shin-1さんの日記

○わが家の掛場帳

 私たちが子どもの頃、背中に大きな風呂敷包みを背負って置き薬の行商人が各家々を回っていたのを覚えています。玄関先で大きな包みを開け、神棚の横に大切に置いている薬箱を母が下ろすと、その人は世間話をしながら中身を点検して、無くなったものを入れて仕切り書を渡し、代金を受け取って何処かへ去っていったのです。近くにはキッチン宿があって学校へ行くときその人が出入りするのを見ましたから、多分この宿を拠点に売り歩いていたのでしょう。

 富山は当時遠い国でした。薬売りは一年を通じて旅をしながら薬を各家に届けるのですが、子供心に「あの人は他所の県の人だのに何であんなに家々を知っているのだろう」と不思議に思ったものです。ある日薬屋さんにそのことを尋ねたら、そのおじさんは「長年やっていると家の位置やその家に何人人間がいるかくらいは頭と体が覚えているので、目をつぶってでもその家に行けますよ」と言うのです。私はその薬屋さんを偉い人だなあと思ったものです。

 ところがある日、この薬屋さんは私の母に隣の家のことを詳しく聞いているのを見てしまいました。薬屋さんはカバンの中から何やら大切な分厚い帳面を出し、そこへ記入しているではありませんか。それが薬売りにとって命より大切な「掛場帳」であると知ったのは、テレビで薬売りの特集を見たからでした。親から子へ、子から孫へ代々受け継がれた「掛場帳」は薬業界の革命によってその価値をなくしたそうですが、絶対人に見せないといわれる「掛場帳」の存在は、薬売りの命だったのです。

 わが家にも個人情報と言われる「掛場帳」が2冊存在します。一冊は年賀状用の筆王というソフトに組み込まれた住所録です。これは長年の出会いや縁を頼りに作成した私にとって大切な交遊メモなのです。もう一冊は妻が保管の祖母、母の葬儀、法要に使った香典名簿と入院、出産、建前、入学、卒業、結婚など、わが家の節目ごとの祝儀の状況が詳しく書かれています。新聞のお目出度お悔やみ欄や知人からの情報の度に、わが家の「掛場帳」はめくられ大きな効果を発揮するのです。最近はパソコンが普及したので、入力しておけばよいと妻からは整理を頼まれているのですが、いっこうにラチがあきません。

  薬屋さんが来ると四角や丸い紙風船をくれたりするので、遊び道具とてなかった少年の頃のことゆえ嬉しかったことが昨日のことのように思い出されます。今は農協が置き薬運動をやっていますので、やはり同じように薬屋さんがたまに詰め替えに来ますが、薬箱の薬は幸か不幸か余り減ってはいないようです。

  「見ず知らず顔も覚えぬ薬売り玄関座って風船くれる」

  「亡くなった噂が我が家の掛場帳開け値踏みの香典包む」

  「香典の中身で決まる縁深さケチすりゃ明日から挨拶そこそこ」

  「旅先にあの人亡くなる連絡が香典送れと妻に指示する」

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