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〇私の散歩道

 年齢が増すごとに体力の衰えを含めた体の健康が気になるこのごろです。そうかといってこの歳になると過激な運動は返って体を悪くすることもあるので気をつけなければなりません。60歳でリタイアした頃はまだ気力も体力も充実していたので、毎朝学校の運動場へ行って軽いジョギングなどをこなしていましたが、多忙なため余り長続きしませんでした。そこで思いついたのは就寝前と起床時の布団体操です。これは今でも続けている柔軟体操で、両足の裏を合わせて前屈したり両足と股を思い切り広げるのです。毎日続ける習慣によって、この年齢にしては柔らかい筋力を保っているのです。

 最近妻が健康診断でコレステロールが少し高いと指摘を受けました。ゆえに食事に気を配り、毎日勤めている近くの歯科医院へ歩いて通勤したり、夜は食後に高村電気屋さんまでウォーキングしたりしているのです。私もそれにつられるように閑があれば一緒に歩くようになりました。近所の知り合いからは「仲が良いことで・・・」と冷やかされたりしていますが、妻は毎日の効果か歩くスピードも随分速くなって、体重が少し軽くなったようです。

 私は凝り性なので閑があれば裏山の急な山坂道を一人ウォーキングを楽しむようになりました。

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 山道は殆ど舗装をしていますが、杉やヒノキ林の中にあるため今朝などは木漏れ日が照り、丁度よいまるで森林浴のようです。距離はそんなに長くはないのですが坂はかなり急で、急ぎ足で歩くと少し息が切れ、少し汗ばむ運動量で、私には程よく長続きしそうです。

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 杉木立のすぐ下にあるわが家の庭や隠居、菜園も見え隠れして、時折親父の姿が見えたりします。山道の周囲に目をやると、様々な植物や草花に出会い結構楽しいものです。今頃は野アザミやシャガの花が綺麗だし、ツワブキや蕗、ミツバなども自生しています。

 去年まで近くに蜜柑園がありましたが、作り手のおじさんが病気になったため、ミカンは伐採されて杉とヒノキの苗が植林されたようです。今年植えた苗が柱財になるような大きさになるまでには少なくとも30年以上はかかるのですから、植えたおじさんはその時は亡くなって要るかも知れません。田舎は植林といえば杉かヒノキを植えるようですが、もっと別の木がありそうなものにと思ったりしました。まあ人様のことなので余り深く考えないようにしたいと思いますが、今日も朝と夕、同じ道を二回歩き気分爽快です。


  「裏山の 急な山坂 散歩道 一人毎日 楽しみ歩く」

  「夜は風呂 昼は森林 浴二つ お陰毎日 元気を保つ」

  「杉ヒノキ ばかりを植えて どうするの チョウチョ小鳥も 来ない森では」

  「道端に 野生のミツバ 四~五本も 今宵吸い物 香り豊かに」

  

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〇つつじの咲く頃

 寒さが波状的に訪れ異常気象のようだった4月もやっと終わり、5月を迎えるとさすがに季節は初夏で、町内のあちこちには綺麗なつつじが咲き誇り、五月の空に爽やかな空域をいっぱい吸い込んだ鯉のぼりが威勢よく泳ぎ、見ているだけで気持ちよく感じます。

 わが家のつつじも普通だと4月の終わりには散っているのに、寒さの恩恵でまだまだ見ごろを楽しめるのですが、つつじといえば何といっても潮風ふれあい公園です。市役所に勤める友人の大森秀康さん三からいただいた卓上月めくりカレンダーの5月の写真は、ふれあい公園のつつじです。

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 このつつじは、私が公園の建設整備を担当していた頃、東洋レーヨンの関連会社である東洋殖産が、苗木事業から撤退するため安くするからつつじの苗木を買って欲しいという申し出を知人を通じて耳にし、事業予算の少ない時の助け舟のような形で引き受け植えたものです。年末に急逝した丸山町長さんと二人で相談し、「お前に任せる」という了解を得て、つつじとアジサイを相当数植え込みました。つつじもアジサイも桜も全て私の発案だったのですが、今思うと大それたことをしたもんだと、すっかり花の名所になった潮風ふれあい公園を懐かしく思うのです

 ここまで書いたところで、「そうだ、今年のつつじをまだ見ていない」と急に思いつき、ただいま6時13分、早速デジカメを持って潮風ふれあい公園へ単車を走らせました。途中デジカメのメモリーとバッテリーを入れていないことに気付き引き返しましたが、今朝も外気温はかなり低く、爽やかながら見の引き締まる思いでした。

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 今年はやはり気象以上なのでしょうか、一斉に咲くはずのつつじも、咲き終わったもの、真っ盛りなもの、まだ咲いていないものなどなど、ムラ咲きの様相でした。それでもこの連休は今つつじを見に大勢の人がやってきて心癒されることでしょう。

 折りしも日の出の時間に出くわせました。視界を海に転じると穏やかに凪いだ瀬戸内の海が一望できました。一昨日夜に降った雨が黄砂を洗い流したのでしょうか、視界はすこぶる良好で青島や遠く山口県の島々が手に取るように見えました。本郷の田圃も間もなく田植えが始まるようで、早くも田起こしトラクターがエンジン音を響かせていました。そうか今日から、いやもうとっくにゴールデンウィークかと、納得しながら来た道を引き返しました。
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  「月めくり カレンダー見て 思いつき つつじ見たくて 単車走らせ」

  「間抜けなり メモリー忘れ バッテリー さえも忘れて 写真撮れぬわ」

  「春の海 遠く山口 辺りまで のどけき朝の 空気吸い込む」

  「ああ綺麗 散り行くつつじ 惜しみつつ 一人花見の 時を楽しむ」



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〇我が家の隅にミツバチの巣箱を設置しました

 先日年輪塾に参加するためやって来た、高知県馬路村の木下さんが、ミツバチの巣箱を2個持参してくれました。人間牧場に昨年から設置している2個の巣箱と会わせると4個もいただいたことになるのです。昨年はその1個にミツバチが分封し、4升もの蜂蜜を取ることができたため、何とか分けて欲しいと頼んでいたのです。

 何年か前馬路村に出かけた折、巣箱を作っているおっちゃんに出会いました。馬路村のそこここに置いてあるミツバチの巣箱を見ながら、無謀にも「私もミツバチを飼ってみたい」と思い、木下さんを通じて分けて欲しいと懇願したところ、そのおっちゃんは太っ腹で、「なんぼでも持っちけや」と言うのです。嬉しくなって2個いただき、車の座席に積んで大事小事持ち帰りました。その時点では巣箱を置けば、ツバチは入ってくれるものくらいに軽く考えていたのですからええ加減なものでした。

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(昨日設置した裏山第1号巣箱)

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(今日設置した裏山第2号巣箱)

 人間牧場の設計に携わった長男も、「お父さん、人間牧場でミツバチを飼おう」とこれまた安直で、インターネットでミツバチのことについて色々調べて資料を届けてくれました。しかし雲を掴むような話は一向前に向いて進まず、結局まちづくり人要請講座のオフライン交流会で知り合った、山奥組みの井上登さんの指導と協力を得て昨年の実行と相成ったのです。

 野菜つくりでも何でもそうですが一年目は案外上手く行くものです。昨年は井上さんも驚くほど4升もの蜂蜜を収穫することが出来ました。さて2年目の今年はどうするか、色々考えた挙句、今度貰った巣箱を分散してわが家の敷地内で飼うことにしました。妻は孫が刺されるかも知れないと、反対するに決まっているので、黙って妻の留守の一昨日とりあえず一個を設置しました。よくよく調べてみるともう一個の巣箱はミツバチの入り口の加工がしてないので、今日にでも手を加えて設置したいと思っています。

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(設置して二日目なのに、早くもミツバチが出入りしています)

 井上登さんの指導を受けていますが、肝心の蜜蝋を塗る作業をしなければなりません。残念ながらガスバーナーがないので、外の流し台のガスコンロを利用して温め蜜蝋を塗りました。家の隅に置いていた切り石を運んで整地した予定の場所へ置きました。

 昨日の夕方様子を見に行ったところ、巣箱の傍に置いている井上さんから貰ったランの花の周りに蜂を何匹か確認することができ驚きました。この分だと期待が持てそうなのです。今日ブロックを買い求め急いでもう一個の巣箱も設置したいと思っています。

 人間牧場へ行けばツワブキや蕗、海へ行けばヒジキやワカメ、かまど小屋でのご飯や味噌汁調理、菜園での野菜作り、そしてミツバチなどなど、自分でも驚くほど野趣な人間になっていく姿に一人苦笑しています。私の持っているこれらをプログラム化して、アウトドアーな生活をもっともっと楽しみたいと思っています。


  「高知から はるばる届く ミツバチの 巣箱ワクワク ドキドキしつつ」

  「あっ蜂だ 早くも蜂が 偵察に 善は急げか もう一つ置こう」

  「お師匠の 見よう見真似で 蝋を塗る バーナもなくて コンロ代用」

  「妻曰く 蜂は危ない 口の下 蜂蜜つけて パンを食うなり」

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〇4月最後の日

 一月はいぬる、二月は逃げる、三月は去る、四月は終うなんて洒落言葉で表現したいほど、一日一日があっという間に過ぎ去り、先日正月を迎えたかと思うのに、もう今年も三分の一が終わって終いました。歳をとると時の流れを早く感じるというのはどうやら本当の話のようだと、一人苦笑するのです。ゆえに一日一日をおろそかにせず、多少無理をしても生きている証を残そうと、最近は毎朝晩一本ずつ一日二本のブログを書いて見たり、八十五歳まで生きる目標実現のために寸暇を惜しんで歩いたり体操をして健康増進に勤めていますが、はてさて「こんなことでいいのだろうか」と疑問に思いつつ、昨日一日が終わってしまいました。

 昨日は久しぶりに一日中自宅にいて、親父と二人で過ごしました。家に話し相手がいるということだけで安心するのか、親父は長男息子の私に色々と話しかけてきました。最近からだのあちこちにがたが来て自分の寿命がそんなに長くないと思うこと、これまで生きてきた人生の思い出のこと、自分が今気がかりなこと、死んだ後のことなどなど、話は堰を切ったようでした。親父は貧乏だったこの家を必死に守ってきたため美田や財産を残すことは出来ませんでした。もっと話阿賀や我金持ちだったらよかったのにと、親の能力の少なさを嘆いたこともありましたが、今はむしろ美田や財産より、私をここまで心強い人間に育ててくれた感謝の気持ちでいっぱいなのです。たとえ親父が死んでも遺産で親族がもめるようなことはないゆえ考えにくく、また近所に住む叔父や叔母、それに私の兄弟姉妹もみんな人がうらやむほど仲が良いので、これに勝る幸せはないのです。

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(根寄せ作業が終わってすっかり綺麗になったジャガイモ畑)

 昨日は親父の求めに応じ、家のこまごまな掃除や片付け、畑仕事を手伝いました。春先に植えた六寸豆が遅霜に遭って全滅したので、親父が近所の種物屋さんで買ってきた種を蒔いてやりました。また腰が痛いというので久方途絶えていた腰へサロンパスを張ってやりました。さらに自分の手に負えないジャガイモ畑の根寄せも私が親父に代わってやりました。わが家もいよいよ労働力の政権交代がやってきたようです。

 前日妻と二人で出かけた折買い求めてきた夏キャベツの苗を二列二十四本植えました。植えた後には親父流に籾殻を撒き、完熟牛糞を置いて水をたっぷりやりました。ふと見上げた向かいの本尊山は見事に春の衣装に衣替えして、今日から始まる初夏の装いでした。

 老いた親父、初老の私、満開のつつじ、成長著しい畑の野菜、生えてくる雑草、見える野山の景色、遠くで聞こえる鉄橋を渡る列車の音、どれもこれも都会から遠く離れた長閑な田舎の出来事です。

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(夏キャベツの苗を24本も植えました)

  「久方に のんびりしつつ 話聞く 親父の顔が 幸せそうだ」

  「畑に出る 麦藁帽子 軍手なる 出で立ちだけは 百姓まがい」

  「労働の 政権交代 近いかも 予感しながら 大変実感」

  「葉境の 菜園何も 取れなくて 夏を夢見つ 黙々鍬を」


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〇元気に草を引いてくれる親父

 毎日自宅にいる91歳の親父は、日が昇ると起き、日が沈むと寝るといった極めて健康的な日課で過ごしています。午前中は家の敷地内にある畑に出て、せっせと畑仕事をしています。本来なら年齢的にもリタイアした私がその役目を負わねばならないのでしょうが、幸せなことに親父は歳の割には元気で、私の代役をこなしてくれているのです。

 わが家の畑は1反以上あるので、草を生やさないようにしようと思えばそれはもう大変で、庭木の剪定や雑草取りをを加えると年中休みなく働かないといけないのです。今年のように春からよく雨が降ると草は伸び放題になるのですが、たまに来た人が褒めるぐらい、庭も畑も草取りがほぼ完璧に行われているのです。お陰で親父はかなり日焼けして、外目には元気そうに見えるのです。

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(庭の草を引く親父は今年も何とか元気に春を迎えました)

 ところがやはり歳のせいでしょうか、最近脛や腰の具合が思わしくないと言い出しました。農作業も草引きも中腰や河岸での仕事が多いため、その労働が堪えたのかも知れません。幸い歩いて5分ほどの近くに「たけます医院」が昨年開業したため、時々通っているようですが、肌に合わぬのか7キロ向うの下灘診療所へ今でも自転車で通っているのです。

 親父の話なので定かではありませんが、親父の本当の年齢はもぅ二つ上のようなのです。聞けば親父は生まれて2年ぐらいして籍を入れたようです。昔はよくある話で乳幼児の死亡率が高かったため、丈夫に育つようになって籍を入れることがよくあったようです。しかしDNA鑑定でも難しい年齢ゆえにそのことは定かではありませんが、亡くなった祖母も同じよう案ことを言っていたことを記憶しています。


 私の知人や友人も私と同じように、実年熟年となって親の面倒を見ていますが、老々介護という言葉があるように、老人がもうひとつ上の老人の介護をしなければならない時代を迎えています。そしてお互いが痴呆になると介護の悩みは深くなり、特別擁護老人ホームなども満杯で行き場のない老人が増えていることをよく耳にするようになりました。

 これまで艱難辛苦に耐えて生きてきた親ですから、これからも大切に守ってやりたいと思っています。昨日も親父より若い老人が亡くなり、そのことを聞いた親父は少し落胆したようで、「いよいよわしの番がきた」などと弱気な発言をしていました。老いは悲しむものでなくむしろ喜べ」なんて言葉をかけましたが、いずれ私も行く道、厳しいですねえ。


  「来た道も 坂道だらけ 回り道 行く道厳し 親父見予感」

  「俺にでも 出来るだろうか 家周り 掃除重ねて 喜ぶ人に」

  「腰や脛 痛いと嘆く 親父だが 何とか今も 元気に暮らす」

  「本当は 二つ歳足す 年齢と 言ってはいるが 分からぬままに」


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〇行き場を失ったブーメランテーブル

 平成元年と記憶しているのでもう20年も前の出来事です。今から29年前の昭和56年に結成した21世紀えひめニューフロンティアグループでは、無人島に挑む少年のつどいやセスナ機をチャーターしてふるさとを空から見る運動を華々しくやっていました。その活動のつれづれに討論激論をやっていましたが、もっと素敵な会議は出来ないものかと思案した挙句、組み立て自由自在なテーブルの製作を思いつきました。早速国内の有名な家具メーカー、事務機器メーカーに公開質問状を出しました。早速何社かから企画書が送られてきたものの、当時のお金で制作費は2百万円もするというのです。そんな余力のない私たちは提案してくれたメーカの了解を取り付け、自分たちで製作することになりました。

 幸いメンバーに大工をしている日浅さんがいるので、小柱を沢山使い集成財のように繋ぎ合わせて、とんでもない大きさのテーブルを四つ造りました。想像以上の出来栄えは当時新聞にも載りましたが、会議の度にこのテーブルは出張を重ねました。南吉田公民館、文教会館などで使った懐かしい思い出がありますが、その後このテーブルは平成3年から始まった10年で40回開いたフロンティア塾の占有物として、地道な活動の一助となりました。

 フロンティア塾が平成13年、永六輔さんを呼んでフィナーレとなって暫くは、フロンティア塾のために借りていた双海町東越の廃屋で眠っていましたが、廃屋が身売りされたため止む無く内子の大野産の癒えに間借りを経て、大洲の佐々木さんの倉庫に移動し最近まで保管されていました。

 倉庫を占有し続けたテーブルは行き場を失い、結局は製作に携わった日浅棟梁の元へ払い下げと相成ったのです。年輪塾を開いた先日メンバーの佐々木さん、湯山さんを伴って日浅棟梁は佐々木さんの自宅までトラックで積みに行き、慰安張りへの道中途中に人間牧場へ立ち寄ってくれました。二つは日浅さんが持ち帰り、途中でつなぎの一個を私と相談の上わが家へ降ろして帰ったのです。

 はてさてわが家の玄関横にでんと置かれたこのテーブルの残骸を私はどう使うか、ただ今のところ思案の最中なのです。


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 これまで若気の至りで前後の見境もなく考えずに、ただただ走り続けてきた私たちのグループですが、ここにきて後始末の大切さを嫌というほど実感した次第です。人間牧場でも私設公民館煙会所でも使うことは出来るのですが、その保存となると「千日持って一日の用をなす」ようなものは中々持ち堪えられないようです。

 ふと昔のことを思い出し、結成20周年を記念して私が執筆した「今やれる青春」という本を書棚から取り出して中を捲って見ました。フロンティア塾の記録には県内外から集まった多くの若者がブーメランテーブルを囲んで写真に納まっていました。

 ブーメランは「元の場所に戻る」という意味もあります。もう一度そのことを考え年輪塾に引き継がれている精神をしっかりと考えて見たいと思っています。


  「見境も なしに走った 三十年 テーブル行き場 なくして帰る」

  「結局は その名の通り ブーメラン 手元に戻り 次の出番を」

  「記念誌の そこここ見える 懐かしさ 彼ら今頃 どうしているか」

  「幾つかの 案が頭を 過ぎってる 早速行動 善は急げだ」 

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○久しぶりの煙会所にて

 人間牧場が出来てから、利用することが少なくなったわが家の迎賓館ともいえる「煙会所」に、久しぶりに来客がありました。普通の仲間は私の本宅にある書斎に裏窓から入り、所要を済ませるのですが、込み入った話になるとどうしても本宅の応接間か「煙会所」となるのです。

 先日は西予市の企画職員が2名やって来ました。私が前年度審査委員を務めた地域づくりグランプリの2年度の企画を練るためです。私のようなリタイアした人間でも声がかかると、ない知恵を絞ってアドバイスするのですが、はてさて3人寄れば文殊の知恵となるのでしょうか、その行方が楽しみです。

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 「煙会所」は私がアメリカへ青年の船で行ったあくる年に造りました。建国200年のアメリカを訪問したことで、心にフロンティアスピリッツなるものが芽生え、私と親父、それに青年仲間たちの協力を得て、私設公民館として昭和52年に建てました。以来33年経っていますが、これまでにどれ程の人を向かい入れたことでしょう。他の人のように人が来たら芳名録を書いてもらうような形ばかりの足跡は好きでないので、全てを記憶してはいませんが、人生の都度都度に煙会所で話したことや浮かんだアイディアは今も私の人生の生き方に大きな影響を受けているのです。


 5年前、宴会所も30年近く使うと非日常や異文化ギャップが少なくなったような気がして、人間牧場を造って軸足を人間牧場へ置き換えたため、煙会所は利用回数が幾分減ってきたのです。でも煙会所を懐かしむ人は沢山いて、煙会所の囲炉裏を囲んででいっぱい飲みながら話したい人は後を絶たないようです。煙会所の魅力は四畳半、しかも囲炉裏、しかも一戸建てで近所と離れているため、少々騒いでも誰も文句を言う人はいないのです。先日2人のお客様を向かえ久しぶりに話をしましたが、人間牧場にはない魅力があるようです。願わくば煙会所で昔のように酒を呑みながら話がしたいと思いましたが、私が酒が呑めなくなったこと、妻が年齢を重ねたため昔のような手料理が期待できないことがネックになって、少々難しいようです。


 20年間続いた21世紀えひめニューフロンティアグループの無人島キャンプも、10年で40回のフロンティア塾も、実はこの煙会所で産声を上げた事業なのです。「人でも仕事でも愛するところに集まってくる」という私の持論は煙会所で生まれた座右の銘で、これからもその心意気だけは大切に人間牧場へ引き継いで行きたいと思っています。

 今は畳が敷いてある部屋は昔板間でした。学校から貰ってきた白や赤や青・黄色のチョークで、板間をキャンバスにどれ程の夢を書いては消し、それを実践したことでしょう。お二人が帰られた後、青春時代の淡い思い出がいっぱい詰まった煙会所で久しぶりに一人、懐かしさに耽りました。

  「煙会所 この部屋まるで  夢の箱 次から次へ アイディア生まれ」

  「久方に 客を迎えて 相対す 囲炉裏火もなく されど暖か」

  「学校で 貰ったチョーク 板間書く 夢はこうして 形になって」

  「大酒を 飲んで喧嘩も したっけな 苦い思い出 昨日のように」

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○師匠によるミツバチ巣箱の点検

 前日の夜ミツバチの師匠井上登さんからメールが入っていたのに、私が早めにパソコンを切り読書をしていたため見落としてしまいました。朝の日課でブログを書く前にメールを見ると、「都合がよければ今日明日のいずれかにミツバチのご機嫌を伺いに参りますが・・・」と書き込まれていました。元船乗りだった私は早速打電にも似た返事を送りました。「趣き了解、今日午前10時、人間牧場にて待つ」という短いメールです。

  それにしても便利な世の中になったものです。相手がタイムリーに見てくれさえすれば、パソコンで送るメールは短かろうが長かろうが、まるで相手と会話をしているように届くのです。電話であれば、いちいち電話口まで失礼ながら呼び出さなければならないのに、メールだと好きな時に見れるのです。田舎の熟年井上さんは多分早起きだろうなあと、早朝の失礼を承知でメールを書き込んでおきました。想像通り早起きの井上さんからメールの返事があり、商談成立となって人間牧場で10時に待ち合わせすることにしました。

 ふとメールのやり取りをしながら、無線や電報のことを思い出しました。私は宇和島水産高校3年の在学中、実習船愛媛丸に乗って赤道を越え、南太平洋までマグロを獲りに出かけました。大海原を行く愛媛丸にとって無線連絡は今のような技術が普及していない時代だったので、電信とでもいうべき「トン・ツー・トン・ツー」というモールス信号でした。「SOSはトントントン・ツーツーツー・トントントンだ」と、乗組員の無線長から教わったことを今も覚えています。また船上で正月を迎えたため、ふるさとに向けて無線長にお願いして、「南太平洋上の愛媛丸からハッピーニューイヤー」と、有料電報を打ってもらったことも今はよき思い出です。私が南太平洋で実習をして帰国するまでの3ヶ月余り、影膳を据えて公開の安全を祈ってくれたと後で聞きました。その祖母は亡くなるまで、私が南太平洋から届いた孫の私の電報を、宝物のように大事に保管していました。

 まあそんな時代に育った私ですから、今でもメールのやり取りに便利や不思議を感じるのは当然かも知れないのですが、無線や電報も今いずこの感がするのです。

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(昨年4升も蜂蜜を収穫した巣箱に誘引のためランの花を取り付ける師匠)
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(昨年種蜂が入れられお輿入れした巣箱も今は空き家です)
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(種蜂巣箱の点検と掃除をする師匠)

 ミツバチの師匠は10時の約束を、一分もたがわず野村町からやって来てくれました。早速ミツバチの巣箱の点検をしてくれました。冬を越した種蜂のいる重箱方の巣箱の下板を抜き取り、スムシやミツバチの糞を綺麗に掃除をしました。防護用の黒頭巾を被っているものの少し抵抗され、私も黒頭巾を被りましたが、何匹かの蜂が顔をめがけて突進してきました。多分点検のため巣箱の下穴から、デジカメを差し入れてストロボを焚いて撮影したことへの腹いせのようでした。

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(デジカメを差し込んで撮影した巣箱の内部は無数の蜂が巣に群がっていました)


 現在人間牧場には巣箱が四つ設置されています。種蜂巣箱を除いた後の3つは現在空き家です。師匠の算段で、空き家巣箱の入り口に分封を促すランの切花を取り付けました。蝋蜜は既に塗ってあるので、これで入居してくれればおんのじですが、早々上手くいくものではないことを昨年の経験で知っています。

 先日馬路村の木下さんが新しい巣箱を2個届けてくれました。その巣箱もこれから自宅付近に設置する予定です。ふと裏山に誰かが設置している、丸い切り株をくり抜いて作った巣箱のことが気になり、夕方出かけて見ました。都合よく設置している方が松山から観察に来られていて、いろいろと話を聞きましたが、6個も設置して殆どに入居していて驚きました。しかしこの巣箱の欠点は下板がないため掃除ができない仕組みになっているのです。お話を聞きながら私の方がある部分進化していることに、内心ニヤニヤしながら得意げになって話すその方の話を、謙虚な気持ちで聞きました。この巣箱の周りには、蜂を呼び寄せるランの花の鉢植えまで置いていて、なるほどと思いながら早速一つ目の巣箱を家の裏の道沿いに設置しました。


  「春盛り 今年も蜂の シーズンが 来たとばかりに 準備モードに」

  「片道に 一時間半 かけて来る 師匠の熱意 感心しきり」

  「フェロモンを 出すと思しき ランの花 空き家の巣箱 前に飾りて」

  「春眠を 邪魔され蜂が 怒ってる 頭巾めがけて 攻撃しかけ」


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○オホーツク海のホタテ貝が届きました

 サロマに住む友人の井田さんから沢山のホタテ貝が届きました。井田さんはホタテ貝の養殖を営む漁師さんですが、私が寒気団の船木さんの紹介で北海道へ講演に行った折、井田さんとひょんなことから知り合い、わが家のミカンと井田さんのホタテ貝の物々交換が始まりました。ミカンの採れない北海道から見れば、四国で珍しくないミカンも希少価値だそうです。一方四国の私たちはホタテなど獲れないのでこれまた希少価値があって、送られてきた発泡スチロールの箱の蓋を開けた途端、私と妻の言葉は「うわー」という驚きの声でした。

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 井田さんから「ホタテの稚貝を送るから食べて」と電話で連絡があったのは一昨日でした。そんな予告電話があったものですから、昨日は夕方まで宅配便の来るのを、今か今かと妻と二人で待っていました。夕方5時頃玄関のチャイムが鳴ったので、てっきり宅配便だと思い込んで玄関先に出ると、牛乳代の集金に来たおじさんでがっかりしました。おっつけ玄関先に車が止まりチャイムが鳴ったので、今度は妻が出ました。「お父さん、井田さんからホタテが届いたよ」というので台所へ行ってみると、発泡スチロールいっぱいのホタテの稚貝が入っていました。妻は早速近所や友人におすそ分けの準備をしていました。松山に住む娘や息子の家にも、夕食の準備もそこそこにしてこれから持っていくのだというのです。

 丁度夕食の準備中だったので、ホタテを水洗いしてフライパンで酒蒸し料理をしてくれました。昨年行ったオホーツクの海に思いを馳せながら、磯の香りを楽しみ早速ご相伴に預かりましたが、やはり本場の味は美味しく、ぺロリ10個も妻と二人でつまみ食いをしてしまいました。親父の料理にもホタテを一品加え、北海道の友人から届いたことを話してやりました。

 このホタテは稚貝で養殖の前の段階のようですが、貝は小さいのに実は大きく食べ応え十分です。昨年も同じような時期に同じ量が届いたので、今年は料理のバリエーションも広がって、今夜はホタテを入れたシーフードカレーなるものを妻は考えているようです。

 夕方友人の清水さんが、年輪塾の総括のためにやって来ました。酒蒸ししたホタテを食べながらお茶をすすり、書斎で一時間余り話し込みましたが、清水さんにも少しおすそ分けのサービスをしました。

 早速お返しにいつものことながら甘夏みかんを送りたいと思っています。


  「オホーツク 海で育った ホタテ貝 生きた姿で 遠い旅路を」

  「早速に 海の幸なる ホタテ貝 近所配りて 喜ばれたる」

  「北南 それぞれ海山 幸送り 元気確かめ 味を楽しむ」

  「北の海 やっと春来る 便りにて 四国間もなく 初夏の陽気に」

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○更なる奮起を願っています

 斜陽化する産業といえば大変失礼な話ですが、建設業界を思い浮かべます。私の町にも私が役場に勤めていた頃の全盛時代には、10指に余る中小の建設業者がしのぎを削って、公共工事を中心に頑張って仕事をしていました。私と同じような年代の若い社長は、33ナンバーの新車を乗り回し、週末はゴルフ三昧、時には韓国済州島へゴルフ旅行に出かけたり、年度末が終わると従業員を引き連れて旅行にも出かけていました。建設御殿といわれるような立派な家に住み、社長婦人もそれなりの身なりをしていました。夜はカラオケや松山の飲み屋に繰り出し、選挙の度に政治家の応援をしていました。全ての人ではありませんが、このように羽振りもよくって、安月給の私などは何処かみすぼらしい感じもしていました。

 ところがバブルがはじけ、その後は公共工事が激減、経営が成り立たなくなって一軒二軒と倒産や夜逃げなどでその姿を消して行きました。堅実と見られた残った会社も方向転換できないまま、今もかなり厳しい経営を強いられているようです。

 建設や土木業界が地域にもたらした経済効果は、今日まで莫大なものがありました。さして働く場所のない私たちの地域では、農閑期や漁閑期など日稼ぎ労働にはぴったりだったため、出稼ぎに出なくてもよい土方作業は、経済の循環によって大きな恩恵をもたらしてくれたのです。残念ながらその仕事もなくなり、今はシルバー人材センターなどの仲介する仕事で、細々と農作業以外の恩恵を受けているのです。


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 昨日は大洲の建設業協会女性部の総会があり、依頼を受けてお話に出かけました。ご多聞に漏れず建設業協会も厳しいようですが、皆さんは厳しさゆえに熱心で、「新しい発想で生きる」と題して90分お話をさせてもらいました。中には顔見知りの人や、事前にお葉書きまでいただいた人もいて、不景気風を吹き飛ばすような私の面白い話に、笑顔で対応していただきました。多分この集会に参加した人たちは会社やご主人の深い悩みの防波堤になっていることを思うと、その内助の功に心からなる大きな拍手を送りたいと思うのです。

 物は考えようで、このところの不景気で業界の整理も自然淘汰的に進み、やる気のある人たちが残っています。また耐震などの基準が厳しくなって、古いものは立替を余儀なくされています。昔のような繁栄はないにしても、そこそこ頑張ればこの難局を乗り切ることができるのです。美しい日本を創るため建設業界に頑張ってもらいたいと思います。


  「派ぶりよい 時代もあった あの頃は 今では斜陽 巡りめぐって」

  「いつの世も いいことばかり 続かない しかし悪いも 続かないから」

  「ブルドーザー そこのけばかり 動いたが 今は静かな 田舎に戻り」

  「思い出す 日本列島 改造論 田中角栄 いずこにおわす」

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