shin-1さんの日記

○珠算教育連盟からの講演要請

 私が講演に出かける度に妻は「お父さん今日は何処へ出かけるの?」と聞きます。その度に「今日は○○という団体(会社)に頼まれて講演に行く。帰りは○○時頃だ」と答えます。すると妻は追い討ちをかけるように「えっ、そんな団体(会社)に何を話すの」と聞き返します。再び私は「呼ばれたのだから仕方がない」と捨て台詞のような形で妻の追い討ちを断ち切るのです。

 今日もそうでした。「お父さん今日は何処へ出かけるの?」と聞かれました。私が「今日は全国珠算教育連盟愛媛県支部に招かれて行く。帰りは午後4時過ぎだ」と答えました。すると妻が追い討ちをかけるように「えっ、珠算連盟に行ってあなたが何を話すの?」と聞き返しました。再び私はいつものように「呼ばれたのだから仕方がなかろうが」と答えました。それでも妻は私の浅学非才を心配してか、「よくそんな所で話をするね」と呆れ顔でした。何度もそんな事を言われると「まてよ、私の話でいいのかな」なんて不安が過ぎりますが、それでも一度引き受けた仕事ですから穴を開ける訳にはいかないのです。妻の磨いてくれた靴を履いて「行ってらっしゃい」の言葉を背に受け出かけました。

 このところ、松前町にオープンしたエミフルという商業施設のお陰で、国道56号線が渋滞気味で時間が読めないため、少し早く出発しましたが、松山市内が祭日で空いていたためほぼ時間通りの到着となりました。

 今日の会場は久しぶりに愛媛文教会館エスポワールです。教育行政に携わっていた頃は頻繁に利用した施設で馴染みの職員もいますが、玄関に入るなり「お久しぶりです」と声を掛けてもらいました。あらかじめ到着時間を知らせていたので会長さん以下役員の方に玄関で出迎えてもらい食事までご一緒しました。

 今回は新聞社に勤める三瀬さんの紹介と三瀬さんの奥さんのお世話で招かれました。故に三瀬さんご夫妻に「恥をかかせてはならない」という、気負いもありました。また奥さんから「スライドでもご紹介を」と暖かいお誘いを受けていたものですから、いきなり紹介のつもりでDVDまで流してもらい、すっかり和やかな雰囲気で進行したのです。(実は今日予定していたのは双海町を紹介するスライドの予定でしたが、会場について手元のケース内を見るととんでもないDVDが入っていました。少し慌てましたが、ジタバタしても仕方がないのでさも用意周到なように見せかけ、そのDVDを流してもらいました。誠に失礼しました。

 私は元来、あらかじめレジメを作ったりしないため、その場の雰囲気に応じて話す癖があり、話が終わって帰ってからも、「はて私は今日どんな話をしたのだろう?」と思い出せないくらいなのです。でも会場の反応は上々で、「まあ、良かったか」くらいの自己満足をしているのです。

 今日は天候もよく、穏やかな初夏の日差しが照り注ぎ、部屋の中で過ごすのが勿体ないくらいに感じました。90分の講演を終り、勿体なくも謝辞までいただきました。謝辞に立たれたのは四国中央市の方で、今年2月17日に川滝公民館女性のつどいに招かれ講演した様子をケーブルテレビで見て、楽しみにしていたとの事、汗顔の至りです。それでも今日は何となくほのぼのとした集会でした。

 帰ると妻が「どうだった」と聞きました。「うん、ええ会じゃった」。「それは良かったですね。一安心です」と労をねぎらってくれました。

  「何処へ行く 講演に行く 何時帰る 終われば帰る いつも同じだ」

  「そんなとこ 浅学私 心配し 行くなと止める 妻の心配」

  「ケーブルで あなたの姿 見てました 会うの楽しみ 終わって言われて」

  「まあいいか 自己満足も 必要と 自分自身に 納得させて」


 

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shin-1さんの日記

○今年も大学の授業が始まりました

 地元愛媛大学法文学部総合政策学科の非常勤講師として、及ばずながら教壇に立ち始めて6年目の春を迎えました。最初は役所に勤めていたこともあって一年のつもりで始め、そのうち「大学だから4年間ぐらいはいいか」とズルズル引き込まれて6年目となってしまいました。妻はもうそろそろ引き時というのですが、若者と出会うことは自分の若さを保つためには必要と別に悪い気もせず、言われるがまま引き受けているのです。それでも年間60時間2単位を付与する大学にとっても学生たちにとってもテーマである「地域振興とまちづくり」は大切なテーマなので、手抜きをすることなく「私でしかできない」、しかも「理論でなく論理の教育」をしっかりとやりたいと肝に銘じているのです。

 今年から私は大学の求めに応じて夜間主から昼間主へ移ったため時間割が変更になりました。これまで午後6時からだったのが午後2時40分からになったのです。しかも毎週水曜日が毎週月曜日に変更です。土日に講演やイベントが集中する私としては明くる日の月曜日ですから体力的にはからりきついかなと思っていますが、これまでのように一週間の真ん中にセットされるよりはメリハリがついていいかも知れません。

 

 先々週先生たちで打ち合わせを行い、先週生徒たちにガイダンスを行って、希望調査に従ってそれぞれの先生たちに学生が振り分けられました。昨日は第1回目の授業ということで、レジメ資料を人数分コピーして法文学部の事務局職員に案内され、指定された工学部24番講義室という教室へ行きました。今までと違ってかなり広い教室が用意されていました。

 今年度の私の教室に割り当てられた人数は男性5人女性14人の計19人です。こんなに女性が多いのも始めての経験だし、夜間主と比べれば昼間主はどこか雰囲気が違うと思いながら出席簿順にお互い自己紹介をして講義を始めました。

 1回限りの出会いなので学生の資質についてはまだまだ掌握が不十分なところもありますが、2回生(一人だけ3回生)だけあって随分落ち着いた雰囲気で授業が始まりました。

 今年は合併して消滅した地域をターゲットにしてフィールドワークを組み立てて行く予定です。前期5回くらいは講義中心で地域づくりの予備知識を持ってもらい、2回くらいのグループワークで実態調査の事前準備をします。その後旧中島町、旧中山町、旧長浜町、旧双海町へ出かけ、離島地域、中山間地域、南予地域、漁村地域へ出かけて調査したものをレーダーチャートにまとめて中間発表を行います。

 その後は訪ねたい町と住みたい町の理想像を探りながらモデルをつくり上げるのです。そして最後にモデルの発表会やレポートを提出して評点となるのです。

 「楽しい」と「苦しい」を組み合わせた造語「たの苦しい」学習に何処まで迫ることが出来るかどうか、私にとっても地域づくりの現場で生かせるいい研究材料となるはずです。

 さあ張り切って頑張りましょう。学生さんたの苦しい学習を宜しくね。

  「学習の 社会も女性 優位なり 男性しっかり 小声に向って」

  「もう少し 前に寄ってと お願いし マイク使わず 自声で講義」

  「滋賀県や 広島県から 来た学生 親の仕送り 応えなければ」

  「この子らを 選んでくれた 先生に 感謝できるか? あるいは逆か?」

 

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○蒟蒻を植える

 人間牧場には春の訪れを告げるように蕗が今を盛りと茂っています。最近はこの蕗がえらい人気で、沢山の人が欲しい欲しいとやって来ては取って帰るのです。ふつう山に自生している蕗は地主の相談もなく誰かれなく取って帰るのが普通の山歩きの楽しみになっているよですが、本当は持ち主の許可を得なければならないのです。先日も畑に植えていたツワブキを殆ど取られたと農家の方は嘆いていましたし、私が人間牧場のロケーション風呂の入り口に風流を楽しむために植えているツワブキの新芽も昨日行って見るとごっそり引き抜かれていました。蕗も畑のあちらこちらに蕗を取ったと思われる葉っぱが散乱し、少し重苦しい気分になりました。

 昨日は久しぶりに妻と二人で大洲の温泉に出かけました。このところ叔父の葬儀などで忙しくてお互いお疲れモードなので午後から出かけました。帰りに迂回して人間牧場へ出かけ、先日種物屋で買った蒟蒻芋を植えました。何処へ植えるか思案しましたが、結局はイモヅルを育てている小さなハウスの横の畑に決めました。よそ行きの格好をしていたので、急遽人間牧場水平線の家に置いている農作業着に着替え、地下足袋を履いての作業です。地堀鍬で雑草を根っこから削り取り、鍬で掻き均しました。

 用意した蒟蒻芋の種は10個です。昨年野菜を植えた時使っていた細い竹を10本切り分け、芋を植える目印にしました。親父だと定規を使って杓子定規に植えるのでしょうが、アバウトな私は適当に間配って竹を差し込んでゆき、小さな穴を掘ってその中に植え込んでゆくのです。


 種芋は既に芽吹いて芋の中央からまるでハナワさんの頭のような芽がニョッキリ出ています。ここは赤土なので育つかどうか分りませんが10個も植えたのですから、何個かは育ってくれるものと期待をしているのです。聞くところによるとコンニャクイモは大きくなるのに4~5年もかかるそうです。この種芋は2年間育てられた芋なので、今年3年目になるようです。コンニャク芋には子どもが出来て、その小芋を掘り上げて種芋にして大きな芋を育てるという、まさにこれも命のプロジェクトなのです。うまくいけばの話ですがやがて人間牧場でコンニャクイモの増産が出来るようになれば、これまた蒟蒻作りの楽しいプログラムが楽しめると、取らぬタヌキならぬ取らぬ蒟蒻の味算用をしています。一個250円も出した種芋ですから大切に育てて行きたいものです。

 それにしても人間牧場の土いじりもずいぶん様になってきました。今年の春に植えたブルーベリーは早くも花をつけていましたし、昨年植えたスモモの木も少し花をつけました。多分生理落果で実をつけるのは来年くらいからだろうと思われますが、様々な植物がそこそこ育って人間牧場へ行くのが楽しみになってきました。

 そして楽しみといえばもうひとつ、孫朋樹と二人で育てているカブトムシの幼虫が先日何と土から顔を出していました。真っ白な肌をしている幼虫ですが、明日は朋樹がこのカブトムシの幼虫の話を聞きつけ休みなのでやって来ます。昨日は幼虫は腐葉土の下にもぐってしまって上には出ていませんでしたが、明日がとても楽しみです。

  「持ち主が いるのに蕗を 取り帰る 不平言いつつ 監視も出来ず」

  「蒟蒻の 芋を十個も 植えました 何時になるやら 食すまでには」

  「カブトムシ 白い幼虫 顔を出し もう直ぐ夏だと 言ってるように」

  「作物を 作る喜び かみ締めて 次はあれこれ 夢は広がる」

 

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○朝掘り筍と朝がかりの鰆

 「竹かんむり」に「旬」という字を加えると漢字の「筍」となります。それと同じく「魚偏」に「春」という字を加えると「鰆」となるように、筍も鰆も私が住んでいる双海町では今が旬とばかりに出回って、美味しい味を堪能させてくれています。

 昨日の朝、近所を散歩していると顔見知りの人に会いました。久しぶりに出会ったため「お早うございます」「お元気ですか」「お体の具合は如何ですか」などと月並みなあいさつを交わし、田んぼの話しなどをしていると、「筍要らんかな」というのです。見ると軽四トラックの荷台には今掘ったばかりの沢山の筍が乱雑に積まれていました。「この筍は今朝掘ったが、雨後の筍といわれるように、この時期は毎日竹林に行かないと直ぐに伸びてしまって困る」「掘る時は面白いが、今時はどの家も筍だらけで、掘っても金にならんし、毎日筍も飽きてしまって」と肩を落とし、「処分に困るからあげる」というのです。それではとお言葉に甘えて小さめの筍を2本いただいて両手に持って帰りました。多分同じような言葉が飛び交い、同じようなおすそ分けでいただくのでしょうが、このところ毎日筍の料理が食卓を賑わせています。筍の煮付け、天ぷら、八宝菜や酢豚、筍ご飯などなど、私も大好きですから美味しくいただいているのです。しかし筍をもらったお百姓さんがいうように、いくら好きでもこう毎日続くと少しうんざりもするのです。

 忙しく振舞う妻の少しでも役に立とうと、筍を包丁で縦割り半分に切り、皮を剥きました。すると何ともいえない筍の香りが漂ってきました。半分に割ると皮は意外と簡単に剥げてしまいます。一番下の筍の根の部分そぎ落とし、お湯を沸かした少し大きめの鍋の中に入れ茹でました。普通は米糠を入れるのですが、持ち合わせがないため、米の研ぎ汁を入れました。やがて煮立ってきましたが、かなり長時間、竹の菜箸を差し込むと自然に差し込めるほどに茹でました。そして火を止め冷めるまで蒸すのです。そうすると柔らかい筍が出来上がり、それを冷水で晒すと下ごしらえの完了です。わが家は親父を含めて3人の家族ですから、冷蔵庫にしまっておけば1週間分の料理の材料になるようです。

 今朝、少し大きめの鰆が一本届きました。馴染みの漁師さんが朝がかり鰆と自慢げに届けてくれたのです。漁師さんの話によると、この鰆は朝がかり、つまり夕方張った鰆流し網に夜早い時間にかかる鰆と、早朝網を引き上げる直前にかかった鰆では味が全然違うというのです。これは直ぐに妻が下ごしらえの処理をしたため、残念ながら写真に収めることは出来ませんでしたが、旬の鰆だけに丸々と太って脂の乗りも最高のようです。鰆は何といっても刺身が一番ですが鰆の味噌漬け焼きや、煮付け、それに鰆ご飯も捨て難く、昨晩の夕食は色々な料理が並んで、食べ過ぎるほどに食べました。

 筍にしろ、鰆にしろ、こうして地元で取れた旬のものをタダでいただいて食べれる事は田舎ならではの幸せです。田舎の暮しはある部分煩わしいい事もありますが、それを差し引いても都会の暮しでは考えられない幸福な暮しなのです。

 鰆をもらったので人間牧場で取ってきたばかりの蕗を一束差し上げました。早速奥さんから電話が入り「まあまあ立派な蕗を有難うございます」と鰆をいただいたのに反対に蕗のお礼を言われてしまいました。田舎では家にないものが値打ちなのです。

 春から初夏へ、季節は確実に動いています。筍も鰆も私たち家族の胃袋に納まり、日々の活力の源となっているようです。

  「今が旬 筍鰆 届く朝 田舎の暮らし 存分満喫」

  「今晩は 筍鰆 食卓に 思うだけでも 喉がなります」

  「お礼にと 差し上げ蕗の 礼言われ 鰆の礼を 失してしまい」

  「ああ美味い 連発しつつ 夕餉膳 囲みて夫婦 至福の時を」

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○夢工房の仲間たち

 私は若い頃から色々なグループに所属しています。それは学びの心を持っている証でもあるのだと自分をある意味納得させながら今日まで複数のグループ活動を平行してやって来ました。そのお陰で自分の小さな殻を破るに必要な異文化ギャップを味わうことができ、それなりの成長を遂げてきました。

 そんなグループの一つに夢工房という20人ほどの集団があります。中国では集団と集体を使い分け、集団は一味、徒党と約されるそうですが、悪巧みはしないものの、むしろ一味、徒党の方に近い集まりなのです。元々は県庁に勤めている高岡さんと私が研修所で知り合い、飲みながらみんなを巻き込んで勉強会をしようと発案したのが始まりで、次第にその数を増して今では20人ほどになっています。県庁職員と市町村の職員が殆どですが中には団体職員や民間の方もいて、昨日のようにゲストが参加することも度々です。

 始めた頃はどちらかというと酒飲みの集団でした。若さにものをいわせて深夜まで飲んだことも度々でしたが、そのうち勉強会に発展し飲み会の前にゲストの卓話を1時間も聞くほど熱心な集団に変身していました。若かったメンバーもそれ相応の歳になり、それ相応の役職につき、それ相応にリタイアをし始めています。そんな年齢構成ですから先行きが危ぶまれていますが、それどころか昨日も16人が集まるなど意気盛んなところを見せているようで、私もできる限り参加したいものだとこのグループの存在を力強く思っています。しかしこのグループは知能においても思考においても優秀な人たちばかりなので、私もうかうか加齢のせいにして怠けている訳にはゆかないのです。

 昨日は夢工房の仲間だ人間牧場へやって来ました。前回の例会で本当は金曜日の夜からやる旨決めていましたが、どうしても皆さんの日程調整がつかず、大型連初日である日帰り一日の予定となりました。例によって料理を担当してくれるわが妻は昨晩から仕込みをして当日は仕事を休む周到さです。いつもながら妻の協力に感謝しつつも、御託を並べて門具を言っているのは私なのです。

 12時30分、ふたみシーサイド公園に集合し、車を連ねて人間牧場を目指しました。人間牧場へ来たのは初めての人が多く途中はぐれて探したり、予定の時間に遅れてきた仲間がいたりと多少のハプニングはあったものの、何とか開始予定時間である午後1時過ぎには全員がそろいました。車を運転している人や飲めない人もいることから、多少盛り上がりに欠けるのではと思っていましたが、どうしてどうして、食べるほどに、飲むほどに、そして酔うほどに大いに盛り上がり、室内25畳、ウッドデッキ25畳、合計50畳の室内外は、時には大きく、時には小さく人の輪が出来、南西の風が途中北西の風に変わって少し肌寒く感じましたが、日没間近な午後6時まで延々と集会は続きました。



 

 この日は西予市の三好誠子さんもゲストで参加してもらいました。彼女はえひめ地域政策研究センターに投じの三瓶町から出向してまちづくりを担当した頃の顔見知りで、私の「ミレニアム2000年その日私は」という本の校正をやってもらった間柄なのです。この日は私の妻と二人だけしか女性はいないので、妻にとってもいい話し相手になったと喜んでいました。私はこの日の朝風呂を沸かしておきましたので、何人かが組になって足湯を楽しんだようです。三好さんと妻は仲良く足湯を楽しんでいました。わが奥さんもここでの足湯は初めてだと喜んでいました。


 

 残った料理は皆さんにそれぞれ持ち帰ってもらい、妻と二人で後片付けをしました。そのうち風呂のお湯を抜いてボイラーの電源を切り、西の空を見ると綺麗な夕日がポッカリ浮かんでいました。妻に大声でその事を伝え、二人で風呂場の近くから日本一と自認する夕日を拝観させてもらいましたがその美しかったことは格別でした。夢工房のメンバーにもこの夕日を見て帰って欲しかったと思ったものです。

 囲炉裏の灯が消えたか確認して電気を落とし、入口のカギを掛けて人間牧場を後にしました。この日は酒盛りの途中でしたが、私の落伍を皆さんに聞いてもらったり、高座本まで買っていただきました。

  「工房です 夢もつくれる この会は 私の夢も 幾つかここで」

  「もう歳と  口が裂けても いえません この会望み もっとでっかく」

  「急ぎ足 帰る人たち この夕日 見ずに残念 残り福あり」

  「足湯する 女の白肌 艶かし  写真にとって いいのだろうか」

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shin-1さんの日記

○庭の雑草

 私には女性の友人が沢山います。といって何も女好きだからではなく、色々なボランティア活動で知り合って、その後グループに入って一緒に活動したり、文通をしている人など様々で、その数は十指に余るほどなのです。その中にKさんがいます。Kさんは一人身です。今年の3月で勤めていた役所を定年退職し、再雇用でこれから2年間同じ職場で働くそうです。退職を前にした3月、偶然にも出会い、退職後の自由な時間を謳歌している私を横目で見ての感想なのでしょうが、公務員ゆえに今までの不自由と感じ続けて約四十年仕事をしてきた自分を振り返りながら、自由な時間への憧れを話してくれました。数日前退職のハガキが届き、文面にもこれまでを「大過なく」、今を「ホッとした」、これからを「自由に羽ばたきたい」と総括していました。

 一昨日、これまた偶然にも松山市内でKさんと出会いました。退職お礼のハガキが届いていたこともあって、立ち話も何だからと近くの喫茶店に立ち寄り、お茶を飲みながら色々な話をしました。退職して1ヶ月が来ようとしている今の心境を、自由な心、不自由な職場、体の不調、襲い来る将来への不安などについて話しをしてくれましたが、いずれも一人身の自由さやわがままなどが垣間見え、どこか寂しい一人の女性の側面を見ました。

 Kさんは10年前マンションを購入しました。今まで住んでいた一戸建ての家は近所づきあいが煩わしく、加えて庭木や雑草の手入れが大変で、仕事をしながらそれらをこなしてゆく自信がなくなっての決断でした。いささかの蓄えと退職金を前借した資金計画を立て順調に償還していましたが、ここにきて退職金の殆どで繰上げ償還する決断をしたそうです。しかしマンションという資産は残りましたが、将来への蓄えは確実に減って、年金支給開始の65歳までどうしようかなどと、再雇用の切れる2年後からの経済的な不安を語っていました。「金の食べ物を食べる訳じゃあないのだから、あなたの暮しは大丈夫」と勇気づけましたが、いつの時代もどの人も金にまつわる悩みは多いようです。

 彼女はマンション暮らしなのでこれまで煩わしいと思っていた庭木の剪定も庭の雑草を引き抜くこともなくなりました。ドアを閉めればそこは誰からも束縛を受けないプライベートな部屋なのです。マンションゆえセキュリティも完璧で、防犯上は何の心配もなく観賞用の緑もあるし、バリアフリーだから何の不足も無いそうです。しかし加齢にしたがって一人身の不安が出始めたようです。これまで欲しいと思っていた自由時間があり過ぎて、またこれまで楽しく付き合っていた友人とも少し距離を置くようになって、ふと夜中に目が覚め、「もし私が心臓麻痺などで死んだら何日も分らないかも」何て考えることがあるといっていました。追い討ちをかけるように肥え気味の体の足腰不調がこれまた不安だとも・・・・・。金にも困らず何不自由ない極楽トンボと思っていた人にも悩みはあるなあと、思ったりしました。

 わが家では春の訪れとともに660坪の広い敷地の、庭のあちこちには雑草が生え始めこれから半年は私と妻とと親父三人の住人が雑草と格闘しなければなりません。加えて90歳の親父は庭木の剪定や家庭菜園の除草という重労働が待ち受けています。ある意味そんな煩わしさのないKさんのようなマンション暮らしへの憧れもありますが、春夏秋冬という季節の変わり目のメリハリがついて、何処となく生きているという実感が湧いてきます。

 今朝も起床して直ぐに目についた庭の草を少しだけ引き抜きました。草との格闘もまた私にとっては生きている証なのでしょう。裏山ですっかり上手くなったウグイスの鳴き声が聞こえています。

  「草取りも 隣の人と 会うことも ないような暮らし 果たしてよいか」

  「マンションで 一人ひっそり 生きるより みんなとともに 笑って生きる」

  「支えあう 人という文字 思い出し 今からだって 遅くあるまい」

  「自由には 裏に不自由 あるものと 心得生きる 気構え大事」

 

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shin-1さんの日記

○若い人の死

 毎日、新聞の朝刊を読んでいるのは私だけではありません。多くの人が自宅や職場で、或いは通勤の途中に昨日あった出来事を中心に紙面構成されている新聞を見て、社会の動きを確認しているのです。私と同じように普通の人は一面から読み始めますが、スポーツの好きな人はスポーツ欄から、株式投資をしている人は株価が気になるため株価欄を、また前日大事件などがあれば三面記事を見て確認しているのです。そして私の場合は今日の天気やお悔やみ欄に目が行きます。

 お悔やみ欄に載るのは人口52万人を有する松山市の方が殆どで、わが伊予市や双海町の事になると載らない事の方が多いのです。それでも役場を退職し世の中の出来事に疎くなった私はお悔やみ欄を見落とさないようにしているのです。というのも私は役場に35年も勤めていて、その間お世話になった方々も多いし、祖母や母の葬儀に香典をいただいた方もいるので、お返しをせねばならないのです。

 お悔やみ欄には例え死亡しても遺族が掲載を承諾しなければ載らないということが、先日の叔父の葬儀で始めて分りました。「お悔やみ欄に載せることもできるのですが、いかが致しましょうか」と葬儀社の担当者が断りを入れ、許可が出れば掲載となるのです。そのようなルールや承諾によって叔父の名前は掲載されました。掲載されてからかどうか分りませんが、叔父の住んでいる選挙区の首長さんや国会議員、県会議員さんから弔電がが沢山届き、お悔やみの場を利用した知名度アップを狙う政治家のしたたかさを垣間見ました。

 叔父と相前後して双海町の若い女性が亡くなりました。妻の友人だけに慰めの言葉もなく、親の悲しみを思うと人毎のように思えず、妻は叔父から続いた友人の娘さんの葬儀で、悲しさの余りに食欲が減退し私に不調を訴えたほどです。お悔やみ欄の亡くなった方々の中には若くして亡くなった方も時にはいますが、その殆どは長寿社会を反映して天寿を全うした方が多いようです。医学が進歩したとはいえ、若い人が親より先に逝くことを止められないことを不憫に思いつつ、私においてもこの一週間は妻と同じように憂うつな日々が続きました。

 「生きたくても生きられない」若者の死を目の当たりにして、「生きなければならないのに死を選ぶ」愚かな若者がいることも気がかりです。先日今治沖に浮かぶ上島町にある弓削商船高専へ「「自殺防止講演会」の講師に招かれ出かけました。学生生徒へ直接話す講演会ではなく、指導する先生方へのお話だったので間接的になりましたが、私の話は「生きたくても生きられない」人のいることを考え、生きなくてはならないのに死を選ぶな」というメッセージでした。

 私は18歳の時水産高校の愛媛丸という実習船で遠洋航海の帰路、とんでもない大時化に合い、「ひょっとしたら死ぬかもしれない」と、引導を渡された経験を持っています。「生きたくても生きられない」ギリギリの世界だったようです。幸せな事に愛媛丸は生還し今の自分があるのですが、生きたくても生きられず天国に召された若い人の冥福を祈りながら、これからの若者たちにその悔しさを伝えてやりたいと思いました。合掌。

  「葬式が 二つ続いて 意気消沈 親の悔しさ 思い計りて」

  「生きたいと 言ってるような 無き声を 読経に重ね ホロリ涙す」

  「世が世なら 海の藻屑と 消えていた 故にしたたか 死んでたまるか」

  「通夜帰る 妻の顔にも 一筋の 涙の後が 寂しく残り」 



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shin-1さんの日記

○ああ上野駅

 昨日車に乗って松山へ行く途中、車のカーラジオから懐かしい歌が聞こえてきました。井沢八郎さんの「ああ上野駅」です。「♭どこかに故郷の便りを乗せて 入る列車の懐かしさ 上野はおいらの 心の駅だ くじけちゃならない人生は あの日ここから始まった♯」。懐かしいメロディに乗せて歌う井沢八郎さんの若々しい声に思わず口ずさんでしまいました。

 私たちの年代にとってこの歌には特別な思い出があるのです。昭和30年代は地方で生まれ育った若者が都会へ移動するある意味で夢と希望に溢れた、しかしある意味で悲しくも厳しい時代だったように思います。子宝に恵まれた戦後のベビーブームに乗って生まれた若者は長男は家業を継ぐが次男、三男・次女・三女はまるで口減らしのように地元の中学校を出ると、金の卵と持て囃されて、集団就職列車に乗せられ都会へ送られたのです。

中学校には就職斡旋係の先生がいて、希望要望を取り入れながら斡旋先を選んでいました。その殆どは名もない零細企業でした。昭和35年春3月、中学校の卒業式が終わると、終着駅でもあり始発駅でもある宇和島駅を出発した集団就職列車はそれぞれの駅で義務教育を卒業したばかりの子どもたちを乗せ、一路京阪神や名古屋を目指しました。私は長男だったし高校進学の道を選んだためその列車に乗る宿命から幸いにも見放されましたが、夜行列車が到着する駅は熱気に包まれ、まるで戦場へ赴く兵士を見送るような雰囲気でした。母親手づくりの弁当と少しばかりの着替えを持った同級生たちは詰襟とセーラー服に身をまとい、両親や家族、そして友人の盛んな見送りを受けました。「頑張れよ」「先方の言う事をよく聞いて我慢してしっかりね」「体をいとえよ」などと口々に言葉を交わすのですが、当の本人たちにとってそれがどういう意味があるのかさえもまだ知る由もなかったのです。やがて蒸気機関車の「ポー」という出発の汽笛とともに列車は下灘駅を離れましたが、泣きの涙での別離の光景は今でも忘れることができないのです。

 後日同級会で列車に乗った張本人から聞いた話ですが、「あの時は辛かった。でも不安な中にもまるで修学旅行に行くような期待もあった。直ぐにでも帰れるような甘い思いもあったが、明くる日神戸の駅に降りた時、迎えに来た人の姿を見て事の重大さに気付いた。最初はホームシックにかかり、夜になると辛くて何度帰ろうと思って涙を流したことか。それでも親父やお袋の事を思うと引き返すことは出来ず頑張りぬいた。今思い出しても悲しい思い出だ」と述懐してくれました。

 彼が神戸の駅に降りた時、聞こえてきたのが井沢八郎の「ああ上野駅」だったそうです。そしてあの歌を思い出す度にあの火野事を思い出す」というのです。

 還暦の同級会に帰ってきた同級生の彼は私に「お前が羨ましい。生まれた所で育ち、生まれた所で暮らし、生まれた所で死ねるのだから」と意味深長な話をしました。そんな過ぎし日を述懐しながら私にハーモニカで「ああ上野駅」を吹いてくれるようリクエストがありました。彼は私がラジオ深夜便「心の時代」と列島1万2千キロの旅に出演していた事を知っていたのです。

 唐突な彼のりクエストに応え吹きましたが、彼は目にいっぱい涙をためて聞いてくれたのです。何気ないラジオから流れる「ああ上野駅」のメロディーや歌を聞いても知らない人にとっては興味もないはずですが、私にとっては大切な思い出の歌なのです。

  「ラジオから 流れる歌の 懐かしく 口ずさみつつ 思いめぐらす」 

  「青春は 遠い昔の 思い出に なりつつあるも 昨日のように」

  「吹いてくれ それでは吹くぞ 上野駅 涙流して 友の聞き入る」

  「知らないの ああ上野駅 知ってるのかい 時代古いね」

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shin-1さんの日記

○若者の一番欲しいものは携帯電話です

 昨日松山へ行った帰り道で人身事故を起こしそうになりました。というのも青信号なので車を進めていると、相手は私の車を追い抜くように確認もせず横断歩道を自転車で右折して横切るのです。とっさに「危ない」と思い急ブレーキを踏みました。幸い後続の車もいなくて追突事故にはならなかったし、その高校生もヒヤッとしたのでしょうか、渡ってから自転車を止めましたが、さも「私は横断歩道を通っているのに、車を運転しているおじさんが悪い」とばかりにねらみつけて走り去りました。どうやらその高校生は自転車に乗りながら携帯電話でメールをしていたようなのです。歩きながらならまだ理解できますが、自転車に乗って携帯電話でメールを打つのは危険極まりないと思い、私は追いかけてその高校生の自転車を停車させ、「君は横断歩道といいながら車の状態も見ずに車を追い越し、直前を右折し渡った」「自転車に乗って携帯でメールするとは何事か」「こちらが急ブレーキをかけて事なきを得たのに知らんふりで、あいさつもせずに立ち去るとは何事か」「君は何処の学校の生徒か」「名前は」と、矢継ぎ早に、叱りとも意見とも取れる言葉を連ねました。最初はうそぶいて「何やこのおっさん」という態度でしたが、事の重大さに気付いたのかその後低姿勢になって「おっしゃるとおり携帯でメールをしながら走っていました。急に用件を思い出し直進するはずが右折してしまいました。私の前の信号は青だったので確認しないまま右折してしまいました。すみませんでした」とやっと断るのです。

 「私も過日かかってきた携帯電話を聞きながら運転し、パトカーに捕まった経験があるので人の事をどうのこうの言える立場ではないが」と自分自身の心情を吐露しながら「君はまだ若い。将来も長い、だから気をつけなさい」と話し、握手をしてお互い笑顔で分かれました。

 その後高校生の心がどう変容したかは知る由もありませんが、あのままの通り過ぎないでよかったとしみじみ思うお節介なおじさんを振り返っているのです。

 現代の若者にとって一番欲しい持ち物は、お金でも友だちでも自分の部屋でもなく、携帯電話であるという事実を考えれば、若者の行動はよく理解できます。でもお金や自分の部屋はさて置いて、友だちより携帯電話が大切なものとは驚く時代になりました。隣に友だちがいても携帯電話の向こうを絶えず意識して暮す現代社会はまさに人間不信の何ものでもないのです。人間とは人の間と書くし、時間は時の間、空間は空の間です。人間の間の取り方がどうも間違っているように思えてなりません。

 若者と携帯電話の関係を考えているうち、どうやら私たち大人も若者と同じように携帯電話を使っている事に気がつきました。どうやら日本人は仮装・空想と訳すバーチャルの世界に迷い込んでしまっているようです。

  「友よりも 欲しい持ち物 携帯と 答えるヤング 私は分らぬ」

  「追いかけて 注意するよな お人よし 反発覚悟 止むに止まれず」

  「携帯を 使ってパトカー 捕まった そんな大人が 経験語る」

  「若者に 自分の息子 重ねつつ 必死な自分 どこか可笑しく」

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shin-1さんの日記

○突然水戸黄門のテーマソングが鳴った携帯電話

 先日田舎の地域づくり講演会に招かれ出かけました。この研修会にも若者の姿は皆無で高齢者や女性が多く、いよいよ田舎も危なくなったと直感させられました。私の話が始まって30分くらいした頃でしょうか、突然携帯電話の呼び出し音がなり始めたのです。しかもその着信音は「水戸黄門」のテーマソングなのです。皆さんの目はその80歳がらみのおばあさんに集中しました。おばあさんはバツが悪そうに持っていた巾着袋から携帯電話を取り出したまではよかったのですが、それからがまた大変です。このおばあさんは聞くところによると一人暮らしなので、田舎に住む息子さんが安全のために一週間前の誕生日にプレゼントしてくれたそうなのですが、使い方がまだ飲み込めてなく、着信音をマナーモードにすることも、切ることも出来ないのです。慌てれば慌てるほどオロオロになるおばあさんを見て、みんなは大爆笑でしたが、すっかり興ざめしたのは私です。講演会は中断し、結局私が壇上から会場へ下りて行っておばあさんの携帯電話の呼び出し音を切る羽目になったのです。おばあさんの携帯電話を見て驚きました。何とおばあさんの持っている携帯電話の機種が私の物と同じなのです。

 私は数年前携帯電話を買う時、息子に頼みました。息子は要領よく手続きをして買ってくれ、馴れない私に代わって様々な電話番号を入力して使えるように指導してくれました。面倒臭い私はこの電話は受信用にして、まだ机の引き出しに沢山残っているテレフォンカードを使って発信していました。でもいつの間にかその煩わしさや電話代金の高さなど銀行引き落としのキャッシュレスですから気にならなくなってどうにか使いこなすように、今では恐る恐るですがメールも出来るようになりました。

 参加者の笑いは頂点に達しましたが、再び私は公園を続ける事になりました。降って沸いたこの話題を話芸に生かし、「情報化社会」について話しました。参加者に手を挙げてもらったところ、参加者の中にも携帯電話を持っている人が三分の一くらいいました。「今日の参加者の中に時代遅れの人が三分の二いらっしゃいます」と爆笑を誘い、携帯電話の電磁波の話しをしました。「最近ショッキングな話を耳にしました。携帯電話から出ている電磁波が人間の卵子や精子にいたずらをしているというのです。私たちはズボンのポケットに携帯電話を入れたりバックに入れて持ち歩いていますが、電磁波の近くに卵子や精子がいるのです。目に見えない電磁波の影響が生まれてくる赤ちゃんに影響を与えるとしたら、あなたたちはどうしますか。まあ今日集まった方々にはもうそんな心配は皆無に等しいほど、何ら影響のない話です」でまたまた大爆笑となり、私の話はやっと元の軌道に戻り事なきを得ました。

 講演会が終わって数日後、このおばあちゃんから一個の宅配便が届きました。見知らぬ人の名前なので開けて爆弾でもと思うほど私は有名人でもなく人にうらまれる筋合いもないものですから妻と開けて見ました。中には手紙と野菜がどっさり入っていました。手紙には先日の講演会で大失態をしたお詫びの言葉が綴られていました。そして都会に住む息子にその話しをしたら怒られたとも書いていました。怒ることはありません。音信手段を確保してくれた優しい息子さんの心根やそれを受け入れつつも使いこなせないデジタル社会に翻弄されたおばあちゃんとの親子ミスマッチはどこかほのぼのとしたお話でした。 

 今でもこのおばあちゃんとはハガキのやり取りをしています。その後携帯電話で私に電話もかけてくるし、ハガキに書かれた近況では「息子とメールを始めた」そうです。ひょっとしたら笑った私より進化しているのかも知れません。うかうか出来ませんね。

  「突然に 水戸黄門の テーマ鳴る 講演中断 場内爆笑」

  「止め方も マナーモードも 知らぬ婆 オロオロ顔を 赤くして座す」

  「電磁波も 何ら影響 ない人と いって爆笑 元に戻りて」

  「メールまで 覚えたばあちゃん ルンルンで 今日も携帯 印籠のよう」


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