shin-1さんの日記

投稿者: | 2007年3月30日

○校長先生勤務地最後の日

 昨日の送別会で岡崎さんから「翠小学校の校長先生が会いたがってたよ」という話を聞いていたものですから、愛媛新聞社の方と会う約束が終わったので、午前中孫を連れて翠小学校まで出かけました。この時間だと離任式かあいさつ回りで留守かもしれないと思いつつ校門の入り口に車を止めるなり、私たちの姿を目ざとく見つけて、一目散に走って迎えにこられました。

(3人で記念の撮影です。息子の恩師宮岡先生に撮ってもらいました)

 普通校長先生は松山教育事務所管内で移動するのが常識ですが3年前、管外交流という名目ではるばる宇和島教育事務所管内から昇任校長として赴任してきたのです。当時は私も地元の教育長をしていたし、そんな関係で出迎えました。しかし今回の見送りは無位無官となった一私人としての見送りなので、むしろ晴れ晴れとした気持ちで見送ることができそうです。

 鹿島校長さんはかつて派遣社会教育主事として南予の町村で活躍した実績を持っており、特に同和教育などは得意の分野でそれなりの評価を受けていました。勿論役場職員といえども社会教育活動で県下一円を回っていた私にとっても彼は知り人の範中で、彼の来校と活躍を心密かに待っていました。「県下で一番若い校長で県下で一番給料の安い校長」などと笑いを交えて紹介した赴任を祝う歓迎会がつい昨日のことのように思い出されます。笑いのついでですが、少々頭も薄くなって風貌は年齢相応に見えるのですが、彼のフットワークの軽さと柔軟な発想力、違った視点でのものの見方は、派遣社会教育主事をしただけのことはあると思ったものです。

 彼は単身赴任でした。学校の近くの教員住宅に居を構え24時間体制で学校を守りました。PTAや時には校区内の住民を私邸?に招き入れ交流を盛んに行いましたし、学校が木造校舎ということや文化的価値があることもあって頻繁に学校を訪ねてくるまちづくり人たちと交流を続けてくれました。

 私が翠小学校に興味を持ったのはもう20数年も前のことです。当時は昭和5年の建築物である木造校舎は地元にとって「古くて危険」というイメージしかありませんでした。したがって鉄筋コンクリートの学校が町内に建つ度に次は翠小学校とみんな淡い期待を持ったものです。でも財政難や町がやらなければならない政策の優先順位は次々に別のものに先を越されて、残したくて残ったのではなく結果的に残っただけのことなのです。気が付いてみると(本当は気が付いていたのですが)県内の現役木造校舎では最も古くなっていました。関係者が今頃になって「この校舎は文化的な価値が高く」と胸を張りますが、知っている私は「よく言うよ」と呆れて聞いています。

 鹿島校長さんが赴任してからのこの3年間は翠朱学校にとっても様々な出来事がありました。私が教育長としてではなくまちづくり人として関わったミニシンポや建築関係者が取り組んだ実態調査などで科学的裏づけがなされ、環境庁の指定を受けてエコ改修の指定も受けました。その度に休日返上で見守り支えた業績は凄いと思うのです。

 私はこの学校に4つの贈り物をしました。一つはカワセミの彫刻物です。学校の名前の由来さえ誰に聞いてもあやふやだったものですから、カワセミに由来することを伝えたいと、長浜の彫刻家にお願いして掲額を作ってもらいました。予算などあるはずはなかったのですが10万円を7万円に値切り贈りました。二つ目は学校建築当時の写真です。この写真は私が写真屋に拡大を依頼しただけです。この学校の原点ともいうべき写真なので大切に飾られています。三つ目は木製の机と椅子です。当時の上田町長さんと久万町の林業まつりに出かけた折、高田課長さんと出会い、ほたる祭り加戸県知事さんの来校を実現させてあっという間にスチールの椅子と机が木製に変身しました。四つ目は学校を中心とした環境庁「ふるさといきものの里」という冠です。お陰で水車小屋も出来翠小学校周辺はほたるの里として整備が進み、翠小学校の赤い屋根が原風景となっているのです。

 鹿島校長先生ご苦労様でした。あなたの記憶にも翠小学校3年間は残っているでしょうが、翠小学校や私にとってもあなたの名前や記憶は永遠に残ることでしょう。3年間お疲れ様でした。


(校長先生と孫と私と二宮金次郎の4人で記念撮影)

  「また一人 記憶に加え 去る人の 姿すがしい 校長先生」

  「結果的 残りし木造 小学校 子供減りゆく 少し気がかり」

  「少しだけ 目に涙する 校長の 想いの裏に 在りし日々見ゆ」

  「次に来る 女先生 どんな人 早くも次に 歴史めくりて」 

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