shin-1さんの日記

○勧奨退職の決断

 この歳になると私の元へは色々な人生相談が持ち込まれます。夫婦の折り合いが悪い離婚騒動とか、体調が悪く病院に行ったらうつ病と診断されて休職したいとか、はたまた仕事を辞めたいとか、一見幸せそうに見える人が深い悩みの淵に立って悩んでいるようです。私には離婚の経験もうつ病になったことも、仕事を途中で辞めたこともない未経験者なので、本当にその人の気持ちを汲み取ることは出来ませんが、それでも一緒に悩み一緒に解決しようと、糸口を探すくらいなら出来ると思い相談に乗るのです。

 何年か前、子供のいない役所に勤める晩婚女性からある相談を受けました。その女性の夫が脱サラして新しく募集している公共施設で食堂を開きたいと言うのだそうです。それなら私も一緒に夢を追おうと役所を退職したい旨の相談でした。夫の会社は民間で小さく退職金などなく、女性の退職金をつぎ込んでの出発になるとの話や、公共施設の目指す目標・集客などがはっきりしない今の決断は危ないから、私の友人にリサーチを頼んでみる事でその場は別れました。友人のFS調査によると目標や集客数値予想は惨憺たるもので、残念ながら赤字になる結論が出たのです。私のこの資料に女性は驚きましたが、その夫はの意志は固く結局その方向に走ってしまいました。しかしその女性は「夫こけたら妻こけるでは元も子もないからあなただけは今の仕事を続けなさい」という私の忠告を守り職場に踏みとどまり、土日や祭日に裏方として援助をしているようです。先日気になってその女性に会ってみました。開口一番「あの時若松さんの言葉がなかったら私は職場を辞めていたでしょう。今の夫の仕事は若松さんの調査どおりの結果で、夫も今は後悔していますが、かなりの資金を借金で投資したこともあって止めることは出来ません。土日も祭日もない働きがどれ程大変か、今になって分りました。でもそのことが随分人生勉強になり今の仕事に生かされていますので、まあそれが救いでしょう」と胸を撫で下ろしていました。

 「若松さんのような自由な人生が送りたい」と今の私を見て誰もが言います。私は今の自由な人生に満足し自由な人生を見せびらかせていきているのですから、周りの人はそう思うに違いありません。しかし今の自由を手に入れるまでには35年間の涙ぐましい努力があったことを知る人は少ないのです。何かの壁にぶち当たると人はその場から逃げ出したくなったり辞めたくなったりするものです。その時「ちょっと立ち止まって」自分を見つめたり、親しい人のアドバイスを貰うことは道を誤らないで済むことになるのです。

 行政が人余りの手段として打ち出した「勧奨退職制度」は少なからず行政に働く人たちの間に波紋を投げかけています。小さな田舎町の役場で親方日の丸で過ごしてきた人が、平成の大合併という思わぬ黒船来航によって心が乱れ、「本庁で仕事をしなければならなくなったり、難しい職責に頭を悩ますのだったらいっその事辞めたい」と思うのは無理からぬことです。でも給料が安いと不満を言ったって役所の給料を別の働く場所で稼げるほど世の中は甘くないことをしっかりと認識しなければならないと思うのです。

 先日「あなたの日給や時給はいくら」と役所の職員に尋ねたら「月給なので分らない」とう答えが返ってきました。今社会では時給800円から1000円程度でしょうか。800円だと8時間で日給6400円になります。1ヶ月に20日働くとして月給128000円です。勿論ボーナスも退職金もなく休めばお金は貰えません。年収を12ヶ月で割ると月給が、月給を30日で割ると日給が出てきます。時間中にお茶を飲んだりタバコを呑んだり、休みも給料として出ていることを思えば、何と恵まれた環境にいるかお分かりでしょう。

 さああなたはこれでも勧奨退職で別な道を進みますか。

  「恵まれた 場所にいるのに 恵まれぬ 不平不満は 次から次へ」

  「給料と あなたの仕事 シーソーに 乗せてください 重いのどっち」

  「辞めたいと わがまま言う奴 すぐ辞めろ あなたの変わりは 幾らでもいる」

  「あの時の あのアドバイス なかったら 私辞めてた よくぞ辞めずに」

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shin-1さんの日記

○ハイビスカスの花が咲く

 わが家の家の周りには人知れず咲き人知れず散ってゆく花々があります。敷地の広い我が家では親父が中心になって庭の手入れや雑草取りに余念がありませんが、親父はやり始めると夢中になってやるものですから、やり過ぎて体調を壊してしまうのです。そのことが心配で妻が親父に「あまり無理をしないように」というと親父の機嫌が少し斜めになるようです。昨日も裏庭のつつじの剪定をしてその剪定かすを運ぶのに難儀をしたようでした。私も少しでも草を引こうと外に出る度にしゃがんでは草を抜き取るのですが、夏草の勢いは凄く活発ですぐに草だらけになるのです。

 日ごろは何気なく通り過ぎる庭ですが、今朝外のプランターにきれいな花が咲いているのを発見しました。忙し過ぎて花など観賞する暇もなかったのかも知れませんが、私が手伝って春に植えた花々が今が見ごろと主張しているようです。

 この花はハイビスカス、今朝大きな花を咲かせました。南の沖縄やハワイに行けば何処にでも見られる花ですが、わが家の玄関で「見て見て」といわんばかりにど派手な咲き方です。妻が先日旅先で買ってきたものでしょうが、特価で50円だったらしく早くも500円の元は取ったと大威張りです。でも私が植えたプランターも中々の出来栄えでいい花が次から次へと咲いています。

 「どうです。きれいでしょうが」と私も花に変わって言わんばかりにデジカメを取り出して早朝撮影と相成りました。カメラを向けていてハッと気がついたのは雑草を抜くのを忘れていて花と一緒に写ってしまったこと、そしてそのカメラの向こうにひょろひょろと伸びたカサブランカが2輪の花を咲かせているのです。このカサブランカは広島の友人から3年前に送られてきたものですが、世話もせずに植え替えだってしないのに今年も花をつけたのです。嬉しくなってパチリ一枚撮りました。

 カサブランカは香りが独特で鼻を近づけると爽やかな花の香りが漂ってきました。来年こそは忘れずに植え替えて送って貰った友人に感謝の手紙でもと思いきや、「あっ、しまった。私のブログを友人が毎日読んでる」と気がつきました。「まあいいか」と思いつつカサブランカの花を一枚ブログに載せてしまいました。

 花は美しく見ていると飽きません。これからも花の命は短いのですから、しっかりと鑑賞したいものです。その前にしっかりと手入れを忘れないように心に誓いました。

  「庭の隅 私見てよと 花が言う デジカメ取り出し はいはいポーズ」

  「忘れてた カサブランカの 存在を それでも花は 今年も綺麗に」

  「やっとこさ 花を見るよな 心境に なった自分が 面白おかしく」

  「さも自分 手入れしている 顔をして 綺麗でしょうと 自慢たらたら」

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shin-1さんの日記

○夏至だのに日が長いって感じない

 昨日は一年中で一番昼が長い夏至でした。年末近い冬至から比べると夕暮れは2時間半も違うし、朝だった2時間くらい違うのですから、外が明るい間働こうと思えば滅茶苦茶長く働けるのですが、人間の体力が持たないのか相変わら朝8時30分に始業して5時には終わるというキリギリスのような働きを誰もがしているようです。毎日24時間のリズムで動いている私たち人間にとって与えられた時間は誰も同じなのに、そして私自身にとっても冬も夏毎日も同じなのに長くも短くも感じるのはやはり体内の心の持ちようではないかと思うのです。

 この数日自由人といいながら日程が立て込んでいて昼が長いのに一日がアッという間に過ぎていくような錯覚にとらわれています。多分今日も、昨晩娘の夜勤の都合で泊まりに来ている孫を松山の幼稚園に連れて行き、午前中は日銀松山支店で金融広報アドバイザーの研修会に出席し、午後1時からは教育センターで10年教員相手に講義を行い、それが終わると高速道路をひた走り、夜は岡山県和気町で合併記念セミナーでまちづくりの講演をするのです。本来なら今晩はゆっくりと旅先で宿泊すればよいのでしょうが、明日半日が潰れるので、引き返して来るのです。

 普通の人では考えられないこんなスケジュールで動いている私を見て、セミリタイアした人とは思えないと誰も驚きますし、妻は「若くないんだから余り無理をしないようにユックリズムで」と足を引っ張るのですが、当の本人の私は以外と平気でむしろこのスリルを味わっているような錯覚にとらわれています。このパワーは一体何処で育ったのか自分にも分らないのですが、多分長年の行動パターンが私の体内時計に組み込まれているのだと自分で納得しています。人間牧場の建設を思いつき実践に移してからこの一年間はそれまでの室内会議の数がめっきり減り、教育長という責任からも解放されて屋外で農作業することが多くなって体力的にも自信がついたためでもあるようです。風呂上り自分の体を鏡に写してみると一目瞭然で、体重は55キロと痩せたままですが顔は日焼けして、腕や胸も昔漁師をしていた頃のポパイ気味の体には程遠いのですが精悍な体つきに変身しています。

 体と心のバランスがとれている時は一日の暮らしが充実し、疲れを感じさせないようですからひょっとしたら61年間生きてきて今が一番心と体の安定があるのかも知れないと極力幸せ感を回りに感謝しながら生きていくように心がけています。戸主たる私の安定は家族の安定にもつながり、少し痩せたいと努力している妻も、体に少々不安を抱えるようになった親父も、勉学者就職活動などに悩む息子も、人からみれば大した悩みでもなくそれなりに日々の暮らしを楽しんでいる様子なので目出度し出酢。

 今日から猫の目くらい少しずつ昼が短くなって行きますが、せめて昼が長い分充実した暮らしをエンジョイしたいものです。

  「長い昼 感じもせずに 日が暮れる 無意識過ごす 本当は幸せ」

  「リタイアを しても驚き 超多忙 それでもウキウキ いいね納得」

  「風呂上り 自分の体 鏡見て まるで骸骨 理科室見本」

  「穏やかな 日々の暮らしに 感謝して 今日も一日 働く喜び」


 


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○岡山倉敷への旅

 前日の午前0時過ぎに出張先の高知県四万十市西土佐から帰って軽い食事を取り、軽い眠りの早朝5時妻と二人で夜明けの伊予路を高速道路にのってただひたすら岡山県倉敷を目指して突っ走りました。倉敷での講演依頼があったものですから、不謹慎ながら妻に休暇を取らせ同行する事になったのです。自由人になった昨年からこれまでに島根県隠岐の島、鳥取県倉吉市などへの旅はまさに一石二鳥で同行二人の二人旅を楽しんでいます。今回も妻に話したところ倉敷への憧れもあって同行しました。

 初夏の早朝はすがすがしく、普段車や列車で何気なく通っていた瀬戸大橋の景観は素晴らしく、途中休憩のために立ち寄った余島パーキングエリアは散閑としていましたが橋をバックに写真を一枚撮りました。

 眠い目をこすりながらの妻はそれでもハイポーズって感じです。これまでの35年間の夫婦暮らしでカメラなど妻に向けたことは殆どありませんでしたが、最近はまるでモデル撮影会のように写しまくっています。

 講演は午後2時からなので鷲羽山ハイランドに立ち寄り、カーナビの示すまま倉敷の美観地区を訪ねました。早朝なので人通りもまばらで爽やかな空気を吸いながら清掃の行き届いた街中を散策しました。

 柳の新緑も随分濃くなって水面に映える姿は何とも風情があるものです。妻をモデルにハイ一枚です。ホテルの地下にあるレストランで朝食を食べましたが、これがまた美味で妻は「このところ随分いい食事に出会う」とご満悦でした。

 さて朝飯も食べたし何処へ行こうか当てもなしといったところで、吉備津神社をカーナビでセットすると案外近いので狭い参詣道路を走りその壮大な規模に二度三度びっくりし見学しました。あいにく本殿は解体修理の真っ最中で見れませんでしたが、本殿へ続く長い屋根付き参詣道は威風堂々の構えをしていました。

看板にアジサイ園があることを見つけ訪ねてみました。

 長い石段の両側にきれいなアジサイが今を盛りと咲き誇っていました。残念ながら花つきは今一でしたが、散水の水に濡れたアジサイは妻と同じくらいまぶしく感じられました。

 すぐ下の池のほとりには菖蒲の花がこれまた美しく思わずパチリです。

 今年は八十八ヵ所参りも再会し桜や石楠花や藤の花の美しさを堪能したばかりなので、花の季節を意識しない旅ながらこうして花の満開にめぐり合うのも嬉しい出来事です。

郊外の厚生年金センターが講演会場なのでそろそろと思いきや、見慣れた国分寺の五重塔が目に入り、風土記の丘周辺を散策する幸運にも恵まれました。

 僅か一日のついでの旅はここで終わり、いよいよ仕事の講演です。先方主催者の都合でプログラムが変更され、1時間も待たされるハプニングに少し緊張の糸が切れ掛かりましたが、それでも存分に活躍し、再び同じ道を引き返し、帰りは川内のインターチェンジで降りてていれぎの湯で一風呂浴び、良い旅は終わりました。目出度し目出度しです。

  「風薫る 吉備路をふたり 巡り来て 束の間の旅 花が出迎え」

  「カメラなど 向ける暇など なかったな 写真に写る 妻はまあまあ」

  「二人旅 始めてからは 妻少し 痩せよう努力 成果表れ」

  「岡山は 晴れの国だけ あるわいな 梅雨の盛りに こんなに晴れて」 

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shin-1さんの日記

○わが村は美しく・玖木(20-1)

 「若松さんですか。第一回目の集落講演会を6月15日に行います。6時ごろまでに西土佐総合支所へお越しください。遠方なのでくれぐれもお気をつけて」と人懐っこい中脇係長さんからの電話の通り、長浜~大洲~城川~日吉~三間~松野~西土佐のコースをのんびりゆっくり出かけました。夜来の雨で肱川や四万十川はかなり増水し濁流が勢いをつけて川下へ流れていました。午後からは心配した雨もあがって時折青空も覗くほどになっていました。出かける朝和田産業課長さんから、飯でも一緒に食べようとお誘いがあり、少し早めに到着して小高い丘の上の星羅四万十というお洒落なレストランで支配人の土居俊雄さんと名刺を交換し篠田さんを交えて少しの間楽しいおしゃべりをしました。

 夕闇迫る頃いよいよ出発です。産業課が主催だというのに、教育委員会や総務課、企画の若い職員が4~5人同行して勉強させて欲しいとのこと、中脇係長の意気込みを感じ車中は賑やかな論議に花が咲きました。途中民宿舟母というかお馴染みの店によってあいさつしましたが、小さかった子ども大きくなり若い夫婦やおばちゃん夫婦も息災との近況を聞いて安心しながら、濁流に沈んだ沈下橋を避け大きな橋を渡って黒尊川沿いを登って行きました。

 訪れた玖木地区は戸数が20戸以下の小さな集落です。廃校になって既に久しい跡地に集会所はこじんまりと立っていました。少し時間があったので周辺を散策しましたが、かつて学校の子どもたちを見守ったであろう桜の木やメタセコイア木がうっそうと小さな運動場跡地を囲んでいました。集会所の入り口には門柱が立っていて今は苔むしていますが「玖木小学校という文字が印象的に残っていました。

 この校門をくぐって何人の子どもたちが学校へ登下校したことでしょう。運動場の隅に古いレンガづくりの焼却炉を見つけました。またそのすぐ隣には鎖を取り外されたブランコの柱だけが赤錆びて寂しく立っていました。ギーコギーコ音がしたのでしょうね。

 ふと見上げるとそこには廃墟と化した教員住宅が朽ち果てるのを待つようにひっそりとありました。玖木のこれらのものは全て近代化遺産で歴史であり文化であるのです。記録にとどめたり写真にして残すこともしているのでしょうが、大切にして欲しいものです。

 玖木の会場は僅か20戸以下なのにこちらから行った人を含めると20人を越えて中々賑やかな会となりました。私の話は①田舎嘆きの10か条をベースにしながら1時間半の話をしました。亀ちゃんだの日ごろ呼んで名前で呼び合う和やかさであっという間に時間が過ぎました。底抜けに明るい人たちにコミュニティの深さを感じましたが、ここでもやはり過疎と高齢化、それに地域の活性化が大きな課題のようでした。私のような人間が外から入ると、活かしたい地域資源がゴロゴロ転がっているように見えました。このお宝をどのように生かすかはこれからの仕事でしょうが、みんな歳をとってきて悠長に、ジョージアのコマーシャルではありませんが「明日があるさ明日がある」なんて考えずに、出来ることから始めないと時間がないのです。

 奥屋内へ行く途中玖木の区長さんに家の前でお会いしました。この人は只者ではないと思いました。ご覧下さい。カーブを回るといきなり山の中の狭い道沿いにこんな美しい花壇があるのです。これは区長さんは自から種を蒔いて育てた花々だと聞いて二度びっくりです。

 家の前なので当然だと笑って話していましたが、凄い美的感覚と行動力です。人の上に立つものかくありたいものです。区長さんのお家の下には黒尊川の清らかな流れとミニの沈下橋がありました。いい山村の風景でした。小さい声で「ここだけの話だけれど天然の鮎が遡上します」と川面を指差しました。確かに黒い鮎の群れが泳いでいるように見えました。区長さんの遊び心は田舎暮らしにとって最も必要なことなのです。人の暮らしをねたみ、人の暮らしをうらやんでも何の得にもなりません。どう生きるか生き方が問われているようですが、どうやらそのヒントは区長さんは見つけているようでした。

  「この村じゃあ 五十六十若い方 もう歳言う人 一人もおらず」

  「何よりも 驚くことは 村中に 笑い絶えない 日々の暮らしが」

  「門柱に つわものどもの 夢の後 記録残さば 朽ち果てしまう」

  「この村は その気で見れば 美しく 花の咲く庭 思わずパチリ」 

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shin-1さんの日記

○四万十川のふるさとへ・奥屋内(20-2)

 四万十川のふるさと旧西土佐村へ行くようになってはや二十年が過ぎました。最初は軽いつもりの出会いだった当時の若者たちも20年という歴史の重みでしょうか、そこここの職場で重要な役割をこなしながらむらづくりに励んでいます。二十年の時の流れは人々の暮らしにも大きな変化が見られ、予想だにもしなかった平成の大合併によって西土佐村という自治体はなくなり、総合支所という体裁のいい繕いで行政が行われています。また四万十川の流れにもこれまた大きな変化が現れて、昨年と一昨年の台風で端々の川や山林は目を覆いたくなるような散々な荒れようです。多分行政の支所化に伴ってこうした災害の復旧は完全には出来ないのではないかと思って寂しく感じるのです。でも西土佐村に住む人たとの暮らしは穏やかで相変わらずの心の優しさで私を出迎えてくれるのです。

 少し早めの村入りだったので、今まで訪ねたいと思いいつつ訪ねていなかった江川崎の駅に行きました。鉄道から車社会への変化の波をもろに受けて駅周辺は散閑としていました。行政が作ったであろう「列車に乗って予土線を守ろう」という看板が空々しくもむなしく目に映りました。江川崎の次の駅が「はげ」だそうで、思わずバラエティ番組に使えそうだと一人にやりしたのです。列車の線路も引込み線や対向線は使われなくなってすっかり赤茶けて錆びつき一層寂しさを増幅させていました。

 この風景は私の好きな風景だったので思わずカメラを向けました。線路の向こうに長い鉄橋が見えました。何処か懐かしい少年の頃の思い出のひとコマです。駅舎に入り列車の時刻表を調べましたが、まだ列車の通過には時間があるので残念ながらマッチ箱のような一両立ての列車が鉄橋の上を通る写真は撮らず終いで駅を後にしました。

 中脇さんと役場で落ち合い、夕食のために川沿いの大好きなポイントにある岩木食堂へ出かけました。日替わり定食を頼んで話し込みながら直ぐ下を流れる四万十川を見ました。4日前に訪ねたときは夜来の雨で増水して濁流が音を立てて流れていましたが、水はすっかり澄み渡り元の静けさや美しさを取り戻していました。

 四万十川には沢山の橋が架けられていますが名物の沈下橋以外にも好きな橋が沢山あります。その一押しは岩木食堂の前の赤い橋で、少しペンキが剥げて赤錆が目立つようになりましたが西土佐のシンボルのような感じさえするのです。

 西土佐村から中村へ向かうため、あるいは村内散策の途中で何度この橋を渡ったでしょうか。やはりこの赤橋も私にとっては思い出橋の一つなのです。この日は梅雨の晴れ間の一日で今年一番の暑さらしく、食事をいただきながらテレビを見ていると江川崎では32.2度を記録して、全国3番目の暑さだと報じられていました。いよいよ四万十川にも夏本番が近づいてきました。

 中脇さんの運転する公用車に乗り込み一路黒尊川の上流にある今日の目的地奥屋内地区へ、4日前に訪ねた玖木地区の写真を雨のため撮っていなかったので補助取材をかねて道の途中だったこともあり散策しました。雨の暗がりで見えなかった玖木の姿にも侘しさと趣が感じられました。

 途中玖木の区長さんに偶然会って「今晩の集会にも行くから」と私に言うものですから、話の内容を変えねばと思いました。奥屋内は今度で2度目の再訪です。何故か建設会社の社長さん宅で飲んだことやと社協ヘルパーの節男君のことが思い出されました。彼はどうしているのやら・・・・。

 奥屋内で一番の気がかりは小学校の休校風景でした。学校をなくしたら地域が潰れるという危機感から止む無く休校という選択肢を選んだそうですが、朽ち果て破れたカーテンを窓越しに見ながら心が痛みました。学校の運動場も体育館も地域のコミュニティ活動で使っているからすごく手入れが出来ているのですが、そこここに人の入らない空気のよどみが施設の劣化を早めているようにさえ感じられました。子どもがいなくなり住民が高齢化する。この現実が奥屋内の地域にも静かに深くしのびよって、地域がなくなるのではという将来の不安にかられて寂しく感じられました。

 研修会には沢山の人が休校の小学校体育館に集まり、文字通り車座の話をしました。この日の話は①社会の変化の10年、②同じ高知に生きてる川村一成さんの百章としての生き方を中心に1時間半話しました。

会場の雰囲気もよく、講演が終わってから「名刺をいただけませんか」「今度人間牧場を訪ねます」「また今日のような話をしに来て下さい」と嬉しい反応がありました。是非そうしたいと思いました。

 帰り際、ここへ来る途中立ち寄った農家レストランで桧のわっぱを2個3千円で買った話をしたところ、その製作者が2合のご飯が入るわっぱをわざわざ自宅に帰って持参しプレゼントしてくれました。嬉しい出会いです。早速お便りを出すべく中脇さんに住所をメールしていただくように依頼し、暗闇の中を沈下橋を渡って岐路に着きました。片道125キロ、往復250キロは帰宅12時、少々きついがほのぼのです。

  「何年か ぶりに訪ねし 奥屋内 学校休校 カーテン破れて」

  「四万十の 流れゆるやか 変わらずも 人の暮らしは おいおい細りに」

  「このままで 朽ち果てるより もう一度 夢を形に 楽し

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shin-1さんの日記

○この道はいつか来た道

 人間牧場には何本かの道があって、農道市道が入り混じり来訪者を迷わせていますが、そんな車道以外に直線的につけられた歩道が一本あります。昔は大間道と呼ばれて人馬物流に使われていましたが、時の流れとでもいうのでしょうか車の普及によって使われなくなり、子どもの減少が拍車をかけて通学道路としても使えなくなって草に埋もれてしまっています。先日懐かしくなって歩いてみましたが、所々では石垣が崩れたままで危ない場所や草が背丈まで迫って歩くのに難儀をしました。

 この急な坂道を一人で歩きながらふと少年の頃の思い出が蘇ってきました。それは紛れもなく北原白秋の「この道」という歌の歌詞に書いている通りの思い出なのです。

  ♪この道は いつか来た道 ああ そうだよ アカシヤの 花が咲いてる

    あの丘は いつか見た丘 ああ そうだよ ほら 白い時計台だよ

    この道は いつか来た道 ああ そうだよ お母さまと 馬車で行ったよ♪

 学校から帰ると居間の黒板に「学校から帰ったら庭に置いてある背負子に肥料を一俵くくりつけているので、池久保の畑までかるって来るように・・・・。母ちゃんは畑にいます。と書いてあるのです。遊びたい盛りの若松少年にとってこのお知らせ版は憎くくてたまらないものでしたが、それでも従がって汗をかきフーフーいいながら山坂を登りました。今水平線の家がある畑にたどり着くと母は黙々と畑仕事をしていました。やがて夕方まで畑仕事を手伝うと今度は芋や麦を背負子にくくられ、再び母と一緒に下山するのです。足をガクガクさせながら途中に背負子を背負って休める石垣が何ヶ所かあって、休んでは家へたどり着きました。「ハーハー」言う母の息遣いと私の息遣いしか聞こえない細長い一本道は今となっては思い出の道になってしまいました。

 今朝は梅雨の晴れ間の好天に恵まれました。親父を下灘の診療所へ連れて行き、診療の合間を人間牧場へ行きました。海側の窓を全開きにして風を入れ、背もたれ椅子に横になってふと目に留まった作家田中澄江の「思い出の歌思い出の花」という一冊の本が目に留まり、開け読むと冒頭に「この道」が出ていました。早速水平線の家に置いてある4本のスズキハーモニカの中からAのハーモニカを取り出し吹いてみました。爽やかな音色が下に見える思い出の道に聞こえるように広がりました。いい音色です。いいふるさとの郷愁です。思わず感傷的になって死んだ母ちゃんを思い出しました。

 遠くに霞む島も見上げた空もあの日と同じ風景です。でもあれからもう半世紀50年もの時が経って、母は遠い国へ旅立ち帰らぬ人となっているのです。時折耳を劈くように鳴るカラス脅しの爆音がなければ、風のささやきも昔のままなのです。

 母は生きている。そう私の心の中に思い出として・・・・・。

 それにしても「歌は世につれ世は歌につれ」と言いますが、少年の頃を思い出す歌を知ってる私は幸せです。

  「この道は 口ずさみつつ 母思う 今は苔むす 道が恋しい」

  「亡き母は 小さい体で 荷を背負い 何度この道 行き来したやら」

  「背負い芋 おやつか主食 どっちかな 今なら芋は 贅沢食べ物」

  「この坂に 鍛えられたる 体にて 今の今まで 丈夫長持ち」 

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shin-1さんの日記

○父の日

 わが家には4人+2人の子どもがいます。+2は娘婿と息子嫁つまり義理の息子と娘です。昨日は警察官になって異郷に勤務する末息子を除いて5人が勢ぞろいして父の日の祝いに駆けつけてくれました。昨年秋に結婚した息子夫婦は息子嫁が選んで買った涼しげなシャツと帽子、娘夫婦は温泉の入浴券をそれぞれ持参しての参加ですが、看護学生身分の次男は何もなく朝から逆手塾に使った道具類をしまう私の手伝いとマッサージという勤労奉仕です。子どもそれぞれがそれぞれの身分に応じた形で感謝の意を表明してくれて、いつもながらの気配りに感謝しきりの一日でした。大学に勤める娘婿は妻の作った昼ごはんを食べて早々に引き上げましたが、久しぶりに昼からおご馳走を食べ、持ってきたものよりとって帰るものの方が多い手合いで三々五々引き上げて行きました。残った次男が「今日は温泉にでも行ってきたら」と勧めるものですから、夕方松山市内の温泉に出かけました。日曜日しかも父の日という誰が作ったのか分らない祝日とあって、郊外のレストランや温泉はいつになく活気があって、親子連れの姿が目立っていました。

 先月の母の日も同じようなパターンで祝ってくれた子どもたちに感謝し、幸せを感じながら何時になく神妙な話を妻としました。退職して約1年3ヶ月の暮らし方、無職になった私の役割、人間牧場の出来事、サンデー毎日といいながら忙しく振舞う私とお勤めを続けている妻の健康、子どもの将来、親父の暮らしぶりなどなど、とどめもなく四方山話をしました。

 一番の気がかりは同居の次男の将来と親父の健康です。次男は看護学校の5年生で今年が学生最後の年です。年齢的には遅いサラリーマンから学生への転身でしたが、彼なりに頑張って特待生になる幸運をつかみ授業料タダなので出費は極力抑えられましたが、この4年半のうち1年半は私の退職のこともあり、彼なりに金を使わない涙ぐましい努力をしてくれました。今年は国家試験で看護士の資格に挑戦するし、就職も考えなければなりません。既に警察官になっている弟や姉兄から小遣いを貰う気恥ずかしさやプライドもあるのでしょうか、この4年半で随分逞しくなりました。演劇も続けてのここまでの生き方は110点をやりたい雰囲気です。10年以上も乗ったパジェロミニがかなり古くなって車を買い換えなければならず、先日友人の勤める車会社に妻と息子が見に行きbBとかいう車を買うことに決めました。2百万円するそうですが頑張っている息子への高いプレゼントになりそうです。

 最近親父の衰えも目立つようになりました。88歳なので仕方がないことなのでしょうが、親父の姿を見るたびに私の将来を見ているような感じがします。やがて30年後には私も生きていたらこうなるのだろうという見本を見ているようです。親父の日々の暮らしは穏やかでつつましく、畑仕事と庭仕事、趣味の古物手入れが日課ですが、体の不調が少しずつ出始めているようです。何時までも長生きして欲しいものです。

 夫婦で長生きして親父の歳を迎えればこれに越したことはありませんが、妻が最近健康に目覚めました。食べ物や散歩などみのもんたの影響とは思えないほどの気配りです。体重が55キロに減った私の健康も妻の心配の種ですが、自分の健康も少し気になり始めたようです。

  「父の日は 幸せ感じる 反省日 子供のためにも 健康第一」

  「息子嫁 センスがいいね プレゼント 帽子被って まるでマネキン」

  「4人もと 生んだ頃は 思ってた 育ってみれば 多くはないね」

  「また一つ 峠を越えた 父の日か しみじみ思い 次の峠を」

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shin-1さんの日記

○植物の根

 菊に限らず植物は、健康でいい根を持っていれば必ず地上に生えた部分が生き生きとしています。植物を育てる私たちは何故か目に見える地上の姿ばかりを気にして、病気や害虫から守ろうと努力するのです。夏野菜がスクスク育つ季節になりました。トマトもナスもキューリも植えた頃のへなへな時期を過ぎて新しい根を張り始め今のところ元気に育っています。ところがこんな元気な野菜でも、特にトマトなどは突然青枯れしてしまうことがあるのです。植物には連作障害があって同じ場所に同じ作物を植えるとどういう訳か枯れてしまいます。スイカやトマトはそのことが顕著ですが、稲は連作が起こりにくいから日本の稲作が普及したのだと思います。青枯れのトマトを引き抜いてみると根が殆ど活動していないことに気付きます。何の作物もそうですがいい実りを期待するのなら健康な土作りから始めねばなりません。いい土には必ずいい実りが待っているのですから、根を育てるを基本にすべきと考えるべきでしょう。

 このことを人間の世界に例えて見ましょう。土はさしずめ家庭でしょう。いい家庭という土壌に親という根がしっかりと根付いていれば子どもという芽はどんどん成長し花をつけ実を結ぶのです。害虫や病気は一般社会と思えば説明がつきやすく、最近は社会の病害虫が無数にはびこり、あの手この手で誘惑をしてきます。時には台風のような大風も来るでしょうし予期せぬ地震にだって遭うのです。でも土壌家庭と根親がしっかりしていれば地上の幹葉子どもはゆるぎなく育ってくれるに違いありません。

 最近家庭と親のあり方が随分昔と違ってきました。数少ない核家族家庭が増え、愛情や切磋琢磨もなく一つ屋根の下にいながら個食・孤独・孤立の様相です。生まれて間もない抱きかかえて欲しい子どもは乳児院に預けられ、子育てではなく子預けの様相です。少し大きくなると知識偏重で塾通いさせ、感受性より偏差値しか評価基準を持たないのです。やがて育った子どもは根がいかれているから、時には青枯れだって起こすのです。

 今日本の悲劇は家庭という土壌と根という親の貧困さにあります。自然は正直なもので土壌と根がしっかりしていないと育たないというシグナルを私たち人間に発していますが、聞く耳を持たない人には通じないのです。教育基本法が出来てこの国が良くなるのなら教育基本法をいっぱい作ればいいのですが、その事を考え、いい家庭いい親を沢山作る運動を今からでも遅くはないのですから始めようではありませんか。

 親が子どもを虐待する異常な世の中を見るに付、あれは日本の将来の芽を摘む行為ではないかと思うし、親殺しは日本の過去を消し去る行為だと思うのです。誰かが気付き誰かが始める、そうすればすむことなのです。

  「俺は根だ 俺が元気だ 子も元気 親父も元気 家庭も元気」

  「友だちに メールで牛糞 注文す いつでもどうぞ 返信届く」

  「百姓の 真似事始め 気付くこと 以外と多く これが実りだ」

  「世の中は 日々一年の 繰り返し 失敗だけは しないようにと」



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shin-1さんの日記

○菊の実験からの学び

 「あなたは宝くじで一億円が当たったらどうしますか」と、若い頃にあるタウン情報誌の取材を受けたことがあります。私は即座に「買ったことがないので当らない」と答えてしまいました。先日書棚の本を水平線の家へ移動するので整理をしていたら、その記事の載った情報誌が出てきて、懐かしく読んだのです。その中に「あなたの夢は何ですか」というのもあり私は「将来人間牧場を作りたい」と書いているのです。西暦で逆算すると35歳のころの想いだと思うのですが、何とこの頃には早くも人間牧場構想が頭を持ち上げていた事になるのですから驚きです。その後すっかり忘れていたその夢はやがて50歳代になって再び頭を持ち上げ、嫁の実現に向かって動き出したのですから私という人間は自分ながら相当執念深い男だとしみじみ思うのです。でも「夢はドリームでなくターゲットである」という私の造語も、人間牧場を手に入れた今となっては素敵な響きにさえ聞こえ、夢を持つことの大切さを感じました。

 私はよく講演の中で「菊の実験」の話をします。これも若い頃の話ですが公民館の花いっぱい運動の一環で菊づくりの普及活動を公民館主事としてやりました。公民館の裏には所狭しと鉢を並べて菊を作り、ホルモン処理した菊苗を立てて要望に応じ各集落へ無償で配りました。勿論私自身も見よう見まねで菊を育てたものです。その折3本立ての菊を100鉢程作りましたが、7月になると背丈も伸びて支柱を立てる作業に追われますが、その折不思議な光景を目の当たりにしました。支柱が2本不足して3本の菊の一本だけに支柱を立てて、そのうち立てようと思いながらもついつい仕事に追われすっかり忘れていたのですが、1ヶ月も経って見てみると、支柱を立てた菊はぐんぐん伸びているのに一本は無残にも元から折れ、あとの一本はへなへななのです。私はその菊をそのまま放置してみました。結果的には一本の菊だけが生長して秋に花を咲かせましたが、人前をはばかる見苦しい姿となりました。あくる年、今度は同じ事を意識的にやってみましたが、結果は同じでした。私はその実験の模様を次のように結論付けました。

 「成長の同じ高さの3本の菊に一本だけ支柱を立てると結果はその一本だけが何故か成長促進します。支柱を立てた菊は支柱で固定され風雨で折れないばかりか支柱という目標が出来、その支柱に勝とうという無意識な意識が生まれるのです。物言わぬ植物でさえ目標という支柱を与えればこのような結果になるのです。ましてや百獣の王たる人間は押して計るべきで、目標を持つことの意味を私に暗示しているのです」。

 「菊の実験」は「カエルの実験」「氷の実験」とともに私の三つの教えとして、水平線の家の高座落語ならぬ楽語話のネタにしておきます。あなたもこんな実験をやってみて下さい。

  「もの言わぬ 菊さえ支柱 立てたなら 勝とうと努力 夢を持とうよ」

  「ドリームと 思いし夢が 実現し やれば出来るさ 夢ターゲット」

  「濡れ手粟 つかむが如し 宝くじ 買う人いるから 地域振興」

  「一億円 買わぬ私は 当らない 誰に当った 分らず終い」 

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