shin-1さんの日記

○逆手塾ルポ③

 今回の逆手塾のゲストスピーカは私と高知県南国市の川村一成さんが務めました。川村さんはつい最近売り出し中の四国の顔です。昨年プロ野球の石毛さんの肝いりで始まった野球四国アイランドリーグのサポーター組織を結成し、百姓が一俵入魂というアイデア奇抜なアイディアで地域をリードしている人です。彼はもと市役所職員で脱サラして百姓になりました。私は野球の支援組織もさることながら彼の生き方に興味を持っていました。中山間地で豊に暮らす知恵10か条は私の生き方に非常に近いのです。

  第1条  百姓としてとして暮らす

  第2条  山にあるものを生かしきる

  第3条  無理に多収を求めない

  第4条  販路は知人から広げる

  第5条  きれいな環境で気に入ったことを気分よくやる

  第6条  集まれる場をつくろう

  第7条  支離滅裂に面白く

  第8条  この指たかれ、面白がる、見せびらかす

  第9条  なんにもないからなんでもできる

  第10条 補助金は動いていればついてくる

?ほどほどに貧しく悠然と生きていく彼に生き方こそが今求められているスローライフな生き方なのです。

 百姓を楽しむ人は沢山います。でもあんな人のような生き方をしたいと思う百姓には中々めぐり合うことができません。彼は早起きをして人間牧場の風呂を自分で沸かし、朝風呂を楽しんでいました。彼曰く「今まで生きてて一番言い風呂でした」というのです。海を見下ろす絶景地にある五右衛門風呂はまさに至福の時だったに違いありません。

 今回の参加者の仕事はみんなまちまち、まるで異業種交流会のような雰囲気でしたが、彼の話を聞いた人が「人間の生き方って基本は一緒なんだね」とポツリと言いました。坂本竜馬ファンとしては同郷の高知県だけに川村一成とダブって大きく見えました。誕生日と命日が一緒という寄ぐうさと3歳の若さで亡くなったことを思えば、私たちの生き方はまだまだ甘いものだと思うのです

 今回の逆手塾に長男と次男が自主的に参加しました。長男はこの家の設計者ですから、施設の説明や案内を買って出て色々と参加者と話をしていました。次男は長男の命令に従って風呂を沸かしたり蚊帳を張ったり相変わらず小まめによく働きます。こんな機会は滅多にないので二人を皆さんに紹介しました。長男は建築家らしく家を語り、次男はダンスの一端を披露しました。親ばかかも知れませんが実にいい息子として育っています。 そういえば人間牧場の完成まで三男も含めてみんなが揃って手助けしてくれたことは忘れられない思い出でしょう。

  「農業を 百姓なんて 自慢する めずらし男 川村一成」

  「知恵あれば 不平愚痴など 言えぬはず 程ほど貧乏 それでいいんだ」

  「人生の 基本はどれも 同じです だからあなたと 生き方同じ」

  「達人と 言われる人は 人知れず 陰徳積んで 悠然生きる」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○逆手塾ルポ②

 人間牧場水平線の家は、僅かに間口4間半と奥行き2間半の狭い部屋ですが、その広さと同じウッドデッキがスライドする窓を開けると一体的に、つまり窓を開けると室内が倍の空間に早代わりする仕掛けを持っています。そのため正面が何処か分らないことをいいことに、思い思いの方向で目先を変えた演出が出来るのです。最初は樹齢150年生の高知県魚梁瀬杉の切り株で作ったテーブルを演台にして会場を組み立てました。参加者の視角は設えた長い本棚とそこに並べてある私の蔵書が知的空間をを意識させるのです。

 逆手塾の参加者には凄い人がいっぱいいます。これも逆手塾の積み重ねの重みでしょう。例えば山本文子さんは逆手塾で同じゲストとして初めてあって以来の付き合いですが、私の夕日を「何処にでもある夕日を日本一だなんて」と腐しながら「でも先に言ったあなたは偉い」とあげたり下げたりするのです。 

 山本文子さんがミニトークをしているのですが、髪を金髪に染めている彼女は一見少し派手好みの普通のおばさんです。でも喋りだしたら彼女の凄さが分ります。NHKのドキュメンタリー番組で1時間も紹介された彼女の性教育の番組は日本全国に大きな反響を巻き起こしました。今彼女は自分の意思を貫徹するために必死に働いています。「ゆりかごから墓場まで」という口癖どおり早く言えば布団や畳で子どもを生める産院と高齢者施設をドッキングした施設を作ったのです。お金が2億円かかるそうで銀行にお金を貸してくれと頼みに行ったら、「担保は何」とけんもほろろに断られたそうですが、「担保は私の夢」なんて言って融資を引き出し、「私の夢に投資して下さい」との呼びかけに多くの人が賛同して順調に船出しました。

 

 本棚を正面にすえると室内から溢れた人は野外講演会となります。さすがに女性は日焼けが怖いのか部屋の中に陣取りますが太陽を好む人は平気で太陽の光を受けます。

 一方海側を舞台にすると観客は室内から海を眺めながら話を聞くのです。

?海の色や流れ行く雲の変化を確かめながら聞くと、さっきまでの雰囲気とはまったく違った感じに聞こえるから不思議なものです。ステージに立って話すのは京都府農林水産部農林振興課で地域振興を担当する吉田好宏さんです。彼は逆手塾の強力なメンバーだと聞いてます。

 やがて夕闇迫る頃となりましたが、それまでもやで霞んでいた西の空が急に晴れだし、何と夕景が見事に見え始めたのです。みんな感嘆の声を上げました。私は残念ながらウッドデッキに蚊帳を張る作業に熱中し夕景や夕日を写真に収めることは出来ませんでした。

  「海を見て 話を聞くと 又違う 人は聞く耳 環境で変わる」

  「金髪の おばさん凄い 話する 性の問題 こんなに感動」

  「逆手塾 始めて参加 驚きて レベルの高さ 感じながらも」

  「爽やかな 風を頬に 感じつつ メモ取りながら 人の声聞く」

 


 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○逆手塾ルポ①

 今年の逆手塾は6月10日と11日の二日間、人間牧場で開催されました。私は昨年の逆手塾にゲストスピーカーとして招かれましたが、その折人間牧場での開催を和田さんと宮崎さんに打診されていました。しかしまだその頃人間牧場は構想の段階で、第1期工事すら着工していませんでした。でも何とかなるだろうとお受けし、この日に照準を合わせて第3期工事まで進めてきました。今回の逆手塾には四つの不安がありました。まず第1は収容人数です。間口4間半・奥行き2間半の施設ではどんなに頑張ってみても収容能力が最大40人なのです。しかもその人数が様々なパフォーマンスを繰り広げるには水平線の家と同じ広さのウッドデッキが必要なのですが、雨だと使えないし天気だと蚊や蛾などの虫類も心配でした。幸い天気に恵まれ場所の確保が出来ましたし、参加矢とスタッフを合わせて40人に納まったのです。また虫も手作りの大蚊帳で何とかクリアーしました。第2には交通アクセスです。人間牧場は隠れ家的な人目に付きにくい場所にある上道が狭く険しいのです。地図を送って下さいと言われても送れないし、地元の人に場所をしえて下さいと言われても言葉では説明できないのです。デラックスな車で来るような人を拒んだり駐車場がないと苦情を言う人なんか来て欲しくないと言ってはいますが、逆手塾を開けば参加者に来てもらわなければならないのです。JR上灘とシーサイド公園を中継点にしてフロンティアグループのメンバーが道案内することで事なきを得ました。三番目は宿泊場所の確保です。水平線の家のロフトは最大8人、雑魚寝をしても半分以上は溢れるのです。幸い歩いて5分の所に地元池久保公民館がありました。貸し布団屋で布団を借りて持ち込みましたが、夜の移動は冷や汗もの、でも皆さんは結構楽しく移動をしてくれました。最後の心配は天気と水でした。海、水平線、空、島、夕日など自慢のロケーションが雨でも降るとまったく期待出来ない梅雨時の開催ですから、雨覚悟でシートなどを多量に確保して万一に備えました。さらに水は10人の暮らしを想定しての配水ですから五右衛門風呂やトイレの使い過ぎは水不足に陥るのです。前日準備段階でその不安が的中するようなショッキングな出来事が起こりました。椎葉村から帰って間もなく準備のために雨の中でウッドデッキをボー刷りで洗っていって、最後の仕上げのため雑巾をかけようと蛇口をひねると水がまったく出でないのです。青ざめて水源のタンクへ走りましたが、タンクは空っぽでした。タンク所有者の西嶋さん宅に伺ったところ、「少しでも綺麗な水を使ってもらおうと思い、タンクを空にした」と言うのです。「明日までには十分貯まります」との安堵の言葉を頂いてホッとしたのです。

 まあこんな風に冷や汗、胆潰しの連続で当日を迎えたのです。

 当日は全国からスタッフを含めると40人が勢ぞろいをしました。東京・神奈川・埼玉・京都・島根・広島・福岡・香川・高知・愛媛と10都県にまたがって集まったつわものたちに逆手塾24回の歴史の重みと凄さを感じました。

 ウッドデッキに並べられた和田さんお手製の特徴ある木製名札を見てもまさに圧巻です。かつて私たちが年4回10年40回のフロンティア塾を開いた当時の興奮が甦ってきました。

 受付は宮崎さんの奥さん貞江さんが手助けしていましたが、今回の逆手塾には宮崎さんご夫妻をはじめ何組かの夫婦が参加していました。昔なら考えられないことで、まちづくりは男性の占有物という間違った考えがありましたが、日本もいよいよアメリカ型となり、まちづくりも夫婦で参加する時代になったと思いました。

 

 さて、プログラムが始まると、お笑い3人組の歌とトークで幕が開きました。和田さん、宮崎さん、田中さんの軽妙にして迫力のある演技は、知らず知らずの内に私たちをその気、やる気にさせるのです。普通はもう一人田中正俊さんが加わってのパフォーマンスとなるのですが、都合で欠席し3人となりました。彼らのフィールドは広島県の県北レクリエーション協会が母体ですから、歌や踊りはお手のもの、いい味をしています。ご覧下さい。左端の和田さんの陶酔した姿を・・・、これが昔私と同じ教育長とは誰も気付きはしないでしょう。さあ逆手塾の始まり始まりーです。

  「六十の 歳になっても この姿 三十年前 少しも変わらず」

  「蜂や蝶 蜜を求めて 飛んでくる 人も同じで 値打ちの場所へ」

  「歌声に 何が起きたか 地元民 見れば牧場 気違い集まる」

  「しつらえた ウッドデッキで 歌歌う バック海空 気持ちよさそう」

  

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○逆手塾始まって終わる

 前日の準備を含めてこの3日間、宮崎県椎葉村行きの疲れも見せず、逆手塾開催のため人間牧場に入りびたりで、水平線の家ができてから始めて水平線の家に宿泊しました。逆手塾の後片付けをして各方面への支払いを済ませ、やっとわが家にきました。「アー疲れた」というのが率直な実感です。ところがスタッフとして働いてくれた21世紀えひめニューフロンティアグループが道具を水洗いして収め帰ってから、わが家まで送ってくれた事務局長の大野さんのトランクに荷物を置き忘れ、高野川のクリーンセンターまでUターンしてもらい荷物を受け取る羽目になりました。疲れていると仕事がはかどらず、物忘れや考えが散漫で、せっかく書いたブログの記事も保存されずお蔵行きで幻の記事に終わりました。さらに追い討ちをかけるように山口県周南市から60人もの団体がまちづくりの視察に午後4時約束で訪れる計画でした。しかし向こうの約束とこちらの約束違いで1時間も遅れて到着、まさにイライラの連続でした。それでも視察者に罪はありませんので約1時間楽しいおしゃべりをしましたが、7時前の帰宅時はどっと襲う疲労感に「アー疲れた」の連続でした。ふと思うにこの疲労感はやはり私も歳なんでしょうか。

 逆手塾は広島県の過疎を逆手に取る会が主催する年に1回の塾なのですが、今年は和田さんや宮崎さんのたっての依頼で人間牧場で開催することが決定し、その準備を進めてきました。何せスタッフを含めると40人の一大イベントなので、そうそう気を抜くこともできず宮崎さんと共催するフロンティアグループの大野事務局長、それに和田さんと私で綿密な計画を作成して準備を進めてきました。一番の不安は出来て間もない人間牧場の施設だけに、どういった使い方があり、どんなトラブルがあるのかまったく予想がつかないということでした。加えて隠れ家にも似た場所であり、道案内が上手く行くかどうか、また宿泊施設として借りた池久保公民館との連携が上手く行くかどうかも心配の種でした。結果的には概ね順調に事をこなしましたが、深夜に帰った山本文子さんが道を間違えて車を大破するというハプニングに大慌てしました。それでも命の大切さを訴える彼女の馬力で何とか急場をしのいだようでほっとしてます。

 主催した私としては総じて順調、総じて成果大、総じて納得という結果に終わりました。その裏には全国から集まった参加者は勿論のこと、この塾を企画運営した過疎逆のメンバー、送迎から食事の準備を担当しスタッフに徹してくれたフロンティアグループ、蚊帳を縫ったり風呂を沸かして人間牧場のサービス係りに徹した長男と次男、刺身を造ったり座布団を構えてくえた妻などなどの下支えがあったこらだと感謝しています。今朝和田さんと宮崎さんにお礼の電話を入れましたが、何よりも大きな成果は人間牧場の雄大なロケーションと天候に恵まれたことだと言っておられました。同感同感です。

 塾のような催しは施設や設備と違って後には形が何も残りません。地域政策総合センターの井石主任と脇田研究員が最後にトイレの掃除までして帰ってくれた後のガランとした空間は先程までの喧騒がまったく嘘のような静けさでした。でもこの人間牧場に人の営みによって新しい歴史が刻まれ新しい命が芽生えたのです。形に残らないからこそ意味があるのです。感動の法則1×7×5×2=70人から計算すると40人×

7人×5人×2人=2800人の感動を得たことになります。全国に人間牧場の感動の輪が広がり始めました。

  「感動は 法則計算 したならば 二千八百 大きな反響」

  「心ある 仲間集いて 逆手塾 人間牧場 やっと全開」

  「牧場で 一夜を明かし 語り合う 人はそれぞれ 悩み多かれ」

  「牧場寄席 これはいけるぞ ネタ本を 作って高座 やがて上がりぬ」


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○椎葉村は美しく

 10数年ぶりに鶴富姫の伝説が残る宮崎県椎葉村を訪ねました。私の思い出のアルバムにある椎葉村とは村に入るルートが違っていたため、随分違って見えました。狭い道は村だというのに粋なカラー舗装され、観光で生きる村を強烈にアピールしていましたし、川沿いにはバイパス道路が立派に出来上がり信号も設置されていました。でも回りの景色や屋敷は変わらない風情を醸していました。

 朝が早かったので素顔の椎葉を堪能しようと町中をカメラを提げてウォッチングしました。早朝7時だというのに村の道は弁当を持った工事関係者の車や人が無言で行き交い、慌しい一日が始まろうとしていました。

 石段を登ると古い民家に出会いました。国の重要文化財に指定されている木造の茅葺の家です。保存が行き届き椎葉民家独特の横長い造りになっていますが、一般公開は9時からなので残念ながら見学はできませんでした。

 民家の横にダイガラ臼がありました。椎葉は焼畑農業が今でも行われているようで、多分特産の蕎麦をつくものなのでしょうが、今では立派な観光資源です。

 その横に鶴富姫のお墓がありました。源氏那須与一しい伝説は今でも大切に保存されていました。椎葉村にはこのほかにも秋になると26の集落全てに無形文化財に指定されている神楽が今でも伝承されていると聞きました。

 駆け足で巡ったほんの触り部分しか紹介できませんが、鶴富姫のイベントは内外から3万人もの来村者がいる一大イベントだそうです。椎葉蕎麦を食べたかったのですがそれも叶いませんでした。今度はゆっくり妻と二人で旅をする下見旅にしたいような旅でした。

 椎葉にも過疎や高齢化の波が押し寄せ、守るべき伝統や文化が危険にさらされています。私の悩むことではないのですが、美しい日本のこの村を国の財産として残して欲しい気持ちでした。

  「美しい 日本の村の 風景も 守る人あり それが危ない」

  「もう一度 必ず妻と 訪ねたい そんな気がした 椎葉心に」

  「遠いから 不便だからと 行かぬ人 遠い不便は いいもの残る」

  「十年が あっという間に 過ぎました 村のアルバム 更新忘れ」

 

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○椎葉村の苦悩

 「おばちゃんちょっとお尋ねしたいのですが、高齢者センターは何処かご存知でしょか」。「ああ高齢者センターならそこですよ」と教えてくれたのは、降り出した雨の中で立ち寄った金物屋のおばちゃんでした。金物屋の店内はども町の金物屋さんも一緒で、何時売れるか当てもない商品が所狭しと並べられ、店は片付いてはいますが少し古い物が値札と一緒に吊り下げられていました。聞くでもなく相手のおばちゃんは椎葉村の現状を聞いてくれと言わんばかりに一気に話し始めたのです。急ぐこともないので立ち話のような形で話に相槌を打ちながら聞いたのですが、椎葉村は一昨年と昨年の二年続きの台風災害で、ちょっとした好景気のような錯覚にとらわれているそうです。椎葉村の台風災害は村が孤立するなどその爪あとは大きく、激甚災害に指定されたのです。激甚災害に指定されると国費が投入され公共土木工事が増えるのですが村内の業者はランクが低くて大きな工事はゼネコンが殆どの工事をするのだそうです。仕方がないので下請けや孫受けといった儲けの少ない場所でしか受注できないのです。しかも最近の公共工事は事業費見直しによって利が少なく、中には赤字覚悟の工事もあるやに聞いているのだそうです。

 村の中心部の対岸にこんな光景を見ました。土砂が崩壊し道をふさぎ、その土石流は川まで達しています。多分人命や交通に支障のないものは後回しにされるので、着工は早くても2年後ではないかと聞きました。ぐるっと見渡してもこんな土砂崩壊の爪痕はいくつも視界の中に入ってくるのです。

 おばちゃんの話は延々と続きました。これでは講演をしに来たのではなく、まるで金物屋のおばちゃんの講演を聞きに来たようでした。いい話を聞いたので何か買わないと、ブリキで出来たお茶の収納に使う道具を買いました。名前は忘れましたが椎葉村独特の見たこともないような道具でした。

 私が今回の旅で八幡浜~臼杵~日向・延岡~椎葉を選ばず三崎~佐賀関~竹田~一宮~蘇陽~椎葉のルートを選んだのは台風災害や通行時間制限が少ないルートだと思ったからです。それでも何ヶ所か無人の片側通行信号や、ガードマンに何度も止められました。その都度急ぐ旅でもあるのでイライラは募るばかりでした。大人気ないなと思いながらもガードマンに「あとどのくらいかかるの」と聞く始末です。

 昨年の台風はわが家の裏山も崩れ他人事ではないと同情しましたが、おばちゃんの話によると、山奥には想像もつかないような土砂崩壊の場所があるそうです。

 高齢化や過疎、それに長引く不況と田舎を巡る不安材料は幾つもあります。テレビではセレブなどという言葉が流行し、何か違う国の話を聞いているような錯覚さえ覚えます。また田舎の長男が故に嫁のない苦悩もまた、芸能人の離婚や結婚の話に打ち消されています。格差が問題になっているこの国の形は一体どうなっているのでしょう。

 この台風で3人の人が犠牲になった現場を見ました。旅館だった三階建ての家は壊されず無残にも台風の爪痕を残したままの姿でした。壊すのに8百万円要るのだそうです。椎葉村の苦悩は中山間地域の苦悩でもあるので心を痛めながら4回目に訪れた椎葉村に別れを憂げました。

  「若松さん 見知らぬ人が 声掛ける こんな田舎で 俺の名知るとは」

  「落ち込んだ 話を聞いて 落ち込んだ 深い悩みの 悲しい現実」

  「このルート 選んでみたが 結局は カーナビ案内 お前は偉い」

  「四百も 工事あるとは 驚いた 民宿おばちゃん 自慢顰蹙」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○二人の旧友

 私には友人や先輩、仲間など数えれば家族全員の足と手の指を借りてもまだ足らないほどの数の人たちがいます。頻繁に交流している人も沢山いますが、もう何年も音信が途絶えている人もいます。歳を経てきたからなのでしょうか最近そんな懐かしい友人の顔が時々思い出され、パソコンを打ちながら「あの人は元気なのだろうか」などと思い出し、電話をかけたりするのです。

 数日前も宮崎県椎葉村へ講演に行くため調べ物をしていてふと「河口吉弘」さんのことを思い出しました。彼は椎葉村の役場に勤めていましたが、知的な行動派で椎葉村へ講演に行った縁で青年たちをわが町へ連れてきたこともあるのです。電話番号が分らず結局は役場に電話を入れました。電話に出た総務課の方の話によると彼は今春退職したとのことでした。詳しいことも聞けず早速彼に電話を入れましたがあいにく留守だったので夜に再びかけると、懐かしい彼の声が聞こえてきたのです。何でもまだ60の定年には2年間もあるのに「っくりしたくて」退職したとのこと、宮崎県を代表する彼を現場から失うことは寂しい気もしましたが「ゆっくりしたい」と言う彼の言葉の重みをかみ締めました。

 昨日の朝椎葉村を歩いていると見知らぬ役場の職員風の方から「若松さんではありませんか」と、思わず声を掛けられました。青天の霹靂、驚いたの何のって、言葉では言い表せませんでした。その方は村の文化郷土館の学芸員をしているそうで、何でも昔河口さんが縁で私の講演を聞き青年団で聞き双海町視察ツアーの一員としてわが町にも来られたとのこと、それでももう10数年の昔のことだし、私の風貌も13キロも痩せていてすっかり様変わりしているのに覚えてくれていたのです。嬉しさでついウルウルになりました。

 折から降り出した雨で会場の準備が遅れ会場へ着いたのは開会30分前でした。会場へ着くなり河口さんからの伝言とかで、「今日は所用で会えない。お土産を」と焼酎を託けてくれたのです。

 九州北部地四国地方が入梅というニュースを、谷間を縫うように走るためラジオ電波の状態が悪い中で聞きました。折から接近する低気圧の影響で雨は本降り、しかも風を伴った横殴りの雨、各地に暴風波浪警報が出される中、やっとの思いでフェリー乗り場のある佐賀関までたどり着きました。今回の椎葉村行きをブログで紹介していたので、愛読者の渡辺又計さんが読んでくれていて、「フェリーが欠航になでもなったらわが家へでも」とわざわざ風雨の中船着場まで訪ねてきました。彼とは旧三崎町の塩崎君を介して知り合ったのですが、漁師町の育ちで気心が合うのか、先日もわざわざ来県(来県といっても三崎とは目と鼻の先でフェリー代だと600円程度で、遠い県内よりよっぽど近い)し交遊を深めました。手土産にと関アジを持ってきてくれました。

 渡辺さんのことを私は「関のダンディーボーイ」と呼んでいます。こざっぱりした容姿は田舎臭さがまったくなく言う事なすことがしっかりと将来を見据えています。その姿はまるで俊敏に泳ぐ関アジ・関サバのようで好感が持てます。春の人事で課長級になったそうです。まずは昇進を喜びたい。大分市と合併し佐賀関という自治体はなくなりましたが、これからも佐賀関というブランドにこだわった地域づくりに努力して欲しいものです。

 人の出会いは不思議なもので、河口さんにしても渡辺さんにしても遠い土地に住んで空気のような存在でありながら、それでいてお互いが気にする存在にいます。私もそんな存在になりたいものだと二人を見て思いました。今回も小さな旅の中で二人の旧友の存在を確認することが出来ました。お二人さんお元気でご活躍ください。

  「旅先で 受けた恩の 有難さ 気配りできる あの人達人」

  「走らせる 車の中で  人思う 看板見る度 あの人元気」

  「味なこと するわいあいつ アジを持ち 味わえ言って 雨に消えゆく」

  「ふるさとを しょって生きてる 人に会う 風の便りに 昇進・退職」

  


[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○椎葉村へのルートを調べる

 今夕から宮崎県の山奥深い椎葉村へ出発します。週末の逆手塾準備のこともありどうしても金曜日の朝までには帰宅しなければならないので車で行く事にしました。椎葉村へは過去の2度ばかりお邪魔しましたが、何せ遠いことと道が狭いことの印象が強く、公共交通機関利用だと完全に2泊3日の旅となるのです。そこで妻が愛用している九州全土の地図を広げ思案しました。妻は息子が鹿児島の大学へ遊学中に自分で車を運転して度々鹿児島へ行っているので九州南部については詳しいようです。普通だと八幡浜から臼杵にフェリーで渡り、日向か延岡まで国道10号線を南下して山道に入るのですが、地図を広げて色々なルートを探ってみました。

今回の宮崎行きにあたってはグリーンツーリズム協議会の招きなので宮崎県地域農業推進課の担当者から様々な情報を入れてもらいました。日向市や延岡市から入るルートは度重なる台風被害によるものなのでしょうか、工事のための時間規制があって中々上手く行けそうにもありません。

 そこで考えたのが三崎町から佐賀関にフェリーで渡り竹田市を経由して裏側から椎葉村に入るという案です。海の上に国道が走るこのルートだとフェリーの時間が一時間余り短縮できますし、このルートは途中まで走ったことがあるような気がするからです。今日は7時30分まで大学の講義日なのでそれからの出発になる関係で時刻表を調べ10時30分発のフェリーに乗るべく予約の電話を入れました。ところが今の時期は一隻が定期検査のドック入りとかでこの時間は運行されておらず、結局は11時30分の予約となりました。出だしからつまづいた感じですが、帰りの便も予約をして準備が整いました。

 宮崎県椎葉村は日本三大秘境にも数えられる平家の落人伝説の地です。今だから車で簡単に行けますが昔は隠れ里ゆえに様々な歴史と文化の残る素晴らしい所です。

 かつてわが家にも逗留したことのある旧友河口吉弘さんの顔を思い出し、役場に電話を入れました。電話に出た方から「河口さんは今春退職されました」とのことで、電話番号を聞いて夜電話を入れてみました。嬉しいいことに電話に出て、昔の話に花を咲かせました。まだ定年には2年もあるのに辞められたとのこと、宮崎を代表する方のお一人なので惜しい気もしますが、まあ人生色々だからと椎葉村での再会を約束しました。

 旅馴れている私は年中旅をします。故に事前にこんな準備をしたことは殆どありません。今回ばかりは車での旅ということもあって、妻の心配は尽きません。しかも深夜の走行は体にこたえると反対しましたが、言うことを聞かない私ゆえ結局は妻が折れてしまいました。まあ「狭い日本そんなに急いで何処へ行く」てな感じで今回も旅を楽しみましょうか。

  「二度三度 訪ねし椎葉 久しぶり 思い巡らす 地図上の旅」

  「あの人は 元気でいるやら 浮かぶ顔 歳もとらずに 昔のままで」

  「今頃は デジカメ友の 一人旅 俺も随分 変わったものよ」

  「いい所に 行けてあなたが 羨まし 妻に反論 俺は仕事だ」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○未公開施設の公開

 人間牧場第三期工事のツリーハウスについては、工事の推移をその都度紹介していましたが、足場も退いて防腐剤ペンキで化粧したツリーハウスの内部は紹介していなかったので、幾つかを紹介しておきます。

 ①生きた床柱

 ツリーハウスの由縁は木の上に家を建てる方法と木を室内に取り込む方法がありますが、人間牧場では木の立場に立って重い荷物の家を背負わさない後者の工法を選びました。生きたままの杉の木を室内に取り込んだので、まるで生きた木の床柱のようです。したがって畳三畳分の狭い室内の主要部分をこの木が独占しているような錯覚を覚えますが、生きた木に向かい合い木と語るまるで禅の修業場所のような感じがします。このツリーハウスのスポンサーは私が代表を務める21世紀えひめニューフロンティアグループと長年物心両面で私たちのグループを支援していただいている関奉仕財団です。

 最初この杉の木は7本の株立ちでしたが、屋根の始末や棟木の角度を確保するため工事の段階で比較的小さい3本の幹がご覧のようにあえなく伐採しました。残念ですがそれを含めた7つの教えとして付加し、大切にしたいと思います。

 ②四つの扉

 入り口に半間の引き戸、西・北・東に小さい窓が造られています。いずれも外壁の杉板鎧張りと同じで、外から見ると窓の存在には気付かないよう工夫されています。窓は押し上げ式で木のつっかえ棒を差し込んで開けます。

 これは西側の窓ですが、巻き込み式の手作り網戸兼ブラインドが棟梁手作りで設置されているのです。中々お洒落な雰囲気です。4方の窓を開けるとかなり採光が差し込んで明るい部屋です。この部屋にはあえて電気は引きこみません。むしろランプのような時代遅れな人間の文明で使うつもりです。

 ③3本の根上がり杉

 ①で紹介した株立ち杉の木には根元から不思議な枝がまるでタコのあしのように3本出ています。何かの拍子で芽が出て枝になりそのまま放置されて育ったのでしょうが何とも奇妙な光景です。

 この杉の枝は生きた床柱とともにこのツr-ハウスの名物になりそうです。水平線の家といい、五右衛門風呂といい急峻な地形を活かしたため下から見るとまるで2階建てのような雰囲気で、味のある施設に仕上がりました。

 周りにはハゼの木が沢山自生しています。そのハゼの木もカズラに巻かれて息絶え絶えと言ったところなので丁寧にカズラを切ってやりたいと思っています。海岸線は標高が低く暖地なので秋の紅葉は期待できないのですが、ハゼは何故か見事に紅葉します。秋を演出する工夫を凝らしたいものです。

 このツリーハウスにはまだ名前が付いていません。みんなの意見を聞くと人もめしそうなので、私の考えている名前に落ち着きそうです。行く行くは下の往還道路に小さな吊り橋でもかけるとアドベンチャーを楽しめるかもしれません。いずれにしてもいいツリーハウスが出来ました。日浅棟梁さんや協力してくれた様々な人にありがとうといいます。

  「七本の 枝が残った ツリーハウス 僅か三畳 杉と語りぬ」

  「四方窓 開けて周りを 見渡せば 緑と青が 程よいほどに」

  「踏みつけて 出来た畑の 細い道 ぬかるみ足を とられ懐かし」

  「家の下 まるでタコ足 枝が出て みんな関心 覗き込むよに」

[ この記事をシェアする ]

shin-1さんの日記

○蚊帳の装着実験

 畳20畳敷きもある超大型の蚊帳を寒冷遮を使って製作しようと試みて早くも3日間が過ぎました。多くの人の協力や手伝いもあって完成しその装着実験を行いました。水平線の家の脱煙装置を見てオーム真理教のサティアンではと勘ぐった人には、何教かは忘れましたがウエーブとかいう宗教団体が何やら白い布で施設を覆った再来かと言うに違いないと思いながらも、今週末の逆手塾に間に合わせようと夜を徹して造った労作にして大作の蚊帳なので、失敗は許されないのです。

外にしつらえたステンレスの骨組みにすっぽり被せて見ましたが、中々の出来栄えです。結果的には横幕を裁断もせずに縫い合わせていったので奥行きがほんの僅か足らなくなりました。その様子を中から見ればご覧の通り立派な出来栄えです。

 今日は孫と二人で朝から人間牧場へ出かけ、足らなくなった横幕に、昨日買ってきた寒冷遮を接ぎ足す作業をしました。家からミシンを運び、生地を裁断してかがりながら縫い合わせてゆくんです。孫は「おじいちゃん手伝ってあげる」と、頼みもしないのに様々な作業に首を突っ込み、すっかり足手まといとなってしまいました。「おしっこ」、「ウンコ」、「お菓子」、「ジュース」と親がいないことをいい事に私にねだって、結局はその都度作業が中断するのです。仕事が終わった頃関西汽船の浜田さんから一報が入り迎えて今日の作業は何とか終了しました。完成してからの装着実験はしていないのですが、多分バッチリではないかと思います。この大きな蚊帳、ステンレスの骨組みも含めるとかなり高いものになりましたが、それでも息子と二人で様々な試行錯誤を繰り返した結果出来上がったので喜びも一入です。

 中学校の家庭科で触りはしましたが、この歳になってミシンの使い方も始めて妻の手ほどきを受けましたし、久しぶりに漁師をしていた頃の網仕立てに似た作業をやりました。

 蚊や虫が来るのは自然が豊かだからと思っていましたし、今もその考えに変わりはありませんが、水平線の家の快適さを追求するにはやはり虫を寄せ付けない防備が必要なのです。一番虫の嫌いなのは孫で、先日地元の人を招待した時などは眠気をもよおしていたこともあって、虫が来る度にワアワアわめきたてるように泣きました。これで孫も少しは落ち着いてくれるものと、ミシンで縫いながら虫の話をしてやりました。

  孫の手を 借りて二人で 蚊帳を縫う 足手まといで 先へ進まず」

  「ミシンなど 見たこともない 孫の目が 縫い目追いつつ 眠気催す」

  「懐かしき 蚊帳をつりたる 思い出に 浸る私は 時代が古い」

  「ふと鏡 見ればすっかり 日焼けして 百姓顔に なってきました」

[ この記事をシェアする ]