こちらに帰っているんだって、その後元気ですか」。彼女「はい元気です。所用で母の元へかえってます。何日かいるので久しぶりにお会いしませんか」。私「二日後に八幡浜のライオンズクラブから頼まれて私の夢作文コンテストの審査会があり、審査員として出かけますので、午前中会いましょう」。彼女「じゃあ市役所前で午前11時に待ってます。お食事でもしながら懐かしいお話でもしましょう」。まあこんな具合で海岸国道378号線を西下し八幡浜に向かいました。この日は時折雨のパラつくあいにくの天気でしたが、彼女は私が到着した10分前には既に待ち合わせの場所に立ち待っていました。この30年間の最近はまったく会っていませんでしたが、笑顔で手を振る姿を見て直ぐに彼女と分りました。

 彼女の遠縁に当たるという粋な和食の店へ行き、小さな部屋で二人だけの食事をしながら過ぎ越し人生を2時間ほど積もる話しを話し込みました。彼女の話だと何でも30人の班長で組織している班長会を2年後に愛媛でやりたいという仲間からの伝言を伝えに来たようでした。私は班長会への出席をまだ1回しかしていません。多分そのペナルティのつもりでの大役だと自認しつつ引き受ける返事をしたのです。

 それにしても30年は長いです。同じ船に乗り寝食をともにした同志ともいえる彼女も既に3人の子持ち、偶然にも石油会社に務めていた旦那さんと数年前講演依頼された石油プラントでお会いしましたが、その旦那さんも既にリタイアされたとか、彼女の姿と私の姿をダブらせながら、タイムトンネルを経た二人の姿を、食事を持ってきた店員さんにお願いしツーショットの写真を撮っていただきました。彼女少しふっくら、私少しげっそりの姿に思わず「うふっ」でした。

? しかし三十年経てば言葉使いも変われば変わるものです。どこはばかることなく八幡浜弁でしゃべていた彼女が、「だってサー」なんて関東弁を堂々と語るのです。いやあ驚きました。彼女ら夫婦は八幡浜の出身です。いずれ田舎にでもと思っているようですが、若い頃田舎に住んで歳をとって都会に住むのなら分るけど、若い頃都会に住んで歳をとったら田舎なんて考えはよした方がよいかもと忠告をしました。今や田舎は過疎という名の基に交通機関も跡切れがちで、車に乗れなくなればそれこそ足をもがれたタコのようで、不便極まりないのです。夫婦が元気で長生きという保障はどこにもありませんし、親類が広くても、金がなくなればアウトです。田舎はそんな厳しい現実があることもじっくり考えて老後をお過ごしください。

  「三十年 時の流れは 早いもの お互い違う 世界を生きて」

  「同じ船 乗りてアメリカ 目指したる 友の頭に 白髪見つけり」

  「ふっくらと げっそり顔を 見合わせて 何を思うか ウフフにウフフ」

  「手土産に 貰ったみかん 食べながら 妻に聞かせる 青春の夢」


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