shin-1さんの日記

○群馬県大泉町を訪ねて

 私たち四国に住んでいる人間にとって東京以北や以東は縁の遠い地域です。ゆえに群馬県や栃木県の地名を言われてもその地域の位置関係が中々つかめないのが実態です。ましてや平成の大合併で古い名前が消され、新しい市町村名が次々登場する昨今では、もうお手上げのような状態で行く先々をパソコンで検索して地図をプリントアウトしたり、鉄道の旅程表を検索しなければとんでもないハプニングを招くことになるのです。しかし「関東や北陸、東北は遠い地域」というイメージは新幹線の延伸によって完全に打ち破られていることも事実なのです。

 昨日まで私は群馬県大泉町の議会に招かれ講演に行って来ました。群馬県の大泉町議会事務局からメールが入っ時は、昨年群馬県玉村町へお邪魔していたため、その距離感や位置関係は直ぐに飲み込めましたが、「はて大泉町は?」と頭をひねりました。その後議会事務局の石井さんから資料の送付やメールによって一応の予備知識を得て出発しましたが、飛行機で羽田へ着きそこからモノレールや国電を乗り継いで東京駅まで行き、新幹線で熊谷次郎直実で有名な熊谷まで40分余り、その近さに驚きました。駅まで迎えにきていただき埼玉と群馬を分ける利根川を渡る少し走るともう大泉町なのです。

 大泉町は三洋電気と富士重工の二大産業をかかえ地方交付税不交付団体という、財政難に悩む市町村から見ると何とも羨ましい人口4万人余りの町でした。第一印象では条里正しい区画整理が行われきれいな町の印象を持ちましたが、町の中を見渡すと横文字の看板がやたらと目に付き、国際的な色のある町だという直感しました。

 道すがら石井さんの話によると、大川村と小泉町が昭和32年に合併して誕生したそうですが、かつては米軍キャンプがあり、返還とともに大手企業の誘致が決まり、昭和44年には大利根工業団地造成(凸版印刷、味の素)、昭和56年には飛行場跡地に富士重工業大泉工場の建設が始まり、工業の町としてゆるぎないいいを確立、バブル期の好景気時には県下第2位の工業製品出荷額を誇ったそうです。

 その一方で就労者の確保のため南米を中心とした外国人の流入が増加し、今日では全人口の16%、約7千人弱にまでなっているようです。そうした町内事情を反映して町のまつりにもサンバが登場し、新聞やテレビを賑わした時代もあったそうです。反面言葉・文化・習慣・環境の違いから多少の苦悩も見え隠れしているようでした。商店街では空き店舗がブラジル系になるなど、ポルトガル語併用の店もあるようです。

 合併問題では議会、行政、住民を含めて大きく揺れ動き、太田市を中心とした1市6丁の0万人都市か隣接3町(大泉町、巴楽町、千代田町)での8万2千人の都市か選択に迫られ、結局太田市は22万都市、大泉町は単独の道を選択したそうです。そして大泉町は今年町制施行50周年を迎え、観光協会の設立や各種記念イベントが予定されていて、いつになくまちづくりの機運が盛り上がっているようです。

 研修会は玉村町で開かれた議員研修で私の話を聞いた議会の主導で進められ、議員、係長以上の職員、区長、商工会などが会場いっぱいに集まっていて、私のつたない話にも熱心に耳を傾けてくれました。卒啄というのでしょうか、阿吽の呼吸というのでしょうか、私の話も聞き上手の参加者によって何時になく熱を帯びて最後はハーモニカまで吹いてしまいました。このハーモニカの音色を聞いた議長さんと副議長さんは会の終了後ブラジル人相手のショッピングセンターへ私を連れて行き、ブラジル産の角笛まで買っていただくおまけまで付きました。これぞ「ハーモニカも吹くがホラも吹くし、大泉の角笛も吹く」なんてコメントを他の町で吹聴したいと思っています(笑い)。それにしても町長さんも機を見て敏なりとでも申せましょうか、私のブログを事前に読んであいさつにその話を取り込んだりしてお話をされました。

 大泉町とはささやかなご縁です。でもささやかなご縁を大切にしながら支援者としてグラスの共磨きをしなければならないと思いました。道沿いには長さ4キロにわたって細長い樹木茂る公園が目に留まりました。また役場のある場所は日の出という地名なのも夕日にこだわる私としては不思議なご縁を感じました。大田のホテルに泊まって町長さん、議長さん、議会事務局長さんの顔を思い浮かべながら例によってハガキを3枚書き綴り、失礼とは思いましたが送っていただいた石井さんに託しました。

  「利根川に かかりし橋を 越え来れば 地球の裏から 目指す町あり」

  「小泉が 今では立派な 大泉 夢と知恵にて 更なる飛躍」

  「芋焼酎 下戸の俺には 猫小判 売り方次第 千両箱なる」

  「ブラジルに 乗っ取られそな 商店街 ここで奮起だ やるしかないぞ」 

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