shin-1さんの日記

○若い人の死

 毎日、新聞の朝刊を読んでいるのは私だけではありません。多くの人が自宅や職場で、或いは通勤の途中に昨日あった出来事を中心に紙面構成されている新聞を見て、社会の動きを確認しているのです。私と同じように普通の人は一面から読み始めますが、スポーツの好きな人はスポーツ欄から、株式投資をしている人は株価が気になるため株価欄を、また前日大事件などがあれば三面記事を見て確認しているのです。そして私の場合は今日の天気やお悔やみ欄に目が行きます。

 お悔やみ欄に載るのは人口52万人を有する松山市の方が殆どで、わが伊予市や双海町の事になると載らない事の方が多いのです。それでも役場を退職し世の中の出来事に疎くなった私はお悔やみ欄を見落とさないようにしているのです。というのも私は役場に35年も勤めていて、その間お世話になった方々も多いし、祖母や母の葬儀に香典をいただいた方もいるので、お返しをせねばならないのです。

 お悔やみ欄には例え死亡しても遺族が掲載を承諾しなければ載らないということが、先日の叔父の葬儀で始めて分りました。「お悔やみ欄に載せることもできるのですが、いかが致しましょうか」と葬儀社の担当者が断りを入れ、許可が出れば掲載となるのです。そのようなルールや承諾によって叔父の名前は掲載されました。掲載されてからかどうか分りませんが、叔父の住んでいる選挙区の首長さんや国会議員、県会議員さんから弔電がが沢山届き、お悔やみの場を利用した知名度アップを狙う政治家のしたたかさを垣間見ました。

 叔父と相前後して双海町の若い女性が亡くなりました。妻の友人だけに慰めの言葉もなく、親の悲しみを思うと人毎のように思えず、妻は叔父から続いた友人の娘さんの葬儀で、悲しさの余りに食欲が減退し私に不調を訴えたほどです。お悔やみ欄の亡くなった方々の中には若くして亡くなった方も時にはいますが、その殆どは長寿社会を反映して天寿を全うした方が多いようです。医学が進歩したとはいえ、若い人が親より先に逝くことを止められないことを不憫に思いつつ、私においてもこの一週間は妻と同じように憂うつな日々が続きました。

 「生きたくても生きられない」若者の死を目の当たりにして、「生きなければならないのに死を選ぶ」愚かな若者がいることも気がかりです。先日今治沖に浮かぶ上島町にある弓削商船高専へ「「自殺防止講演会」の講師に招かれ出かけました。学生生徒へ直接話す講演会ではなく、指導する先生方へのお話だったので間接的になりましたが、私の話は「生きたくても生きられない」人のいることを考え、生きなくてはならないのに死を選ぶな」というメッセージでした。

 私は18歳の時水産高校の愛媛丸という実習船で遠洋航海の帰路、とんでもない大時化に合い、「ひょっとしたら死ぬかもしれない」と、引導を渡された経験を持っています。「生きたくても生きられない」ギリギリの世界だったようです。幸せな事に愛媛丸は生還し今の自分があるのですが、生きたくても生きられず天国に召された若い人の冥福を祈りながら、これからの若者たちにその悔しさを伝えてやりたいと思いました。合掌。

  「葬式が 二つ続いて 意気消沈 親の悔しさ 思い計りて」

  「生きたいと 言ってるような 無き声を 読経に重ね ホロリ涙す」

  「世が世なら 海の藻屑と 消えていた 故にしたたか 死んでたまるか」

  「通夜帰る 妻の顔にも 一筋の 涙の後が 寂しく残り」 



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shin-1さんの日記

○ああ上野駅

 昨日車に乗って松山へ行く途中、車のカーラジオから懐かしい歌が聞こえてきました。井沢八郎さんの「ああ上野駅」です。「♭どこかに故郷の便りを乗せて 入る列車の懐かしさ 上野はおいらの 心の駅だ くじけちゃならない人生は あの日ここから始まった♯」。懐かしいメロディに乗せて歌う井沢八郎さんの若々しい声に思わず口ずさんでしまいました。

 私たちの年代にとってこの歌には特別な思い出があるのです。昭和30年代は地方で生まれ育った若者が都会へ移動するある意味で夢と希望に溢れた、しかしある意味で悲しくも厳しい時代だったように思います。子宝に恵まれた戦後のベビーブームに乗って生まれた若者は長男は家業を継ぐが次男、三男・次女・三女はまるで口減らしのように地元の中学校を出ると、金の卵と持て囃されて、集団就職列車に乗せられ都会へ送られたのです。

中学校には就職斡旋係の先生がいて、希望要望を取り入れながら斡旋先を選んでいました。その殆どは名もない零細企業でした。昭和35年春3月、中学校の卒業式が終わると、終着駅でもあり始発駅でもある宇和島駅を出発した集団就職列車はそれぞれの駅で義務教育を卒業したばかりの子どもたちを乗せ、一路京阪神や名古屋を目指しました。私は長男だったし高校進学の道を選んだためその列車に乗る宿命から幸いにも見放されましたが、夜行列車が到着する駅は熱気に包まれ、まるで戦場へ赴く兵士を見送るような雰囲気でした。母親手づくりの弁当と少しばかりの着替えを持った同級生たちは詰襟とセーラー服に身をまとい、両親や家族、そして友人の盛んな見送りを受けました。「頑張れよ」「先方の言う事をよく聞いて我慢してしっかりね」「体をいとえよ」などと口々に言葉を交わすのですが、当の本人たちにとってそれがどういう意味があるのかさえもまだ知る由もなかったのです。やがて蒸気機関車の「ポー」という出発の汽笛とともに列車は下灘駅を離れましたが、泣きの涙での別離の光景は今でも忘れることができないのです。

 後日同級会で列車に乗った張本人から聞いた話ですが、「あの時は辛かった。でも不安な中にもまるで修学旅行に行くような期待もあった。直ぐにでも帰れるような甘い思いもあったが、明くる日神戸の駅に降りた時、迎えに来た人の姿を見て事の重大さに気付いた。最初はホームシックにかかり、夜になると辛くて何度帰ろうと思って涙を流したことか。それでも親父やお袋の事を思うと引き返すことは出来ず頑張りぬいた。今思い出しても悲しい思い出だ」と述懐してくれました。

 彼が神戸の駅に降りた時、聞こえてきたのが井沢八郎の「ああ上野駅」だったそうです。そしてあの歌を思い出す度にあの火野事を思い出す」というのです。

 還暦の同級会に帰ってきた同級生の彼は私に「お前が羨ましい。生まれた所で育ち、生まれた所で暮らし、生まれた所で死ねるのだから」と意味深長な話をしました。そんな過ぎし日を述懐しながら私にハーモニカで「ああ上野駅」を吹いてくれるようリクエストがありました。彼は私がラジオ深夜便「心の時代」と列島1万2千キロの旅に出演していた事を知っていたのです。

 唐突な彼のりクエストに応え吹きましたが、彼は目にいっぱい涙をためて聞いてくれたのです。何気ないラジオから流れる「ああ上野駅」のメロディーや歌を聞いても知らない人にとっては興味もないはずですが、私にとっては大切な思い出の歌なのです。

  「ラジオから 流れる歌の 懐かしく 口ずさみつつ 思いめぐらす」 

  「青春は 遠い昔の 思い出に なりつつあるも 昨日のように」

  「吹いてくれ それでは吹くぞ 上野駅 涙流して 友の聞き入る」

  「知らないの ああ上野駅 知ってるのかい 時代古いね」

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shin-1さんの日記

○若者の一番欲しいものは携帯電話です

 昨日松山へ行った帰り道で人身事故を起こしそうになりました。というのも青信号なので車を進めていると、相手は私の車を追い抜くように確認もせず横断歩道を自転車で右折して横切るのです。とっさに「危ない」と思い急ブレーキを踏みました。幸い後続の車もいなくて追突事故にはならなかったし、その高校生もヒヤッとしたのでしょうか、渡ってから自転車を止めましたが、さも「私は横断歩道を通っているのに、車を運転しているおじさんが悪い」とばかりにねらみつけて走り去りました。どうやらその高校生は自転車に乗りながら携帯電話でメールをしていたようなのです。歩きながらならまだ理解できますが、自転車に乗って携帯電話でメールを打つのは危険極まりないと思い、私は追いかけてその高校生の自転車を停車させ、「君は横断歩道といいながら車の状態も見ずに車を追い越し、直前を右折し渡った」「自転車に乗って携帯でメールするとは何事か」「こちらが急ブレーキをかけて事なきを得たのに知らんふりで、あいさつもせずに立ち去るとは何事か」「君は何処の学校の生徒か」「名前は」と、矢継ぎ早に、叱りとも意見とも取れる言葉を連ねました。最初はうそぶいて「何やこのおっさん」という態度でしたが、事の重大さに気付いたのかその後低姿勢になって「おっしゃるとおり携帯でメールをしながら走っていました。急に用件を思い出し直進するはずが右折してしまいました。私の前の信号は青だったので確認しないまま右折してしまいました。すみませんでした」とやっと断るのです。

 「私も過日かかってきた携帯電話を聞きながら運転し、パトカーに捕まった経験があるので人の事をどうのこうの言える立場ではないが」と自分自身の心情を吐露しながら「君はまだ若い。将来も長い、だから気をつけなさい」と話し、握手をしてお互い笑顔で分かれました。

 その後高校生の心がどう変容したかは知る由もありませんが、あのままの通り過ぎないでよかったとしみじみ思うお節介なおじさんを振り返っているのです。

 現代の若者にとって一番欲しい持ち物は、お金でも友だちでも自分の部屋でもなく、携帯電話であるという事実を考えれば、若者の行動はよく理解できます。でもお金や自分の部屋はさて置いて、友だちより携帯電話が大切なものとは驚く時代になりました。隣に友だちがいても携帯電話の向こうを絶えず意識して暮す現代社会はまさに人間不信の何ものでもないのです。人間とは人の間と書くし、時間は時の間、空間は空の間です。人間の間の取り方がどうも間違っているように思えてなりません。

 若者と携帯電話の関係を考えているうち、どうやら私たち大人も若者と同じように携帯電話を使っている事に気がつきました。どうやら日本人は仮装・空想と訳すバーチャルの世界に迷い込んでしまっているようです。

  「友よりも 欲しい持ち物 携帯と 答えるヤング 私は分らぬ」

  「追いかけて 注意するよな お人よし 反発覚悟 止むに止まれず」

  「携帯を 使ってパトカー 捕まった そんな大人が 経験語る」

  「若者に 自分の息子 重ねつつ 必死な自分 どこか可笑しく」

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shin-1さんの日記

○突然水戸黄門のテーマソングが鳴った携帯電話

 先日田舎の地域づくり講演会に招かれ出かけました。この研修会にも若者の姿は皆無で高齢者や女性が多く、いよいよ田舎も危なくなったと直感させられました。私の話が始まって30分くらいした頃でしょうか、突然携帯電話の呼び出し音がなり始めたのです。しかもその着信音は「水戸黄門」のテーマソングなのです。皆さんの目はその80歳がらみのおばあさんに集中しました。おばあさんはバツが悪そうに持っていた巾着袋から携帯電話を取り出したまではよかったのですが、それからがまた大変です。このおばあさんは聞くところによると一人暮らしなので、田舎に住む息子さんが安全のために一週間前の誕生日にプレゼントしてくれたそうなのですが、使い方がまだ飲み込めてなく、着信音をマナーモードにすることも、切ることも出来ないのです。慌てれば慌てるほどオロオロになるおばあさんを見て、みんなは大爆笑でしたが、すっかり興ざめしたのは私です。講演会は中断し、結局私が壇上から会場へ下りて行っておばあさんの携帯電話の呼び出し音を切る羽目になったのです。おばあさんの携帯電話を見て驚きました。何とおばあさんの持っている携帯電話の機種が私の物と同じなのです。

 私は数年前携帯電話を買う時、息子に頼みました。息子は要領よく手続きをして買ってくれ、馴れない私に代わって様々な電話番号を入力して使えるように指導してくれました。面倒臭い私はこの電話は受信用にして、まだ机の引き出しに沢山残っているテレフォンカードを使って発信していました。でもいつの間にかその煩わしさや電話代金の高さなど銀行引き落としのキャッシュレスですから気にならなくなってどうにか使いこなすように、今では恐る恐るですがメールも出来るようになりました。

 参加者の笑いは頂点に達しましたが、再び私は公園を続ける事になりました。降って沸いたこの話題を話芸に生かし、「情報化社会」について話しました。参加者に手を挙げてもらったところ、参加者の中にも携帯電話を持っている人が三分の一くらいいました。「今日の参加者の中に時代遅れの人が三分の二いらっしゃいます」と爆笑を誘い、携帯電話の電磁波の話しをしました。「最近ショッキングな話を耳にしました。携帯電話から出ている電磁波が人間の卵子や精子にいたずらをしているというのです。私たちはズボンのポケットに携帯電話を入れたりバックに入れて持ち歩いていますが、電磁波の近くに卵子や精子がいるのです。目に見えない電磁波の影響が生まれてくる赤ちゃんに影響を与えるとしたら、あなたたちはどうしますか。まあ今日集まった方々にはもうそんな心配は皆無に等しいほど、何ら影響のない話です」でまたまた大爆笑となり、私の話はやっと元の軌道に戻り事なきを得ました。

 講演会が終わって数日後、このおばあちゃんから一個の宅配便が届きました。見知らぬ人の名前なので開けて爆弾でもと思うほど私は有名人でもなく人にうらまれる筋合いもないものですから妻と開けて見ました。中には手紙と野菜がどっさり入っていました。手紙には先日の講演会で大失態をしたお詫びの言葉が綴られていました。そして都会に住む息子にその話しをしたら怒られたとも書いていました。怒ることはありません。音信手段を確保してくれた優しい息子さんの心根やそれを受け入れつつも使いこなせないデジタル社会に翻弄されたおばあちゃんとの親子ミスマッチはどこかほのぼのとしたお話でした。 

 今でもこのおばあちゃんとはハガキのやり取りをしています。その後携帯電話で私に電話もかけてくるし、ハガキに書かれた近況では「息子とメールを始めた」そうです。ひょっとしたら笑った私より進化しているのかも知れません。うかうか出来ませんね。

  「突然に 水戸黄門の テーマ鳴る 講演中断 場内爆笑」

  「止め方も マナーモードも 知らぬ婆 オロオロ顔を 赤くして座す」

  「電磁波も 何ら影響 ない人と いって爆笑 元に戻りて」

  「メールまで 覚えたばあちゃん ルンルンで 今日も携帯 印籠のよう」


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shin-1さんの日記

○毎月唱和の理念とビジョン

 今日は今月最後の木曜日です。この日は毎月コープえひめの定例理事会があるのです。柄にもなく学識経験者理事の末席を汚して早くも1年9ヶ月が経ちました。最初は執行部を除けば女性だけの集まりに戸惑い、2年の任期を全うすることが出来るか心配をしましたが、2年近くが経つと馴染みの人も多くなって、今では1ヶ月が待ち遠しくなるのですから慣れとは不思議なものです。

 理事会は理事長さんのあいさつで始まるのですが、理事長さんの話は要点をしっかりと押さえ、感心するほど上手なのにいつも驚いています。また順番が決められ任期中に2回ぐらい回ってくる司会を何の気負いもなくやれる理事さんも立派だし、受け答えする常任理事や専務さんもよく勉強していてすがすがしささえ感じるのです。そこへ行くと私などは何の責任もないことから中途半端な傍観者で済まない気持ちでいっぱいで、お昼に出る質素ながらも豪華な弁当にマイ箸を持参して食い逃げと洒落込んでいます。

 さて、これまで1年12回、2年で22回も毎回皆さんで会の前に唱和する理念とビジョンを、どれだけ覚えているか、司会の言葉につられて、「赤信号みんなで渡れば怖くない」ような雰囲気で唱和しているものですから心もとない話です。多分私のブログは松本専務さん始め多くの方々が愛読?ではなく乱読されているので、若し間違っていたらメールで訂正して欲しいと、あえて自分の暗記能力をテストしてみました。

   コープ理念

 よりよいくらしの想いをかたちに

   コープえひめビジョン

 一、「健康で安心して暮らしたい」という想いを実現できる生協になっています。

 二、一人ひとりの声が生かされ、元気の輪が広がる生協になっています。

 三、地域の人々とともに住みよいまちづくりがすすめられています。

 四、くらしに役立ち続けるために健全経営が維持できています。

 これだけ思い出すのに少し時間がかかってしまいました。どうにか記憶を思い出し書き写すことが出来ましたが、正しいかどうか心もとない話です。ふと慣れは恐ろしいとも思いました。毎回呪文のようにみんなで唱和するだけで、その意味を余り考えず行動している事に気づいたのです。理念もビジョンも生協運動の憲法のようなものなのですが、慣れると理念もビジョンも唱和するだけのものになっていたようです。

 私たちは君が代という国歌をもう数え切れないほど歌ってきました。ところが君が代の歌詞の意味など殆ど考えずに歌っているのです。もちろん学校の先生からも君が代の意味を明確に教えてもらったことは記憶にないのです。

コープの理念やビジョンは実によく出来た分りやすい言葉です。理念もビジョンも私たち家庭生活者の目標でもあるような気がしています。もう一度初心に帰って理念とビジョンの意味をしっかりと考えてみたいと、理事会の資料を整理しながら思いました。

  「なるほどな 理念にビジョン 納得し 記憶辿りつ 文字にしてみる」

  「いつのまに 門前小僧に なり下がる 習わぬお経 唱えるだけで」

  「明日の朝 専務がメール くれるはず こことそこここ 違っていると」

  「早二年 月日が経つも 進化せず 堂々巡り 俺は何処行く」  

   


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shin-1さんの日記

○落語入門

 私の友人に関西汽船に勤める浜田さんがいます。無類の読書家で、様々な本を読んでいるようですが特に民俗学者宮本常一に深い関心を持って研究しています。宮本常一についてはブログで何度も取り上げていますが、人間牧場から見える周防大島が生まれたゆかりの地なので、そうした接点から知り合ったように思うのです。人間牧場が出来て間もない頃、人間牧場へ入門させて欲しいと自分で申請書を作って持参した人ですから、かなりの人であることは間違いありません。その頃はまだ人間牧場の建設中で入門させるともさせないとも回答せずそのままになっていますが、最近人間牧場の門を叩く人が何人かいて、そろそろ塾生を定めて掲札しようかと思うようになっており、その際は浜田さんを塾生第1号にしなければなるまいと心に決めています。

 その浜田さんは私の留守中に時々私に読ませたい本を差し入れしてくれるのです。多分私の浅はかな知識をもっと高めよとの諭しだろうと読ませていただいていますが、先日留守中にサライという週刊誌を届けてくれていました。この号の特集は「続・落語入門」で、名だたる落語家の話などが特集されていました。これも推測ですが、最近私が始めた落語ならぬ落伍が余りにも未熟なため、少し勉強するようにとの有り難いお導きと考え読ませてもらっています。しかし残念かな私の落伍は落語と似て非なるものなので、これを真似て修行する気持ちは毛頭ないのです。しかし落語も落伍も人を楽しませようとする話芸であることに変わりはないので、大切にして勉強したいと思っています。

 仏教の経典の一つに「無量寿経」というのがあります。浄土宗や浄土真宗では根本経典の一つに数えられる重要なものだそうです。落語の一節にご存知「寿限無」というのがありますが、落語の話しの中に出てくる「寿限無」という言葉は仏教の経典「無量寿経」には見当たらずその典拠について正確には分らないないそうです。多分落語の中に出てくるように「無量寿経」の「無量寿」をいいやすく寿限無に置き換えたする説が有力だといわれているようです。

 「寿限無、寿限無、五劫(ごこう)の、すりきれ、海砂利水魚(かいじゃりすいぎょ)、水行来(すいぎょうらい)、雲来末うんらいまつ)、風来末(ふうらいまつ)、食う寝る処に、住む処、やぶら小路(こうじ)の、薮柑子(やぶこうじ)、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーノポンポコナーの、長久命(ちょうきゅうめい)の、長助(ちょうすけ)さん」

 落伍を始めて半年が過ぎました。高座の話芸はまだまだ未熟半熟ですが高座本の売れ行きも仲間のご支援のお陰もあって、まあ順調といえば順調で、自転車操業といいつつ、初期投資の回収は確実になり、そろそろ五輪の書の「地の書」に続いて次号「水の書」の編集にも取り掛からなければならなくなりました。目標は5年で5冊ですから、予想以上の進捗状況です。気の遠くなるような150話の完成を目指して話芸と文筆を両立させなければならないと思うと、多少望みを高く持ち過ぎた感も否めませんが、着実に一歩一歩前へ進んで行きたいと思っています。

 三遊亭金馬師匠の「落語は生き物、芸に完成はありません。だから生涯をかけて、追求し続けるんです」という言葉に、少し救われた感じがしました。

  「玄関に 週刊誌置く 人ありて 修行をしろと 言ってるように」

  「寿限無さえ 知らない男 落伍する 無量寿経の 教えなおさら」

  「高座本 半分売れて ゼロになる 元に戻って ゼロから出直し」

  「どれ程の 人を演じる 落伍かな 自分だけでも 演じも出来ず」

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shin-1さんの日記

○庭の隅に置いている箱庭

 私の家は親父と私が大体同じ趣味ということもあって、海の資料館「海舟館」や、私設公民館「煙会所」などを中心に、様々な民俗資料的なものが置かれています。その殆どは「海舟館」と「煙会所」に展示されていますが、中には無造作に庭の隅に置かれているものあるのです。

 今日は飛び込みで町並を研究している岡崎さんが沖野先生と日本ナショナルトラスト専門研究員の住田さんを伴ってやって来ました。沖野先生は埋蔵文化財の専門家で今年の春まで上灘中学校に勤務していましたが、思うところあって早期退職をされました。岡崎さんは私の旧友でまち歩きの大家です。私が代表を務めるえひめ地域づくり研究会議の事務局長でもあるのですが、どういう訳か私の家にはまだ来たことがないというのです。今日は翠小学校へ来たついでにわが家へ立ち寄ってくれました。

 まず私の家に来るなりまち歩きウォッチャーの目に留まったのは、親父の隠居の前に置いている箱庭です。私はいつも見慣れていてそんなにマジマジ見たことはなかったのですが、彼が言うのにはとても珍しいものだそうです。

 この箱庭がわが家へやって来たのはまだ20年ほど前です。双海町内で製材業を営む従兄弟の家にあったものですが、余りこうしたものに趣味のない彼は、畑の隅に無造作に置いて雑草に埋もれていました。目敏く箱庭を見つけた親父は譲り受けて家に持って帰り傷んだ部分を修復したのです。まず海岸へ行って小さなそれらしい青石を探し、一つ一つ丁寧に石垣から修復しました。それは気の遠くなるような作業でしたが親父の器用さも手伝っていい雰囲気に修復が出来ました。この箱庭には洋式本館と和式の蔵が2棟ありますが、洋式本館の屋上に青銅製の屋根があったらしいのですが、完全に紛失していました。親父はこれも銅板を木槌で叩いて復元したのです。また枯れた樹木を植え替えました。最初は松の木が植わっていたようですが、盆栽鉢に植えられていたものを活用し一本は五葉松、もう一本は梅を植えました。いい感じです。

 風格が戻った箱庭は最初ブロックを敷いていましたが、その後御影石にしたため、予想以上に引き立って、岡崎さんの目を止めたのだと思うのです。

 この御影石はシーサイド公園に地元篤志家のご芳志により童謡の小路を造った折、思わぬ失敗をしてしまいました。石に刻んだ文字が間違っていたのです。検査後発見し間違いに気付きましたが後の祭りでした。業者さんの間違いかこちらの間違いか分らぬまま、とりあえず新しいものと交換しました。その時この石の処分に困っていたので、譲り受けて運んで再利用となったのです。裏面には何も掘っていないため見た目にはすごく立派な中国産御影石の置石に変身し、箱庭にマッチして置かれているのです。

 多分わが家が続く限りはこの石はこの場所に置かれているでしょうが、歴史の変化などによってこの石を動かせば、ミステリーじみた話題も生まれるのではないかと思ったりしました。

 それにしてもわが家には私自身も気付かぬ物語が沢山ある事を岡崎さんによって改めて発見してしまいました。

 今日は午前中伊予銀行上灘支店長さんを人間牧場まで案内し、午後は赤とんぼ先生が恋人とんぼの試作品を持参して打ち合わせするなど、何かと慌しくも充実した一日でした。

  「何気なく 庭に置かれた 箱庭を 目敏く見つけ 写真に収め」

  「九十の 親父修復 した庭を まざまざ見つめ 偉いもんだと」

  「失敗の 石を裏して 再利用 後の人々 ミステリーかと」

  「折からの 雨に打たれて 美しく 見える箱庭 少し見直し」

  

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shin-1さんの日記

○家庭菜園も衣替え

 わが家にはかなり広い家庭菜園があって、年老いた親父には少々手に負えないほどの仕事量があります。最も厄介なのはこれから始まる夏場の除草と虫との闘い、それに水やりはかなり骨が折れるようです。これまで親父の健康法だと余り手伝いもせずもっぱら親父に任せていましたが、寄る年波には勝てずそろそろ代替わりしなければならないと、暇を見つけて一緒に過ごすようにしていますが、果たしてこれから私が親父の歳まで、つまりこれから三十年も出来るかと考えると、ゾッとしたりするのです。「まあ出来なくなったらその時よ」とばかりに始めてはみるものの、野菜つくりも中々奥が深くて、季節のカレンダーをまず頭に入れることから始めなければならないのです。天一稲荷神社の春祭りになると夏野菜の苗を植えるとか、文化の日頃にタマネギの苗を植えるとかいったことは簡単に覚えれるのですが、ネギの伏せ替えやジャガイモの根寄せなどの雑事は体に染み付いた親父でないと分らない部分が多く、これからじっくり修行をして教えてもらいたいと思っています。

 そういいつつ、今日はネギの伏せ替えをしました。畑に植えているネギは春先の暖かい気候によって、青々と伸びてきました。中には種保存の原則でしょうか、ネギ坊主が伸びてきました。ネギにはネギ坊主が出るものと出ないものがあって、ネギ坊主が出るものは葉が硬くて薬味用にはなりません。この時期はその硬くなったものを湯がいて酢味噌で和えタコや貝などと一緒にヌタにすると美味しく食べれます。今日植えたものは薬味用のネギです。畑で引き抜いたものの古葉を丁寧に取って葉の部分を切り落とし、新しい畝に植えてゆくのです。今朝親父がその作業を手伝うようにいうので、長靴を履いて畑に出ました。作業の途中でズボンのポケットの携帯電話が鳴りっぱなしで、結局は作業を中断して急ぎのメールに対応するため部屋の中へ入ってしまいました。

 私の場合はいつもこんな結末が多いのです。親父は残った作業を自分ひとりでこなさなければならず、結局迷惑をかけてしまいました。

 今朝畑に出てみると、急逝した親父の弟、つまり私の叔父の葬儀のため2~3日家を留守にしていましたが、その間に親父は近くの雑木林に細い竹を切りに行って全ての夏野菜の垣を作り終えていました。それはもう玄人はだしでまるで芸術品のような垣を作っていました。

 「親父、これはキュウリじゃない、カボチャじゃないの?」と指摘すると、「わしはてっきりキュウリとばかり思っていた」と間違いに気付きました。キュウリと思って垣が必要なため綺麗な垣を作っていました。早速植え替えたようですが、キュウリとカボチャの苗が分りにくいのは私も同じなようです。

 一昨日、種物屋さんで種を買ってきました。これも私買う人、親父植える人、妻調理する人の役割分担が暗黙のうちに決まっていて、目下のところ私は買う人に専念をしています。でもそろそろ私の出番が来たようだと、代替わりの予感を感じる春の朝でした。

  「大洲では 夏日になったと 新聞で わが家はナスビ 苗植え終わる」

  「九十の 親父の指図 受けながら 六十手習い 菜園作業」

  「ネギの苗 頭を切って 植え替える 明日雨予報 合わせるように」

  「この季節 何を植えるか 記憶する 苗価高さに 驚く財布」 

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○膝・腰・肩

 90歳になる親父の大好きなテレビ番組は、いわゆる時代劇といわれる水戸黄門です。親父は最近耳が遠くなり、テレビの前に陣取ってボリュームをかなり大きくしてかぶりつくようにして見ているのです。一方62歳になる妻はサスペンスや旅番組が大好きで、こ難しい操作をしなければ見れないビデオを使ってお気に入りの番組を録画し、「よく飽きないなあ」と思うほど、同じような番組を何度でも再生して見ているのです。親父も妻も生まれた頃にテレビはありませんでしたが、私がパソコンなしで日々の暮しが考えられないように、今ではテレビなしでは生きてゆけないような雰囲気なのです。

 私にとってテレビとパソコンとどちらを取るかといわれたら、多分パソコンを取るでしょうが、親父も妻もテレビの方を選ぶに違いないのです。「双方向性」を謳い文句に地上デジタル放送が開始されています。私たちの地域でもその電波は来ているのですが、わが家ではまだアナログテレビが健在で、多分期限切れまで使うものと思われます。既にそのテレビを見ている娘夫婦や息子夫婦の家に行くと、別の国に行っているような錯覚さえ覚えるまるで違う画面を、いとも簡単に使ってテレビ番組を楽しんでいるようです。パソコンを使ってテレビを見れば、好きなだけ時代劇もサスペンスも見れるのだそうですが、そんなことをしたら親父も妻もテレビの前に座り続けそうな雲行きなので、一方通行だけの今のままの不自由さがいいのかもしれないのです。しかしそういいながらも一方通行だけの情報を受けている親父や妻と、双方向性の情報を発受信している私とでは、これまた随分違う世界にいるのだとしみじみ思い知らされているのです

 昨日叔父の葬式に行きました。親父の兄弟姉妹たちもみんな高齢化して、膝・腰・肩が痛いと訴える人が殆どになりました。肩は別として膝・腰の不調は深刻で、日本の伝統的な暮らし方である畳での生活はかなりしんどいらしく、そんな高齢化を反映して式場や控え室などには高齢者用の座椅子が沢山用意されていました。叔父や叔母たちはその椅子に座って長時間の待ち合わせに耐えていましたが、老いの身にはとても辛いと漏らしていました。集まった中ではまだ若い方だと思っていた私さえもここ4、5日のぎっくり腰に悩まされて続けているのです。

 親父と妻のテレビ番組を見て気がついたのですが、これらの番組を作る送り手の意図は、視聴者の年齢層を意識しているということです。内容も人情ものの時代劇、トリックの多いサスペンスと目的は違うものの、興味をそそるように出来ているのです。そしてあい中に挟むコマーシャルがどこか共通していて、「ヒアルロンサン、コラーゲン」などといった膝・腰・肩に良いようなもの、「サプリメント」といった「痩せたい」という願望をそそるようなものなどが、これでもかとばかりに留めもなく流されているのです。

 膝・腰・肩の不調を訴える高齢者にとってその悩みは深刻で、夜も寝れない辛さから開放されて、若い頃のように元気で動けるようになりたいというのは当然のことかも知れないのです。そんな人が薬やサプリメントを買い求める気持ちも分るし、番組に高いお金を使ってコマーシャルを流すのも道理といえば道理なのです。

 しかし、わが妻のようにビデオで見る時はコマーシャルを早送りして見る事を、テレビ局は承知しなければならないのです。

  「CMを 早送りして 見るビデオ 妻にとっては 影響もなし」

  「これでもか 膝腰肩に 効く薬 ホントに効くと 信じる愚人」

  「身の回り 膝腰肩の 悪い人 どんどん増えて 座椅子満席」

  「黄門と セットで売れる コラーゲン 意味も分らず 年金使い」

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○またまたのぎっくり腰に悪戦苦闘

 「今朝はゴミを出してやろう」と殊勝にも妻に言葉をかけ外に出て、生ゴミ入れの大きなバケツの蓋を取り、中から少し重たいゴミの固まりを取り出そうとしたまでは順調でした。ところがゴミの重さが手から腕、肩、そして背中と伝わった一瞬でした。腰から背筋にまるで電気が走ったような感じがしました。これまでにもぎっくり腰に度々なっている私としては気をつけていたつもりなのですが、またやってしまったのです。それからはゴミを出すどころか腰が動かなくなって、ついにはゴミ出しを妻に頼んであえなくダウンしてしまったのです。

 この日は午後からえひめ地域づくり研究会議の運営委員会が予定されているため寝る訳にもいかず、妻に電話してもらって日頃ぎっくり腰の度にお世話になっている伊予市の松本整体院へ電話を入れ、早速予約を取って出かけたのです。幸い今回は重症でもなく何とか自分で車の運転が出来るので顔をしかめながら出かけました。松本さんは私の姿を見て、私の申告とは少し違ってかなり重症だと診断しました。普通だと背中を上に向けてマッサージするのですが、今日ばかりは横になっての治療です。約30分マッサージをしてもらいましたが、涙が出るほど痛く、診察どおりだと長引きそうなのです。それでも会議だけは出席したのですが、運の悪い事に3人の代表のうち近藤さんが欠席したため、私が親交を務めなければならない羽目になりました。会議は2時間ほどで終りましたが、懇親会はキャンセルしてしまいました。

 金曜日、土曜日、月曜日と日曜休診を挟んで3日間、通院したお陰で随分楽になりましたが、叔父の入院、危篤、死亡、仮通夜、通夜、葬儀、法要と続く私的なハードスケジュールが回復を遅らせ、未だに全快していないのです。特に本通夜は殆ど寝なかったし、椅子が用意されていても畳に横座りする姿勢が腰には天敵で、涙が出るほどでした。それでも懇意にしていた叔父の終焉なので、喪主である従兄弟の懇願もあって、通夜、葬儀、法要の3度も親族代表の挨拶をしてしまいました。

 親族の皆さんから見える私の批評は、「挨拶は進一に任せとけ」のようですが、当の本人はそれほど甘いことではないと、ない知恵を絞っての挨拶なりました。人の挨拶は案外批評の対象になってあれこれ色々言うものですが、それはやらない人の評論に過ぎないのです。親族代表の挨拶は親族の評価にも関わることであり、それでいて気負い過ぎると挨拶をした本人の評価を下げることにもなりかねません。まあそんなこんなで結構気を使ったことだけは間違いないのです。

 最近は腰痛体操をするなど気を配って日々を暮らしているつもりです。だのに自分の実感としてはぎっくり腰になる周期がだんだん短くなって行くような気がするのです。これから畑仕事が始まる矢先の腰の不調は、私の農作業にも暗い影を投げかけています。草丈も伸び始めました。もうそろそろ草刈りを始めねばなりません。また親父に任せていた夏野菜の植え付けも手伝わなければなりません。親父は相変わらず畑に出てアリの歩みのような農作業をしています。連休辺りまでにそのメドをつけておきたいものです。

 先日かつて役場の同僚だった井上さんがぎっくり腰になって救急車で病院に運ばれました。みんな人のことだと大笑いをしました。私もそれに似てまるで老人が歩くような姿で腰をかがめている姿が窓越しガラスに写りハッとしました。かけがえのない健康を確保するため一層の精進を誓いました。

  「ああまたか ぎっくり腰の その姿 ガラスに写り 自分幻滅」

  「サイクルが 早くなったと 気付いても どうにもならぬ ぎっくり腰には」

  「弱り目に たたり目葬儀 追い討ちを 回復遅れ 整体通う」

  「注射すりゃ 一発治る アドバイス 注射嫌いな 俺に向って」 


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